.
「……なんだ、封獣じゃない」
「藤原じゃん。どしたの、買いもん?」
「いんや、慧音の手伝い。ごろつき妖怪が近くをうろついてんだってさ、そっちは?」
「これよ、お酒。霊夢に頼まれちゃってさ。年末の祭事で必要なんだって」
「好いじゃないの。今夜、久々に呑まない? タケノコの酢漬け持ってくから」
「またタケノコ? ……まぁ、霊夢も喜ぶだろうし、好いけど。それじゃ、お仕事お疲れさん」
「ん、お疲れ――あとでね」
≪ひとり一行でわかる登場人妖≫
藤原妹紅 …… 蓬莱の人の形。富士山にて蹴り落とした岩笠のケツの感触は、今でも鮮明に覚えている。
封獣ぬえ …… 平安のエイリアン。源頼政が稀代のニーソックス萌えだったおかげで、九死に一生を得た。
≪今回のおはなし≫
■第一話 ~ カモガワ・ヌエティック・エンゲージング
■第二話 ~ ノンストップ・レイニー・ガールズ
「悪いことは云わないから、やめときなって。その矢傷じゃ、返り討ちに遭うのが関の山だよ」
そう云って、藤原妹紅は焼きたてのアユに、冬ごもりを終えたヒグマのように食らいついた。春が旬の川魚は、塩焼にすると淡白な味わいに深みが加わって美味であった。
「この私が、黙って引き下がると思ってんの?」
「思わない」
川のせせらぎも、小鳥のさえずりも、これじゃ台無しだ。篠笛の高音と低音をいっぺんに吹いたみたいな、その妖怪の声は、妹紅の鼓膜に痛烈なヘビーブローをかけてきた。
竹筒の水を呑み下しながら、妹紅は半眼で妖怪を見すえた。紺色の着物は粗末なもんで、ささくれた麻縄で腰部を縛っているだけ、飾りっ気はなかった。そこらへんの童が着ているような、丈も袖も短い代物である。その妖怪の姿形も、赤青二色の奇天烈な羽を除けば、また少女のそれであった。
妖怪は左手首に巻かれた包帯に、右手を重ねた。矢傷が痛むのだろう。
「……屈辱だわ、人間なんかに殺されるなんて」
「殺される?」
妹紅はアユから顔を離した。
「お前さ、今も生きてるじゃないか」
「違うの! 私は殺されても、何度だって復活するのよ。人間が夜に鳴く鳥を、恐れ続ける限りはね」
「ふぅん」
殺されたって生き返る、か。
「……あんた、人間でしょ? 違うの?」
「正真正銘の人間だよ」
「なんで――私を、助けたの?」
妖怪の声が、奈落の穴へと放り込まれたウサギみたいに弱々しくなったので、思わず顔を向けてしまった。
いつの間にか、焚き火の前で膝を抱えている妖怪の少女。焚き火の色が燃え移ったみたいな、真っ赤な瞳が揺れている。妹紅の紅い瞳と、妖怪の紅い瞳が、視線を通して交わった。
「べつに助けちゃいないさ。仏さんが小舟に乗って、どんぶらこっこと流れてくるもんだから、供養してやろうと思っただけ」
刀や槍でメッタ刺しにされた少女の死体は、それはそれは目に堪える代物だった。カラスの晩飯にくれてやるよりは、と川から引き揚げて、近場に穴を掘ってやった。やれやれ、と戻ってみると、左手首を除いて痛々しい傷はすべて塞がっており、あれよと見ているうちに、背中から禍々しい羽が六本も生えてきたのだ。
いやぁ、ぶったまげたぶったまげた。
「なにさ、人間だと勘違いしちゃったわけ?」
「そういうことになるね」
「あんた、馬鹿じゃないの?」
「ドジを踏んだお前に云われたくはない」
少女は言葉に詰まったのか、唇を噛んで目をそらした。妹紅は昼食を再開することにした。うめぇ。
「先に云っておくが、この魚はやらんよ」
「いらない、私は人間の心を食べるんだから」
ひとの精神を拠り所にする妖怪か、久々に見たな、と妹紅はアユを尻尾も残さず口に放り込む。それから、次の魚。そのまた次の魚へと移る。ものすげえ栄養の偏った食事を終えるまで、妖怪はひとことも口をきかなかった。ときおり、泥棒が家主の隙を窺うみたいに、怪しげな光をたたえた視線をよこしてくるだけだった。
「……ま、好きにすればいいさ。お前が首を刎ねられようが、都中を引き回されようが、私の知ったことじゃない」
本当にその通りだ、と妹紅は自分で自分に井戸より深く同意した。この妖怪が京に舞い戻って大暴れしたところで、私の知ったこっちゃないのだ。
少女は答えなかった。癖のある黒髪に隠れて、表情は見えない。私にも髪が黒い時分があったんだよなぁ、と遠い思い出にふけりながら、焚き火を始末し、荷物をまとめた。
「じゃあな、達者に生きろよ妖怪め」
そう云って、愛用のなまくら刀を携えて、手をひらひら振りながら背を向けた。
妹紅の首がすっ飛んだのは、まさにその時である。
「油断したわね、あなたも」
妖怪鵺はそう云って、ケラケラと笑った。鎌状の赤色の羽には、ほのかに血がついていて、春の日差しを浴びて鮮やかに輝いていた。
白髪の人間の首は、隕石の直撃を喰らったアヒルの置物みたいに吹っ飛んで、川面に吸い込まれて見えなくなった。
「私は、恐怖に染まったひとの心が大好きなの。もちろん、心臓もね」
鵺は白髪の肩をひっつかみ、切り口の肉に勢いよく噛みついた。やわらかな少女の肉が、鵺の昂ぶりを釣り上げた。恐怖のあまり気絶してしまった人間の肉が、なんといっても極上の一品なのだが、この際は贅沢は云ってられなかった。アユを喰らっていた少女の肉を、やはり春を迎えたヒグマのようにかっ喰らった。二人の食べ方は、よく似ていたのだ。
鎖骨をべきんっと外し、あばら骨を抜き去り、肺を選り分けた先には、いよいよ少女の心臓が、こちらを黙って見つめているのみである。
「きひひ」
右手を差し伸ばして、心臓を引っ掴もうとする。
「――そんなにウマいか?」
「ぬゆっ!?」
心臓が、しゃべった。鵺はダルマのように後ろに転がった。
「やれやれ……恩を仇で返すどころか、人の身体を食いもんにしやがって」
死骸はのっそりと立ち上がった。土埃が舞い上がって、食い散らされた身体へと、ひょうひょうと音を立てて吸い込まれていく。まるで、粘土をくっつけて人型を形作るみたいに、白髪の少女は本来の姿を奪い返していく。
