秋――。
先月までの暑い日差しなどまるで嘘のように落ち着き、魔法の森にある木々達がその葉を散らし始めたある日の朝。
「ん……頭、痛い」
ベッドの上で目を覚ました私を襲ったのは、酷い頭痛だった。
鈍い頭痛と共に訪れるのは、気だるさ。体を起こそうにも、上手く力が入らない。
どうしてこんなにも体が重たいのか。ボーっとする頭でじっくりと考えた後に、
「あ……風邪か」
ようやく、私の思考は一つの答えを導き出した。季節の変わり目に風邪を引くなんて、何てお約束。自分の体調管理が出来てない証拠だ。
「――――?」
私の様子が普段と違うことが不思議に思ったのか、傍らにふよふよと浮いていた上海が首を傾げてこちらを窺う。それに私は、「大丈夫」と微笑み返した。
「最近、研究で忙しかったものね。ようやく昨晩一段落して、その疲れが出たのかも」
懸命に笑顔を浮かべて上海の頭を撫でる。すると彼女は、状況が飲み込めたのか突然わたわたと慌て出した。
「――――!?!?」
「ああ、大丈夫よ上海。ただの風邪。とりあえず、濡らしたタオルを持ってきてくれない?」
「――――!」
私の言葉に、彼女はコクリと頷く。そして慌てた様子でキッチンの方へと駆けて行く。
それを見送って、私は溜息をついた。
「風邪か……久しぶりに引いたわね。昔はよく熱を出して、お母さんを心配させたっけ」
天井を見つめながら、私はボーっと記憶の糸をたぐる。
昔……まだ私は幼い子供で、魔界にいる母の元で暮らしていた頃。
あの頃の私は今よりも体が弱く、よく母に迷惑をかけていた。
「確か……あの時も、こんな感じだったわね」
ふと、私は傍らを見上げる。そこには、先程いた上海の姿ももうない。そこには、誰もいない。
――誰も、私の傍にいてくれない。
「あ……まずい」
それに気付いた時には、既に遅かった。私の心に、すぅっと黒いモヤがかかる。
病気で体が弱っているからだろうか。心も、同時に弱っていた。そんな時に限って、私の心に闇が入り込む。
それは、寂しさ。孤独。独りの辛さ。
「ははっ……いい歳して、何を考えてるんだか」
自嘲気味に笑って、顔を両手で覆う。それだけで、私の視界は暗闇に染まる。
静寂と闇に包まれた、世界。そこで私は、自分の瞼が酷く重たいことに気付いた。
阿呆なことを考えてないで、さっさと眠ってしまおう。きっと目が覚めたら、熱も引いて気分も良くなる。
そう決めて、私は迫ってくる眠気に身を任せた……。
――☆――
「大丈夫?」
声に、私は瞳を開く。
暗闇の世界に光が差して、同時にこちらを心配そうに見下ろす女性の姿が見えた。
「お母さん……?」
母の姿を確認して、私はベッドから体を起こそうとする。
しかしそんな私の小さな体を、母は慌てて制止した。
「ああ、いいのよアリスちゃん。ちょっと、様子を見に来ただけだから」
優しい笑みを浮かべて、母が私の額へと手を伸ばす。彼女の冷たい掌が、酷く心地良い。
黙って瞳を閉じていると、すっと冷たさが離れる。
「まだ熱があるわね」
「あ……」
名残惜しさを感じながら、離れていく母の手を見つめる。それに彼女は、「どうかした?」っと首を傾げる。
「ううん……お母さん、お仕事は?」
「夢子ちゃんに黙って、ちょっと抜け出しちゃった」
私の問いに、母は人差し指を立てると口元へ当てて悪戯っぽく笑う。
その仕草に、私は表情を綻ばせた。きっと今頃、夢子さんは館中を駆けずり回っているだろう。
「夢子ちゃんには悪いけど、少しくらいは……ね?」
「うん……」
母の笑みに、私は頷く。
夢子さんには悪いが、母が傍にいてくれるのがとても嬉しかった。
しかしそこで、部屋の扉がコンコンっと叩かれる。
「ああ、神綺様……やはり、こちらでしたか」
扉が開いて、一人の女性が現れる。メイド服に身を包んだ、凛とした表情の女性だ。
「あらら、夢子ちゃん……もう見つかっちゃった」
「当然です。まったく……お気持ちは分かりますが、黙ってどこかに向かわれるのは止めてください」
