Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

別名「蓬莱の玉の枝」

2011/12/02 00:04:17
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 妖怪の山の裏。太陽光を遮る背の高い木々が鬱蒼と生い茂る表参道とは異なり、背の低い木が生い茂る裏山道。
 この場所には、獣道とはまた異なった人工的に整備された道がある。丑三つ時であっても月の光を頼りに進むことが出来るその道を歩いて半刻もすれば、ぼんやりと複数の灯りが見え、次に雑味帯びた人々の行き交う声が届く。
 提灯が垂れ、つい足を運びたくなる出店が立ち並ぶその場所は中有の道。幻想郷から唯一三途の川に通ずるこの道には、地獄の罪人らが卒業試験を兼ねて出店を開いており、妙なることに死者だけでなく生者に対しても商売をしている。
 宵闇の金色、妖術を扱う二尾の妖獣、現代に残る蟲の化身。人ならざる者が目立つ中、その者は一人歩を進める。
 里の子供の如く駆ける妖怪達と接触しても、罪人達に声をかけられても、均一に進める歩幅を止めることなく、眉一つ動かさずに淡々と道を往く。
 世界から切り離されたような出で立ちは、死者と生者が行き交う中有の道においても異質さを放ち、その瞳は遥か前方だけを見据えている。数分もすると賑やかな中有の道にその姿は無く、後には罪人達の甲高い声しか残らなかった。

 冥界同様幻想郷内には存在しないが、幻想居から赴くことが可能な地――三途の川。
 彼岸と現世の境となるこの川には、絶滅したあらゆる水棲生物が生息していると言われているが、釣り上げることも、死神の船以外沈んでしまうので泳ぐことも叶わない為、その話の真偽を確かめることは出来ない。
 白く塗りつぶされた濃い霧が立ち込め、川の流れだけがこの場所特有の静謐を語りかける生と死の狭間。生と共にあり生きゆく者全ての終着点。この場所だけは全ての生物に対して訪れる。言葉発せぬ獣達も、時を止められる人間にも、千と生きる妖怪達にも、死に懊悩する聖人にも、いつか必ず訪れる歴史の幅。
 三途の川の河原、賽の河原。至るところに石が積まれたその場所に、その者は立っていた。眼前には死神と石を積む子供の霊。中有の道を通って三途の川に足を運んだ訪問者に対し、二人とも背中を向けている。最も子供の霊は石を積むのに夢中で、傍らに立つ死神にも、訪問者にも全く気付いていないようである。

「……こりゃ珍しい人が来たもんだねぇ」

 死神がくるりと訪問者に向き直る。赤色の髪を二つに括った長身に、人懐っこくて話好きそうな愛嬌のある顔立ち。笑ってさえいれば、どんな相手とも瞬時に打ち解けそうな人相は、しかし訪問者を警戒するように真剣味を帯びており、大きな鎌を振るう所作からは荒事も辞さないという覚悟が伺える。

「で、死者が集うこの地に何用で?」

 寿命を迎えた仙人天人の元に現れ、その命を刈り取る死神。目の前の死神は専業でないにしろ、それらと同じ死神として高い戦闘能力を有する者が臨戦態勢をとっても、時が止まったようなその者を揺さぶるには至らない。
 目の前に居る死神がまるで案山子であるかのように微塵も介さず、独り言のように静かに紡ぐ。

「知りたいことがあるの」
「知りたいこと?」

 現し世ならぬ死者が集まる三途の川においてもその者の声色は異質そのもの。静謐を語りかける水の音よりも静かで、底がわからない川よりも深く、そして耳元で囁かれたような不思議な力。
 怪訝な表情を隠そうとせず聞き返す死神に、彼女は「えぇ」と答える。

「ははっ、珍しいことに珍しいことは重なるもんだね。お前さんが知りたいこと、ねぇ。で、その知りたいこととは何ぞや?」

 鎌を下ろし、人懐っこい笑みを見せる死神。それでも彼女は表情一つ変えず、時を止め心を凍らせたままゆっくりと語り始める。

「一つ積んでは父のため。二つ積んでは母のため……」

 子供の霊は変わらずに石を積む。彼女が死神に話を進め、その瞳が僅かに揺れ始めたとしても、子供の霊には関係ないこと。手を止めることなく、一人静謐な河原で歌い続ける。

「一つ積んでは父のため。二つ積んでは母のため。三つ積んでは故郷の兄弟わが身と回向して……」





◇◆◇






 天才とは、地平線の彼方の事象すら先見する。
 ああその通りさ。一介の月兎たる私には、想像も及ばない世界が見えているのだろう。だが私は提唱したいね、声を大にして張り上げたい。天才は常人からすれば同時に盲目であるってね。
 本日の天候は快晴。八分もの宇宙の長旅から太陽光が元気に降り注ぐ雲一つない空で、夜には大好きなお月様が天蓋を彩ることでしょう。よっしゃ!
 話が逸れてしまったけれど、要するに私は背中に薬箱担いで絶賛人里に移動中というわけだ。何故かと言われればそんなもん私が知りたい。師匠は月一の頭脳の持ち主で、更に月の都の創設者で、私の知らないこと、考えの及ばない世の理を理解していらっしゃるのでしょう。全ての行動には何かかしらの意味が付与されており、私に対しての指示にも一切無駄はないんでしょう。素晴らしいと思います!
 でも私にはさっぱりわかりません。師匠の考えは微塵も理解出来ません。増長した吸血鬼が月への侵略を企て月へ向かった時も、師匠の意図が私には最後まで汲み取ることが出来ませんでした。
 嗚呼何故私が穢れた人間達相手に薬商売をしなくてはいけないのですか? 答えてくれる人は当然いなくて、私は今日も今日とて人里に向かう。目的不明瞭な薬売りも、始めてから数年経過している。私の不満も爆発寸前だ。
 天才とは我々常人に対して盲目なのだ。私達に理解できるように話をしない、我々はただひたすら首を縦に振るうしかない。
 つまり師匠は私に対して盲目なのだ。

「今日も薬売りたのしーなー……あはは……」

 口にしてみても現状が変わるはずもなく、私はとぼとぼと人里に向かって歩き続ける。
 季節は冬にはまだ遠い秋。頭上で燦然と輝く太陽、山を見遣れば色枯れた木々が自己主張を始めている。時折吹く風は伸ばした髪とスカートの裾を茶化し、人里付近の実り彷彿させる黄金に波を作らせる。
 流れる小川、渡るには心許ない細木の橋。遠方より聞こえてくる児童の黄色い声、虫の鳴き声、蒼空を飛ぶ天狗。耳を澄ませば多くの生命の鼓動が振動となって響く。嗚呼、これは全部……

「穢れたものばかり」

 吐きつけるように悪態をついても、誰も反応を示さない。
 それから数分、人里に入ると私は人通りの少ない裏路地を用いて得意先へと向かう。大通りを使おうものなら、好奇の視線に晒され、場合によっては囲まれてしまうからだ。そのような事態は当然私にとって好ましくない。
 穢れた空間、この地に住まうことが私の罪なのだと理解しているつもりだ。仲間を見捨て、能力を見出し月の使者という地位に至るまで鍛えて下さった綿月様から逃げた罰。
 でも、だからといって穢れた地に慣れたわけではない。いくら己が穢れても良いと思ったわけではない。出来ることならば異変前の永遠亭に篭っていたかった、そして出来ることならば月に戻りたかった。しかしその願いは二つとも崩れたわけで、ならば恩ある師匠の下、補佐として役立ちたかった。役立ちたいと思っていた。
 それなのに、何故穢れた人間の里に行かねばならない。何故師匠の側に置いてくださらないのか。薬売りなんて地上の因幡にも出来る雑用を、何故月の兎たる私がやらねばならないのか。そうでなくとも、前みたいに置き薬形態じゃ駄目なのだろうか。
 己が穢れ、役立たずだと匂わせるような待遇に耐えられない。斯様な状態に陥っても気にしないのは、今私の目の前にいる人間の子供くらいだ。

「兎のねーちゃんだー」
「や、やぁ」
「今日も薬を持ってきてくれたのー?」
「う、うん……そんなところかなー」

 子供特有の短い波長。相手にすると大変面倒なことになるので、ここは適当にあしらうのが最善。

「お姉さん急いで皆に薬を持って行かないといけないの。遊んであげたいのは山々なんだけど、またね!」
「わかったー!」

 大人とは違い、子供相手には無視を決め込んでも変に付き纏われる。ある意味憑きまとわれるに近しい。以前は体力の続く限り尻尾触られるわ、耳を弄られるわで、ろくなことがなかった。

「兎のねーちゃん」

 此処で振り返ると多分面倒な事になりそうなので、聞こえない振りを決め込み、握り拳を作って腕を大きめに振って歩みを続ける。
 すると私の返事を待たず、歩みを止めない私にもはっきり聞こえるように、声を大にして子供が叫びに近い声をあげる。