あぁ、と声にならない呻きが漏れた。お前のどこが人間だ、と叫ぶ間もなく、白髪は着物の裾から呪符を引き抜き、こちらへ向かって投げつけた。呪符たちは木から木へと飛び移るムササビのように滑空し、鵺の三対の羽の付け根へとヒルみたいに貼りついた。
人間の出来立てほやほやの唇が、ニヤっと歪んだ。
「ちょっとでも牙を剥いてみな。自慢の羽が、いっぽん残らず吹き飛ぶよ」
「あんた、いったい――?」
「さっき云ったじゃないか」
自分とまったく同じ紅い瞳が、ナイフのように細められた。
「私は、それでも人間だよ」
少女が刀を抜き放った。鞘に擦れる金属音は、春の風に乗って鈴のように川原に響き渡った。
「ばらばらに切り刻んで、まとめて燃やしちまったら、流石のあんたもお終いかもね」
空は晴れていた。陽光は刀に反射して、鵺の眼球をこれでもかと焼いた。
ひっ――と声が詰まる。私は、怖がっているんだ、と鵺は思った。死ぬのが怖いんじゃなくて、人間が怖くなったんだ。足の小指から癖っ毛の一本にまで、稲妻のごとく怖気が駆け抜けた。まぶたが痛くなるくらいに固く目をつむった。矢傷はなにかを訴えるかのように痛んだ。
……一閃は、落ちてはこなかった。
「はぁ、やめやめ。寝覚めが悪い」
刀を鞘に戻す音は、ひどく空しく聞こえた。あやかしの血を吸えなかった刀の嘆きが、聞こえてくるようだった。
身体の震えは消えてはくれない。ふたたび背を向けた白髪の人間は、もう食い物すらも受け付けてはくれないような、亀の甲羅のように固い殻に閉じこもってしまったように見えた。
「ちょっと、待ってよ! これから、わたし、どうすれば好いってのよ!?」
「……京の都で大暴れ作戦はどこにいったわけ」
「そうだけど、そうなんだけど――」
少女の云った通りだった。今のままじゃあ、返り討ちに遭うのがオチだ。矢の傷なんかじゃなくて、もっともっと深いところで、自分は弱くなってしまったんだと思った。
「わかんないよ……」
人間は立ち止まってくれていた。空は突き抜けて青く、小鳥たちは春を唄い、地面の石ころを見つめているのは自分だけだった。
「まったく、世話の焼けるやつ」
なんて、どこにも行き場のないため息が、鵺の髪をくすぐっては、青空へと溶けていった。
「ひとつだけ、好いこと思いついたよ」
「?」
「どういうことよ、これは!」
「いやさ、荷物持ってくれるやつを探してたんだよ」
「なんで筆と硯まで持ってるわけ? 歌でも詠むつもり? 貴族じゃあるまいし!」
「……まぁ、いいじゃないか」
妹紅は苦笑した。歌なんて四百年くらい詠んでもいないが、生家から持ち出した想い出の品だ。そう簡単には捨てられなかった。
川原を離れた二人は、整備の行き届かぬ街道を歩いている。
「へっぽこ妖怪になっちまったお前にも、荷物持ちくらいなら出来るだろ」
「……ふんっ」
「名前はあるの?」
「ないよ、名前なんて。人間たちは、鵺みたいに鳴きながら、黒雲を呼びつける怪物だって騒いでたけど」
「さしずめ、封印された雷獣ってとこか」
妹紅は少し考えてから、これしかないな、と振り返った。
「――封獣ぬえ」
「は?」
「お前の名前は、封獣ぬえだって云ったの。名前がないと呼びづらいでしょうが」
「ぬえ……封獣、ぬえ」
封獣ぬえが、クルミを口に詰め込んだリスみたいに膨らんだ麻袋を、ぎゅっと抱きしめた。
「ん、気に入ったよ――あんたは?」
「藤原、妹紅」
「えっ――うそ、ほんとに貴族じゃんっ!!」
ぬえから矢継ぎ早に繰り出される質問を、妹紅は遠い昔の思い出を手繰るみたいにして答えてやった。
空は、晴れていた。鳥たちは、ずっと歌っていた。二人は、ようやく見つけた話し相手に自分をぶつけ合った。
なまくら刀を振り回す妖怪退治屋と、へっぽこ妖怪に落ち込んだ鵺妖怪の珍道中は、こうして始まったのであった。
「……終わった、降りるよ」
「やっと? もう、お腹ぺこぺこ」
妹紅は小高い丘から滑り降りた。木陰でナマケモノみたいに寝転んでいたぬえは、ぐっと伸びをしてから、空を飛んでついてくる。
そこは合戦跡であった。つい今しがたまで、そこでは人々が馬を駆り、槍で突き刺し合い、刀に切り捨てられていったのだ。在地領主と田舎武士の小競り合いだった。戦闘の規模こそ小さいが、脳天を突き上げてくるような血肉の臭いは、妖怪少女の食欲をそそるには充分すぎたようだ。
ぬえは、米蔵に飛び入るカラスみたいに死骸の群れへと飛んでゆき、どの死体を喰らうべきか選別し始めた。致命傷を負って悶えながら死んでいった人間の肉は、このうえなく美味しいらしい。妹紅には理解できない。飢えから人肉を食した経験は数あれど、不思議なことに味など覚えてはいない。思い出さないようにしているのかもしらん。
「ん、おいし――藤原、あんたも食べる?」
「いらないよ」
「あら、もったいない」
まるで土から引き抜いた大根みたいに太腿を掲げるぬえは、友だちと遊ぶ幼子みたいに笑っていた。口のまわりに付いた血を舌で舐め取る時だけ、妖怪らしい妖艶な笑みを見せやがるもんだから、妹紅は落ち着きなく刀の鞘を握ってしまった。
「ぬふふ、いま怖いと思ったでしょ?」
「まさか。人間と妖怪の違いについて、考えていたところだよ」
「人間といえばさ、いいの? 都からこんな近いところで殺し合っちゃってさ」
妹紅は鼻をつまみながら云った。
「いまの朝廷にゃ、小競り合いに構ってる暇はないんだよ。帝は重病、摂関家は親と養子で目くじら立て合ってる。そこに、賄賂に目のくらんだ官僚ども、中央を虎視眈々と狙う武士団を加えれば、あっという間にど腐れチャンプルーの出来上がりさ」
「相変わらず面倒くさいね、人間って」
「命は短いからね」
「藤原は違う」
そう云って、ぬえはまた笑って、骨の残骸をぷっと吐き捨てた。
空は、曇っていた。鳥の姿はない。
