※とても薄い百合成分が含まれています。
10月の末日の事である。
幻想郷の住人達は、揃って同じ言葉を口にしていた。
「トリック・オア・トリート!」
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。
そう、ハロウィンである。
昔々ある所に、ジャックという悪賢い遊び人の鍛冶屋がいた。
ある日、悪魔を騙して罠にはめたジャックは、死んでも地獄に落ちないようにすると悪魔に契約させる。
けれどそれから幾つも年月が流れ、やがてジャックが死んだ時、生前の素行が悪過ぎた彼は天国への門を開けて貰えなかった。
彼は生前悪魔と交わした契約から地獄に落ちる事も出来ず、カブに憑依し安住の地を求め、心優しい悪魔に貰ったランタンを灯しながらこの世の闇のどこかを彷徨い歩いているという。
たった、一人で。
天国と地獄、どちらにも行けず宙ぶらりんなジャック・オ・ランタン。
紅魔の館には、彼と同じ宙ぶらりんな人間がいた。
人と妖怪のその狭間で。悪魔の狗だと自分を称し、しかし人間としての生き方を貫き続ける銀髪の少女。
ランタンの代わりに懐中時計。カボチャの被りものではなく瀟洒な仮面。
そんな彼女は今、友人たちにお菓子をたかられていた。
「トリック・オア・トリート!」
「トリック・アンド・トリート!」
「トリック・オア・トリック!」
「はいはい、そんながっつかなくてもちゃんとあるから安心して」
周囲のあまりの勢いにちょっと引きつつ、差し出された手に一つずつ丁寧に菓子の入った袋を握らせていく。途中でお菓子を一切要求せず悪戯のみに絞り込んだ斬新な要求をしている守矢の巫女が混ざっている気がしたが、それを瀟洒に受け流すのが彼女が彼女たるゆえんである。
投げナイフの名手である彼女は、その腕に比例するようにして料理の腕も高い。お菓子作りもまた然りだ。折角こんな絶好の機会なのだから、是非味わってみたいというのは当然だろう。
中には、あわよくばトリートよりトリックを望む者もいるようだが。
ともあれ。
お菓子の受け渡しをする為に人妖問わず有象無象が集まっていた博麗神社の境内は、彼女の菓子が全て無くなった事を皮きりに徐々に人妖が減り始め、30分もすると、そこには人間の少女が2人立っているだけになっていた。
「相変わらず、幻想郷に住んでるような人間とか妖怪って嵐みたいね」
濃紺のメイド服に身を包み、少し疲れ気味の少女は言う。
「毎年毎年、咲夜のお菓子は凄く人気よねぇ」
紅白の巫女服を身に纏い、いつもと変わらない気だるげな雰囲気と共に艶やかな黒髪の少女は返した。
「ところで」
そう付け足しながら。
黒い髪と対比する健康的な白い肌を秋空の下に惜しげもなく晒しつつ、手に持つ竹箒を近くの木に立てかける。
病的なほどに白い肌を疲労のためか薄紅に染め、咲夜は声の元へ振り返った。
直後。
「れ、霊夢?」
一瞬だけその表情を驚きに染めた咲夜は一歩後ろに後ずさる。砂利を踏む無機質な音がした。それに重なるようにして、よく似た音がもう一度。
互いの顔が、吐息の触れる距離にあった。
「ねぇ」
霊夢からの呼びかけ。温度を持った吐息が柔らかく頬を撫でてきて、そのぞくりとした感覚に思わず咲夜は身震いする。
唇のよく見える至近距離で、霊夢のそれがゆっくり動いた。
「トリック・オア・トリート」
聞き間違いようのない、距離。
「え?」
けれど、咲夜は自分の耳を疑った。対して霊夢の表情は至って真剣で、その黒に限りなく近い焦げ茶の双眸からは彼女が何を思っているのかさっぱり分からない。闇色をした沈黙。その表情を変えないまま、霊夢は静かに呟いた。
