しゃぐしゃぐしゃぐ。
ハッと気付いたら、口の中からしゃぐしゃぐ音がしていた。
「?」
びっくりして反射的にガチッと噛んだら、目の前を何かがくるくる回りながら飛んで、すぐに落ちた。
それからバキってと音と、キチッと歯と歯の間でその何かがつぶれた様な音が耳に同時に届いていたのに気付いて「?」って咀嚼してみたけれどよく分からなかった。
「あらあら、駄目よ芳香、歯ブラシなんて美味しくないでしょう? さ、ペッてしなさい」
「う?」
声がしたけれど、誰の声か分からない。
瞼が重くて、気付けばとろんと閉じていて、体がちっとも動かなかったから。
けれど、その声はジンとどこかに染込んで心地良いから、言われた通りに口をあけた。
だらーっと、何とか口の中のものをぺっぺっと出そうとすると、泡とか破片とか唾液とか、たくさん出ていったみたいな音がかろうじて届いた。
「偉いわね。それじゃあ、次はうがいをしましょうか」
「えぅ?」
「はい、ガラガラよ」
「……がらがらー」
「口で言っているだけじゃ駄目よ。ちゃんと口に含んでゆすいで、またペッてするの」
「あー?」
口の中にどこからか入ってくる水を、溜め込まずにぼたぼた零しながら、とりあえず言われた通りにがらがらしてみようと水を含んだ。それからぐちゅぐちゅという音が耳にうるさいぐらい入ってきた辺りで、思い出してきた。
そういや、歯磨き中だったんだ。
「はい、きれいきれい」
「んむ」
「でも口をあけてね? さっきの歯ブラシの破片が刺さっているみたいだから」
「あー」
「はい、とれた」
重い瞼を開けば、眩しくてぎゅっとまた閉じてしまう。明るいのは苦手。
目元を擦ると、くすくすと軽やかな笑い声がして、ぱちぱち瞬きをして目の前を見る。
「おはよう。ようやくお目覚めかしら、芳香」
「あー……」
優しい笑顔。
ぴくんと反応する不思議な香りを持つ人。
えーと。誰だっけ?
こてんと首を傾げると、その人はやっぱりくすくす楽しそう。
「私は貴方のご主人様よ」
「ごしゅじんさま?」
「そうよ。私の事は、そうね。今日は『青娥』って、呼びすてして欲しいわね」
「せい、が。せいが、せいが」
「そうよ。青娥」
「そうか、青娥かー」
頬を撫でているのだろう。目の前で彼女の両の手がやわやわ動いている。
私は感覚が無いんでよく分からないけれど、それは嬉しい事なんだと、それは覚えていたから、嬉しい時にする様に、彼女の表情に近くなるといいなと、顔を動かしてみた。
「あら」
「?」
「やだわ芳香、それは怒った顔よ。違うわ」
「う?」
「こうやってね。唇の端をあげて、目元も優しく細めるの。ほら『笑顔』でしょう?」
「おー」
そうだ、そうだそうだ。
うんうん頷いて、目の前の青娥の笑顔が嬉しくて、同じ様にしてみようと、自分の口に指を入れて引っ張った。
「それはちょっと違うわね」
「はふ?」
「ふふ、今日はいつも以上にお寝坊さんなのね。昨日は頑張ってくれたからかしら?」
よしよし、髪がくしゃくしゃなる音がする。
それから、青娥の口から、いいこいいこって、しっとりと小さな音がして。
あ、って。目の前が少し広がった。
ぱちくり、急に靄が消えた感覚。
「青娥。そうだ青娥だ!」
「あらようやくなのね? おはよう芳香」
「せいが~」
「ん。うふふ、良い香り」
きゅぅ。
音がする。
知らないのに知っていた何かが、青娥の笑顔を見たら震えた気がした。
そうだ。
私は青娥のキョンシーで、青娥はご主人様で、私は青娥が大好きで。青娥も私を大好きで。
私は死んでて、痛くなくて、青娥は生きていて、私を直してくれる。
「青娥、青娥、青娥」
「はい、はい、はい。大丈夫よ芳香。急に思い出してびっくりしちゃったの?」
「んぅ~」
「甘えん坊ね」
そっか。
だから体が動かせないんだった。
足も腕も指の先も、ぴくりとも動かない。そんな私をふわふわ浮きながら見下ろして、きっと優しく抱きしめてくれている青娥。
うれしいなぁ。
「青娥ぁ」
良い香り。
青娥の香りはとても懐かしい。
この場所じゃない大切な場所を思い出す。
思い出せないけれど、感じられる。青娥が抱きしめてくれると嬉しい。
あれ?
