『終点新島々、新島々でございます。皆様、お降りの際はお忘れ物の無いようにお気をつけ下さい………』
古ぼけた車内アナウンスを聞き、これまた古ぼけた電車から降りたのはたったの二人。
「懐かしいわねぇ、何年ぶりかしら、北アルプス」
「結構寒いのね」
そりゃそうよ、と蓮子は言って暖房で暖まった体を冷やさないためコートのジッパーを一番上まで閉め、時刻表が据え付けられている待合室までメリーを案内した。
「はい、コーヒー」
「ありがと」
レトロな自販機から紙コップに満たされた暖かい飲み物を渡して蓮子はメリーの隣に座る。
待合室に備え付けられている長生きの石油ストーブは狭い部屋の中でその存在意義をこれでもかと言わんばかりに主張し、二人の体温を上昇させた。
「そう言えばバスは?」
「んー、後一時間」
「一時間!?ウソでしょ」
「ところがどっこい」
言って蓮子が指さした時刻表には今からちょうど一時間後にようやく一本のバスが来ると予言している。
「まぁ、ゆっくりしましょう」
コーヒーを一息で飲み干した蓮子は紙コップを潰しゴミ箱まで歩いて行き、それを捨てると窓から見える山々を見据えた。
何見てるの、同じくカップを捨てに来たメリーの言葉で我に返った蓮子は昔を思い出していただけと言って席に戻った。バスが来るまではまだある。
「何それ」
「ん?お守り」
胸ポケットから蓮子が取り出したのは面ファスナーが縫い付けられたワッペン。一見すると軍隊の物のようである。
「それ、アメリカ軍の?」
「違う、私の高校の山岳部の袖章」
蛙と蛇があしらわれたそれは、まるで本物の軍隊に扱われたかのようにボロボロだった。
なぜそのようなモノを持っているのかと問うたメリーに蓮子は仲の良かった山岳部の先輩に貰ったのだと言う。
「これを貰った高校二年生の冬、私は初めてオカルトと言うものに興味を持ち始めたわ」
蓮子はワッペンを強く握りしめ、遠方に聳える山稜を見据え、語り出した。
数年前、こう見えても私はオカルトに興味なんかなかった普通の高校生だったわ。
『宇佐見さん、アナタ部活入らないの?』
『特に興味はないんですけどね』
自分で言うのもなんだけどつまらない人生だったわ、与えられた課題をこなしすだけの作業。
でも、ある日学校に久しぶりに刺激的なニュースが流れた。うちの学校の山岳部がネパール・チベット間のギャチュンカンって山に登頂成功したの。で、私はその時の私は何故か山岳部の部長に会いたくなって、初めて部活見学と言う物をしたのよ。
『……宇佐見さん、一年生。うん、今日は練習見学だけなのね』
『ありがとうございます』
びっくりしたのがその部長が想像していたようなガタイの良い山男じゃなくって線の細い女の人だったのよ、黙って座っていれば図書室で静かに本を読んでいそうな姿だったわ。
でもやっぱり部員全員を高所まで引っ張って行って無事に帰らせた部長だけあって練習は相当の物だったわよ。
『お疲れ様です』
『別にどうってことないけどありがとうございます』
練習後、私は部長さんと二人きりで話したの。どうして山岳部に入ろうとしたのか、どうやってギャチュンカンの様な高い場所へ登れたのか。
でも出てきた答えは答えらしい答えじゃなかったのよ。
『私は神様を信じていますから』
『え?』
まさか目の前の人がそんなこと言ってきたら即疑っちゃうレベルよね、神を信じているから登れたなんて。
でも、私はどうもその答えに納得してしまったのよ。
『はぁ、神様ですか』
『えぇ、神様だけでなく妖怪や幽霊、UFOなんかも』
『オカルトがお好きなんですか?』
『そうですね』
聞くと先輩が山に登る理由はまだ人の力が及ばない場所だからだそうだ。
天候、落石、雪崩、ホワイトアウトその他諸々、自分がいくら技術を磨いて精神を極限まで高めようとも結局は神頼みとするしかない所が良かったらしいのよ。
私も何故か先輩の言葉に感銘を受けちゃってね、それ以来よく二人であっては話をしたわ。
そうそう、一番印象的なのは夏休みの時の講習で会った時の話ね。
『自分の手足と精神力、そして山の神様のご機嫌全てが一致してこそ頂上へ登れます』
『………私も、行ってみたいなぁ』
なぁんて呟いた翌週に先輩ったら松本行きの新幹線の切符二枚とったんだから凄い行動力持ってたわよ。
『長野は私の生まれ故郷なんです』
『えっ、てっきり東京生まれかと思ってました』
『こっちに来たのは丁度中学校に上がる時でした、それまでは穂高や常念あたりを毎年登っていました。随分遠くなったなぁ』
やっぱり七千を登った足は尋常じゃなくって、上高地から横尾まで大凡三時間、私の荷物まで持って貰って歩き切ったの。その日の夜、私は先輩からこれを貰った。
