※百合です。
※死ネタ(におわせる表現含め)有りです。
私と彼女はよく似ていた。
だからこそ、互いに惹かれて、焦がれ合った。
瞳を見れば、互いが互いに恋をしている事なんて手に取るように分かった。
けれど、一言も「好き」だとは言わなかった。
手も繋がなかった。キスだってしなかった。友愛以上の表現は、互いに決してしなかった。
おいていく事が嫌だったから。
おいていかれる事が嫌だったから。
だから、私たちは背を向け合った。
振り向けばすぐそこに愛しい人がいると心の底から理解しながら、絶対に、振り向かなかった。決して触れることのない背中合わせで。私たちはそれぞれ、違う者の体を抱きしめて、違う者と唇を重ねた。
真っ直ぐに愛してくれた。だから、精一杯抱きしめた。たくさんの睦言を紡いだ。唇を、肌を、数え切れないくらい何度も重ねた。1人でいたって目を瞑れば、その声が、視線が、表情が、体温が、すぐそこにいるかのように浮かんでくる位に。
けれど。
―――ごめんね。
―――愛してる。
それはこの腕に抱いた彼女へか、それとも私によく似た瞳をした彼女にか。
ずっと、ずっと。
贖罪を求める咎人の声が、胸の中に響いている。
想いを隠した臆病者の心が、私の中で震え続ける。
◆
どうしようもない卑怯者だと、何度自分を責めただろう。救いようもない臆病者だと、何度自分を詰っただろう。蹲って、全てを見透かすような月の光を恐れて、彼女の髪色を想起させる太陽を見る度に心を焦がして、一体どれほどの時間を過ごしてきたのだろうか。
分からない。分からない。
彼女に焦がれたその時から、私の時計はすっかり狂ってしまった。
白ばかりが覆う寒い春の日。
銀と灰と紅と、そして申し訳程度の蒼。
それくらいの色しかなかった私の世界に、あまりに鮮やかな七色が飛び込んできた。
弾幕を撒きながら踊る小さな人形達。
その中心で、私を見つめる蒼い目に射抜かれたその時に。
なんて綺麗な瞳だろうか。
なんて、よく似ているのだろうか。
冬さえ凍りつかせてしまいそうな、冷たい光に目を奪われた。
完全な自律人形のような人形師。凍える様な双眸とは裏腹に、その髪の色は全てを焼き焦がす日の光を、白い肌は陽光を照り返す月を連想させた。
舞い踊る人形。散る弾幕。時を止めた世界でそれらは等しく灰色に染まる。
けれど彼女だけは、音も色もないその中で、確かに鮮やかな色に染まっていた。
それは単なる気の迷いだと思った。けれど、彼女の指から続く、魔力で紡がれた細い操り糸を見て。
繋がれたいと、操られたいと。一瞬でも、そう思ってしまった。
どくんと、心臓が跳ねた。
陳腐に表現するならば、きっとそれは、運命に出会った音だったのだろう。
異変の後から、友人になるまでさして時間はかからなかった。
共通の趣味や知人の存在。一週間に何度か図書館へ訪れる彼女と言葉を交わす機会も多くて。
友人から親友になるのにも、さして時間はかからなかった。
時折浮かべる笑顔に、惹かれていった。
ふと瞳の奥で揺れる冷たい光に、いつの日か私は、恋に落ちた。
彼女の蒼に恋慕の色が混ざり始めたのはいつだっただろうか。それが私に向けられていると気付いたのはいつだっただろうか。
気付いて、けれど、進めなかった。
顔を見る度に心が躍っても、声を聞く度に鼓動が高鳴っても、手が触れる度にこの上なく幸せな気分になれても。気付いていない振りをして、目を逸らして、自分らしくない不器用な芝居で逃げ続けた。
軽蔑されたって良かった。
嫌われる事も覚悟した。
どうしても、彼女を傷つけたくなかったから―――
「……咲夜さん?」
鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、遠くへと飛ばしていた意識が引き戻される。
最初に感じたのは、雪も降らず、暖かい陽が照らす縁側の板敷の温度だった。