でも私は、えと。あ、駄目だった。
「青娥、青娥! はなれて、だめだ」
「え? 芳香」
「ん~!」
かろうじて自由に動く首をぶんぶん振って、ぴょんぴょんと青娥から距離をとる。
そうだった。
私は確か、えと。腐乱臭というのがするらしいのだと思い出して、思い出せてよかったと、ほっと青娥を見る。
腐乱臭という奴はうつるらしい。
だから、青娥の良い香りがなくなるのは勿体無いって強く思った。
青娥は、優しい瞳をまあるくして、口元が少しだけ引きつった、少しいつもと違う笑い方をしていた。
「…………芳香」
「青娥、近づかないでね!」
「…………よ、芳香が、私と、距離をとる?」
ふらふらと、微笑みながら青ざめていく表情の中、ちらりと手の中に一枚の札が見えた。
「?」と改めて見ると、青娥が小さく震えているのに気付いた。
「青娥?」
「…………」
「大丈夫?」
「…………」
寒い?
青娥、寒いの? 震えがどんどん大きくなって、俯いて顔がよく見えない。
寒いなら暖かいがいい。
暖かければ青娥もにこにこする。
ぎゅってする?
あ。でも私は確か冷たかったんだった。えっと。どうしよう。なんだっけ? てっとり早く暖かくするには。えーと。えーと。
「………ええ、大丈夫。そうよ。……芳香、今日の貴方は本当に少し疲れているの。だから、今日のお仕事は何もしなくていい。ただ眠りなさい。そして目覚めたら、私に」
「せいがだいすき!」
「しゅ」
「せいがあったかくなって!」
「しゅ、しゅきって、い、言ってくれれ、ば……………」
「? 青娥、しゅき!」
「私も大好きよ芳香ー!!」
ゴキッて音が、腕と足から同時にした。
お?
って気付いたら、青娥の顔が目の前で、抱っこされていると気付いた。
青娥の香りが一杯で、ほわって、また、何かが小さくうずいた。
「もう! もう! 芳香は、びっくりしたわ。本当に驚愕したのよ? 貴方が私から離れるのかもしれないって、すぐに頭の中いじらなくちゃって、本当に焦ったのよ!」
「んっとね。せーががしゅき!」
「私もよ! ああ私の芳香! 今日の貴方も最高に素敵よ!」
ゴキキッてうるさい音が足元からしたけれど。青娥が嬉しそうで、こんな表情が好きなんだって。
忘れてたけど思い出して。
忘れるけれど、何度も思い出して、その度に、こんな気持ちになるから。
『幸せ』だって。私は思う。
ぐちゃって変な音がしてきたけれど、青娥の顔がふにふに柔らかそうで、美味しそうで嬉しい。
「おー青娥が美味しそうだぞ」
「あ、あら、そう? じゃあ、貴方の味覚をいじって、私だけを美味しいって感じさせようかしら?」
「う?」
「それもいいわね。……神霊を美味しそうに食べてくれる芳香も可愛いけれど、私を食べたいって、求めてくれる芳香は、きっともっと可愛いわ」
「そっかー」
じゃあいいやって。
『笑顔』する。
青娥は、暫し時が止まった様にジッと見て、ふにふにって顔で、私をぎゅってまた抱きしめてくれる。
そうなんだ。
二人きり。
だから見せてくれる、その顔が。私は好きなんだ。
誰かがいたら、見せてくれない。
誰かがいたら、隠してしまう。
邪魔だから、皆食べちゃおうって、その度に思った。
だって。そうしたらずっと、青娥のこの美味しそうな顔を見れるから。
でも。
すぐにまた、忘れちゃうんだろなー……
ちょっとだけ惜しくて、青娥のふわふわした服の端を噛んだ。青娥の香りがした。
忘れない方法はないのかな? ってガジガジして。
そのまま、香りが一杯になって。だんだんと我慢ができなくなってきて、青娥の肩を、ちょっとだけ噛もうとして―――カタン、と音がした。
