接吻にはいくつかの種類がある。そう言われて思いつくのは、唇を軽く触れ合わせるだとか、それよりも濃厚なものだろう。しかし、ここで言いたいのはそういう意味の種類ではない。
例えば、手の上なら尊敬で額の上なら友情。いわゆる劇作家の作った、格言というやつである。
「手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。
閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰」
であっただろうか。ではこれら全ては何なのだろうか。全て、尊敬も友情も満足感も、愛情も憧憬も懇願も欲望も、狂気の沙汰すらも含めたそれは何の意味なのだろうか。
僅かな心の片隅で、そんな誰にも分かるはずのない答えを誰かに問いかけつつ、自らの手を見つめた。
虫に這われた不快感がこれに近いだろうか。それとも、見ず知らずの人物に息を吹きつけれている感覚だろうか。いずれにせよ、堪えられないということだけは共通しているのだ。
洗面台に溜めた水の中で、左手の甲を右の手の平で擦る。擦って擦って、擦りすぎて、水が外に飛び出てしまってから、服が濡れてしまったと溜息をついた。誰にも聞かれることはないから、音を隠す必要も人目を憚ることもなく感情を出すことができる。
一度濡れてしまったのなら気にすることはないと、存分に水面を揺らして擦ってはみても、その手の甲に残る感触は一向に消えることはなく。水を大きく減らすことになるのだが、諦めるという選択肢を選ぶつもりはなかった。
左手を擦っているうちに反対の手の甲の感触が広がっていくようで、腹の奥から込み上げるものを押さえるのが辛くなってくるのだ。
これから先、何度この感覚に苦しむことになるのだろうか。そう考えると、全身の力を抜いて後ろに倒れたくなる。そんなことをしたところで消えて居なくなれるはずもないことは分かっているのだが。
両の手の指を曲げれなくなってからは、回数を数えるのは止めた。脚の指を足しても足りないことは明らかで、もし、この身体に腕が四、五本も生えていても足りないだろう。
始まりがいつであったのかは思い出せない。思い出せないのは、っと心のがまだ受け入れていないせいだ。受け入れないからといって事態が変わるわけでもなく、無駄に辛いだけなのだが、その心を変える術など知らない。
それならいっそ、昨日のことだけでなく、先程のことを思い出せないほどに便利ならいいのに。現実はそんなに上手くはできているはずもなく、やはり溜息を零すしかなかった。
いつもと何らの変わりもない一日。掃除に洗濯に炊事、当然のごとく待っている家事を片付けて終わりだ。多少の例外などもあったりするが、流れは大体同じである。言うまでもないことだが、いつもと何らの変わりもない一日、その終わりは就寝。
就寝とは本来、休息であるはずなのだが、それは私には当てはまらない。その原因は主にある。
合図がなければ、いつ身構えれば良いのかさえも分からず、気を抜くことはできない。普段と何らの変わりも感じられない主のせいで、私は眠れない日々を過ごさなくてはならないのだ。
主は私に向けて就寝の挨拶をする。場所はもちろん主の部屋であり、そのためだけに私を探したり、呼び出したりすることも少なからずあった。
嫌だと、面倒だと感じたことは一度だってなく、むしろ、それに言葉を返して、いよいよ自身にとっての一日の終わりとしても相応しい。日々、欠かさずに行われるせいで、これをしなければ、という程度には私と主の間の決まりごととなっていたのであった。
しかしながら、私の主は酷く尊大であり自分勝手な性格で、特に決まりごとを守ることに関してはとても律儀な人物であることは忘れてはいけない。
朝に近いのか、夜に近いのか、丁度の間であっただろうか。曖昧だ。
なんとなく心許なくて、ベッドに入る前に窓は鍵まで閉めて、それからカーテンで遮るので、外の景色は見えない。ただ隙間から漏れた黒を見るに、室内の方が明るいということは分かった。