「いつもありがとう! 兎のねーちゃんのおかげで、花屋のばーちゃんもうちのじーちゃんも助かってるんだ。本当、ありがとう!」

 疑うことをまるで知らない、真っ直ぐで率直な声が頭の上の耳を打つ。
 しかし私に感謝される謂れはない。それは師匠に言うべき台詞であり、私に向けられる言葉ではない。故に振り返ることなく、その場を後にする。
 こんな感じで私が望まない方向に、つまりは徐々に人間に親しまれる立場へと周囲は変容していっている。これも近年私の胸中を渦巻き、全身に這い寄る不安の種。世界が足元から崩れ去るような、底知れない恐怖。

「怖い……」

 震える体躯を両手で抱き締めて必死に宥める。季節は秋、木漏れ日のように幽かな光すら差さない裏道は、とても寒く感じられた。






――――――――――






 家を回ること数軒。そこでふと表通りに人が集まっていることを感知。
 気にならないと言えば嘘になるので、幻視の力を用い、周囲から視認させにくい状況を作ってから人妖の行き交う表通りに出る。案の定形成された人集りの中央には、見知った顔が一人。
 薄い肌の色に、若干の癖が入った艶のある金色の髪。整った目鼻立ち等、一つ一つが熟練の職人が意匠の限りを尽くして完成させたような、動かなければ人形と見間違うような造形は見間違うはずがない。
 人形遣いの魔法使いにして顧客の一人が人混みの中央に立ち、拍手喝采をその身に浴びている。
 定期的に人里で行われる人形劇が終わったところか。寄ってくる子供に対し慣れない微笑を浮かべているが、彼女の周囲を飛んでいる人形は積極的に子供に礼や送ったり手を振っている。
 人形の方が周囲に対する彼女の本心なのか、それとも彼女自身を含めた一連の動作全てが、彼女自身そうでありたいと願っているキャラクター像なのかは私には判断出来ない。なんとなくぎこちなくて、必死で余裕のない様が私には感じられた。
 拍手に迎えられている人形遣いを遠巻きで見ていると、宝石のような彼女の目と合う。ドキリと、幻視を見破られたことに動揺したのかもしれない。心の中で呟いていた彼女の印象を読心されたような気になったのかもしれない。
 兎に角、私は彼女と目が合った瞬間心臓を鷲掴みされたような感覚に陥り、踵を返してひたすらに駆けた。人に衝突するのも構わず脇目も振らず、ひたすらに一心で走った。必死な人形遣いが怖くて、恐れから逃げず大衆の前に立つ彼女が怖くて、その場から逃げた。
 走って走って走って、何でもない所で躓いて、転ぶ。無様に地に伏した状態で恐る恐る背後を振り返るが、自分を追ってくる人影は何処にも見当たらない。
 安堵の息を漏らして立ち上がろうとする私の頭上から、先程の人形遣いが目の前に降り立つ。

「ぴいいぃぃぃぃっ!」

 尻餅を付いて情けない声をあげてしまう。何故追ってきたのかとか、何か悪いことしたかなとか、疑問が頭の中に浮かんでは消えたが、一先ずこの瞬間まで飛べたことを忘れていた頭の中にある記憶媒体を私は呪うことにした。

「ちょ、ちょっと。何で逃げるのよ……」
「ぼ、暴力反対ッ! 兎鍋反対! こんな事して師匠が黙ってないわよ! 多分……」
「まだ何もしてないわよ」

 呆れた顔で手を伸ばす人形遣いを反射で払い除け、両手で頭を抑えて防御体勢を取ると、頭上から呆れ返った溜息が降りかかる。
 恐る恐る顔を上げると、強引に右手を掴まれて引っ張られる。掌の間からでもわかる、傷だらけの手に掴まれて。

「ほら、立って」
「あ……」
「なんで逃げたの? なんて回りくどい話はしないわ。私はあなたの客として用事があっただけで、逃げられると困るから追ってきただけ。ご理解頂けたかしら?」
「え、あ、はい……」
「耳垂らしてないで、いつものお願いね」

 いつものと言う通り、目の前の魔法使いも常連の一人である。
 心を読まれたとか言った不安は私の杞憂であり、彼女は薬が欲しいから追ってきただけのようだ。一先ず安心し、背中の薬箱から彼女が購入している薬の入った袋を取り出す。
 目が必要無いであろう戦闘用人形にまで目を入れる奇妙な人形遣いは、これまた奇妙な胡蝶夢丸と呼ばれる楽しい夢を見られる紅い丸薬を定期的に購買する。
 上目で人形遣いを確認すると、一安心だと言わんばかりに胸を撫で下ろしている。その様子が私の知る人形遣いと乖離していたから、ふと普段は絶対考えない懐疑が脳裏を通り過ぎた。
 逃げる私を追いかけ、捕まえてまで欲する理由を知りたくなった。その執着心の根底を暴きたくなった。拍手に迎えられていた人形遣いの仮面の下を見てみたくなった。

「なんであなたはこんな薬に頼るの?」

 私の中に潜む穢い感情が鎌首をもたげ、震えていた声は流暢で冷たい声となって外気に飛び出す。
 人形遣いの双眸は想定外だと言わんばかりに見開かれており、言外に私からこんな質問をされるはずがないと語っていた。

「あなたは悩みとか結構抱えてそうだもんね。逃げる私を追いかけてまで欲するなんて相当だわ。現実が上手くいかないから悪夢に苛まれるのかしら? それとも現実が辛いから楽しい夢に逃げているの?」
「今日のあなたは少し変ね。でもそれは少しプライベートすぎる質問でなくて?」

 形の良い顎に指を添え、人形遣いは余裕を滲ませている。しかしそれは表面上だけであり、感覚を研ぎ澄ませると周囲に一定の間隔で人形が配置されているのがわかる。随分と用意周到な奴だなと思う。
 人形遣いにとってこの質問は面白くない部類らしい。逆にそれが私には嬉しく、早々に両手を上げて害が無いことを意思表示。

「そんな警戒しないで。ただの知識欲からの出来心、気分を害したのなら謝るわ。ほら、薬よ」
「……ありがとう」

 代金を渡して薬を受け取ると、人形遣いは足早に踵を返して無言で去っていく。徐々に小さくなる背中を見つめていると、もう少し踏み込んでみたかったなという私らしくない欲求が胸を撫でる。

「私は両方」

 気付くと欲は小さな声となって飛び出し、どうやらその声を聞きとったらしい人形遣いはぴたりと足を止める。振り返ってくれるかなという私の願い虚しく、人形遣いは空を仰いだ後、再び歩みだす。
 陽が山の裾野に消えるように人形遣いの姿が見えなくなる刹那、人形遣いのポツリと呟いた声が落胆する私の耳を打った。
 普段から一定の余裕を見せる彼女らしかぬ、悔恨の情にかられた声色で私の脳髄を満たす。

「私も両方」

 人形劇を終えて観客に微笑を浮かべる彼女を思い起こす。必死で余裕のない、しかし何処かで自己保身の逃げ道を残しているような、懊悩する弱者の瞳。
 堪えていたのに何かの間違いで飛び出してしまったような、「私も両方」という悔恨に満ちた音の波が心地良い。
 嗚呼、卑しいと思うのに震えが止まらない。両手で塞いでも笑いを堪えることが出来ない。これは弱者が同じ弱者を見つけた時の安堵で、今の私には最高の糧だった。

「アリスも私と一緒なんだぁ……」






――――――――――






 大開花騒動で閻魔様に自分勝手過ぎると叱咤され、地獄に行くと勧告されて以来、私は悪夢に苛まれるようになった。
 とっくに清算されていると思った過去の過ち、今を真面目に生きているからとうに消えているであろう罪に対し、閻魔様は「過去の罪と向き合って居なければ全く意味がない」と切り捨てた。この時から月の仲間の恨み辛みが悪夢となり、怨嗟の声となって毎晩私を苦しめるようになった。
 臆病故に周囲に埋もれていた私の能力をいち早く見出し、月の使者に至るまで指導して下さった依姫様。依姫様の下で一緒に研磨し合った、気が抜けていたが憎めない数十人の仲間達。
 彼女達が夢の中で「どうして?」と囁くのだ。「何故逃げたの?」と追いかけてくる。近寄らないでと叫ぶ私の足元に這い寄り、爪先脹脛、太腿と這い上ってくる。全身至る所を掴まれ自由が効かなくなって、動くのは顔と右腕だけになっても何とか助かろうと、天に腕を仰いで助けを求めるのだけど、誰も私の声には応えてくれなくて、視界を数えきれない手で覆われて、真っ黒になったところで目が覚める。
 連日かつての仲間に襲われるようになった私が折れるのに、そう長い時間は必要ではなかった。
 師匠に相談出来るはずもなく、私は無断で紅い丸薬をくすね、かつての仲間達が何処か遠くに消え去るようにと願いを込めて飲み干した。
 悪夢は消え去り、代わりに私は楽しい夢を視るようになった。
 地上の兎達は私の言うことに忠実で、因幡の白兎も月の兎たる私に一目置いて接してくる。私が夕餉の支度をすると、皆が皆美味しいと褒めてくれる。師匠の隣で助手役を務めていると、ふと師匠が私の目を見て「ウドンゲは頼りになるわ」と撫でてくれる夢。
 地上とは比較にならないほど発展していて、穢れもない素敵な月の都に居て、悠々自適の生活を送る毎日。仲間達と仲良く談笑、たまに依姫様も怒るけどやっぱり格好良くて、戦争なんて起きない平穏な日々が毎日続く夢。
 幸せな夢、楽しい夢、叶わない夢。起きて気付く過ぎ去ったものの価値、残酷なまでの現実との相違。その落差に気付いてしまった。
 兎角同盟のリーダーをやっているのに兎達は私の言うことに従わない。地上の因幡にのみ従い、その因幡も素性がよくわからない。勝手気侭自由奔放かと思いきや、時に枝葉末節にとらわれない広い視野を持って兎達を率いる。無論私の言うことは馬耳東風。
 姫様は私なんか歯牙にもかけないし、多分地上のその他大勢の『イナバ』と同じだと思ってらっしゃる。隣には師匠が居て、二人が顔を合わせると両者とも普段から考えられない程表情豊かになり、会話に花を咲かせる。あの二人の間に私が入り込む隙間なんて残されていないわけで。
 そして師匠。師匠は盲目で私なんか見えない、ただ淡々と指示を示すだけ。匿ってくれた恩を返したくても、私が出来ることなんて微力で零に等しい。永い夜で「任せたわ」と初めて頼りにされたのに、結局与えられた指示すらろくに出来ない月兎。最近じゃ厄介払いのように人里に薬を売りに行かされる毎日。
 説教されることなく夢を見なければ、辛辣な現実に気付くことなく生活出来たのかもしれない。しかしそれは事実と反する無関係の話で、現に私は悪夢から逃げるように薬を飲み、現実から目を背けるために夢に溺れ始めた。
 だから近しい存在であろうアリスの存在が、とても嬉しかったのだと思う。