アガ、と口をあけたまま、何となくその音の先を見ると、目をぱちくりした、誰かがいた。
「なんだ、お主たちまだやっていたのか」
その声はどこか呆れていて、全体的に白いけれど、どこか青娥とは違う美味しそうな匂いがした。
「あら、物部様。何か御用でしょうか?」
「うむ。屠自古が朝餉の用意ができたから呼んで来いと言うのでな『パシリ』というものをしておる」
「……そうですか」
青娥の顔がさっきのふにふにから、どこか柔らかいのに触れたら消えてしまいそうな、誰かがいる時のいつもの微笑みに戻ってしまう。
残念だと思った。
残念で、邪魔だなぁって、まだ見たかったのにって、じりじりした。
いっそ、あいつを食べてしまおうか? とそいつを見るけれど、そいつは胸を張ったまま、食べたいって見る私を気にした様子もなく「水浸しだな」なんて私と青娥と足元を見て言う。
「風邪、は引かぬだろうが、早く着替えた方が良い。ただでさえ青娥殿はそやつの準備に時間がかかりすぎる」
「あら、かねてより女人が支度に手間をかけるのは当然ですわ」
「うむ。青娥殿の準備がそやつだというのは知っているが、もっと自分にも時間を使うと良いぞ。……服が乱れておる」
「っ」
青娥がぴくんとして。それからチラチラっと私を見てから「ええ、取り込み中だったんです」ってまたぎゅってしてくれた。
そいつは、小さくむぅ、って変な顔をしてから「そ、そうか」って、横目で青娥をジッと見てから、音も無く背中を向けてしまう。
「まぁ、良くはないが。……早めにな」
「はい、努力致しますわ」
「……我も、その、手伝っても」
「結構です」
最後は妙にきっぱりと。
かくんと肩を下げて「……そうか」ってとぼとぼと去っていくそいつを、じーっと見てから。
ようやく青娥は私を見てくれた。
それから、笑ってくれた。
「それじゃあ、私はもう行かなくてはいけないから、貴方は番をお願いね」
「! うん!」
忘れていたけれど、忘れてない! そう。それが私の役目だ!
守るのだ。
ここを。
青娥を!
「……はぁ、今日はあまり貴方と過ごせなかったわね。それだけが心残りだけれど、日が沈む頃には、またすぐに私の所に戻ってくるのですよ? きれいきれいにしてあげます」
「うん!」
「お風呂に入りましょう。服をきせてあげましょう。そしてまた、夜のお仕事にいってらっしゃいとキスをしてあげます」
「うん!」
「では、朝の分を」
「むぐ」
唐突に。
青娥が瞳を閉じて、長いまつげが震えているのが目の前にきた。
小さく、水音もした。
「?」
何だろうって思ったけれど、次の瞬間に、思い出せないけれど感覚的に、何か分かった気がした。
だから、私は静かにして、少しだけ目を細める動きをして、動かないけれど、変な音がでるのに青娥を抱きしめようとして、動かずに失敗する。
残念だなって惜しくて、けれどこうやって青娥が顔をくっつけている時は、静かにするものだと、誰かが言っていたから。だからそのままで、青娥の顔だけを見ていた。
頬がほんのり桜色で、きれいだなぁって、きゅぅきゅぅ鳴る。
「……ん」
すっと。
たっぷりと時間をかけてから、ゆっくり青娥が離れる。
あ、もう終わりなんだって、両腕から変な音が聞こえる。
その音が青娥にも聞こえたのか、小さく表情が動く。少しだけ名残惜しいって思ってくれているのかな? っていう表情で。何だか焦って、すぐにぎゅってして欲しくなる顔をする。
「いってらっしゃい」
気付けば、青娥はいつもの優しい笑顔に戻っていた。
だから私も、何か変なもやもやがあるけれど『笑顔』して、ぴょんっと一度じゃんぷする。
「いってきます!」
空元気。
っていうんだっけ?
