「燐、おいで」
「にゃ?」
冷めた紅茶で喉を潤し、眼鏡を外してケースにしまいながら、紅茶のお代わりを持ってきてくれた燐を呼ぶ。
素直に『何ですか?』と嬉しそうにやってくる燐の頬を撫でながら、机の引き出しに手をかけ、音もなく開ける。
午後の仕事もつつがなく終わり、おやつの時間にも早いこの空き時間。
かねてより、やろうと計画し、つい忘れてしまっていたアレをしようと、私は燐の両脇に手をいれた。
燐はすぐさま私の合図を汲み取って、にゃおんと猫の姿になって、私に大人しく抱き上げられた。
「燐、今日は貴方の爪を切ろうと思うの」
「……にゃ?!」
「最近、貴方の爪は丁寧に研ぎすぎて、あまりに鋭すぎるの。ほら、カップにも爪の跡が残ってるでしょ?」
「にゃっ?! ……にゃぅん」
「いいの。怒ってないわ。でも、その調子だと空が傷だらけになっちゃうの」
「……にゃ」
燐の事が大好きな空が、燐にじゃれついて抱きつくたびにその爪に引っかかれ、うっすらと血が滲んでいる姿を見るのは飼い主として忍びない。
何より、傷つけるつもりのない燐が、意図せずとも空を傷つける光景も、あまり見たいものではない。
「だから、爪切らせてね」
「……んにゅぁ゛」
「そうね。嫌よね。でも、伸びすぎた爪は私だって痛いのよ?」
「……ふびゅ?! ……ふみゃ」
「ありがとう」
驚き、すぐにこくこく頷いて。恐る恐る前足を差し出してくる燐の愛らしさ。
くすくす笑って、燐の可愛さに心が和む。
尻尾がくねくね、先端がちょっと膨らんでいる。
本気で嫌がると、狸を連想するぐらいふっくら膨れる尻尾を撫でて、落ち着かせる。
「さ、大人しくして」
膝の上で優しく姿勢を変えて、前足をそっと握る。取り出したペット用の爪きりを手に、尖った爪先に指の腹をそっと当てて、なぞる。
「本当、伸びたわね」
「にゃ」
「そう、自慢だったのね。でも、貴方は私のペット。お手入れしましょうね」
目測を丁寧にはかり、パチン。
「にゃ゛」
びくっとして、尻尾が不安で落ち着きなくくねくねしている。
その様子に眉を下げて、大丈夫だと、燐の小さな額に口付けて、耳をあむっと噛んであげる。
そしたら、ひょうきんな事にすぐにゴロゴロと小さく、燐の喉が鳴る。
「怖くないから」
「……なー」
不安な心が伝わる。だけれど信頼をこめて『さとり様におまかせします』といじらしい声も聞こえて、ご褒美にそっと顎に指を当てて、上げた鼻先に口付け。
「……ふにゃぁ」
「そうね、切り終わったら、お口にしてあげる」
「にゃ!」
「だから、頑張りましょう」
ぴたぴた。二本の尻尾が嬉しそうにお腹を叩き、腕と腰に巻きつくようにくっついた。
はやくはやく、せっつく様に赤い瞳が見上げてくる。
視線を唇に感じて、可愛らしいと丁寧に爪を切っていく。
パチン、パチン。先端を狙って、間違っても痛い思いをさせない様にと、たまにフッ、と緊張してきた燐の額に息をふきかけたりして、順調に切っていく。
「終わったわ」
「にゃ!」
「ごめんなさいね。まだ駄目よ、今度はやすりで整えましょうね」
「……にゃぁ」
「ほら、拗ねないの」
耳にカリッと歯をたてて、耳の奥にふぅ、と息をいれる。
ピン! と両耳をたてて首をくすぐったそうにひっこめた。
「大丈夫。そんなに時間はかけないわ」