 人目を避けて薬を売ること数刻。人里に住まう常連の分を回り終えると、日はいつの間にか西の空に沈みかけ、東の空から深淵が広がりつつある。人と妖の境界、黄昏時。
 私も永遠亭に帰らなければと、鉛のように重くなる足を引っ張り人里の出入り口へと向かう。今日は満月例月祭の日だ。

「はぁ……何時までこんな事続くんだろう。なんで私が人間相手に薬売りしなくちゃいけないんだろう」

 何度も反芻してドロドロになった疑問不満を改めて声にする。月ではそれなりに優秀だったのに、どうしてこんな扱いを受けているんだろうと。
 声高らかに叫びたい不満があるのに、師匠にぶつけたいことがあるのに、私の口は臆病で本人を前にすると何も言うことが出来ない。
 現在の待遇に不満がある癖に、失望されることが怖くて何も言えない自分。失敗したり見放されるのが嫌で、何より自分が傷付くのが嫌だから、ゆるゆると現状維持というぬるま湯に甘えている。どうせ夢に逃げられるからいいやと、夢を視る事に甘えて現実を見ない。

「師匠……」

 月の頭脳と評され、依姫様豊姫様の二方も敬う存在。私の大好きな月においてその名知らぬ者いない天才。そう、慕わないわけがない。
 でも、だからこそ諦念しているんだ。端麗な顔立ちを四季の如く変容させ、時に呆れ、時に優しく、時に怒る師匠を私にも見せて欲しいだなんて……きっと、死んだって叶わない夢。
 私には抑揚のない口調で、それこそ静かの海のように無機質な声で「ウドンゲ」って言うだけ。
 姫様と師匠は推し量ること馬鹿らしくなる程の深い信頼で結ばれていて、地上の兎達は地上の因幡を中心に仲良くやっている。そう、私だけ。私だけ一人ぼっち、こうやって仲間外れにされて人里に居る。

「そこの死にそうな兎さん。ちょっと良いかしら?」

 里の出入り口たる門が見えてきた辺りで、すれ違いざまに声を掛けられた。振り返ると何処ぞのメイド長兼子守役が一人、スカートの両裾を掴んで夜の挨拶を口にしている。

「どうもこんばんは。でも会って早々死にそうだなんて失礼ね」
「あら、兎は寂しいと死んでしまうと聞いたものだから、てっきり死にそうなのだと思ってしまいましたわ」

 悪態を追従笑いで軽く受け流される。頬に手を当てて笑う所作は、皮肉なのか天然なのか判断しかねる。
 要するに結構面倒な顧客の一人なわけで、帰路に就けると思った私は思わず深く溜息。

「兎が寂しいと死ぬなんてのはただの洒落よ。兎と鬱ぎの発音が似てるとか何とかって、昔の人が考えただけ」
「気が鬱ぐと人も妖怪も簡単に死んじゃいますからね。でも今のあなたを見ていると、寂しいと死んでしまうというのも強ち間違っているように思えないわね」
「……それで、今日もあの魔女への薬?」
「えぇ。薬を処方されてからというもの、顔には出ませんがパチュリー様も喜んでます。山登りにも精力的で、先日は一緒に河童のバザーにも行きましたわ」
「そりゃ良かったわね」

 薬箱から魔女への薬を取り出し、代金と交換に受け渡す。私より幾分背が高いメイド長の瞳は、私とは対極の蒼を穏やかに輝かせている。
 彼女の波長は長かった。永い夜に初めて出会った時と外見こそ大した変化は無かったが、内面はとても同じ人間だとは思えない程に変化している。
 永い夜、大開花、へぼロケットお披露目祭……時間の経過に伴って、この人間の波長は少しずつ伸びている。

「どうもありがとう」

 端正で慎ましく、気品すら感じさせる笑み。私と出会うより前の彼女に出来たのだろうか。
 薬を受け取るこの人間を見た時、私の中で芽生えたものは明確な劣等感だった。

「そういえば月へ行った時、あなたに似た兎達を沢山見掛けましたわ。そこで思ったのだけど、あなたは故郷や月の兎達……自分の居た世界やそこに居た仲間達が恋しくなったりすることってあるかしら?」

 人間が住まない趣味の悪い紅い館。己と周囲が異なる環境で暮らす彼女は、本来私と同じはずなんだ。なのにこの人間は吸血鬼と夜を駆け、魔女の為にと微塵も嫌気を持たずお使いをこなし、この地に適応して生活している。
 死にそうだと評され、人を避けて薬を売る私。穏やかな波長を持ち、上品な笑顔で人里に買い出しする人間。これは自分と他者の差異であり、大きな心の揺れ幅。つまり劣等感という名の強烈な自己嫌悪、妬みに近しい他者への羨望。

「――……で」
「え?」

 穢れた地上に住まう人間と比較して劣っているという耐え難い事実。この人間の主である吸血鬼如きが束になっても敵わないであろう月の頭脳の下に居ながら、この人間に対して対して自分は劣っているのかもしれないという事態。従う者としての器の差。
 恐怖、憤怒、卑屈、悔恨、嫉妬、憎悪、敵意、殺意。降り注ぐ感情の雨はねじ曲がっていて、それは全て狂気という名の血よりも真っ赤な世界。
 狂気は躊躇せずに胸倉を掴み、加速する感情は人目を憚らない叫びとなって世界を満たす。

「なんで? なんであなただけそうやって……っ! 私は孤独で満たされているのに、あなたは自分を変容させて睦まじくやっているのよ!」
「ちょっと苦しいわ……いきなりどうしたの、今日のあなた少し変よ?」
「どうせ必死なんでしょ、必死なんだわ。周囲に置いていかれる自分が惨めで情けなくて、だから無理矢理自分を偽って周囲と合わせているんでしょ! は、はは……滑稽だわ。己の理を持たないからそうやって自分に嘘ついて、今も必死に見捨てられないようににこにこにこにこ笑顔振りまいて尻尾振ってるだけなんでしょ!?」
「ひ、人里で荒事? 頭冷やしてその手を退けてくれると嬉しいのだけ――!」

 苦しそうに顔を顰める人間に更に力を込めてやると、くぐもった高い声で鳴いた。

「あはは苦しいでしょ? 私が手を下せば人間なんてこのザマよ。こーんな脆い存在と妖怪が一緒に共存してるなんて可笑しい話。やっぱりこの場所は狂ってる、狂ってるんだわ。私が人間の里に通ってるのも何かの手違い、きっとこの場所が師匠を狂わせたんだわ!」
「ぃ、かげ……ッ!」

 一瞬紅い瞳に睨まれたかと思うと、文字通り人間がパッと消える。
 誰もいなくなった空間を掴む両手に、はらはらとトランプが数枚舞い落ちる。何事かとトランプを掴むと、そこには騎士が一人写っている。
 ジャックと認識すると同時に衝撃、視界が反転して意識が遠ざかる。朧気になる意識の中、確かに背後から聞こえた。

「今宵のあなたの時間、少しだけ私が頂くわ」

 暗転。






『地上に這いつくばって生きるだけの、穢き民のくせにね』
 東方永夜抄 夢幻の紅魔チームStage5より 鈴仙・優曇華院・イナバ






 真っ黒な宇宙を飛んでいるような浮遊感。無重力に身を任せてぷかりぷかりと浮いていると、いつしかの死神が目の前に現れ、厄介払いするように手を振ってくる。

「前に会った時より大分マシになったみたいだけど、それじゃあとてもあたいの船には乗せられないねぇ。ほら戻んな、あんまり心配かけさせるんじゃないよ」

 すると頭上から痛いほどの光芒。左手で目を覆い、右手で手を伸ばしたところでブラックアウト。
 再び意識を取り戻すと、私は重力に引っ張られて地面に仰向けの状態になっており、空にはお月様が暗幕の中輝く。
 綺麗だなと戻りたいなと眺めていると、横から「起きたみたいね」という声と共に、銀髪の人間がお月様を覆ってしまう。