封獣ぬえは、藤原妹紅に付き合ってやることにした。
羽の呪符は未だに外してくれないし、荷物持ちはやらされるし、ふっと黙り込んじゃうと、いくら話しかけても答えてくれないし――意地悪で怖がってくれないやつではあるが、少なくとも、都に住まう人間たちよりも、ずっとマシな人間だった。初めて人間に、個人的に興味を抱いた。
しばらくは、こいつについていくしかないな。
そう、思ったのだ。
「もうっ! あんた人間にしちゃ、とんでもなくずぼらだぬぇ!」
「ほっとけ!」
根無し草である妹紅は、けれど雨に対する何の備えもしていなかった。二人はずぶ濡れになりながら、木立に分け入って雨宿り先を探した。雨は冬の残り香を蓄えていたかのように冷たく、妹紅はあっという間に体力を奪われて、大木に背を預けてしまった。ぬえは、息を切らして喘ぐ妹紅の頭上で胡坐をかいた。
「あんまり雨避けにはなんないよ。今の時期じゃ、まだ葉っぱもそろってないしね」
「わかってるよ」
「わかってない」
「あとで乾かせば好いでしょ?」
「風邪でもひいたらどうすんのよ。人間って土くれみたいに脆いんだから」
「だったら、いっかい死んじまえば万事解決だよ」
それ以上は喋るのを止めておいた。どうして、こいつは自分の命をこうも簡単に粗末にできるんだろう、と思った。
雨にしこたま痛めつけられた白髪が、呪符の刻まれた紅白のリボンが、ぬえの目には五月の桜の花びらみたいに儚げに映った。
「……あのさ、もういいから」
突然、妹紅が云った。
「なにがよ?」
「雨避けになってくれてんのはありがたいけど、それじゃ封獣が風邪をひくじゃない」
「ば――ちがわい! そんなつもりじゃ!」
無意識こわい。ぬえは慌てて、蓬莱人の隣に舞い降りた。雨音もいっしょになって落ちてきた。ふたりぼっちで雨音を聴いていると、また余計なことを云ってしまいそうだった。ぬえは、自分の正体を知られたくないのだ。この身体のどこか奥で、息をひそめている正体を。
矢傷が、また切なく痛んだ。
「っ……仕方ない。このぬえ様が、適当な場所を見つけてやるよ。藤原は休んでな」
「気持ちだけ受け取っておくよ。でも、どうでも好い。こんなこと、しょっちゅうだし」
「私が、どうでも好くないんだよ」
青い矢印の羽でちくりと妹紅の頬を刺して、ぬえは濡れそぼった大地を蹴った。
ぬえは、妹紅がまどろんでいる間に適当な場所とやらを見つけてきた。
雨に打たれながら、しかも立ちっぱなしで寝るやつなんて初めて見た、と呆れられた。まぁ、よい。
「ほら、こっちこっち」
ぬえが先導する。こちらを振り向くたびに、着物の裾が際どく翻ったので、目のやり場に困った。
辿りついた場所は、森の中に隠れるように横たわった小さな村落だった。二人は藪のなかから様子をうかがう。人影はなく、犬っころの一匹もいない。ここだけ世界が終わってしまったか、あるいは完結してしまったかのようだった。
「よりによって人がいる場所とは、予想外だったな」
「同じ人間じゃないの。ほんと変わったやつだね、藤原は」
なんで、こんな森の中に居を落ち着けたのだろう、と妹紅は考える。水利の便もなければ、畑だって満足には耕せない。
とにかく、寒いものは寒い。藪を蹴り飛ばすようにして歩いた。ぬえが平然とついてこようとしたので、慌てて押し留める。
「心配ないよ。だって、誰もいないから」
「なんでよ」
「みんな、死んでる」
「賊か」
タコの足のように金品を吸い取っていく在庁の官人に堪えかねて、鍬(くわ)を放り出した連中が徒党を組んだ。そいつらの血走った眼からは、たとえ森のなかに隠れ住んでいようと、逃げることなんてできなかった。
「遠目からでもわかるよ、血の臭いには敏感でね」
ぬえがケラケラと笑いながら、家人の死に絶えた家の天井を飛び回っている。水滴が飛び散るから止めてほしい。
雨に濡れて震えるか、それとも死臭の飛び散る一室で仏さんと添い寝するか。たぶん、大抵の人間は前者を選択するんだろうけど、妹紅は人死にはあまりにも慣れ過ぎていたし、そのくせ、いつまで経っても雨に打たれるのは慣れることができなかった。
「しっかし、ひどい有り様。親の仇かって思うくらいだ」
「やっぱり妖怪の仕業じゃないね、これ。着物の一枚まで持ってかれてるけど、食い散らかした跡はないよ」
死体を検分する。三秒と見ていられなかったので、麻袋から竹筒を取りだし、水を呑んだ。一家の死骸は、一言で云うなら、ずたずたのめちゃくちゃだった。個人の尊厳ってやつが小石ほどにも付け入る隙のない、容赦のない殺しっぷりだ。
「さっさと盗るもん盗って、おさらばしちゃえば好かったのに」
そう云って、ぬえが父親らしき死骸を蹴っ飛ばした。群がったハエが、土埃のように飛び立つ。妹紅は小さな火炎を出して、ハエたちを焼き払った。うるさいのだ。
「わっ」
ぬえが声をあげる。父親のしたから、幼い少女の骸が転がり出たのだ。やはり、待ったなしの暴力が窺えたが、それでも他の家人に比べればマシだ。
「こいつ……」
背中を這い上ってくるような既視感。隣のぬえの息遣いが、犬の夜鳴きのように、ほかの雨音やらをかき分けて、大きく聞こえた。それで、思い出す。少女の死骸は、出会ったときのぬえの死体に似ていた。人の形をした人ならざぬモノへの、圧倒的な偏見を盾にとった暴虐。
思わず、ぬえの顔を見てしまう。目が合ってしまった。
血を結晶にしたみたいに紅い瞳には、なんの感情もなかった。ぬえは、愉快な笑みを口に貼りつけたまま、こう云った。
「ねぇ、こいつ先に食べて好い?」
雨水が空だった桶から溢れるくらいに、長い時間が過ぎ去ってから、妹紅は黙って首を横に振った。
なんで埋葬なんかしちゃうんだろう、意味わからん。
「今度こそ、人間の女の子を埋葬してやるんだよ」
妹紅はそう云って、雨に打たれながら穴を掘っている。妹紅が振るう鍬。あれだって、最後の一仕事が死体を埋めるための穴掘りに使われることになるなんて、思ってもみなかったことだろう。命を育むべきものが、命を奪った後始末をするのだ。