「……ふびゅ」
「本当にすぐ終わらせるから、我慢して」
焦れて、燐からキスしたいキスしたい、と我慢できない心の声が溢れる。
しょうのない子と。そっと、鼻から瞳にかけての小さなお顔に、はぐっと歯をたてた。
「にゃ゛」
驚いて、でもペロッと、鼻を舐めて、またたびでも舐めたみたいに途端に大人しくなる燐。
恥かしい、嬉しい、さとり様の味、匂い、幸せ、と何とも可愛らしい声が届いてくる。
微笑み、その隙にと、爪を手早く整えていく。
そうして、秒針が十回ほど廻った後だろうか? ようやく終わり、燐のふかふかのお腹をそっと撫でて「終わりましたよ」と声をかける。
燐は嬉しいと、膝の上で二回周り、そのまま絨毯の上に飛び降りた。
そして、
「さとり様ー!」
「はいはい」
人型になって、早速抱きついてくる。
確かめたくて燐の手を取り、そっと絡める。燐の爪は丸く、これなら怪我はしないだろうと満足する。
「あ、あの。あの。あたい」
「ええ、いいわよ」
燐から痛いぐらい伝わる欲求に、可愛い子、と微笑み。そっと瞳を閉じて顔をあげる。少しだけ唇を突き出した。
「ふ、ふにゃぁ」
数秒。
待った後に、震えた感触が降ってきて、そのまま音も無く塞がれた。
そのまま、燐の『声』を聞きながら、長くなりそうだと、そっと燐の両脇に手をいれる。
ふわりと、軽く。
膝の上。
それから数分、一匹の黒猫と長く口付けた後。予想通り、くてんとなった燐をよしよしと、優しく撫でてあげる。
爪きりは無事に終了。
ご褒美も終了。
うん、明日は、ブラッシングをしてあげたい。
あぁ、久しぶりにお風呂にもいれてあげたいな。
そう考えながら、のぼせたみたいに、にくきゅうがいつもより熱い可愛いペットの背を、わしわしわざと逆立てたりしながら、優しく撫でる。
尻尾が抗議するみたいに、二本ともくねくね絡まってきた。
可愛い。
尻尾の先端を銜えて噛んでみた。
燐の尻尾は、ぶわりと限界まで膨らんだ。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
「?」
二日後の自室。
突然こいしが現れて、私の机に正座して何やら両手をじたばたさせだした。
「何で?! どうしてお燐の爪は切ってあげてちゅーまでしてラブラブなのに、私にはしてくれないの?! 私を探そうともしてくれないの?!」
「何をいっているの? 妹にはそんな事しないし。貴方は探さなくてもでてきてくれるでしょう?」
「そうだけどそうじゃないー! じゃあ、じゃあ私お姉ちゃんのペットになる!」
「妹はペットにしません」
「なんで?! どうしてそんな意地悪言うの?! お姉ちゃんの馬鹿ー!」
珍しいこいしの駄々っ子だった。
無意識なのだろうけれど、際どい台詞を吐くものだと、部屋の隅っこでジッと身を潜めて此方の様子を伺っている燐が可哀想で、近づいて抱き上げる。
こいしが出現して爪きりがどうと言った辺りから、怒られるのでないかとドキドキしている。
「あー! 燐! いたぁ!」
「にゃ゛?!」
「こらこいし。燐を驚かさないの。ごめんなさいね燐」
「あー!? またちゅーしたー!?」
燐にお詫びのつもりで、驚いてちょっと舌がでたままの口にキスをしたら、またこいしが騒ぎ出す。
もう、どうしたのかしら?