「あんまり起きないものだから、やりすぎちゃったかなって心配しちゃったわ。さ、立てる?」

 差し出された手を払い除けて立ち上がると、ずきりと首筋が痛む。どうやら痛みが顔に出てたらしく、横に立つ人間が申し訳なさそうな顔で謝罪してきた。
 そもそも何で私は倒れていたのか、何故紅い館のメイド長が目の前にいるのだとか、その他諸々の不可解な事象に思考を割くと、記憶がコマ送りのように再生される。
 目の前の人間に対し劣等感を抱いたこと、癇癪を起こして襲いかかったこと、時間か空間を弄った奇術によって気絶させられたこと。
 冷静に考えればとんでもないことをしでかしてしまったものだ。吸血鬼その他諸々に密告されれば、私に火の粉がかかってしまうのは火を見るより明らかなので、とりあえず謝罪することにした。

「あの、さっきはごめんなさい……」
「ん、別に構わないわ」

 内心胸を撫で下ろしていると、目の前の人間が背中を見せて歩き出す。もしかしてこれだけで帰ってくれるのかなと期待していると、ある程度歩いたところで振り返って「付いてきて」と催促してくる。
 一体何だろうと疑問を持ちながら、人間を追って勾配の急な上り坂を登る。小声で文句を垂れながら数分、丘の頂らしき場所に人間は悠然と佇んでいた。

「あの、一体何……」
「ね、見て?」

 秋風に銀色の髪を靡かせる人間の横に立つと、私の顔を少しだけ見遣った後、丘から広がる世界に指を差す。
 人間の里から少し離れた場所に移動させられたようだ。丘の上からは人間の里が見え、森は相変わらず真っ暗だ。東の方角を見遣れば月光に照らされて神社が見え、山からは依然煙が立ち上り、紅い館は遠目でわかるくらいに燦然と輝いている。人里とは真逆で、これから活動すると宣言するように。

「この場所からは世界が一望出来るの。私が見つけたとっておきの場所……。ね、あなたには何か感じるかしら?」
「何って、別に……何も」

 実り豊か自然豊かなこの場所をのどかと言って欲しいのだろうか。見るものが見たら原風景と評しそうなこの地を素敵だとか綺麗な場所とか言って着飾って欲しいのだろうか。残念ながら此処から見える景色に私は何も抱かないし、この人間に対して諂うつもりもない。
 時折吹く風は穢れが流転する証拠。這いつくばって生きる人妖は、月兎たる私から見れば滑稽で無様なものだ。月より遥かに劣る文明には憐れみすら抱く。

「強いて言うならば、月に比べたらなんて穢い場所……かな」
「……そう」

 人間が蒼い瞳を私に向けたので、私も自然に彼女に向き直る。

「こんなに長い耳が付いているんだもの、きっと耳が良いのよね。目を瞑って耳を澄ましてみて? 聞こえないかしら? 遠くで吠えるヤマイヌ、吹きすさぶ風の音、至るところで鳴く鈴虫の羽音……」
「まぁ、聞こえるわよ」
「霊夢や魔理沙みたいな生粋の東洋人は、鈴虫の羽音に風流を感じたりするらしいわ。でもそれって元々この地に住まう人だけが感じる特異なものであって、異文化圏の人間には雑音にしか聞こえないそうよ。かく言う私やお嬢様も生まれは東洋の地で無いから、鈴虫の羽音は今でも少し慣れないわね。それでこれは私の推測なのだけど、穢れを極端に嫌う月の住民は鈴虫だけでなく、獣の声や地上の景色やそこに住まう人妖も全て穢く見えるのかなって、そう考えてる」
「地上人の癖に妙な事を考えるのね。それで何が言いたいのかしら?」
「あなたが今抱え込んでいる問題は私にはわからない。でも、世界に対して自分を鬱ぎ込んでいては何も変わらない。自分以外を、他者を、異なる世界を受け入れようとすることによって全ては変化していく。自分の世界に閉じ籠っていたって何も変わらない、自分が変わろうとしなくちゃ始まらない。もし私がずっと鬱ぎ込んでいたら、私の世界は紅色満ちることなく、今でも灰色だったと思っているわ」

 お節介だとか、あなたにはわからないでしょとか、不満を放つことは出来たはずだ。それなのに、諭すように優しくも雄々しく輝く蒼の瞳に射竦められた時、私は言葉を失ってしまった。

「信じられるのは自分だけ。世界を拒否し、雨風を凌ぐ屋根と今日を生き延びる飯だけ食えれば良かった人間。何時も曇り顔を見せ、自分の世界だけに鬱ぎ込んでいた人間。その人間が変われたのは他者を理解しようと自分の足で歩み寄ったからよ。私は咲夜――十六夜咲夜。吸血鬼に名前を与えられ、紅魔館で働くメイド長。じゃああなたは誰なの?」
「わ、私……?」

 頷く目の前の人間が眩しくて怖かった。愚直なまでに真っ直ぐな人間が怖かった。体震えて上がって喉は乾燥極まって凄く痛い。この場から逃げ出したいのに足は動いてくれなくて、仕方ないから私は私を浮かべる。

「わ、私は鈴仙・優曇華院・イナバ……三十年前に月から逃げてきた月の兎……」

 やるせない情けない見苦しい。私には目の前の人間のような輝かしいモノなんて何一つ無い。怖くて逃げて世界から怖気付いてばかりの臆病兎。

「今の私の名前は、地上に逃げた私を匿ってくれた師匠と姫様が付けてくれたもの。イナバは姫様、優曇華院は師匠が付けてくれた……なんでこんな意味不明な、咲かない花を名付けたのか私にはわからないけどね。その点あなたの名前は格好良いわよね、十六夜咲夜……」

 霞む視界で睨みつけるが、彼女は眉一つ動かさずに私の話に耳を傾けている。
 惨めだ、何の公開処刑なんだこれは。別に構わないわとか言ってたけど、きっと襲いかかったことを根に持っているんだ。だから私はこんな目に遭ってるんだ。

「匿ってくれたって言っても、本当は気付いているのよ……師匠は月の情報を知るために私を側に置いてるだけ。玉兎と交信出来る私の能力を買っただけ……う、上辺だけの関係よ。良い駒にされ、じゃ、邪魔だからって人間なんかの里に使いに出されてっ、地上の兎にも相手にされず……っ! 気が済んだかしらっ? これが私、鈴仙・優曇華院・イナバよ。笑いたきゃ笑えば良いじゃない……」
「人里に行かされている理由、匿ってもらった理由、名前の理由。本人達から話を聞いたわけではないんでしょう? 自分の世界に閉じ籠って、悪いほう悪いほうと考えて鬱ぎ込んで……だから孤独じゃないことに気付かない、理解者が周囲に居ることに気付かない。一歩踏み込んでみるのよ。あの奇抜な薬師にどうして私がと疑問を呈するの、不満をぶつけてみるの。そうしたらきっと変われるはずだから」
「か、勝手言わないでよっ! 師匠の事なんて何も知らない癖に、わ、私がどんな境遇か知らない癖に! 九割九分師匠達は私なんか見ていない、知らないからそんな戯言を吐けるのよ……聞かないままで良いじゃない。もし聞いて本当の本当に私が孤独だったらどうするの? それこそ兎は死んでしまうわ。だったら現状に甘えていたっていいじゃない、聞かないまま知らないままで良いわよっ!!」

 喚声と同時に丘の上が静まり返る。私がこんなに声を出せたのかと内心驚く一方で、これだけ言えば目の前の人間も放っといてくれるだろうと確信があった。

「……やっぱりあなたは孤独じゃないわ」
「ひ、人の話聞いてたのっ?」
「だって」

 瞬きすら許されない一瞬の間に、人間は目と鼻の先に移動していた。相手の呼吸音も聞こえる近距離、何故かぎゅっと私の手を掴んで微笑んでいる。

「私がいるもの」

 まるで鈍器で殴られたような衝撃だった。っていうか意味がわからない、何を言っているんだ。
 握った手を通じて鼓動が伝わる、どきどきと相手だけじゃなくて私自身の音も混じっている。そういえばここは人目の付かない場所で、全景見渡せる丘の上っていう見事なシチュエーション。あ、あれ?