ぬえは、そんな妹紅を見るのが嫌になったので、無人の村落へと視線を戻す。そして、一軒のあばら家に目が留まる。造りは急ごしらえのイカダみたいに雑なのに、まるで首長が住んでいるかのように、ほかの家屋と比べて大きいのだ。
今さら遠慮する必要もあるまい。泥水を跳ね上げながら歩み寄り、扉にえいやっと蹴りを決め込んだ。沼の底よりも濃密な闇が、一斉に払われた。
そこには。
「……ははっ」
ぬえは笑った。だって、これを笑わずに、なにが笑えるってんだ。いつだって、どこにだって、笑うしかない状況ってのはあるもんだ。
作業を中断させて、妹紅を呼んだ。あばら家のなかを覗き込んだとたん、妹紅は鍬を取り落とした。
「マジかい」
燃え尽きた炭みたいに煤まみれの期待をこめて、妹紅の顔を見たけれど、表情は抜け落ちていた。心の中で小さく舌打ちをこぼして、目を戻す。
そこは、骨山だった。天井に届きそうなくらいに積まれた、骨、骨、骨。飽きるくらいに見慣れた形の頭蓋骨から、そのほとんどが人間のものであると知れた。どの頭骨にも拳大の穴が空けられていた。骨の髄までしゃぶり尽くすとは、なるほど上手いこと云ったもんだ、とぬえは思った。
なんで用済みとなった骨を、後生大事に保存しているのかは知らんが、とにもかくにも。
「これで、この村の食糧源がわかったね」
妹紅は、うなずきすら返してはくれなかった。
ぬえは人間への認識を改めることにした。人間だって、私たち妖怪と同じように、肉を食べるのだ。米や野菜や魚なんかで満足しないのだ。
「……やれやれ」
妹紅の声は、空っぽの頭蓋骨みたいに虚ろに聞こえた。
「――ねぇ、やっぱり埋めちゃうの? あんなのを見たのに?」
「もちろん。せっかく掘った穴を、また無下にされてたまるか」
賊たちは、と妹紅は穴を掘りながら考える。賊たちは、この村から、もしかしての自分たちの姿を見たのだ。生きるか死ぬかに迫られたとき、この世の中、取るべき選択肢はそんなに多くない。ある者は、長いものに巻かれて戦いに駆り出されるし、ある者は、盗人になって心も身体も血で塗りたくっていくし、そして、ある者は――見境を失くせば好いって結論づけた。
それだけのこと、それだけのことなのに。
妹紅は、穴を掘る。一心不乱に、穴を掘る。
ぬえの視線が、背中を羽毛のように撫でていく。
中で待ってろって云ったのに、ぬえも一緒になって、雨に打たれてくれていた。
「お、雨あがったね」
「ほんとだ、好かった」
森を抜け出して、二人は街道に戻った。遠くの山肌が、太陽に照らされてくっきりと見えた。青空の兆しが雲居に光っていた。
そんな風景を見ていると、すべてを好意的に解釈してしまいそうになる。あの村落は、ただの被害者なんだ。合戦で亡くなった人々の骨を集め、あとでまとめて供養するつもりだったんだ、と。
すべては通り過ぎた雨雲だった。なまくら刀の鞘を、ぎゅっと握った。
「さっさと服を乾かして、飯にしようか」
「賛成っ」
腹が減っては、戦はできない。
妹紅たちは近くの山麓にあった大岩のうえで火を焚き、服を乾かし、塩漬けにしたアユを焼いて食べた。その後、ぬえの包帯を代えてやった。矢傷は癒えてはいなかった。それは、傷というよりは何かのしるしのように手首に残り続けていた。
焚き火を見つめながら、雨のことを考え、合戦のことを考え、人肉のことを考え、いつまでも変わらない川魚の美味しさについて考えた。春にさえずるヒバリみたいに飛び回った思考は、けれど結局のところは、現実的な問題へと舞い戻ってきた。つまりは、路銀のことだ。
そろそろ、妖怪退治稼業を再開しなければなるまい。まぁ、なるようになれだ。時間はたっぷりとあるんだから。
「ねぇ、藤原」
「なに、封獣」
寝転んだ妹紅の前髪に、ぬえの蝋みたいに白い手が滑り込んだ。けれど、そこに温もりは確かにあった。ぬえの瞳は、晴れ渡った空の輝きを溜め込んで、きらきらと光っていた。
「人間って――よく、わかんないや」
「……私だって、わからないよ」
それでも、わからないなりにやっていくしかない。冷たい雨が降ってもノンストップで、走り続けていくしかない。
ぬえも疲れたのだろう、妹紅の隣に寝そべった。白髪と黒髪が、ちっぽけな抽象画のように混じりあった。
二人はなんとなしに、手をつなぎ合って、春の陽だまりのなかでぐっすりと眠った。
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「……なんだ、封獣じゃない」
「藤原じゃん。どしたの、買いもん?」
「いんや、慧音の手伝い。ごろつき妖怪が近くをうろついてんだってさ、そっちは?」
「これよ、お酒。霊夢に頼まれちゃってさ。年末の祭事で必要なんだって」
「好いじゃないの。今夜、久々に呑まない? タケノコの酢漬け持ってくから」
「またタケノコ? ……まぁ、霊夢も喜ぶだろうし、好いけど。それじゃ、お仕事お疲れさん」
「ん、お疲れ――あとでね」
□ □ □
~ 西暦七〇〇年頃 ~
藤原妹紅、蓬莱の薬を強奪して不老不死となり、人々の前から姿を消す。
~ 年代不詳 ~
土蜘蛛、重病に臥せる源頼光を苦しめるが、北野の山中にて頼光らに退治される。
~ 西暦八二〇年頃 ~
宇治の橋姫、憎き恨みを晴らすも、源頼光らに降伏し、宇治川の流れに消える。
~ 西暦九九〇年頃 ~
酒呑童子、大江山にて源頼光らに一味ともに退治され、亡骸を火葬される。
~ 西暦一〇〇〇年頃 ~
聖白蓮、人妖の平等を志すも、妖怪への助力が露見、法界に封印される。
~ 西暦一一四〇年頃 ~
佐藤義清、出家して西行と名のり、諸国を遍歴して数々の優れた歌を遺す。
「……南無、八幡大菩薩」
~ 西暦一一五〇年頃 ~
妖怪鵺、清涼殿に飛来して帝を恐怖させるも、源頼政に弓を射られ退治される。