「お姉ちゃん、前々から言いたかったんだけど、燐だけ明らかに特別扱いだよ!」
「自覚はしているわ」
「じゃあ何で?!」
「何でって、燐は良い子ですもの。お仕事はしてくれる。身の回りの世話もしてくれる。友達は大事にする。私の事を大好きって一日三十回以上は思ってくれる、夜中にベッドの中に夜這いしてきても紳士的に添い寝するだけ。私の第三の目に爪を一度も引っ掛けた事のない唯一の猫。当然だわ」
「にゃー!?」
「お姉ちゃん今なんかサラッと凄いの混じってたよね?!」
腕の中の燐が羞恥で死にそうなのを感じて、あら? と遅れて気付いたが、後の祭りである。
苦笑して、ごめんねのお詫びをする。
今度は、鼻先に掠めるキス。
「うーッ」
「こいし。本当にどうしたの? 今もそんなにむくれて」
「しょがうないじゃん! だって私、お燐にやきもち焼いてるんだもの!」
「……え?」
「お燐ばっかずるい! 私もお姉ちゃんに世話焼いて貰ってちゅっちゅっして欲しい!」
「え? あ? うん? ふ、普通、妹にはしないわよね?」
「すーるーよー! だって、私地上を一杯ふらふらして知ったんだよ!? 紅い館の姉妹の交換日記は毎回大好きとか愛しているとかをツンデレに隠した甘酸っぱ日記だし! 音楽幽霊姉妹は、姉は妹に恋して、妹は姉に恋して、複雑トライアングルだし! 秋の姉妹はすでに皆より百歩ぐらい先に行っている夫婦っぷりだし!」
「な、何それ? え? 地上の姉妹の常識どこ行ったの?」
とんでもない現状を聞いて、燐をぎゅっとする。
ハッとして、燐が即座に人型に戻り、慌てて私を腕の中に閉じ込めた。
「だ、大丈夫ですよさとり様。よそはよそ! うちはうち!」
「お燐のばかー!」
「な、だ、で、って、こいし様、お、お空と今日遊ぶんじゃないんですか?! 時間やばくないですか?!」
「む? あ、本当だ。……お姉ちゃん、帰ってきたら遊んでね! 絶対だよ!」
スッ、と。
こいしは最初の唐突さと同じぐらい、お燐の指摘に、たったそれだけで、呆気なくいきなり姿を消した。
燐のほーっと安堵した息を聞きつつ、その私より温度の高い身体に包まれながら、ぎゅっとその服を摘む。
「……燐」
「は、はい、さとり様」
「……こいしが地上に毒されているわ。それも悪い方向に」
「ああ、いえ。そうですか? あたいにはいつもと同じに見えるのですが」
「あら? そんな事を言う口はこのお口?」
「んにゃ」
唇を指で摘んで伸ばしたら、涙目になっておさげを揺らした。
その姿に溜飲は下がり、小さく溜息。
「……まったく。地上はどうなっているのかしらね。姉妹でなんて在り得ないわ。ペットとならともかく」
「…………」
いや。それ獣姦っていうか。そっちもそっちでアブノーマルな気がするんだけどなぁ。
「……何か思った?」
「ってうにゃしまった!?」
「躾をしなおした方が良いかしら?」
「し、尻尾は許して下さい」
ひぃんと泣きそうな燐を見て、冗談なのに、と苦笑する。
そのまま脇に手をいれて、燐がハッとして獣化する。
いつ見ても一瞬に姿が変わる姿は、色々と原理が知りたくなるけれど、それを知ろうとするのは何となく野暮というものだろう。
燐に聞いても分からないと言っていたし。
それにしても燐のお腹、もふもふしてる。
「……」
「にゃ?!」
思わず、そこに顔をくっつけて、至近距離から息を吹きつけた。
燐が慌てた様にじたばたする。
爪が頬に触れたけれど、切った後なのでくすぐったいだけだった。
と、燐が本気で逃げて離れた。すぐさま人型になる。
「なななな何するんですかぁ?!」
「お腹に息を吹きかけたわ」
「何でそんなキリッと言うんですか?! セクハラですよ! パワハラです!」
「ちょっと気持ち良かったからやめて、と。燐の中は正直ね」
「心の声を口にしないで! あとなんか卑猥!」
びにゃー! っと本当にショックを受けている燐だった。
真面目に泣きそうだったので、素直に謝り、背伸びして燐の頬を撫でる。
「う゛ー」
「ごめんなさいね。貴方が可愛くて、つい」
「……」
「嘘じゃないわ。本当よ。燐は可愛い」
「……う、ご、誤魔化されませんからね!」
ええ、やっぱり私の燐は可愛い。
真っ赤になっておさげをぷるぷる揺らす燐に悪戯心がわいて、そっと背伸びしてその頬に不意打ちにキス。
燐の心が爆発した。
しっちゃかめっちゃかになる。