「ななな、何言ってるのよ」
「あなたは独りじゃないって意味よ」
「でも、そんな……」
「勿論私だけじゃないわ。あなたは避けているようだけど、人里でもあなたに感謝している人がいる、頼りにされている現実がある。それらの想いを無下にして己を孤独と言い張るつもり?」

 凛と響く鈴の音のような、周囲の鈴虫の羽音と同調した声が響き渡り、同時に私の頭が撫でられる。
 何故だかわからないけど、その音の波長が不思議と居心地良かった。周囲を取り囲む鈴虫の声も、私に向けられた彼女の声も。



「だから、自分が孤独だなんて言わないで」



 丘の上を風が横切り、刃の先端のように鋭い彼女の銀髪をふわりと靡かせる。そこに浮かんだ笑みは、まるで可憐な花みたいに綺麗で誇り高い。
 良いなぁ、羨ましいよぉ……こんな私を気にかけてくれて、真摯に向き合ってくれる存在。腹積もりもなく、臆病な私を後押ししてくれている。
 十六夜咲夜――それが彼女の名前。吸血鬼に従い、今私の頭を撫でる人間の名前。笑みは名前の通り夜に咲くジャスミンみたい、気高くも美しい。
 だから咲夜なのかなって、普段はどうでもいい相手の事なんて考えてしまう。一歩踏み出しても良いかなって似つかわしくない事考えてしまう、変わりたいと世界が昂る。

「わ、私頑張りたい……っ! 師匠や皆と、こんな距離間のまま終わりたくない。このままじゃいやだよぉ……かわりたいよぅ……」
「きっと大丈夫よ。ほらほら泣かないで」

 頬を伝う弱さを拭われ、頭をよしよしと撫でられ、何故か耳を揉まれ、私は咲夜にされるがままだった。
 死で満たされた穢き世界を見渡せる丘の上に立ち、聴覚は悍ましい四足の遠吠えや、鈴虫の羽音を認識する騒々しい空間。目の前には愚かな人間一人。
 嫌悪の渦中にいるはずだったのに、咲夜に触れられること、周囲に響く音の波、そしてこの世界にいること、その全てが何故か心地良かった。




「一人で帰れる?」

 夜も更け、人里の子供達は寝静まる時間帯。咲夜の問いに軽く頷き、不純のない今の気持ちを伝えようと正面からその蒼い目を見遣る。

「今日はごめん。いや、ありがとう……かな? 私頑張ってみようと思えた」
「どういたしまして。ま、骨は拾ってあげるわ」
「やれるだけやってみる」
「さ、じゃあ私も早く帰らないと……きっとお嬢様がお冠だわ」

 髪をかき上げて心配事を口にする咲夜の表情は、この日一番活き活きとしているように見えた。
 まるで叱咤されることすら楽しんでいるような。全てを許容し楽しむ姿勢が、整然とした笑みにまざまざと浮かび上がっていた。紅色に満ちた現在の彼女の世界は、きっと楽しいものに違いない。
 私も変わろうと胸に秘めて。

「鈴虫の鳴き声は未だに慣れないけれど、今は嫌いじゃないわ。……また会いましょう鈴仙・優曇華院・イナバ。願わくばあなたも嫌いじゃなくなりますように、そして再び人里で会えることを」
「ありがとう十六夜咲夜。また何処かで会いましょう」

 互いに背中を向けて帰路に着く。咲夜は吸血鬼の待つ紅い館に、私は私が住まう永遠亭へと向かって。
 黒曜石を想起させる空にはお月様一つ、その御影に水差す雲は一つも見当たらない。






――――――――――






 永遠亭に帰った私を出迎えたのは地上の因幡。ぺたぺたと素足で歩くその小さな形は、師匠を持ってして「言う事を聞かない」兎とは思えない。
 人参型のネックレスを揺らし、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべる。この地上の兎は私に対して大体こんな感じで接してくる。調子良く、しかし私の言う事は聞かない自由な兎。

「おかえり鈴仙。ずいぶん遅かったんじゃないのー? 今日は満月で例月祭の日。罪償いの大切な行事をまさか忘れていたわけじゃないわよねー? 罪償いする主賓が居なきゃ始まらないからって、お師匠様の命で準備だけしてるけどまだ始めてないんだよー。あーぁ遅刻しちゃって、お師匠様はさぞご立腹でしょうよーってあれ?」
「ごめん色々あって。師匠には私から話しつけるからてゐ達は始めていて。それより変な顔しちゃってどうしたの、私の顔に何か付いてる?」

 瞳を上下に動かし訝しげに顎に指を当てた後、地上の因幡はくるりと踵を返す。

「いんや何でもない。じゃ、私達は餅搗きを始めてるからね。鈴仙はさっさとお師匠様に報告してきなさんな。こんなに遅くなった理由とか、色々さ」
「あ、うん……」
「一つ搗いてはダイコクさま~ 二つ搗いてはダイコクさま~ 百八十柱の御子のため 搗き続けましょー はぁ続けましょ」

 指を宙に踊らせ首でリズムを取りながら、地上の因幡が歌いだす。昔聴いた美男子のためとかいう妙な歌を。
 また変な歌を歌われたら例月祭の意味が無い。その事を注意しようと思った刹那、歌が突如止み「間違えちゃった」とまるで語尾に星が付きそうな巫山戯た態度で自らの頭を軽く叩いた後、地上の因幡が再び歌いだす。

「一つ搗いてはカグヤさま~ 二つ搗いてはエイリンさま~ 月に御座す高貴で永遠の御方のために 搗き続けましょ はぁ続けましょ」

 陽気な声の歌が止まると同時に「鈴仙」と、同じ兎とは思えない刃物のように冷たい声色で地上の因幡が私を呼ぶ。

「この歌は私達地上の兎が勝手に始めたもので、もっと正確に言えば私が作詞したもの。月の都から逃げ続けていた月の御仁が、自分達の罪償いのためにと行う例月祭の趣旨に沿った歌詞ってわけだ。してこの歌には妙な部分があるんだよ鈴仙? 永遠亭に住まう者の中で、月から逃げてきた人物は三人居る筈なんだけど、この歌には二つの名前しか出ていない。何故だと思う?」
「何故って言われても、私が作詞したわけじゃないし、そんなの作詞した奴に聞けばいいじゃない。で、どうなのよてゐ」
「歌の中で除け者の爪弾きにされている一人……いや、一匹の兎はね、そもそも贖罪しようだなんて自分の中で思っちゃいないのさ。自分はちゃんとしている自分は悪くないって、罪から逃げてばかりで向き合おうとしてすらいない。だから作詞者はそいつの胸中察して、態々歌詞に入れてないのさ。ああ作詞した奴は優しいと思わない?」

 再び私に向き直る白兎は私の知る短い波長をしておらず、 形相に表れぬ気風は、確かに首魁たる品格を漂わせていた。私よりも遥かに多くのものを見てきただろうと思わせる。
 見つめられるだけで心が読まれているような、心臓を鷲掴みされているような居心地の悪さ。地上の兎とも月の兎とも異なる、非凡な何かが目の前にあった。

「私自身そいつの事気に入ってない。妙な矜持や戦闘能力だけが一丁前で、自分から相手に歩み寄ろうって考えがない。月か地上かの些細な違いなのに、私達地上の兎にも上から目線で話を進める。そんなんで下に就く者が慕うわけないのにねぇ……だってのに、そいつは心の中で何で私だけがって被害者気取ってるんだよ? ははありえないね」

 ぐさぐさと突き刺さる言葉の刃を振り払えるわけがなく、私はただただ頷いてその切っ先に甘受する。
 姫様や師匠のように郷に染まることもなく、月と地上の狭間に揺れ、更に罪からも逃れて自分だけの世界で全て進める兎。地上の因幡の刃は的確に私を抉っていた。

「でもね、そいつが自分自身変わろうと願っているならば、私達も同盟関係としてそれに応えようと思っている。一匹の兎にとっては小さな一歩かもしれないけれど、それがそいつの生涯において大きな飛躍になることを私は願っている」

 素兎は歯を見せて笑った。悪巧み目論む悪戯っ子が見せる笑みでも、貫禄ある指導者が見せる風格ある笑みでもない、同じ兎としての笑み。
 気が抜けていたけど、憎めない月の仲間達が脳裏に浮かんだ。

「いい顔になったね鈴仙。何があったかは詮索しないが、もう覚悟は決めているんだろう? だったら門出に立つ兎を後押しするのが私の役目ってもんさっ! ……あ、さっきまでいい顔してたってのに、いきなり狐につままれたような顔しちゃって。ほらピシッと決めろピシッと! お前のお師匠様に言う事があるんだろう? そんな顔していてどーする! だからほら、早く……うん、うん。そう、それで良い」
「てゐ……私てゐの事を随分長いこと誤解していたみたい。あの、今までごめ」
「おっと口を慎みな玉兎ガール、お前の前に居るのは兎ゴッド。自分のケツも拭けない青二才に謝罪されようと感謝されようと、私の心には響かないのさっ!」

 右手を突き出して変なポーズを決めるてゐが何だか可笑しくて、「何よ兎ゴッドって」と笑ってあげると、慌てて咳払いをし、少しだけ顔を紅潮させた。
 恥ずかしがるてゐを見るのは初めてだと思う。竹林を彷徨っていたあの頃から大体三十年、私は彼女の事を何も知らなかったのだなと思い知る。

「コホン。まぁ鈴仙はまだ若いし、躓くことも沢山あるだろう。でもその度に立ち上がれば良いし、全身の皮という皮が剥がされて途方に暮れてしまったら私が真水で洗ってやる。ついでに寝床一杯に蒲の花粉を敷いてあげるよ。だからさ、頑張れ鈴仙」