そして視界いっぱいに広がる、見慣れた顔。息が触れ合うほどの至近距離で覗きこまれていた。ここまで近付いてもなお気付かなかった私に少々ご不満なようで、ちょっと拗ねたように唇を尖らせている。
「もう、さっきから何度も呼んでたのに」
「あー……ちょっとぼぅっとしちゃってたわ。ごめんね、早苗」
触れ合いそうな距離をそのままに、機嫌を損ねてしまった彼女の頭を撫でてやった。するとちょっと体から力が抜けて。そして慌てたように拗ねた顔を作ってみせる早苗は子供みたいで、可愛らしくて思わず笑ってしまった。
「なんで笑うんですか」
「いや、ね?拗ねてる顔も可愛いなって」
「……っ!か、からかわないでくださっ……!?」
真っ赤になって慌てる彼女の口を、自分のそれで塞いで閉じさせた。
何度もしてきているというのに、不意打ちだとガチガチに緊張してしがみついてくる初心な反応。けれど、背中を撫でてやると徐々に弛緩してきて、唇を軽く離す度にもう一度とせがんでくるようになる。
何度でも、何度でも。彼女の望むまま啄むキスを繰り返す。
何度も、何度も。
『あなたが好きです!』
いきなり初対面で告白された時、面喰ってしばらく何も言葉に出来なかった。
真っ直ぐに私を見つめる彼女の瞳の奥に、煌々とした熱い炎が灯っているのが見えた。
瞼の裏に過ぎる虹。それも、たった一瞬。
勢い良く一直線に向かってくる想いに気押されて。
『え、ええ』
気付いた時には、首を縦に振っていた。
彼女は同じ人間だから、おいていく事はきっとないだろう、なんて。
想い続けるひとを傷つける事になる位なら、いっそのこと、なんて。
今から思えば、彼女の気持ちと向き合わなかったあまりに自分勝手な判断だったと思う。
けれど、決めたから。誓ったから。
彼女が望むだけの体温を、愛情を、睦言を、全てを。この四肢を、心を全力で動かして与えると。
「ん……ふっ、ぁ……」
口付けの間隙に漏れる小さな吐息。ただ唇が軽く触れ合っているだけだというのに、彼女はすっかり茹で上がってしまっているらしい。
緑色をしたセミロングの髪をそっと梳いてやると、細く長い息が零れた。
もう、そうしてからどれだけ経っただろうか。
薄く開いた目でアイコンタクト。微かな残滓を残して顔が離れる。
力の抜け切った体で、早苗はこちらにもたれかかってきた。
「顔、真っ赤よ」
「咲夜さんが上手過ぎるんです……」
「あら、ただ触れるだけだったのに?」
「そーいうんじゃないんですよ」
もぞもぞと、胸元の辺りで顔を上げて。黄土と緑を溶かして混ぜたような、不思議な色の瞳と目が合った。
その奥で灯り、揺れる、炎。
「あなただから。咲夜さんだから、こうなっちゃうんです」
照れ隠しだろうか、それだけ言うと、そっぽを向いて。見た目相応に華奢な腕が体の後ろに回る。顔を見られたくないのだろうか、胸元に頭を埋めてきて。柔らかな洗髪剤の香りが鼻腔に届いた。
とん、と。体に重みがかかって。
ちょっとの衝撃と、体の上に覚える温かくて柔らかい感触。すっかり慣れたその温度を落としてしまわないように、そっと腕を回す。服越しに届くどこか甘い香り。人間の、少女の匂い。
心を満たす安堵と、痛み。
「ねえ、咲夜さん…………良いですか?」
覗きこまれた。ねだるような瞳。
そんな質問、意味なんてない。叶えようじゃないか、望まれるのなら、なんだって。
頬を掠めるバードキス。
「好きです」
覆い被さる彼女が、愛おしそうに目を細めながら私の頬を優しく撫でた。
「……ありがとう」
顔を近付けてきて、受け入れるために目を瞑る。数瞬後、唇に落ちてくる柔らかな感触。誰もいない神社の縁側で、互いの柔らかい部分を触れ合わせながら、徐々に徐々に、孕む熱は高まっていく。
頭が熱に浮かされる。
視界が全て早苗で埋まる。
―――瞼を閉じて、ふと、過ぎる。
かぶりを振って、目の前の体をきつくきつく抱きしめた。
痛いですよ、と苦笑交じりの抗議にも構わずに。
―――ごめんね、ごめんね。
声にならない謝罪を繰り返す。
触れるたび心が八つ裂きにされたかのように痛むのは、私をずっと苛み続ける一つの罰で。