女性――夢子さんが、呆れたように溜息をつく。それに母は、苦笑を浮かべた。
「ごめんね~。でも、アリスちゃんが心配で」
「だったら、尚のこと一言申して下さい。私だって、鬼じゃありませんので」
夢子さんの言葉に、母の顔がぱぁっと明るくなる。
「あ、それなら今日のお仕事はもう終わりに」
「そうはいきません。さぁ、休憩は終わりです。次のスケジュールが押してますので、ご準備を」
そう言うと、夢子さんは母の背中をぐいぐい押す。それに母は苦笑しながらも、「仕方ないわねぇ」と呟いた。
「ごめんね、アリスちゃん。お母さん、お仕事に戻らなきゃいけないみたい」
「ううん……私は、大丈夫だよ」
母の言葉に、私は笑顔を浮かべる。
母は、この魔界の神なのだ。神が不在であれば、世界も上手く回らなくなってしまう。
母の双肩には、この世界の全ての人の期待がかかってるのだ。それを、私の我侭で止める訳にはいかない。
だけど……。
「だからね……お仕事、頑張って」
分かってはいるけど、どうしても願ってしまうのだ。
本当は、ずっと傍にいて欲しい。独りは、寂しい。一緒にいて欲しい。
しかしそれが叶わないことくらい、私にだって分かってる。だから私は、無理矢理に顔を綻ばせる。
私は大丈夫だと……嘘をついて、笑う。
「……ごめんなさい、アリス」
そんな私を見て、夢子さんはこちらへすっと手を伸ばす。そして私の頭を優しく撫でながら、申し訳なさそうに瞳を細めた。
「出来る限り、早く終わるように私も努力するわ。だから、許して……」
夢子さんの、悲しそうな顔。彼女も、別に私と母の仲を引き裂こうとしている訳ではない。
ただ、それでも仕事は譲れないのだ。だから、こうして謝る事しかできない。
「大丈夫だよ、夢子さん……私だって、お母さんの娘なんだから」
私が笑顔で答えると、彼女は優しい微笑みを浮かべた。しかしそれも一瞬のこと、すぐに表情は凛と引き締まる。
「さぁ、神綺様……参りましょう」
「はいはい……それじゃあアリスちゃん、行ってきます」
二人は私に背を向け、歩き出す。
「あ……」
徐々に、離れていく二人の背中。それに向かって、私は無意識に手を伸ばしていた。
しかしその手を、私は慌てて引っ込める。
呼び止めてはいけない。例え寂しくても、我慢しなければいけない。
私は、魔界神の娘なのだ。これくらいで、我侭を言ってどうする。
「……行ってらっしゃい」
去っていく背中に向かって、小さく呟く。
行かないで。本当は、そう言いたい。
母の優しさに甘えたい。姉の強さに守られていたい。
だけどそれが許されないのが分かっているから、私は我慢する。
パタンっと、部屋の扉が閉まる。二人の姿は、もう見えない。
冷たい静寂が、部屋を支配する。孤独が、私の心へ押し寄せる。
そんな中、私は……
「寂しさなんて……感じない」
自分へ言い聞かせるように、小さく呟いた……。
――☆――
「ん……?」
「お……?」
額にある、冷たい感触。それに私は、重い瞼を開ける。
見慣れた、部屋の天井。それと一緒に、なぜか白黒の魔法使いが瞳に映った。
「よぉ、眠り姫。気分はどうだ?」
「……最悪」
白黒の魔法使い――霧雨 魔理沙の言葉に、私は呆れて答える。人が寝ている間に不法侵入した挙句に、目覚めた家主に軽口を叩くなんて、本当にいい性格をしている。
普段なら家から叩き出す所だが、残念ながら今の私にはそんな気力もない。少し痛む頭を抑えながら、私は重い体を起こす。
「こんな時に、いったい何の用? くだらない用事なら、また今度にして欲しいんだけど?」
っと、そこでポトリと。
私の額から、濡れたタオルが落ちた。
「おいおい、看病してやったのに酷い言い草だな」
「看病? 貴女が?」
肩を竦めて、魔理沙は落ちたタオルを拾い上げると傍に置いてある水の入った容器へと浸ける。それに私は、眉を顰めた。
「ああ、実は森を散策中に大量の松茸を見つけてな。その御裾分けにと思って来たんだが、そこで上海から話を聞いたって訳だ」