 会話はそれきりだった。
 てゐは言い訳がましく「あー早く例月祭始めなきゃ」と呟きつつ走りだし、私は一人玄関口に取り残される。
 不満があるならぶつけなくては始まらない、その時に人は変われるのだと咲夜は言ってくれた。師匠に疑問を呈さなければ始まらない、せっかく変わろうと決意したものが無駄になる。後押しされたものが無駄になってしまう。

「ありがとう……」

 盲目だったのは私だ。
 周囲に気付けなかったのは私だ。
 ならば、私は師匠を理解すべく師匠にぶつからなくてはいけない。
 回りくどいやり方じゃ駄目なんだ。正面から当たって砕けなくちゃいけないんだ。
 私は師匠を理解したい。
 匿ってくれた恩に報いるために。
 側にいる身として。
 尊敬しているから。
 姫様と一緒に居る時のあなたが好きだから――



「お師匠様、ただいま戻りました」
「入りなさい」

 長い廊下を抜け、襖障子に竹が描かれた仕切りの前で深呼吸すること早数回。臍を固めて放った私の報告に、師匠は一呼吸おいて素気なく返してくる。
 良くも悪くもいつも通りの師匠だった。

「遅かったわね」

 襖を開いた私の目に飛び込むのは部屋一面を埋める畳に、壁際に取り付けられた丸窓から見えるお月様。そして私に一瞥することなく正座で机に向かう師匠。
 時間が時間だからだろうか。普段束ねている後ろ髪は纏まっておらず、流れるような長髪を腰部まで惜しげも無く垂らしている。普段の師匠と違うその後ろ姿がとても魅力的で、正座する足がずしりと重くなる。

「あ、ひゃい! あのその、人形遣いや吸血鬼のメイドに絡まれて……いや、情報交換していたら時間があっという間に過ぎたと言いますか、その……」
「お喋りに花を咲かせるのも良いけれど、例月祭の事を忘れちゃ駄目よ。あら……?」

 一つ搗いてはカグヤさま~ 二つ搗いてはエイリンさま~

 月に御座す高貴で永遠の御方のために 搗き続けましょ はぁ続けましょ
 
「兎達は始めちゃったみたいね。ウドンゲ、今回の件は不問に付すので、あなたも早く参加してきなさい。また片付けしなくちゃいけないでしょう?」
「あ、はい、ありがとうございますお師匠様……。あの、兎達の所に行く前に、お師匠様にお話があるのですがよろしいでしょうか?」
 
 机に向かう師匠の筆がピタリと止まる。

「あら、何かしら?」
「あの、ですね……」

 三つ搗いてはカグヤさま~ 四つ搗いてはエイリンさま~

 月に御座す高貴で永遠の御方のために 搗き続けましょ はぁ続けましょ

「……何故私が人里に行ってまで薬売りをしなくてはいけないのでしょうか?」

 歌が途切れる。
 師匠は動かない。
 まるで世界から私だけが切り離されたみたいに、心臓の音だけがバクバクと頭に響く。

「私は月の兎です。どうしても穢れた人間には抵抗があります。まして人里なんて、今の私には敷居が高すぎる場所です。何故私が行かなくちゃ行けないんでしょうか? 薬売りなんて私以外にも出来るはずです。例え私が行くとしても、前みたいに置き薬じゃ駄目なんでしょうか?」
「鈴仙。あなたはただ私の言う通りにすればいいのよ。指示の真意をあなたが知る必要なないし、説明したところで今のあなたが理解出来るとは思えません。私の言う事を聞いていればそれで良いのです」
「で、でも……っ! それじゃ嫌なんです! いや、お師匠様の事は信頼していますけど、理由もわからずただ手足になるのは嫌なんです……」
「そう」

 溜息と共に振り返る師匠は少しだけ目を細め、弓のように鋭い視線を私に向けた。吟味しているような、煩わしいような、微妙な表情。

「その顔見るに、あの娘に唆されて言っているわけじゃないようね」

 あの娘、つまりてゐの事を指している発言に、私はゆっくりと頷いて肯定する。

「こ、これは私自身が常々感じていたことです。私は地上の民と関わるのがあまり好きじゃありません。その、やっぱり地上の民は穢れていますし、あの、元は月の都に住んでいた身としてはあまり関わりたくありません……」

 慄然とした気持ちを必死に押さえ込み、何時ものように逸らしたくなる瞳を正面に留め、私は真っ向から畏怖と憧憬に立ち向かう。

「今お師匠様と向い合って訴えるまで色々考えてました。帰路の竹林、長い廊下、襖の前……お師匠様にぶつける沢山の言葉を考えて、どうやったら私の想いは伝わるかなって悩みました。でもやっぱり、私はお師匠様みたいに頭も良くないし、どうしたらお師匠様に私の想いが伝わるかなんてわからない。だから単純に……言わせてください」

 ぐっと重たい息を飲み込み、私は己を鼓舞する。奮い立たせる!
 鬱ぎ込んでいた兎から一歩踏み出すべく、私は師匠に思いの丈をぶつける。


「私、お師匠様の事がよくわかりません。それが一番嫌なんです」


 一歩踏み出したら、あとは流れるように言葉が浮かび上がっては世界に飛び出していった。

「お師匠様は私にとって恩師です。月から逃げた私を匿ってくれて、今の今までこうしてお側に置いて下さってます。お師匠様は私の憧れです。月の都創設を始めとする数々の偉業、天才と呼ばれる圧倒的頭脳……。そんなお師匠様にとって私は眼中に無いのかもしれません。でも、私は恩に報いるために、もっと力になるためにお師匠様の事を理解したい。だから教えて下さい、私が人里に薬売りする理由を。誤魔化さないでください、もっと私を頼りにしてください。お師匠様が理由を教えて下されば、きっと今よりお力になれますから!」
「なるほど、なるほどね……」

 氷みたいな表情崩さず、師匠は私の話を最後まで受け止めてくれた。途中で遮ることもなく、時折相槌を打ちつつ……。
 確かな手応えが私にはあった。

「……鈴仙」
「はい」
「あなたの取り柄は臆病で、ただ愚直に私の言う事に従順なところだと思ったのだけどね」
「は、はい……?」
「あなたのかつての上司は私に従順で、かつとても優秀だったわ。私の弟子と名乗るくらいには十分ね」
「と、豊姫さまも依姫様も、地上と月を繋ぐ者たちのリーダーとして素晴らしい方でした……」
「そうでしょう? ……それで、私を師と仰ぐあなたは彼女達みたいに優秀なのかしら? 量子的に物事を見た時に起こりうる事情は必ず起こり得るという教えから、あなたは海と山を繋げる事が出来て? そんな事到底叶わないでしょう。あなたの良いところは私にただ従順且つ愚直に従い、基本労働力としてその身を削ることではないのかしら。……ねぇ、レイセン?」
「……ぁ、うぅっ」

 奇妙な声が漏れる、空気が重い、言葉が重い、胸がずきりと痛む。
 世界が暗い。
 月は遠い。

「さ、此処に居ても例月祭の片付けは出来ないわよ。早くウドンゲも参加してきなさい」

 師匠は影差す笑顔を浮かべていた。その張り付いているような不気味な笑顔は、言う通りにこの部屋から立ち去れば、今回の件は咎めないと口外に告げていた。
 此処で粘らないでどうすると叫ぶ私がいる。
 もう十分頑張ったから師匠の言う通りにしようと叫ぶ私がいる。

「は、はい。てゐは目を離すとすぐに遊びに行っちゃいますからね。と、特に祭りの日は……はい、じゃ、私見てきますね……お邪魔しました……」

 だって仕方がないじゃないか。私は一介の玉兎で、豊姫様や依姫様と比べられたら敵うはずがないのだから。
 良いじゃないかこれだけ頑張ったのだから、十分及第点に決まっている。

「明日からも人里への薬売り頼んだわよ」
「……はい」

 お辞儀をして襖を閉める寸前、脳裏に今日の出来事が駆け巡った。
 感謝してきた子供、何かを掴もうと人形劇を行い続けるアリス、孤独でないと撫でてくれた咲夜、背中押してくれたてゐ。

「お師匠様……私は、私ですよ」

 襖が完全に閉まり、仕切りが私と師匠を隔てる。






――――――――――






 表に出ると、地上の兎達が歌っては餅を搗いていた。よく見ると、一部の兎達は餅を返すフリして上手いこと餅を千切って摘み食いしている。
 躊躇なく行うその動作は、とても手馴れているように見える。供え物を食べないのと注意しようと思ったけど、その必要が無いことを思い出す。師匠は兎達が摘み食いすることも想定済みなのだ。
 視野を広げると、兎達の集団から少し離れたところに兎達のリーダーが居た。腕を組みながら竹に背中を預け、遠巻きに兎達を見つめる姿は何処と無く風情を漂わせている。
 てゐ、私駄目だったよと心の中で呟いていると、ぱちりと視線が交錯する。