どうしてこの時間に、主との挨拶をしてから程ない時間に、目が覚めたのか。心のどこかで覚悟をしていたからに違いない。
部屋の戸を叩く音は控え目に一度。それから、やや強めに二つを数えた。静かな室内、廊下にその音だけが響く。
もちろん返事はしない。
部屋の端にある窓にさえ鍵があるのに、扉にはどうしてか鍵などはなく。私は自らの声をもってしか入室を拒むことはできないのであるが、それをすることは今まで一度だってなかった。
ノックの音よりも小さな軋みを立てて扉は開かれる。目を閉じていても、開いた相手が誰であるかは分かっていた。
先に開けてやらねば扉など蹴破ってしまう豪快な日頃の姿との落差に、背筋のみならず脚の先にまで怖気が到達する。同じ姿をしているのに別人に思えてならないのだ。
主はもっと主らしく在らねばならない、と心が不満を述べ始め。そこにいる別人の存在を拒否する。
寝ているのか、そう私に問う。言葉の調子はとても穏やかで、やはりいつもの主ではないように思えてならず、遂に背中に汗が滲むのが分かった。
もちろん返事はしない。
事実の確認という意味合いではないことは、なんとなく理解できた。
だから、目を開けることも、呼吸を乱すことも、耳を澄ますことも、そちらへ意識を集中させることさえもせずに、ただ今まで在ったように横たわる。寝ている、という前提があるので、できる限り筋肉を弛緩させるように努力も忘れない。
身体をどれだけ伸びやかにしようとも、内面を穏やかに置いておくことはできるはずがなく。きっと酷い顔色をしているのだろうなと思う。
どれだけ音を消していようとも消しきれるはずはなく、こちらへと寄って来るのは容易に把握できた。その後どのような行動を取るのかも、今まで何度ともなく同じことを繰り返されてきたせいか、分かっていた、そう分かってしまう。
ベッドの上に衝撃もなく乗り立てひざをつくと、何も言わずにこちらを覗き込んで来るのを感じた。吐息で肌が濡れるほどに、来るのを感じたのだ。
全身の肌が張り詰める。少しでも気を抜けば、身体の奥から大きな身震いをしてしまいそうで恐ろしい。それをしてしまった後のことを想えば尚のことだ。
恐ろしいと思う。主を。私の知っている主であって、知らないからだ。
私にとっての主。姿形こそ多少、威圧感に欠けるものの、確かに少なからぬ人を惹きつけてるものを感じさせる。自らの立場を理解して、常に堂々と構えているのが、私の中の彼女の像だ。
そんな威厳に満ちた姿をとても好ましく思っていた。だから、私はそんな主に気安く触れることはせず。あちらもまた、無意味に触ることはして来なかった。私の中での、まさに理想的な関係である。
主はやはり自分勝手な人で、理想の関係を維持するに特別に努力する人であった。
いつの間にか、手を繋いだり、膝枕をするような関係になっていて。それを私も気付かないうちに受け入れていたことに気付いたのは最近になってからだ。
昔の主と今の主。重なるようでなんとなくずれたその像の違いに、ボタンの掛け違えた違和感を覚える。果たして本当にこのままで良いのだろうか、そんな疑問に日々の思考を蝕まれる。
私にとっての主とは何なのか。理想の主、昔の主の像。石で作られたはずのその像の半分ほどが滑り崩れた。激しい喪失感である。
彼女は私が起きていると気付いているのだろうか。疑問の答えがどちらであろうとも何ら意味を成しはしない。そのどちらの答えを私自身が望んでいるのかさえも分かりはしなかった。
肌に感じていた吐息がなくなる。
その代わりに別のものが触れる感触。額に当てられたそれが、指先や手の平であったならという期待をしてしまうが、それらよりも明らかに柔らかな感触が期待を裏切るのだった。
額から瞼へ移り、それから頬へ。温かいようで冷たいその触感になぞられた部分から目には見えないほどの汗が滲む。そうして滲んだ汗はとてもとても重く、頭の奥を締め付ける。
