そいつはいつもふらっとやって来るので、私はほとほと困っている。
「やぁ」
「なんで雨激しい日にわざわざ来んの」
「今日、締切だったから」
「直帰しなよ」
「印刷所から、はたての家が近いんだよ。細かい事いいじゃん。入れてよ」
「傘」
「あぁ、うん。ここに掛けておけばいいんでしょう」
ここ最近は久しぶりの雨続きだった。今日なんか、朝からずっと土砂降りだった。嵐のようにごうごうと音を立てながら、雨粒がしたたかに窓を叩き、私の家は頼りなくも小さく揺れていた。
こういう日は家に引き籠るのが得策だと思って、朝からずっと布団にくるまって眠っていた。買い溜めした食べ物がそろそろどこにもなくなってきていて、ちょっとひもじい思いをしながら、まぁ食べなくても死ぬわけじゃないし、と眠っていた。
それで、扉を叩く音で目が覚めた。
産まれてきたように、身体がだるい。
「やっぱりさ、チャイムがないのって不便じゃん」
「私はそう思ってない」
「私が思ってんのよ」
「文しか思ってない」
「私が思えば充分でしょ」
どうせチャイムなんか付けたって鳴りはしないのだ。付けるだけ無駄。
「毎日鳴らしに来るから」
「来なくていーよ」
洗面所の戸棚からバスタオルを一枚持ってきて、文に渡した。文が身体を拭いている間、私はドライヤーのコンセントを挿した。
「こっち来て」
「なに、髪乾かしてくれんの?」
「そう。だからコードの届く範囲に来て」
ごぁあぁぁぁ。
ドライヤーは唸る。
ぎゅるるるる。
おなかも唸る。私のではなく、文の。
「おなかすいた」
「探せばどっかにパンの欠片くらいは落ちてるかもしれない」
「買い物くらい行こうよ」
「だってこの雨続き」
「昨日は晴れてたよ」
「ウソ。そんなわけないじゃん」
「ホント。そんなわけある。はたて、昨日何してたの」
「寝てた」
「おとついは」
「寝てた」
「引き籠ってんなぁ」
「引き籠りじゃない。外に出る必要がないだけ」
「結果は一緒でしょ」
「過程が大事なのよ」
昔から、騒がしいのはきらい。誰かとべらべら長時間話すのも得意じゃない。ひとの視線を気にしていたら、自然と家は外れの山奥になった。買い物には少し不便だが、ポストもチャイムもない家は、不思議と居心地がいい。
ちょっとうるさい旧友が、時々家に勝手に上がりこんでくる事さえ除けば。
印刷所なんか、この付近にありはしないのだ。
「ねぇ今日泊めて」
「やだよ」
「こんな雨で帰れって言うの?」
「帰れ」
これみよがしにため息をつかれた。
「じゃあ、もうちょっとだけ。雨、やみはしないだろうけど、雨脚弱くなるかもしれないし」
「食べ物はありませんよ」
「期待してない」
そう言って、バスタオルを洗濯かごに放り込みながら、「あぁでも、コーヒーくらいあるでしょ」と勝手に食器棚をあさるので、文句でも言ってやろうとして、でもめんどくさくなって、「消費期限切れてても知らないけどね」、悔し紛れにそれだけ言った。
コーヒーなんて私は飲まない。どっちかって言うと紅茶の方が好き。
だからうちにあるインスタントコーヒーは、私は飲まない。元々は文の私物だった。勝手に置いていって、持って帰ろうとしない。
私の家はそんな風に、どんどん文の私物に占領されつつある。コーヒーも、フィルムも、ペンも、歯ブラシも、新聞も、マグカップも、カレンダーも、枕も。
好き放題されてムカつくから、コーヒーとマグカップは取り出しにくい奥の方にしまってある。フィルムもペンも、いつも定位置に置いていくので、別の場所に片付けて判らないように。歯ブラシは古くなってきたので捨ててやった。古い新聞でたき火した。カレンダーには私のスケジュールを書き込んでやった。枕は勝手に使っている。
でも文は嬉しそうだ。「はたての家なのに生活臭がする」、と笑う。