「私、まだ貰ってないんだけど」
その言葉が信じられなくて、咲夜は必死に記憶を手繰る。確かに、霊夢にあげた記憶がない。一番に受け取りに来るかと思っていたから、その先入観のせいで失念していた。
「えっと、その、まだ時間あるから作って来ましょうか?」
「ん?なんで?」
首を傾げる霊夢の反応。思い切り戸惑ったのは咲夜の方だ。
「いや、だって『トリック・オア・トリート』って」
「なに言ってるのよ」
微かに後退りする分だけ、霊夢は距離を詰めてくる。今日の霊夢はなんだか様子がおかしかった。一度館に戻ろうかと考え始めたその時、咲夜は背中に冷たい感触を覚える。それが鳥居の柱だと気付いた時、濃紺のメイド服に包まれた腕が瑞々しい白に掴まれて。
ほんの一瞬、咲夜の呼吸が確かに止まった。
「霊夢……?」
今、自分が目にしているものを信じる事が出来ない。
霊夢が、こんな笑い方をするなんて。
「お菓子が無いなら」
口の端を上げ、光沢のある犬歯が覗く。その奥には血の如くに紅い舌が艶めかしく光り、誘う様な妖しさを放っていた。まるで何かにとり憑かれているような、けれど嫌悪感や拒絶の意思は浮かんでくる事のない、噎せ返りそうな色香だ。
腕を握る手は、今まで秋風に吹かれていたせいか少し冷たい。
「悪戯されれば良いじゃない」
人と妖怪の間を宙ぶらりん、完全瀟洒なジャック・オ・ランタン。
ならば彼女はどうだろう。ジャックが一人と誰が決めた?
咲夜の思考はぐるぐる回る。
人と妖怪の間、それは勿論。その上、どこにも行けない、どこにも着けない、大結界の守り人。彼女だって、宙づりになった楽園に生きるジャック・オ・ランタンじゃないだろうか。
「もう一度言うわよ」
そうして、目の前に立つ紅白の服に包まれた少女を見て、咲夜は思った。
そうだ、この笑顔は。
どこか寂しそうなこの顔は。
「Trick or treat?」
―――あの、ランタンの顔にそっくりだ。
「……っく、ん、くく、あはははははははは!!ちょ、ちょっと、れーむ、ギブ!ギブアップ!!」
「ならお菓子を出しなさい」
「だ、だから今持ってな……あははは!!ぷ、ぷはぁ、ね、ちょ、やめ、あははははははは!!」
縁側で二人の少女が揉み合う音。
巫女にマウントポジションをとられながら、十六夜咲夜は大声で笑っていた。
それも当然だ。向こう5分以上、こうして一方的にくすぐられ続けているのだから。
「持ってないんでしょ?ないんでしょ?なら大人しく悪戯されてなさい!」
容赦のない霊夢の攻勢。笑い疲れて死にそうだ。
けれど、珍しく心から楽しそうな霊夢を見ていると、無理矢理引き剥がそうとも、抵抗しようとも思えなかった。
宙ぶらりんと宙ぶらりん。
けれど、一緒にいれば互いの存在が地盤になる。照らしたその先にある場所になれる。
互いに声が枯れるまで、縁側でのじゃれ合いは終わらなかった。
「ほんとは、あんたには違う意味で『悪戯』したかったけどね」
少しやりすぎてしまったかもしれない。僅かな反省と共に、疲れてうたた寝を始めてしまった咲夜の髪を撫でながら、霊夢は彼女を起こさないように口元だけで呟いた。
なんて無防備な寝顔だと、思わず溜め息が出そうになる。
「そしたら私が本気になりそうだから、やめとくわ」
じゃれ合う友人、それで良い。だから、せめて。
甘いお菓子の代わりに、隙だらけな寝顔を晒すメイドの頬にこっそり口付ける事くらいは許されて欲しい。
彼女の銀髪が自分の吐息で微かに揺れるのを薄めた視界の端で捉えて、霊夢は静かに目を閉じた。
違う意味での『悪戯』が気になるところです
この二人って本気になるまでが長そうなイメージがありますね