流れるように移動して、唇も当然のこと頤すらも。露出している部分は一つとして逃すことなく、その感触に襲われる。そうやって触られた部分は重たくなって、私はとうとう本当に動けなくなるのだ。
もちろんのことながら、ベッドの横に放り出していた肘も、その先の手首も、閉じた手の甲も、指の先の爪までも、触れられた。もしも、はみ出していたなら足までも触れていくに違いない。
弛緩させていたはずの肉はいつの間にか万力が込められていて、自分の身体であるのに、弛めることはできなかった。
そうして、一通りそれを押し付けた後、何も言わずに去っていくのだ。来たときと同じように音を立てずに、静かに。
これらの一連の行為の意味を、愚かな私には理解することできず、ただ懼れていることしかできない。主が私に何を求めているのかなど、推察することさえできはしないのだ。
私の中にある未だ崩れ去ってはいない主の像が、今の主の在り方を酷く受け入れない。心のどこかで、嫌っているのだ理想の関係を崩していく彼女を。私の心はまだ、理想の主のままでいて欲しいと訴えている。
だから、理想の関係を潰していく感触、身体は言い知れぬ不快感を顕にして、肌を磨かずにはいられない心持となるのだ。
彼女が去ってもしばらくは動く気にはなれず。しかし、身体に残った感覚が嫌でどうにかしようと無理やりに動かすのだ。
洗面所に溜まった水の中に沈めっぱなしの指先は、ふやけて色を落とし。爪を立てるように掻いたせいか、薬指の根元や小指の先などは皮膚が切れていた。痛いとは思わなかったが、それを不思議とも思わない。
切れた箇所をじっと見つめているこの間にもまた、あの感覚が戻ってきてやはり手を擦らずにはいられなくなる。
手に限った話ではない。額や瞼もだ。ここに残った感覚もなんとかしなければならない。溜息を吐きそうになったが、止めておいた。きっと別の汚いものまで出してしまいそうな気がしたからだ。
これから先もまた、同じことに悩まされるのであろうと予想すれば、身体を投げ出したい気持ちになった。悪魔の口づけの意味など、人間の私の知るところではない。
例えば、手の上なら尊敬で額の上なら友情。いわゆる劇作家の作った、格言というやつである。
「手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。
閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰」
であっただろうか。ではこれら全ては何なのだろうか。全て、尊敬も友情も満足感も、愛情も憧憬も懇願も欲望も、狂気の沙汰すらも含めたそれは何の意味なのだろうか。
僅かな心の片隅で、そんな誰にも分かるはずのない答えを誰かに問いかけつつ、自らの手を見つめた。
虫に這われた不快感がこれに近いだろうか。それとも、見ず知らずの人物に息を吹きつけれている感覚だろうか。いずれにせよ、堪えられないということだけは共通しているのだ。
洗面台に溜めた水の中で、左手の甲を右の手の平で擦る。擦って擦って、擦りすぎて、水が外に飛び出てしまってから、服が濡れてしまったと溜息をついた。誰にも聞かれることはないから、音を隠す必要も人目を憚ることもなく感情を出すことができる。
一度濡れてしまったのなら気にすることはないと、存分に水面を揺らして擦ってはみても、その手の甲に残る感触は一向に消えることはなく。水を大きく減らすことになるのだが、諦めるという選択肢を選ぶつもりはなかった。
左手を擦っているうちに反対の手の甲の感触が広がっていくようで、腹の奥から込み上げるものを押さえるのが辛くなってくるのだ。
これから先、何度この感覚に苦しむことになるのだろうか。そう考えると、全身の力を抜いて後ろに倒れたくなる。そんなことをしたところで消えて居なくなれるはずもないことは分かっているのだが。
両の手の指を曲げれなくなってからは、回数を数えるのは止めた。脚の指を足しても足りないことは明らかで、もし、この身体に腕が四、五本も生えていても足りないだろう。