「どうだった?」
「駄目だったよ」
「最初から上手くいく筈がないし、仕方ないね。ま、これからも頑張りな」

 言葉は交わさなかったけど、身振り手振りからそんなやり取りが自然と聞こえてきた。
 私が横に首を振るとてゐが肩を竦め、そのあとに両手で握り拳を作ってくれた。なので私は頬を掻いてそれに応えると、てゐは最後に手を振って竹林の奥に消えてしまった。
 また何処かに遊びに行ったのだろう。普段は真っ先にいなくなる癖に、本当、もう……。

「あら、やってるわねー」
「あ、輝夜様……」

 背後から声をかけられたので振り返ると、腰まで伸ばした黒髪を歩く度に揺らしながら、姫様が餅搗き見学に来ていた。

「輝夜様が見学とは珍しいですね」
「そうかしら? こう見えても最近は楽しい事に精力的なのよ。ほら、盆栽とか……ま、あれは仕事でもあるのだけどね」
「そ、そうですね」

 姫様の考えていることは師匠同様によくわからない。禁忌を犯すその思考回路も、地上の民に対して博覧会を開く理屈も私には理解出来ない。
 だからこそ師匠と姫様はずっと一緒に居るのかもしれない。姫様の提案を淡々と遂行する師匠を見ていると、自然と自分を疎外する思考に飛んでいってしまう。

「あら、せっかくのお祭りだっていうのに、鈴仙は浮かない顔をしているのね」
「え、あ、すいません……」

 この時の私は姫様に対して嫉妬にも似た感情を抱いていた。だからそれを疑われないようにと、新しい話題を作ることに必死だった。
 話題話題と考え、短い姫様とのやり取りを想起していると、何か奇妙な違和感が私の中で生まれていた。
 この違和感は何だろうかと思考の靄を払っていると、案外あっけなく答えを見つけることが出来た。

「あ、輝夜様。私の事『鈴仙』って言うんですね。なんか、少し違和感あるっていうか、珍しいですね」

 姫様は地上の兎と私を区別せずイナバと呼ぶので、私の発言は別段おかしな点が無かったはずだ。
 それなのに姫様は「お前は何を言ってるんだ」と言いたげな怪訝溢れる表情をした後、何か合点がいったのか、袖で口元を隠してクスクスと笑い始めた。

「ふふ、変な鈴仙。あなたのことは大分前から『鈴仙』って呼んでるじゃない」
「あ、あれ? そ、そうでしたっけ?」
「そーよ」

 姫様は愉快そうに笑った。今を楽しんでいる者にしか出来ない、屈託の無い笑みで。
 姫様も随分変わったと思う。昔は姫様自身が引き篭っていたのか師匠が閉じ込めていたのか知らないけれど、あまり表には出ない方だったのに、今はこうして餅搗きを見て歌を聴いて楽しんでいる。
 そう、姫様は変わったのだ。長い夜が終わり地上の民と触れ、確実に姫様は変わった。昔はイナバとしか私の事を呼ばなかったのに、今では鈴仙と私を呼ぶ。何が姫様を変えたのかわからない、わからないけれど……。
 私を拾ってくれた当初、姫様はこんな風に笑わなかった。思えば師匠も私を匿ってくれた当初は、姫様といてもそこまで感情豊かだったとは思えない。
 変わっていなかったのは私だったのだ。永遠が終わったこの場所の変化に気付けなかったのは私だった。盲目だったのは私だった。

「顔付きが変わったわね鈴仙。何かあった?」
「え、そうですか?」
「少し穢くなって、私好みよー」
「なんですかそれ……」

 今日は師匠と上手くいかなかったけど、また明日からも頑張っていこうと思う。
 姫様や師匠の変化。その根底には何があるのか私にはわからないけれど、手探りで考えつつ、これからの日常を送ろう。
 スタートダッシュは大失敗。私らしいと思うけど、また臆病になるわけにはいかない。

 アリスは免罪符を自分の中で持っているけど、それでも逃げずに人里で人形劇を行なっている。
 私にはわからないけれど、アリスには叶えたい夢があるんだろう。自分の中で咲かせたい花があるんだろう。だから逃げずに人里に足を運んでいる。
 ならば私も見習わなくちゃいけない。困難に逃げずに立ち向かう一歩を持たなくちゃいけない。

 咲夜が吸血鬼を想って見せた笑み。暗がりにおいても開く花のように、見る者全てを魅了するあの花が咲くまで、一体どれ程の困難があったのだろうか。
 私にはわからないけれど、きっと一度や二度でない困難があったはずだ。それでも咲夜が逃げなかったのは、強い意思がそこにはあったからだと思う。
 ならば私も見習わなくちゃいけない。失敗に挫けず立ち上がれる意思を持たなくちゃいけない。

 なんだか私らしくないなぁって思う。
 やっぱり怖いし、出来るか不安。

 でも、私は孤独じゃないってわかったから、少しだけ……本当、少しだけ頑張れる気がするんだ。
 どれだけ時間が必要かわからない。もしかしたら叶わないかもしれない。でも、頑張ろうって思うんだ。
 師匠を理解出来るように
 恩を返せるように
 弟子として胸張れるよう

 ゆっくりと私は私の花を咲かせよう。










◇◆◇






「お前さんともあろう人が妙な質問をするもんだ。あの兎になら過去に何度か会ったことがあるから知っているが、残念な事に答えはノーさ。あの玉兎が三途の川を渡り切る事はあり得ない。天才と評されるお前さんなら知っていると思うが、三途の川の幅は生前の行いで決まっている。人と人との繋がり、つまるところ人徳によって川幅は左右される。あの兎は死後のんびりしたいと言っていたが、今のままでは渡る事も出来ないだろう。……さ、お前さんの事だ。他にも聞きたいことがあるんだろう? 今のあたいはそこそこ機嫌が良いから気前良く答えてやろう。……え? もういい? お前さんこれだけの事を聞くだけにわざわざ此処まで……? あ、ちょっと! 本当にそれだけで良いんだねー? 全くもう、死なない奴の考える事はよくわからないねぇ」






◇◆◇










 妖怪の山の裏。太陽光を遮る背の高い木々が鬱蒼と生い茂る表参道とは異なり、背の低い木が生い茂る裏山道。
 この場所には、獣道とはまた異なった人工的に整備された道がある。丑三つ時であっても、月の光を頼りに進むことが出来るその道を歩いて半刻もすれば、ぼんやりと複数の灯りが見え、次に雑味帯びた人々の行き交う声が届く。
 提灯が垂れ、つい足を運びたくなる出店が立ち並ぶその場所は中有の道。幻想郷から唯一三途の川に通ずるこの道には、地獄の罪人らが卒業試験を兼ねて出店を開いており、妙なることに死者だけでなく生者に対しても商売をしている。
 人ならざる者が目立つ中、その者は一人歩を進める。あの時から時間が止まっているかのよう、変わらない姿で。
 かつてこの人物が中有の道を歩いた時から、多くの時が世界には流れた。 人間には悠久に近しい時間、千と生きる妖怪達にとっても長い時間。ただ、永遠に生きる者達にとっては瞬きにも満たない須臾の時間……。
 その時間の中で、外の世界の人々は星の海を渡ることを可能にし、多くの人々は母なる大地をも忘れて星を渡った。そうしてこの地には多くの忘れ去られたモノが流れ込んできたのだ。しかしそれでもこの場所は変わらずに存在している。その者は変化無く存在している。
 何故この人物に変化が無いのか。答えは簡単なことで、この人物は既に輪廻の輪から外れており、永遠の時を漂流することを選んだ蓬莱人だからだ。故に変化もなく、昔と変わらずにこの道を歩むことが出来る。

「はーい、残念だったねー。また今度頑張ってねー」

 蓬莱人が一つの屋台の前で足を止める。視線の先には地獄の罪人が一匹、子供の妖怪相手に金魚掬いの出店を開いていた。
 子供の妖怪は一匹も金魚を掬う事が出来ず、肩を落としてその場を去っていった。金魚掬いを開いていた罪人はその後ろ姿に手を振り、笑顔で見送っている。
 その罪人の笑顔は、他の罪人には見られない親しみ易さがあった。まるでその罪人の人柄を表しているような友好的な笑み。罪人の生前が多くの者に慕われていただろうということが容易に判断出来る、そんな笑顔だった。
 ふと自分に投げかけられる視線に気付いたのか、その罪人は自分を見遣る蓬莱人の方を向いた。

「あ、あ……」

 次の瞬間、罪人は目まぐるしく表情を変化させる。
 蓄積した恭順、情愛、敬慕を化学反応させて爆発させたみたいな笑みであり
 長年懊悩し続けたわだかまりが氷解したような爽快溢れる表情であり
 二度と会えないと思っていた想い人に邂逅を果たせた驚愕であり
 立派に育った弟子が師に見せる恩義溢れる表情だった。

「久しぶりね。川は無事渡れたみたいで、本当に良かったわ……」

 蓬莱人もその端麗な顔立ちを四季の如く変容させる。
 雪のように厳格で慄然とした険しい表情であり
 散りゆく紅葉を儚く思う寂然とした表情であり
 涼風と風鈴の音に風情感じる穏健な表情であり
 春を想起させる温厚ながらも力強い笑みであり
 弟子を誇りに思う師の表情であった。