『宇佐見さん、これ貰ってくれますか?』
『なんです?これ』
『うちの山岳部のマークであり、私のお守りでもあります』
『蛙と蛇、ですか』
『はい、私の神様です』
そんな大事なモノを貰って良いのかと聞くと、大丈夫だから貰ってくれ、と言われこれはその日以来私のお守りでもあるの。
翌日は蝶が岳に登って、その翌日に東京へ帰る。たった三日間だけだったけど、とてもいい景色が見れたわ、蝶と情念の中間にある蝶槍って場所があってね、そこが素晴らしい場所だったのよ、奥穂、北穂、槍が岳が一望できる。晴れだったらね。
「ふーん、そのワッペンはその時のなの……そう言えば景色が見れなかったってことは晴れじゃ無かったわけ?」
「そう、曇天」
蓮子は窓から顔をそむけ席に戻り、ストーブに手をかざす。
メリーはもう一杯コーヒーを買い、遅れて蓮子の隣に座った。
「それから何度か先輩と山を登ったわ、部活なんかには入って無かったから夏休みや冬休みは基本的にフリーだったの」
もちろん冬山も、と蓮子は言う。
奥多摩の雲取山、丹沢山塊の塔ノ岳、気軽に歩ける山々を二人で登り、何時しか自分は二年生、先輩は三年生。
先輩は受験を控えていようがお構いなしに山へ登っていたと蓮子は言う。
「『成績は大丈夫なんですか?』って聞いたら先輩こう答えたのよ『常識にとらわれてはいけません』って、おかしいでしょ?」
「根っからの山女さんね」
そして蓮子はその後の人生を決定づけた出来事をメリーに語った。
高校二年生の冬のことである。
先輩はもう進路が決まっていたんだけど、私は運が悪いことに試験で赤を取っちゃって補習にあえいでいたわ。
『そうですか、冬のアルプスは無理ですか……』
『すいません先輩、来年誘って下さい』
『えぇ、必ず誘いますから、覚悟して下さい』
三日後、先輩は雪深い長野へ出発して行った。その更に三日後、ニュースで先輩の悪い知らせが放送された。
『…………さんの遭難現場では雪崩が起きた可能性があり、捜索は依然として進んでおりません』
珍しい事に当時のテレビは連日先輩の名前と顔を電波に乗せ、盛んに雪山への認識不足を挙げ連ね先輩を心配しながらも糾弾していたわ。
でも、私には先輩が認識不足何か起こす人じゃないと信じていた。そして、捜索期限が切れる直前の夜、私の携帯電話が鳴った。
『………こんな夜に誰よ』
電話番号は先輩のだった、驚いた私はすぐに電話を取って話しかけたの。
『せ、先輩?』
『宇佐見さん?ニュース見た?』
『はい、先輩有名人ですよ』
話をしている内に私は先輩がこの世の人じゃなくなって行くような気がして怖くなって、それでも話を切ってしまえば永遠に会えないのではないかと言う別の怖さから電話を切りあげる事が出来なかったの。
『宇佐見さん、私は神様の居る場所に行きます』
『それって、どういう意味、ですか』
『そのままの意味です』
『嫌です!待って下さい、先輩!』
先輩は電話の向こうで笑っていると私は感じたわ、でもその想像の笑顔がうすら寒いものに変わっていくのを、私は無性に怖がった。
『宇佐見さん、お守りは大事にして下さい、大事にすればあなたとあなたの大事な人が幸せに暮らしていけますから』
『先輩!待って下さい先輩!先輩!!』
電話はそこで切れて、お終い。
翌日起きたら先輩の捜索が打ち切られた事を発表した警察の人が頭を下げる映像が目に付いたわ。
その映像を見ながら私は思ったわ、人には決して触れられない場所がある、先輩はその触れられない場所へ到達したのではないかと。
「……ふぅん、そんなこともあったの」
「山は悲しい事もあるわ」
メリーは空になったコップをゴミ箱に捨て、蓮子にその先輩の名を尋ねた。
しかし当の蓮子は聞かれた瞬間に頭を抱え込み、悩み始めてしまう。
「あれ、そう言えば先輩の名前って、何だったっけ……」
「薄情ってレベルじゃないわよそれ!」
「いやでも、本当に覚えてないのよ、一緒に山行ったりしたことは憶えているのに何でか名前が思い出せない」
「良くないわよそう言うの」
「分かってるけど……」
思い出しようのないものは思い出せない。そう言う蓮子にメリーは溜息を吐く。とその時、計ったかのように駅にバスが到着した。
「蓮子、バスが来たわよ、行きましょう」
「あぁ、うん」
「名前は今度思い出して貰うから良いわよ、バスが行っちゃうわよ」
腑に落ちない様子の蓮子をメリーは引っ張ってバス乗り場へと急いだ。一気に下がる気温と懐かしの上高地へ向かう二人の顔は次第に明るくなってゆく。
急に人気のなくなった待合室には緑髪の少女の写真が貼られた古い捜索願の書類が張られたままであった。