始まりがいつであったのかは思い出せない。思い出せないのは、っと心のがまだ受け入れていないせいだ。受け入れないからといって事態が変わるわけでもなく、無駄に辛いだけなのだが、その心を変える術など知らない。
それならいっそ、昨日のことだけでなく、先程のことを思い出せないほどに便利ならいいのに。現実はそんなに上手くはできているはずもなく、やはり溜息を零すしかなかった。
いつもと何らの変わりもない一日。掃除に洗濯に炊事、当然のごとく待っている家事を片付けて終わりだ。多少の例外などもあったりするが、流れは大体同じである。言うまでもないことだが、いつもと何らの変わりもない一日、その終わりは就寝。
就寝とは本来、休息であるはずなのだが、それは私には当てはまらない。その原因は主にある。
合図がなければ、いつ身構えれば良いのかさえも分からず、気を抜くことはできない。普段と何らの変わりも感じられない主のせいで、私は眠れない日々を過ごさなくてはならないのだ。
主は私に向けて就寝の挨拶をする。場所はもちろん主の部屋であり、そのためだけに私を探したり、呼び出したりすることも少なからずあった。
嫌だと、面倒だと感じたことは一度だってなく、むしろ、それに言葉を返して、いよいよ自身にとっての一日の終わりとしても相応しい。日々、欠かさずに行われるせいで、これをしなければ、という程度には私と主の間の決まりごととなっていたのであった。
しかしながら、私の主は酷く尊大であり自分勝手な性格で、特に決まりごとを守ることに関してはとても律儀な人物であることは忘れてはいけない。
朝に近いのか、夜に近いのか、丁度の間であっただろうか。曖昧だ。
なんとなく心許なくて、ベッドに入る前に窓は鍵まで閉めて、それからカーテンで遮るので、外の景色は見えない。ただ隙間から漏れた黒を見るに、室内の方が明るいということは分かった。
どうしてこの時間に、主との挨拶をしてから程ない時間に、目が覚めたのか。心のどこかで覚悟をしていたからに違いない。
部屋の戸を叩く音は控え目に一度。それから、やや強めに二つを数えた。静かな室内、廊下にその音だけが響く。
もちろん返事はしない。
部屋の端にある窓にさえ鍵があるのに、扉にはどうしてか鍵などはなく。私は自らの声をもってしか入室を拒むことはできないのであるが、それをすることは今まで一度だってなかった。
ノックの音よりも小さな軋みを立てて扉は開かれる。目を閉じていても、開いた相手が誰であるかは分かっていた。
先に開けてやらねば扉など蹴破ってしまう豪快な日頃の姿との落差に、背筋のみならず脚の先にまで怖気が到達する。同じ姿をしているのに別人に思えてならないのだ。
主はもっと主らしく在らねばならない、と心が不満を述べ始め。そこにいる別人の存在を拒否する。
寝ているのか、そう私に問う。言葉の調子はとても穏やかで、やはりいつもの主ではないように思えてならず、遂に背中に汗が滲むのが分かった。
もちろん返事はしない。
事実の確認という意味合いではないことは、なんとなく理解できた。
だから、目を開けることも、呼吸を乱すことも、耳を澄ますことも、そちらへ意識を集中させることさえもせずに、ただ今まで在ったように横たわる。寝ている、という前提があるので、できる限り筋肉を弛緩させるように努力も忘れない。
身体をどれだけ伸びやかにしようとも、内面を穏やかに置いておくことはできるはずがなく。きっと酷い顔色をしているのだろうなと思う。
どれだけ音を消していようとも消しきれるはずはなく、こちらへと寄って来るのは容易に把握できた。その後どのような行動を取るのかも、今まで何度ともなく同じことを繰り返されてきたせいか、分かっていた、そう分かってしまう。
ベッドの上に衝撃もなく乗り立てひざをつくと、何も言わずにこちらを覗き込んで来るのを感じた。吐息で肌が濡れるほどに、来るのを感じたのだ。
全身の肌が張り詰める。少しでも気を抜けば、身体の奥から大きな身震いをしてしまいそうで恐ろしい。それをしてしまった後のことを想えば尚のことだ。