違うかな?
もやもやする。
もっと、傍にいたかった。
大事な大事な人だから。
私にとって、私は宮古芳香で、彼女は、宮古芳香を大切にしてくれる、人で。
あぁ。そっか。
寂しいだった。
寂しい、か。
そういえば。いつもいつも、それを感じていた事を、覚えている。
何度も何度も経験して、どこかに少しずつ深く刻み込んで『いたい』と少し思った。
でもすぐ『いたい』って、何だっけ? って分からなくなる。
ぴょんぴょん、彼女に背中を向ける。
顔の筋肉が何故か『笑顔』できないから、見せないでおこうと思った。
「芳香」
「うん、なぁに?」
「いえ、忘れちゃうかもしれないけれど、柔軟運動は一人でもしなさいね」
「おー」
「……。芳香!」
「うん、なぁに?」
「……その、ね」
小さな、聞こえにくい声。
でも『笑顔』できない私は振り向けないなって、ぴょんぴょん、背を向けたまま、出入り口に飛び込む直前で。
「―――忘れてもいいから、忘れないでね」
やさしくてかなしいこえが。
不意打ちみたいに、じわってきた。
だけれど、私は返事ができなくて、ぴょんぴょん、変な音がする顔を無視して、飛んでいく。
◆ ◆ ◆
気付いたら墓場にいた。
「おお?」
ぴょんぴょんって、飛べたのにずっとじゃんぷしてここまで来たみたいで、足が汚れているのがかろうじて見えた。
なんだろ、なんだろ、なんだろ。
とても、大切な言葉があった気がするのに。
もう思い出せない。
零した水を集めても、どうしようもないって、誰かが、言っていた?
ぽけっとして、空を見る。
青い。
うん、青いのはいい。
青はあの人の色だ。
あの人は誰だか思い出せない。遠いけれど。でも、青は落ち着く。
「……ぺっ」
なんとなく、ぺってした。
そうしたら口の中から、何かがでてきて、カチッと地面に落ちた。何かの、破片みたいだった。
「?」
きゅぅ、と。
どこかが疼く。
もう分からない。
だから、きっと考えても届かない。
ただ、私はここを守らなくてはいけないのだと。それしか無い。
「……」
きゅぅぅ。
変な感じがする。
でも、大丈夫。
きっと、誰かが教えてくれるって。
「あー」
でも、その誰かは誰?
でも誰かがいるのは知っているから。誰かを待てばいいのかな?
誰かはきっと、来てくれるんだって。それは分かるから。
分かるけれど、分からないから。もやもやってするのだ。
変な、どこかを締め付けるみたいな感覚は、その誰かの事を考えていたら、徐々に薄らいだ。
『―――私たちはね、芳香。毎日出会いと別れを繰り返すの』
知らないけれど知っている声が、ふと頭の中で木霊する。
意味は分からないけれど。
それじゃあ、寂しくないのかな?
って。私は不思議と、その優しい声に、頷いていた。
気付けば、パサリと。青い鳥が、私の腕の先で羽づくろいをしていた。
動かない腕で休んで、ぴょんぴょん跳ねて、皮膚がさけて少しぼろぼろになっていた。
それを見て、何故か、まるで『誰か』を見ている気持ちになって。ふと、顔の筋肉が『笑顔』しているなって。
気付いたら、ふわりとどこかが暖かくなった。
「あー……」
早く。『出会い』をしたいと。
まだ高い太陽を見上げてから。はやくはやくと、何かをせかす。
そうして、私は今日も繰り返すのだ。
船長シリーズも待ってます
×租借
○咀嚼
どちらも大好物です
それが寂しい
青蛾の直球な邪仙らしさも好ましい。
なんかぐにゅうってなりそうです。
ごちそうさまでした。