物が少ないわけではない。むしろ、多い方だと思う。可愛いもの、私の好きなもの、そういうので溢れ返っている。だけど文は、ここには誰も住んでないみたいだ、と言う。
「実利のないものばかりで埋め尽くされてて、人形部屋みたい」
そんな事を言われたのは、いつだっただろう。
ずず、と熱いコーヒーをすする。
私は別に要らなかったのに、文がふたり分入れたのだ。コーヒーは熱くて飲めたものではなかったので、しばらく放っておく事にした。苦くて不味くて熱い。何がおいしいのだ、これの。
「ひもじいわぁ」
独り言のように文は言う。
「からっぽの胃をコーヒーで満たす虚しさ」
「家帰んなよ」
「やだよ」
「あんたが最速で飛んでいったらそれなりに濡れずに済むんじゃないの」
「明日晴れたら、買い物に行こうよ。こんな食べ物のない家やだ」
「帰ればいいのに」
かたかた、窓は鳴り続けている。屋根から時々、ばちん、ばちんと何かが当たっていく音がする。
どうせ明日は晴れないだろう。そしたら文も帰るだろう。だから「いいよ」と返事した。
コーヒーはまだ冷めない。
「はたてさぁ、キスした事ある?」
「ナニソレ」
「あまりにも暇すぎて雑談」
「それにしても急な話題じゃね」
「なんとなく」
「ないよ」
「ないの! 驚きだわ」
「したらレベルアップでもすんの?」
「かわいくねーっ」
雨が早くやめばいいなぁ、とぼんやり思った。今すぐやんだらこいつも帰るかなぁ、と考えて、だったらちょっとやんでほしくないな、とか考えてる自分に驚いた。
そうだ、やまれたら明日買い物に行かなきゃいけなくなる。だからやんでほしくないんだ。そうだ。
そうに違いない。
コーヒーはまだ冷めない。
手に持ってるのもめんどくさいので、マグカップをテーブルに置いた。
「猫舌」
文はもう飲み終わっている。
そうして、キスをされた。
ほんの一瞬。唇に、コーヒーの残り香。
「なに、文、欲求不満なの」
「うわー。こんなに雰囲気盛り下がる一言初めて」
「だって、女同士で、そういう関係でもなくて、こんな急で、なんか切羽詰まってるひとみたい」
「理由がなきゃキスしちゃいけない?」
「多少はねぇ。散歩じゃないんだからさー」
「そう。理由があればいいのね」
「えー、そう来る?」
やっぱり今すぐ雨がやんで、こいつは帰ればいいと思う。
なのに窓の向こうで雨の音はどんどん増していくばかりで、どうも今夜中はやみそうにない。
文はのそのそと自分のマグカップを流しに置いて、それから部屋の中をうろうろし始めた。
「なにしてんの」
「枕」
「今私のおしりの下」
「なんでひとの枕に座っちゃうの! 枕におしりとか足とか置くと悪い夢見んのよ!」
「寝る気か」
「寝る気ですがなにか」
「帰れよ」
「雨、やみそうにないので」
「もーこいつやだー」
「うりうり、枕返せこのやろー」
「返したら帰る?」
「帰りません」
「じゃあ返さん」
「じゃあ膝枕して」
「気持ちが悪い」
「本気の顔で言うなよつらい」
「どしたの文、なんかつらい事でもあんの」
「なにが」
「私に癒しを求め始める程末期なのかと」
「末期て」
「寂しくて猫飼ってるひとが猫にゲロ甘だったり派手な服着せ替えたりする心境と同じかな、と」
「はたて、猫みたいに可愛くないじゃん」
「ごろにゃん」
「可愛い」
「気持ちが悪い」
横からタックルされて、ごろりとその場に倒れると、すかさず枕を抜き取られた。脇腹にクリーンヒットしたので地味に痛い。
「やっぱさ、明日雨が降っても買い物に行こうよ」
「おまえはいつ帰るんだ」
「気が済んだら。枕カバー新しいの買うの」
こいつ、帰る気ないだろ。
ずず、とすっかり冷たくなったコーヒーをすする。苦くて不味いのに、舌が慣れてしまって不思議と飲み易い。
文みたいだな、と思った。
これをおいしいと思う日が来なければいいような、来てもいいような。
大好き
もうなんかうわああってくらい面白すぎて、ついうっかりコーヒー吐きました。。。