恐ろしいと思う。主を。私の知っている主であって、知らないからだ。
私にとっての主。姿形こそ多少、威圧感に欠けるものの、確かに少なからぬ人を惹きつけてるものを感じさせる。自らの立場を理解して、常に堂々と構えているのが、私の中の彼女の像だ。
そんな威厳に満ちた姿をとても好ましく思っていた。だから、私はそんな主に気安く触れることはせず。あちらもまた、無意味に触ることはして来なかった。私の中での、まさに理想的な関係である。
主はやはり自分勝手な人で、理想の関係を維持するに特別に努力する人であった。
いつの間にか、手を繋いだり、膝枕をするような関係になっていて。それを私も気付かないうちに受け入れていたことに気付いたのは最近になってからだ。
昔の主と今の主。重なるようでなんとなくずれたその像の違いに、ボタンの掛け違えた違和感を覚える。果たして本当にこのままで良いのだろうか、そんな疑問に日々の思考を蝕まれる。
私にとっての主とは何なのか。理想の主、昔の主の像。石で作られたはずのその像の半分ほどが滑り崩れた。激しい喪失感である。
彼女は私が起きていると気付いているのだろうか。疑問の答えがどちらであろうとも何ら意味を成しはしない。そのどちらの答えを私自身が望んでいるのかさえも分かりはしなかった。
肌に感じていた吐息がなくなる。
その代わりに別のものが触れる感触。額に当てられたそれが、指先や手の平であったならという期待をしてしまうが、それらよりも明らかに柔らかな感触が期待を裏切るのだった。
額から瞼へ移り、それから頬へ。温かいようで冷たいその触感になぞられた部分から目には見えないほどの汗が滲む。そうして滲んだ汗はとてもとても重く、頭の奥を締め付ける。
流れるように移動して、唇も当然のこと頤すらも。露出している部分は一つとして逃すことなく、その感触に襲われる。そうやって触られた部分は重たくなって、私はとうとう本当に動けなくなるのだ。
もちろんのことながら、ベッドの横に放り出していた肘も、その先の手首も、閉じた手の甲も、指の先の爪までも、触れられた。もしも、はみ出していたなら足までも触れていくに違いない。
弛緩させていたはずの肉はいつの間にか万力が込められていて、自分の身体であるのに、弛めることはできなかった。
そうして、一通りそれを押し付けた後、何も言わずに去っていくのだ。来たときと同じように音を立てずに、静かに。
これらの一連の行為の意味を、愚かな私には理解することできず、ただ懼れていることしかできない。主が私に何を求めているのかなど、推察することさえできはしないのだ。
私の中にある未だ崩れ去ってはいない主の像が、今の主の在り方を酷く受け入れない。心のどこかで、嫌っているのだ理想の関係を崩していく彼女を。私の心はまだ、理想の主のままでいて欲しいと訴えている。
だから、理想の関係を潰していく感触、身体は言い知れぬ不快感を顕にして、肌を磨かずにはいられない心持となるのだ。
彼女が去ってもしばらくは動く気にはなれず。しかし、身体に残った感覚が嫌でどうにかしようと無理やりに動かすのだ。
洗面所に溜まった水の中に沈めっぱなしの指先は、ふやけて色を落とし。爪を立てるように掻いたせいか、薬指の根元や小指の先などは皮膚が切れていた。痛いとは思わなかったが、それを不思議とも思わない。
切れた箇所をじっと見つめているこの間にもまた、あの感覚が戻ってきてやはり手を擦らずにはいられなくなる。
手に限った話ではない。額や瞼もだ。ここに残った感覚もなんとかしなければならない。溜息を吐きそうになったが、止めておいた。きっと別の汚いものまで出してしまいそうな気がしたからだ。
これから先もまた、同じことに悩まされるのであろうと予想すれば、身体を投げ出したい気持ちになった。悪魔の口づけの意味など、人間の私の知るところではない。
振り回される情熱的な主を、冷淡な従者目線で、もう少し覗いてみたくなりました。
次作を心よりお待ちしております。