藤原妹紅、蓬莱の薬を強奪して不老不死となり、人々の前から姿を消す。
~ 年代不詳 ~
土蜘蛛、重病に臥せる源頼光を苦しめるが、北野の山中にて頼光らに退治される。
~ 西暦八二〇年頃 ~
宇治の橋姫、憎き恨みを晴らすも、源頼光らに降伏し、宇治川の流れに消える。
~ 西暦九九〇年頃 ~
酒呑童子、大江山にて源頼光らに一味ともに退治され、亡骸を火葬される。
~ 西暦一〇〇〇年頃 ~
聖白蓮、人妖の平等を志すも、妖怪への助力が露見、法界に封印される。
~ 西暦一一四〇年頃 ~
佐藤義清、出家して西行と名のり、諸国を遍歴して数々の優れた歌を遺す。
「……南無、八幡大菩薩」
~ 西暦一一五〇年頃 ~
妖怪鵺、清涼殿に飛来して帝を恐怖させるも、源頼政に弓を射られ退治される。
―― なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ――
≪ひとり一行でわかる登場人妖≫
藤原妹紅 …… 蓬莱の人の形。富士山にて蹴り落とした岩笠のケツの感触は、今でも鮮明に覚えている。
封獣ぬえ …… 平安のエイリアン。源頼政が稀代のニーソックス萌えだったおかげで、九死に一生を得た。
≪今回のおはなし≫
■第一話 ~ カモガワ・ヌエティック・エンゲージング
■第二話 ~ ノンストップ・レイニー・ガールズ
【第一話 ~ カモガワ・ヌエティック・エンゲージング】
「悪いことは云わないから、やめときなって。その矢傷じゃ、返り討ちに遭うのが関の山だよ」
そう云って、藤原妹紅は焼きたてのアユに、冬ごもりを終えたヒグマのように食らいついた。春が旬の川魚は、塩焼にすると淡白な味わいに深みが加わって美味であった。
「この私が、黙って引き下がると思ってんの?」
「思わない」
川のせせらぎも、小鳥のさえずりも、これじゃ台無しだ。篠笛の高音と低音をいっぺんに吹いたみたいな、その妖怪の声は、妹紅の鼓膜に痛烈なヘビーブローをかけてきた。
竹筒の水を呑み下しながら、妹紅は半眼で妖怪を見すえた。紺色の着物は粗末なもんで、ささくれた麻縄で腰部を縛っているだけ、飾りっ気はなかった。そこらへんの童が着ているような、丈も袖も短い代物である。その妖怪の姿形も、赤青二色の奇天烈な羽を除けば、また少女のそれであった。
妖怪は左手首に巻かれた包帯に、右手を重ねた。矢傷が痛むのだろう。
「……屈辱だわ、人間なんかに殺されるなんて」
「殺される?」
妹紅はアユから顔を離した。
「お前さ、今も生きてるじゃないか」
「違うの! 私は殺されても、何度だって復活するのよ。人間が夜に鳴く鳥を、恐れ続ける限りはね」
「ふぅん」
殺されたって生き返る、か。
「……あんた、人間でしょ? 違うの?」
「正真正銘の人間だよ」
「なんで――私を、助けたの?」
妖怪の声が、奈落の穴へと放り込まれたウサギみたいに弱々しくなったので、思わず顔を向けてしまった。
いつの間にか、焚き火の前で膝を抱えている妖怪の少女。焚き火の色が燃え移ったみたいな、真っ赤な瞳が揺れている。妹紅の紅い瞳と、妖怪の紅い瞳が、視線を通して交わった。
「べつに助けちゃいないさ。仏さんが小舟に乗って、どんぶらこっこと流れてくるもんだから、供養してやろうと思っただけ」
刀や槍でメッタ刺しにされた少女の死体は、それはそれは目に堪える代物だった。カラスの晩飯にくれてやるよりは、と川から引き揚げて、近場に穴を掘ってやった。やれやれ、と戻ってみると、左手首を除いて痛々しい傷はすべて塞がっており、あれよと見ているうちに、背中から禍々しい羽が六本も生えてきたのだ。
いやぁ、ぶったまげたぶったまげた。
「なにさ、人間だと勘違いしちゃったわけ?」
「そういうことになるね」
「あんた、馬鹿じゃないの?」
「ドジを踏んだお前に云われたくはない」
少女は言葉に詰まったのか、唇を噛んで目をそらした。妹紅は昼食を再開することにした。うめぇ。
「先に云っておくが、この魚はやらんよ」
「いらない、私は人間の心を食べるんだから」
ひとの精神を拠り所にする妖怪か、久々に見たな、と妹紅はアユを尻尾も残さず口に放り込む。それから、次の魚。そのまた次の魚へと移る。ものすげえ栄養の偏った食事を終えるまで、妖怪はひとことも口をきかなかった。ときおり、泥棒が家主の隙を窺うみたいに、怪しげな光をたたえた視線をよこしてくるだけだった。
「……ま、好きにすればいいさ。お前が首を刎ねられようが、都中を引き回されようが、私の知ったことじゃない」
本当にその通りだ、と妹紅は自分で自分に井戸より深く同意した。この妖怪が京に舞い戻って大暴れしたところで、私の知ったこっちゃないのだ。
少女は答えなかった。癖のある黒髪に隠れて、表情は見えない。私にも髪が黒い時分があったんだよなぁ、と遠い思い出にふけりながら、焚き火を始末し、荷物をまとめた。
「じゃあな、達者に生きろよ妖怪め」
そう云って、愛用のなまくら刀を携えて、手をひらひら振りながら背を向けた。
妹紅の首がすっ飛んだのは、まさにその時である。
□ □ □
「油断したわね、あなたも」
妖怪鵺はそう云って、ケラケラと笑った。鎌状の赤色の羽には、ほのかに血がついていて、春の日差しを浴びて鮮やかに輝いていた。
白髪の人間の首は、隕石の直撃を喰らったアヒルの置物みたいに吹っ飛んで、川面に吸い込まれて見えなくなった。
「私は、恐怖に染まったひとの心が大好きなの。もちろん、心臓もね」
鵺は白髪の肩をひっつかみ、切り口の肉に勢いよく噛みついた。やわらかな少女の肉が、鵺の昂ぶりを釣り上げた。恐怖のあまり気絶してしまった人間の肉が、なんといっても極上の一品なのだが、この際は贅沢は云ってられなかった。アユを喰らっていた少女の肉を、やはり春を迎えたヒグマのようにかっ喰らった。二人の食べ方は、よく似ていたのだ。