……えーと。
「好き好き大好きペットだけど女だけどやっぱさとり様可愛い小さい抱っこしたい……って、それは飼い主に対して流石に不遜よ」
「にゃー!! 無理!! さとり様が魔性だからなんです!!」
「あら」
そのまま、がばっと抱っこされる。
いつもと逆で、少し新鮮。
混乱しきった燐は、だけれど優しく。そのまま、ぎゅーっと。きゅーって音が同時に聞こえて、何だか此方の方が照れてしまう。
耳に届く音と、目に響く音。
燐の心の音は心地良い。
「……あ、さとり様、ちゅーしていいですか?!」
「貴方、テンションがこいしみたいよ」
「えっ?!」
また本気でショックを受けた。……貴方は私の妹を何だと思っているのよと。燐の鼻を抓ってやる。
燐はあうあうと動揺した後、ええい! と気合をいれて、ずいっと顔を寄せてくる。
あ、本当にキスするつもりなのか。
意外に思って、でも抵抗はしない。燐の事だから、結局は我慢をして、出来ないと思っていたのに。
「あ、あの、さとり様」
「なぁに? やっぱりおじけついたの?」
「……意地悪に優しく言わないで下さい。……あ、あたい、やっぱ、猫だし。舌ざらっとしているから、もし当たったら痛いかもだし。それに……ペット、だし」
「そんな事を気にして、後数センチの距離を詰められないの?」
「……だって」
「なら、下克上しちゃえばいいのに」
「そ、そんなのしません! そんな事考えた事もないって、心読めば分かるじゃないですか!」
「ええ、いつも愛の告白ありがとう。貴方の心はそれで一杯だものね」
「改めて口にしないでー!」
にゃぎゃーって悲鳴。
そんな燐に微笑んで、色々と考えすぎて心を痛める、優しい彼女の額にキスする。
「馬鹿な子ね」
「……ぅ、え?」
「世の中、姉妹で恋愛するならともかく。ペットで恋愛なんて普通よ。そんなに卑下する事でも、難しく考える事でもないわ」
「……」
いや……結構大概じゃないかなぁ。
というか、どっちもどっちだと思うんですけど、やっぱりさとり様も常識とか普通からずれているからなぁ。
あたいがしっかりしないと……!
「……燐?」
「え? あッ?!」
「失礼な心の声ね」
「ぁ、に、にゃ~ん♪」
「ふぅ……可愛いからまあいいわ」
「いいんですか?!」
驚く燐が、慌てて落ちそうになった私を抱え直し、そのままお姫様抱っこ。随分と楽な姿勢になる。
「そ、そういえばさとり様」
「なぁに?」
「また書類が届いたんで目を通して下さい!」
「…………照れ隠しの誤魔化しにしても、もうちょっと可愛い事を言って欲しいわ」
「午後から忙しいですね!」
「……そうね」
長い溜息をついて。
少し不機嫌になり、燐のおさげを掴む。そしてちょっと引っ張る。
「にゃ」
深くキス。
あえて舌を伸ばして、ザラッとした表面をなぞる。
紅茶の味がした。
「…………………ニャー」
「今日は、そうね。燐には一日中私の椅子になって貰おうかしら?」
「…………………ナゥ」
「午後からの仕事も、それなら楽しく出来そうだわ」
ぎくしゃくぎくしゃく。
可愛い燐は、そのまま私の指示通り、私を抱いたまま移動する。
心の中は嵐が巻き起こり。相変わらずこの子は可愛い。
空の前ではお姉さんぶって少ししたたかなのに。
死体を見た時は目をギラギラさせて野生たっぷり。
こいしの前では痛いぐらい尻尾を引っ張られたトラウマからかにゃうにゃう情けない。
そして私の前だと。
可愛い可愛い私の愛しい、ただのペットになる。
私だけのペット。
私は彼女の事を、他のペットより特別扱いするぐらいには。好いている。
「ねえ燐」
「え?」
「もしもの話なんだけどね」
「はい」
「もし燐が私と結婚したら、名字はどちらがいいかしら」
「にゃふん?!」
今日も今日とて。
私はそんな愛しいペットを。愛でて愛でて愛でまくる。
燐は真っ赤になって。
「ふちゅちゅかものでしゅがよろしくおねがいしましゅ!!」
盛大に噛んでいた。
うん。
今日も可愛い。
心から満足して。
明日も可愛い姿を見ようと。
とりあえず、特大ケーキでも作って初めての共同作業なんてしてみましょうか?
なんて計画するのだ。
私の赤い黒猫は。
どこの家の猫より可愛い。
私の自慢。
つり上がったまま治んねえよ!
心が洗われるようだ
種類は違えど、地下も地上も甘さで満ちているようで。
秋婦妻も好き