続いて彼女は、「無理すんな」と言って、体を起こした私を制止する。
促されるままに再び横になっていると、彼女は水を絞った濡れたタオルを私の額に乗せる。先程の冷たい感覚は、どうやらコレだったようだ。
「……どういう風の吹き回し?」
私は、訝しげに魔理沙を見上げる。コイツとの付き合いは、長い方だ。しかし彼女は、こんなことをする奴ではないはずだ。
いつも傍若無人な態度で、自分勝手。それが、私の知っている霧雨 魔理沙の姿だ。人の看病など、決してするような奴ではなかった筈なのだが。
「別に、深い意味なんてないさ。ただ、お前が弱ってる姿を見るのが楽しいってだけだ」
笑顔で答える魔理沙に、私は深く溜息をつく。何だ、その理由は。
呆れて溜息をつく私だが、彼女はなぜか優しく微笑んでいる。それを見て、私は文句を言うのを止めた。
彼女がこちらに向ける、優しい微笑み。それが、なぜか安心する。どうしてコイツが、ここにいるのか。理由が気になるけれど、何となく今だけは黙ってここにいて欲しかった。
「……あっそ。好きにしたら?」
「おう」
弱ってる。普段は、誰かを求めたりしないはずなのに。
さっきまで昔の夢を視ていたせいか、普段よりも心が弱っているのだろう。私はそんな自分に呆れながらも、それが彼女にバレてしまわないように背を向けた。
「それにしても」
不意に、魔理沙は口を開く。
「お前も、案外可愛い所あるんだな。夢で母親を呼ぶなんてさ」
「なッ!?」
驚いて、私は魔理沙を見つめる。すると彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「ん、どうかしたか?」
「どうかしたかって……」
混乱する思考を、私は懸命に落ち着かせる。どうやら私は、眠っている間に寝言で母を呼んだようだ。
聞かれた。聞かれてしまった。
恥ずかしさで赤くなる顔を、私は布団に埋める。
「なに人の寝言を盗み聞きしてんのよ、馬鹿」
「お前が勝手に言ったんだろ? 私に非はないぜ」
「だとしても、もう少しデリカシーってもんを考えなさいよ」
私は、魔理沙を睨む。しかし彼女は私が怒ってる理由が未だに分からないのか、きょとんとした顔をしている。
やっぱり、上海に頼んでコイツを追い出した方がいいのかもしれない。そんなことを考えていると、
「別に、何も恥ずかしがることなんてないだろ?」
魔理沙が、言葉を放つ。それに、私はまた驚いてしまう。
「お前はさ、母親のことが嫌いなのか?」
「い、いや……違うけど」
目を白黒させながら首を振ると、彼女はまた優しい笑みを浮かべる。
そして、
「だったら、別にいいだろ。病気の時くらい、素直に誰かを求めてもいいんじゃないのか? ただでさえお前は、常日頃からツンケンしてるんだからさ」
そう言って、彼女は優しく私の頭を撫でる。
それが、酷く心地いい。誰かが傍にいてくれる。それが、私の心を安心させる。
「…………」
誰かを求める。そんなこと、ずっと忘れてしまっていた。
寂しさなんて感じないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
それなのに、今更になって私は誰かを求めている。寂しいと、心が叫んでいる。
「それじゃあ、私はそろそろお暇させてもらうぜ」
魔理沙の手が、私の頭から離れる。優しい温もりが、消えてしまう。
そして彼女は、私に背を向ける。その姿が、夢の中の母と重なって見えて。
あの時、私は去っていく母を見送った。寂しさなど感じないと自分に言い聞かせて、自分に嘘を付いて、彼女を見送った。
だけど……。
「あ……」
私は、背を向ける魔理沙へ手を伸ばす。それは彼女の服を、ぎゅっと掴んだ。
「ん?」
「え……?」
不思議そうに、魔理沙はこちらを振り返る。対する私も、首を傾げてしまう。
私は何をやっているのだろうか? 彼女を呼び止めて、どうするつもりなのか?