鎖骨をべきんっと外し、あばら骨を抜き去り、肺を選り分けた先には、いよいよ少女の心臓が、こちらを黙って見つめているのみである。
「きひひ」
右手を差し伸ばして、心臓を引っ掴もうとする。
「――そんなにウマいか?」
「ぬゆっ!?」
心臓が、しゃべった。鵺はダルマのように後ろに転がった。
「やれやれ……恩を仇で返すどころか、人の身体を食いもんにしやがって」
死骸はのっそりと立ち上がった。土埃が舞い上がって、食い散らされた身体へと、ひょうひょうと音を立てて吸い込まれていく。まるで、粘土をくっつけて人型を形作るみたいに、白髪の少女は本来の姿を奪い返していく。
あぁ、と声にならない呻きが漏れた。お前のどこが人間だ、と叫ぶ間もなく、白髪は着物の裾から呪符を引き抜き、こちらへ向かって投げつけた。呪符たちは木から木へと飛び移るムササビのように滑空し、鵺の三対の羽の付け根へとヒルみたいに貼りついた。
人間の出来立てほやほやの唇が、ニヤっと歪んだ。
「ちょっとでも牙を剥いてみな。自慢の羽が、いっぽん残らず吹き飛ぶよ」
「あんた、いったい――?」
「さっき云ったじゃないか」
自分とまったく同じ紅い瞳が、ナイフのように細められた。
「私は、それでも人間だよ」
少女が刀を抜き放った。鞘に擦れる金属音は、春の風に乗って鈴のように川原に響き渡った。
「ばらばらに切り刻んで、まとめて燃やしちまったら、流石のあんたもお終いかもね」
空は晴れていた。陽光は刀に反射して、鵺の眼球をこれでもかと焼いた。
ひっ――と声が詰まる。私は、怖がっているんだ、と鵺は思った。死ぬのが怖いんじゃなくて、人間が怖くなったんだ。足の小指から癖っ毛の一本にまで、稲妻のごとく怖気が駆け抜けた。まぶたが痛くなるくらいに固く目をつむった。矢傷はなにかを訴えるかのように痛んだ。
……一閃は、落ちてはこなかった。
「はぁ、やめやめ。寝覚めが悪い」
刀を鞘に戻す音は、ひどく空しく聞こえた。あやかしの血を吸えなかった刀の嘆きが、聞こえてくるようだった。
身体の震えは消えてはくれない。ふたたび背を向けた白髪の人間は、もう食い物すらも受け付けてはくれないような、亀の甲羅のように固い殻に閉じこもってしまったように見えた。
「ちょっと、待ってよ! これから、わたし、どうすれば好いってのよ!?」
「……京の都で大暴れ作戦はどこにいったわけ」
「そうだけど、そうなんだけど――」
少女の云った通りだった。今のままじゃあ、返り討ちに遭うのがオチだ。矢の傷なんかじゃなくて、もっともっと深いところで、自分は弱くなってしまったんだと思った。
「わかんないよ……」
人間は立ち止まってくれていた。空は突き抜けて青く、小鳥たちは春を唄い、地面の石ころを見つめているのは自分だけだった。
「まったく、世話の焼けるやつ」
なんて、どこにも行き場のないため息が、鵺の髪をくすぐっては、青空へと溶けていった。
「ひとつだけ、好いこと思いついたよ」
「?」
□ □ □
「どういうことよ、これは!」
「いやさ、荷物持ってくれるやつを探してたんだよ」
「なんで筆と硯まで持ってるわけ? 歌でも詠むつもり? 貴族じゃあるまいし!」
「……まぁ、いいじゃないか」
妹紅は苦笑した。歌なんて四百年くらい詠んでもいないが、生家から持ち出した想い出の品だ。そう簡単には捨てられなかった。
川原を離れた二人は、整備の行き届かぬ街道を歩いている。
「へっぽこ妖怪になっちまったお前にも、荷物持ちくらいなら出来るだろ」
「……ふんっ」
「名前はあるの?」
「ないよ、名前なんて。人間たちは、鵺みたいに鳴きながら、黒雲を呼びつける怪物だって騒いでたけど」
「さしずめ、封印された雷獣ってとこか」
妹紅は少し考えてから、これしかないな、と振り返った。
「――封獣ぬえ」
「は?」
「お前の名前は、封獣ぬえだって云ったの。名前がないと呼びづらいでしょうが」
「ぬえ……封獣、ぬえ」
封獣ぬえが、クルミを口に詰め込んだリスみたいに膨らんだ麻袋を、ぎゅっと抱きしめた。
「ん、気に入ったよ――あんたは?」
「藤原、妹紅」
「えっ――うそ、ほんとに貴族じゃんっ!!」
ぬえから矢継ぎ早に繰り出される質問を、妹紅は遠い昔の思い出を手繰るみたいにして答えてやった。
空は、晴れていた。鳥たちは、ずっと歌っていた。二人は、ようやく見つけた話し相手に自分をぶつけ合った。
なまくら刀を振り回す妖怪退治屋と、へっぽこ妖怪に落ち込んだ鵺妖怪の珍道中は、こうして始まったのであった。
【第二話 ~ ノンストップ・レイニー・ガールズ】
「……終わった、降りるよ」
「やっと? もう、お腹ぺこぺこ」
妹紅は小高い丘から滑り降りた。木陰でナマケモノみたいに寝転んでいたぬえは、ぐっと伸びをしてから、空を飛んでついてくる。
そこは合戦跡であった。つい今しがたまで、そこでは人々が馬を駆り、槍で突き刺し合い、刀に切り捨てられていったのだ。在地領主と田舎武士の小競り合いだった。戦闘の規模こそ小さいが、脳天を突き上げてくるような血肉の臭いは、妖怪少女の食欲をそそるには充分すぎたようだ。
ぬえは、米蔵に飛び入るカラスみたいに死骸の群れへと飛んでゆき、どの死体を喰らうべきか選別し始めた。致命傷を負って悶えながら死んでいった人間の肉は、このうえなく美味しいらしい。妹紅には理解できない。飢えから人肉を食した経験は数あれど、不思議なことに味など覚えてはいない。思い出さないようにしているのかもしらん。
「ん、おいし――藤原、あんたも食べる?」
「いらないよ」
「あら、もったいない」
まるで土から引き抜いた大根みたいに太腿を掲げるぬえは、友だちと遊ぶ幼子みたいに笑っていた。口のまわりに付いた血を舌で舐め取る時だけ、妖怪らしい妖艶な笑みを見せやがるもんだから、妹紅は落ち着きなく刀の鞘を握ってしまった。
「ぬふふ、いま怖いと思ったでしょ?」
「まさか。人間と妖怪の違いについて、考えていたところだよ」