「師匠!」

 兎は駆ける。
 目尻に涙を浮かべ、自分の敬愛する存在に向かって真っ直ぐ駆ける。
 伸ばした髪が舞い上がり、その横を雫が通り過ぎる。
 かつて届かなかった場所に
 自分を救ってくれた存在に
 両腕目一杯伸ばし、速度を緩めることもせず、全力で八意永琳に抱きついた。

「元気そうで何よりだわ」

 突撃とも呼べるそれを優しく抱き返し、永琳は優しく兎の頭を撫でる。

「し、師匠……! 師匠はずっと私の事を考えて……っ! 遠い昔、私を人里に行かせたのも、全部……。え、閻魔様から言われたんです。師匠がいなかったら、わたし、川を渡ることも出来なかったって……!」

 顔面を涙塗れにしながら、兎は永琳の胸元で咽び泣いた。
 永琳は何も言わずにそれらを抱擁した後、おもむろに兎の顎に指を添え、優しく問いかける。

「私はあなたの笑顔が好きよ。泣き顔も素敵だけど、あなたには笑顔のほうが似合ってるわ。ね、私のために笑って?」

 突然とも言える申し出に、兎はボンッと顔を真っ赤にさせる。
 恥ずかしさのあまり顔を伏せようとしたが、顎に添えられた指がそれを許さなかった。
 どうしようどうしようと視線を泳がせること幾星霜。やがて覚悟を決めたのか、朱が抜け切らない顔で師を真っ直ぐ見据え――

「師匠」

 そう、その笑みはまるで……






 天蓋には昔と変わらず満月が輝き、永遠亭では昔と変わらずに例月祭が開かれていた。兎達が餅を搗いて歌う、少し変わったお祭り。
 かつて姫と呼ばれていた存在で、今は一人の地上の民になっている者がいた。地上の民としての勤めを果たし、自分のやるべき事、やりたい事を行ない、地上の民として生きているその人物は、兎の歌を聴きながら自分の趣味に没頭していた。
 彼女が永遠の魔法を解いた時に始めた、かつては仕事だった退屈な日々を打ち破る第一歩。その第一歩だった盆栽は、今や彼女の中で仕事ではなく、やりたい事にまで昇華していたのだ。
 彼女は鼻歌を歌いながら上機嫌な様子で盆栽を愛でる。かつて退屈な日々を送っていたとは思えない程、活き活きとした表情をしながら。

「一つ搗いてはカグヤさま~ 二つ搗いてはエイリンさま~」

 鉢に植えられた木は月の都にしか生えず、穢れ無き月の都では枯れる事も成長する事もない見窄らしい植物。
 しかし、この木は花を咲かせ実を付けると、その枝に綺麗な七色の玉が付くのである。
 現に彼女の目の前にある盆栽は、綺麗な七色の玉をその枝に付けていた。

 この盆栽の正体は優曇華。
 地上の穢れに触れ、初めて美しい実を付けることが出来る月の植物。

「ふふっ、綺麗に咲いたわね!」



 三つ搗いてはレイセン~ 四つ搗いてはウドンゲイン~



-FIN-
「永琳は鈴仙の事を『優曇華』と名付けている。それはどういう意味だろうか? 私達に蔓延る穢れを計る為の存在と考えているのだろうか……。いや永琳の事だ、恐らく穢れを知らなかった月の兎が、地上の穢れに触れて美しい実を付ける事を期待しているのだろう」
小説版儚月抄において輝夜の独白であり、自分がとても大好きな一文です。
今作は上記の独白を含め、原作の様々な要素を詰め込んで書いてみました。かなり難産でしたが、しっかりと書き切れましたし、自分自身とても楽しかったです。
儚月抄において輝夜と永琳は地上の民として生きる答を見つけました。しかし鈴仙は未だに見つけることが出来ず、迷ってばかりのように感じられます。だからこそその鈴仙が少しでも前進するお話を書いてみようと思いました。
鈴仙は永夜抄Exにおける咲夜のような、ハッキリとした自分の答を見つけることが出来ないかもしれません。それでも、自分は原作の鈴仙には期待せずにいられないのです。

この話を読んで少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。あまり鈴仙に興味無かった方は、少しでも鈴仙に興味を持って頂けたなら嬉しいです。
蓬莱の玉の枝は別名優曇華の花と言います。きっと、とても素敵な花なんだと思います。
ご読了ありがとうございました!
Fランク
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コメント



1.名前が無い程度の能力削除
氏の作品に触れると毎回必ず今まで気が付かなかった原作におけるキャラクターとキャラクターのつながりに気付かされます。
薬売の鈴仙と購入者アリス、主人に新しい名を与えられた者同士である鈴仙と咲夜。
もしかして鈴仙にあんな言葉を投げかけられたのはかつて諏訪子に諭された咲夜がいたから
だったりするのでしょうかと過去作品とのつながりを感じずにいられませんでした。
永遠亭の二次創作での扱いは極めて難しいと常々感じておりましたが、気の遠くなるような年長者達の中で最年少の鈴仙が
思い悩み前へ進む姿を見ていると人間よりずっと人間臭い普通の少女なのかもしれないと思いました。
素晴らしい作品をありがとうございました!
2.名前が無い程度の能力削除
咲夜には紅魔館があって、鈴仙には永遠亭があって……アリスの場合は紫でしょうか、萃香でしょうか。二次創作の世界では神綺がいることもありますが実際には……
限りなく独りに近い状態で咲かなければいけない、本人もそれを自覚しつつ仕方ないこととして割りきり、夢の奥に仕舞い込むことで前に進もうとしてるんじゃないか、とそう思いました。
何も言わず去ることを選んだのはなぜでしょう、頼れる存在が周りにいながらそれに気付かず萎んでいることへの怒りでしょうか、またはそれを諭す役目は他にいると考えたからでしょうか。
いっぱいいっぱいになっている鈴仙視点ですから短くおさめられていますが、アリスの視点に立った時あの立ち去る無言の時間がとても重く長いものに感じました。
3.奇声を発する程度の能力削除
読み応えが充分にあり面白かったです
4.名前が無い程度の能力削除
川を渡れてよかったですね!
5.名前が無い程度の能力削除
「知れば知るほど嫌いになるキャラ」の筆頭である鈴仙を、ここまで真正面から描写しきった手腕は御見事。
設定に対する深い理解と、何よりキャラクターに対する愛情が無ければこの話は書けないと思います。

……ところで、鈴仙の側に感情移入してしまうと、途端に東方プロジェクトの「設定」なるものが胡散臭く思えてしまうんですよね。
その点作者様は変に捻くれた見方をせず、あくまで「原作通り」を貫いてくださった様で何よりです。
この作品を読む事が出来て本当によかった。作者様に最上級の賛辞を!
6.名前が無い程度の能力削除
まず、鈴仙は緋で「迷いは無いようだ」と言われてるので迷ってばかりというのはないと思います。
鈴仙の内面は二次ではやたらネガティブなことが多いですが、神主的には普段は暢気で霊夢なみにボケてるそうです。
おそらく鈴仙は思いつめることも無ければ、深刻に悩むこともないんじゃないでしょうか。
いつもウジウジして優柔不断なのが原作鈴仙と言われるのはあんまりじゃないかと。
7.名前が無い程度の能力削除
鈴仙が持つ一面についてがっぷりと取り組んだという印象を受けました。
彼岸の二人に良い死後とならないと言われており、求聞史記においても人里に関わりたがらない。また、小説版儚月抄でも彼女視点の話は無く、難題は残されたままだと私も思います。
ただし、原作ゲームや漫画版を読むと、思いつめて悩みを抱えてウジウジしながら生きている風にはみえず、そこに違和感を覚えることもありました。
SSの読者が本来立ち入るべきではないところまで書き込んでしまったかもしれません。しかし、どうしても書き込まずにはいられない力作でした。
8.名前が無い程度の能力削除
うはぁ、これは凄い。流れゆく展開に引き込まれずにはいられませんでした。
賽の河原の唄、永琳の行動、そして鈴仙の将来が合わさったとき、叫ばずにはいられませんでした。
小説版儚月抄を読みたくなりました。読みますとも。
9.名前が無い程度の能力削除
ラストの歌の部分で、優曇華もこの地上で綺麗に咲けたのだな、と感じました。
次は是非アリス視点で!
10.名前が無い程度の能力削除
素晴らしいお話をありがとうございました!
11.名前が無い程度の能力削除
時間を忘れて読み耽ってしまいました。休憩時間過ぎるわ遅刻しかけるわろくなことないわな。次作も楽しみにしています。御自分のペースで頑張って下さいね。
12.名前が無い程度の能力削除
どうなんでしょうね、鈴仙の悩みの度合いというのは。自分的にはここまで悩んだりはしてないと思いますね。しかしとても面白かったです。こういう話もいいものがあるなと。永琳などの他キャラ心情は同意でき、納得いく感じでしたが、やはり上記の鈴仙のことで違和感覚えるものはありました。
13.名前が無い程度の能力削除
これは良い作品
いつの間にか読み終わっていました