奇跡の担い手を愛し続ける事が、私に出来る贖罪で。
背を向けた臆病さが。受け入れた卑怯さが。
そして、今でもずっと抱き続けている虹色への恋慕が。
決して忘れてはいけない、忘れる事なんてできない、私の―――罪だ。
◆
一目見た瞬間に、恋に落ちた。
異変の後、霊夢さんや魔理沙さんが連れて行ってくれた、あの大きくて紅い館の前で。
『ようこそ、紅魔館へ』
瀟洒。
その言葉がよく似合う人だった。
柔らかい笑みは完璧に整っていて。動作の一つ一つが、自分とほぼ同年代だとは思えない程に美しい。
だが、何より。どこか寂しげな目が印象的だった。
だからこそ、惹かれたのだと思う。
隣に居たいと思わせる、孤独な瞳。
気付けばその帰り、二人が先に空の向こうへ消えていった館の玄関で。
『十六夜咲夜さん、あなたが好きです!』
手を握って、叫んでいた。
常に余裕を湛えていた表情は崩れ、目を丸くしていた彼女を見て、年相応な姿を見れた事に心が躍って。
『え、ええ』
彼女が頷いてくれたのを見て、更に胸が大きく鼓動した。
そして今。こうして、彼女が隣にいる。
それだけの事実がどうしようもなく私の心を震わせて、揺るがして、満たしてくれて。こうして触れ合えている事が、抱き合えている事が、一つの確かな奇跡とさえ思えてくる。
「早苗」
軽いキスの合間に、真っ直ぐにこっちを見て名前を呼んでくれる。言葉の代わりに頬に口付けそれに応えると、少し擽ったそうに目を細めた。
いつも「悪魔の狗」と呼ばれ、また自称している割に、まるで撫でられている小さい子猫のような仕草。氷の彫像のように整い温度を感じさせない容貌がふにゃりと柔らかくなるこの瞬間が、好きで好きで堪らなかった。
飽きずに何度もキスを求める。頷き瞳を閉じるその一瞬だけ、彼女の蒼に過ぎる小さな、光。
低い温度の、孤独な光。
けれど、それは落とされる唇の感触と共に消えていく。
背中に回る腕から伝わる少し低めの体温と、抱き締める体から感じる鼓動。彼女の身を、心を、全てを、全身全霊で感じる為だけに、今私の肉体は存在していた。そうとしか思えなかった。だからきっと、そうなのだ。
陽の元では眩く。月の下では淡くきらめく銀色の髪が。
外の世界で見たことのあるどんな楽園の海より深い蒼と、昂ると血の色に染まり仄暗く輝く切れ長の双眸が。
彼女自身が吸血鬼なのではないかと思うほど白いその肌が。
名前を呼ぶ度、何度でも私を深く恋に落とす声が。
自身を象徴するひと振りのナイフの様に磨き抜かれたその心が。
心を掴んで、離さなくて、夢中になって、狂わされる。
誰よりも愛しくて仕方がない。
傍に居たい。
ずっと、ずっと、私だけを見ていて。
確かめるように、細い輪郭をなぞる。
「あぁ、よかった」
―――ここにいる。
「……どうしたの?」
訝しげな視線というよりは、親が泣きそうな子供を見て、あやしているような。穏やかで、優しい。
「いえ、なんでもありません」
彼女の瞳に映る私は、綺麗に笑えていただろうか。
あなたが時折、とても寂しそうな目をするから。
なんでもないわ。と、そう言いながら、無理矢理笑ってみせるから。
いつか両手いっぱいに溢れているこの幸せが指の間をすり抜けて、どこかへ消えていっていしまう気がして。こうして時々、無性に彼女の存在を確かめたくなる。
髪に触れて、頬をなぞって、胸の鼓動をこの耳で聴いて。
「大丈夫よ」
そんな私の不安なんて見透かすみたいに、私の髪を梳くように撫でながら彼女は笑う。ふわりとした、羽みたいな、軽やかな微笑。
「私はちゃんとここにいるから、ね?早苗、あなたのすぐ傍に」
諭すような微笑みは、迷子になりそうな私に差し伸ばされる手で。その手を握れる距離に居る事ができている今この時も、一つの奇跡なのだろう。
不安の霧は緩やかに晴れて。
その度ずっと更に深く、私は彼女に恋をする。
最初に出会えたことが、奇跡の始まりだった。
そして、あの日頷いてくれた事も。