「人間といえばさ、いいの? 都からこんな近いところで殺し合っちゃってさ」
妹紅は鼻をつまみながら云った。
「いまの朝廷にゃ、小競り合いに構ってる暇はないんだよ。帝は重病、摂関家は親と養子で目くじら立て合ってる。そこに、賄賂に目のくらんだ官僚ども、中央を虎視眈々と狙う武士団を加えれば、あっという間にど腐れチャンプルーの出来上がりさ」
「相変わらず面倒くさいね、人間って」
「命は短いからね」
「藤原は違う」
そう云って、ぬえはまた笑って、骨の残骸をぷっと吐き捨てた。
空は、曇っていた。鳥の姿はない。
□ □ □
封獣ぬえは、藤原妹紅に付き合ってやることにした。
羽の呪符は未だに外してくれないし、荷物持ちはやらされるし、ふっと黙り込んじゃうと、いくら話しかけても答えてくれないし――意地悪で怖がってくれないやつではあるが、少なくとも、都に住まう人間たちよりも、ずっとマシな人間だった。初めて人間に、個人的に興味を抱いた。
しばらくは、こいつについていくしかないな。
そう、思ったのだ。
「もうっ! あんた人間にしちゃ、とんでもなくずぼらだぬぇ!」
「ほっとけ!」
根無し草である妹紅は、けれど雨に対する何の備えもしていなかった。二人はずぶ濡れになりながら、木立に分け入って雨宿り先を探した。雨は冬の残り香を蓄えていたかのように冷たく、妹紅はあっという間に体力を奪われて、大木に背を預けてしまった。ぬえは、息を切らして喘ぐ妹紅の頭上で胡坐をかいた。
「あんまり雨避けにはなんないよ。今の時期じゃ、まだ葉っぱもそろってないしね」
「わかってるよ」
「わかってない」
「あとで乾かせば好いでしょ?」
「風邪でもひいたらどうすんのよ。人間って土くれみたいに脆いんだから」
「だったら、いっかい死んじまえば万事解決だよ」
それ以上は喋るのを止めておいた。どうして、こいつは自分の命をこうも簡単に粗末にできるんだろう、と思った。
雨にしこたま痛めつけられた白髪が、呪符の刻まれた紅白のリボンが、ぬえの目には五月の桜の花びらみたいに儚げに映った。
「……あのさ、もういいから」
突然、妹紅が云った。
「なにがよ?」
「雨避けになってくれてんのはありがたいけど、それじゃ封獣が風邪をひくじゃない」
「ば――ちがわい! そんなつもりじゃ!」
無意識こわい。ぬえは慌てて、蓬莱人の隣に舞い降りた。雨音もいっしょになって落ちてきた。ふたりぼっちで雨音を聴いていると、また余計なことを云ってしまいそうだった。ぬえは、自分の正体を知られたくないのだ。この身体のどこか奥で、息をひそめている正体を。
矢傷が、また切なく痛んだ。
「っ……仕方ない。このぬえ様が、適当な場所を見つけてやるよ。藤原は休んでな」
「気持ちだけ受け取っておくよ。でも、どうでも好い。こんなこと、しょっちゅうだし」
「私が、どうでも好くないんだよ」
青い矢印の羽でちくりと妹紅の頬を刺して、ぬえは濡れそぼった大地を蹴った。
□ □ □
ぬえは、妹紅がまどろんでいる間に適当な場所とやらを見つけてきた。
雨に打たれながら、しかも立ちっぱなしで寝るやつなんて初めて見た、と呆れられた。まぁ、よい。
「ほら、こっちこっち」
ぬえが先導する。こちらを振り向くたびに、着物の裾が際どく翻ったので、目のやり場に困った。
辿りついた場所は、森の中に隠れるように横たわった小さな村落だった。二人は藪のなかから様子をうかがう。人影はなく、犬っころの一匹もいない。ここだけ世界が終わってしまったか、あるいは完結してしまったかのようだった。
「よりによって人がいる場所とは、予想外だったな」
「同じ人間じゃないの。ほんと変わったやつだね、藤原は」
なんで、こんな森の中に居を落ち着けたのだろう、と妹紅は考える。水利の便もなければ、畑だって満足には耕せない。
とにかく、寒いものは寒い。藪を蹴り飛ばすようにして歩いた。ぬえが平然とついてこようとしたので、慌てて押し留める。
「心配ないよ。だって、誰もいないから」
「なんでよ」
「みんな、死んでる」
「賊か」
タコの足のように金品を吸い取っていく在庁の官人に堪えかねて、鍬(くわ)を放り出した連中が徒党を組んだ。そいつらの血走った眼からは、たとえ森のなかに隠れ住んでいようと、逃げることなんてできなかった。
「遠目からでもわかるよ、血の臭いには敏感でね」
ぬえがケラケラと笑いながら、家人の死に絶えた家の天井を飛び回っている。水滴が飛び散るから止めてほしい。
雨に濡れて震えるか、それとも死臭の飛び散る一室で仏さんと添い寝するか。たぶん、大抵の人間は前者を選択するんだろうけど、妹紅は人死にはあまりにも慣れ過ぎていたし、そのくせ、いつまで経っても雨に打たれるのは慣れることができなかった。
「しっかし、ひどい有り様。親の仇かって思うくらいだ」
「やっぱり妖怪の仕業じゃないね、これ。着物の一枚まで持ってかれてるけど、食い散らかした跡はないよ」
死体を検分する。三秒と見ていられなかったので、麻袋から竹筒を取りだし、水を呑んだ。一家の死骸は、一言で云うなら、ずたずたのめちゃくちゃだった。個人の尊厳ってやつが小石ほどにも付け入る隙のない、容赦のない殺しっぷりだ。
「さっさと盗るもん盗って、おさらばしちゃえば好かったのに」
そう云って、ぬえが父親らしき死骸を蹴っ飛ばした。群がったハエが、土埃のように飛び立つ。妹紅は小さな火炎を出して、ハエたちを焼き払った。うるさいのだ。
「わっ」
ぬえが声をあげる。父親のしたから、幼い少女の骸が転がり出たのだ。やはり、待ったなしの暴力が窺えたが、それでも他の家人に比べればマシだ。
「こいつ……」
背中を這い上ってくるような既視感。隣のぬえの息遣いが、犬の夜鳴きのように、ほかの雨音やらをかき分けて、大きく聞こえた。それで、思い出す。少女の死骸は、出会ったときのぬえの死体に似ていた。人の形をした人ならざぬモノへの、圧倒的な偏見を盾にとった暴虐。