無意識で伸ばしてしまった手を、私はどうしたらいいか分からず固まってしまう。
「どうした?」
不思議そうに、こちらを見つめる魔理沙。それに、私は……。
「ど……どこ、行くの?」
小さく、口を開く。それはまるで、蚊の鳴くような小さな声。
だけど彼女は、しっかりとそれを聞いてくれた。
「いや、帰ろうと思ったんだけど」
「そ、そう……」
魔理沙の言葉に、私は顔を伏せる。
なぜそんなことをしているのか、自分でも分からない。しかし彼女が去ってしまうのが、とても嫌なことだけは確かだった。
と、そこで
「あのな、アリス?」
魔理沙が、微笑みを浮かべる。そして再び、私の頭を優しく撫でた。
「それってさ、『どこ行くの』じゃなくて、『行かないで』の間違いじゃないか?」
「ッ!?」
彼女の言葉に、私は息を飲む。
行かないで。それは、確かに私の心が叫んでいる言葉。幼い頃から、押し殺してきた言葉。
どうしてコイツは、こうも簡単に私の心を読んでしまうのか。
どうしてコイツは、いつも私が一番欲しい言葉をくれるのか。
「……そう、みたいね」
優しく頭を撫でられながら、私は小さく頷く。
ボーっとする思考では、深く考えられられない。ただ私の頭を撫でてくれる彼女の手が、酷く心地良いことだけは確かだ。
「仕方ないな」
私の言葉に、魔理沙はどこか嬉しそうに笑う。そして彼女は、こちらの手をぎゅっと握ってくれた。
「お前が眠るまで、傍にいてやるよ。だから、安心して休め……な?」
耳に届く、彼女の優しい言葉。
掌に感じる、彼女の温もり。
それを感じながら、私は……。
「うん……ありがとう、魔理沙」
小さく……だけど、笑顔で頷いた。
――☆――
「アリス……寝たのか?」
すぐ傍から聞こえる規則正しい呼吸の音を聞いて、私は小さく呟く。
顔を向けると、そこには気持ち良さそうに寝息を立てるアリスの姿。それを見て、私は微笑みを浮かべる。
「お母さん、か……」
優しく、アリスの頭を撫でる。
私がここを訪れた時、彼女は寝言で母親を呼びながら涙を流していた。きっと、悲しい夢でも視ていたのだろう。
だから私は、彼女の傍にいようと思った。普段強がっている彼女だからこそ、今日だけは傍にいようと思ったのだ。
そのせいもあってか、今はとても安らかに眠っている。これなら、看病した甲斐もあるというものだ。
「まったく、天邪鬼な奴め」
普段からこうやって頼ってくれると嬉しいのだが、彼女の性格上そうはいかないだろう。
どれだけ寂しくても、彼女はいつも強がって、自分を誤魔化してしまうから。
だから今だけでも、この嬉しさをかみ締めたい。彼女に必要とされている喜びを、感じていたい。
「寂しい時くらい、頼ってこい。お前が邪魔に思わない限り、私でよければ、いくらでも傍にいてやるからさ……」
柔らかい、彼女の金色の髪。それを優しく撫でて、私は小さく呟く。
そして体を彼女の方へと傾けると、その額に優しく口付けをした。
「……いただいとくぜ?」
呟いて、私は彼女から離れる。そして背を向けると、部屋を後にした。
寝込みを襲った様で少し後ろめたい気持ちもあるが、これくらいの報酬をもらっても罰は当たらないだろう。
「それじゃあな……お休み、アリス」
いつか、彼女が本当に寂しさを感じなくなった時……
その時に、彼女の隣に私がいると嬉しいな……。
そんなことを思いながら、私は静かに部屋の扉を閉めた……。
――FIN
ベネさん>>SWEET MAGICの時もコメントしてくれた方ですかね?ありがとうございます。もしかして、ジョジョ的な褒め言葉ですか?w
ちなみに、見事に俺は風邪真っ最中です。白黒の魔法使いが看病に来てくれないかな……無理かw
作者さんは風邪ですかー。お大事にです。
夢のシーンや魔理沙を引き止める所とか良すぎます。
さっぱり読めて良かったです
9さん>>大丈夫、半日寝たら治りましたから! やっぱり睡眠って大事ですね、うん。
月宮さん>>前作に続いて、再び感想ありがとうございます。さっぱりして頂けた様子で何よりです。