思わず、ぬえの顔を見てしまう。目が合ってしまった。
血を結晶にしたみたいに紅い瞳には、なんの感情もなかった。ぬえは、愉快な笑みを口に貼りつけたまま、こう云った。
「ねぇ、こいつ先に食べて好い?」
雨水が空だった桶から溢れるくらいに、長い時間が過ぎ去ってから、妹紅は黙って首を横に振った。
□ □ □
なんで埋葬なんかしちゃうんだろう、意味わからん。
「今度こそ、人間の女の子を埋葬してやるんだよ」
妹紅はそう云って、雨に打たれながら穴を掘っている。妹紅が振るう鍬。あれだって、最後の一仕事が死体を埋めるための穴掘りに使われることになるなんて、思ってもみなかったことだろう。命を育むべきものが、命を奪った後始末をするのだ。
ぬえは、そんな妹紅を見るのが嫌になったので、無人の村落へと視線を戻す。そして、一軒のあばら家に目が留まる。造りは急ごしらえのイカダみたいに雑なのに、まるで首長が住んでいるかのように、ほかの家屋と比べて大きいのだ。
今さら遠慮する必要もあるまい。泥水を跳ね上げながら歩み寄り、扉にえいやっと蹴りを決め込んだ。沼の底よりも濃密な闇が、一斉に払われた。
そこには。
「……ははっ」
ぬえは笑った。だって、これを笑わずに、なにが笑えるってんだ。いつだって、どこにだって、笑うしかない状況ってのはあるもんだ。
作業を中断させて、妹紅を呼んだ。あばら家のなかを覗き込んだとたん、妹紅は鍬を取り落とした。
「マジかい」
燃え尽きた炭みたいに煤まみれの期待をこめて、妹紅の顔を見たけれど、表情は抜け落ちていた。心の中で小さく舌打ちをこぼして、目を戻す。
そこは、骨山だった。天井に届きそうなくらいに積まれた、骨、骨、骨。飽きるくらいに見慣れた形の頭蓋骨から、そのほとんどが人間のものであると知れた。どの頭骨にも拳大の穴が空けられていた。骨の髄までしゃぶり尽くすとは、なるほど上手いこと云ったもんだ、とぬえは思った。
なんで用済みとなった骨を、後生大事に保存しているのかは知らんが、とにもかくにも。
「これで、この村の食糧源がわかったね」
妹紅は、うなずきすら返してはくれなかった。
ぬえは人間への認識を改めることにした。人間だって、私たち妖怪と同じように、肉を食べるのだ。米や野菜や魚なんかで満足しないのだ。
「……やれやれ」
妹紅の声は、空っぽの頭蓋骨みたいに虚ろに聞こえた。
□ □ □
「――ねぇ、やっぱり埋めちゃうの? あんなのを見たのに?」
「もちろん。せっかく掘った穴を、また無下にされてたまるか」
賊たちは、と妹紅は穴を掘りながら考える。賊たちは、この村から、もしかしての自分たちの姿を見たのだ。生きるか死ぬかに迫られたとき、この世の中、取るべき選択肢はそんなに多くない。ある者は、長いものに巻かれて戦いに駆り出されるし、ある者は、盗人になって心も身体も血で塗りたくっていくし、そして、ある者は――見境を失くせば好いって結論づけた。
それだけのこと、それだけのことなのに。
妹紅は、穴を掘る。一心不乱に、穴を掘る。
ぬえの視線が、背中を羽毛のように撫でていく。
中で待ってろって云ったのに、ぬえも一緒になって、雨に打たれてくれていた。
「お、雨あがったね」
「ほんとだ、好かった」
森を抜け出して、二人は街道に戻った。遠くの山肌が、太陽に照らされてくっきりと見えた。青空の兆しが雲居に光っていた。
そんな風景を見ていると、すべてを好意的に解釈してしまいそうになる。あの村落は、ただの被害者なんだ。合戦で亡くなった人々の骨を集め、あとでまとめて供養するつもりだったんだ、と。
すべては通り過ぎた雨雲だった。なまくら刀の鞘を、ぎゅっと握った。
「さっさと服を乾かして、飯にしようか」
「賛成っ」
腹が減っては、戦はできない。
妹紅たちは近くの山麓にあった大岩のうえで火を焚き、服を乾かし、塩漬けにしたアユを焼いて食べた。その後、ぬえの包帯を代えてやった。矢傷は癒えてはいなかった。それは、傷というよりは何かのしるしのように手首に残り続けていた。
焚き火を見つめながら、雨のことを考え、合戦のことを考え、人肉のことを考え、いつまでも変わらない川魚の美味しさについて考えた。春にさえずるヒバリみたいに飛び回った思考は、けれど結局のところは、現実的な問題へと舞い戻ってきた。つまりは、路銀のことだ。
そろそろ、妖怪退治稼業を再開しなければなるまい。まぁ、なるようになれだ。時間はたっぷりとあるんだから。
「ねぇ、藤原」
「なに、封獣」
寝転んだ妹紅の前髪に、ぬえの蝋みたいに白い手が滑り込んだ。けれど、そこに温もりは確かにあった。ぬえの瞳は、晴れ渡った空の輝きを溜め込んで、きらきらと光っていた。
「人間って――よく、わかんないや」
「……私だって、わからないよ」
それでも、わからないなりにやっていくしかない。冷たい雨が降ってもノンストップで、走り続けていくしかない。
ぬえも疲れたのだろう、妹紅の隣に寝そべった。白髪と黒髪が、ちっぽけな抽象画のように混じりあった。
二人はなんとなしに、手をつなぎ合って、春の陽だまりのなかでぐっすりと眠った。
~ To Be Continued ? ~
.
次回も楽しみにしてます
こういう可能性があるから東方の二次創作は良いんですよね。
日本のどこかで出会っていてもおかしくはない二人の道中、とても面白かったです。
全編を通して陰惨な場面やシリアスな題材でありながら、ぬえの雰囲気の明るさ、
ちょっとした描写のコミカルさ、美しさがあるから、
この物語が暗く沈むのを妨げているようでもあります。
死なない人間と、それに怖れを感じる、本来なら人に恐怖を与える存在である妖怪。
交わってどう変わっていくのか、ぜひ続きが読みたいです!
とても楽しみにしています。
春の鮎はまだ小さいです
釣りキチ妹紅の腕前なら春はヤマメやイワナですね