こうして、一緒に居られる事も。
小説や映画で使い古された表現を使うのなら。
ちいさな偶然と必然が積み重なって生まれ続けるこの奇跡に、陳腐な名前を付けるとしたら。
これはきっと―――運命だ。
神の寄り代たる自分がこんな事を言うのも、可笑しな話だろうけど。
肩に軽く重みがかかった。
気付けば、彼女が私の肩のあたりに顔を埋めている。
「……どうしましたか?」
「ううん、なんでもないの」
ついさっき交わしたものと殆ど同じ問答。ただし今度は立場が逆だ。ならばもしかすると彼女は、私の存在を確かめようとしているのかもしれない。背中に回した手が強く、私の服を掴んでいた。
「大丈夫です。ここにいます。―――大好きですよ、咲夜さん」
耳元でそっと囁くと、彼女の体がぴくりと震えた。
ほんの、一瞬。
「私も、好きよ……早苗」
そして、蚊の泣くような、消え入りそうな声が返ってきた。恥ずかしいのか顔を上げず。肩に頭を乗せたそのままの体勢で。
耳元で呟かれたその言葉に、魂が震えた。
回した腕に力を込める。蟻一匹、風すら私たちの間に割り込む隙間は無い。何度こうしても決して慣れない、彼女の温度。抱いた体は鍛えられてこそいれど、紅い館の内部を殆ど一人で切り盛りしている事を考えれば、あまりに華奢だ。
「早苗……っ」
私の名前を呼ぶ声は震えていた。
だから、限界まで抱きしめた。
苦しそうな素振りも見せず、彼女は何度も甘い声で私を呼んでいた。
それは理性を狂わせる毒の様に蠱惑的で。
けれど何故だか、縋っているようにも聞こえたのだけれど。
◆
「愛してくれなくて良い。その分、私があなたを好きでいるから」
いつもとなんら変わりもない表情で、黄金色に光る太陽の畑の中、幽香は私にそう言った。
何度肌を重ねただろう。
何度彼女に好きだと言われただろう。
もうとっくに、数える事を忘れてしまった。
数える事に意味がないと知ったから。
少しでも、ほんの少しでも、心が揺らげばよかったのに、と。こうして目の前の花の妖怪に触れながら、いつもいつも自責の念に苛まれる。心臓を抉りとられる様な強い痛みと、ちいさな針で突き刺されるようなむず痒い痛みが波の様に交互に襲ってきて、決して私の心を休ませてはくれない。
けれど、休みたいとも思わなかった。思えなかった。
この痛みがなくなってしまえば、きっと私は空っぽになってしまうだろうから。
焦がれて狂って、そして怯えて。背を向けて、目を逸らして。外した視線のその先にあった優しい手を、私は握ってしまった。これで良いと、これが正しいのだと。疑いもしなかった。
泰然自若、落ち着いた光が瞳の奥に揺れる、彼女への甘え。
情欲に燃え滾る双眸に見つめられると、思考が砕けて、愛し合っているという錯覚に陥って。けれど、「好き」と言おうとすれば制された。「愛してる」と言おうとすれば、唇を以って塞がれた。
たった一度も、幽香は私に甘い言葉を囁かせてはくれなかった。
嘘は嫌いなのよ、と。幽香にしては珍しい苦笑いを浮かべて。「彼女」によく似た、寂しそうな瞳をしながら―――。
一目惚れだったのかもしれない。
白ばかりが覆う寒い春の日。
冷たい銀色が、私の世界に飛び込んできた。
軽口を叩きながら私を射抜く、今まで見た事もないほど冷たい、そのくせ全てを焼き焦がしてしまいそうな程に熱い瞳。点滅する蒼と紅に、舞う銀に、戦いの最中である事も忘れて目を奪われた。
目の前で弾幕を撒き散らしているのは、もしかして、人形?思わずそう呟いていた。それほどまでに、恐ろしい程に、整っていた。温度が無かった。とても寂しい、目をしていた。
透き通った、なのに決して奥まで見通せない、なんて美しい瞳なんだろうか。
まるで魅了の魔術にでもかかったかのように、釘付けになった。
一瞬にして消え、現れを繰り返す彼女が私に近付く度、鼓動が跳ねた。全くそんな場合ではないというのに、本気を出していなかったとはいえ、余裕なんて無かったというのに。もっと彼女を近くで見たいと、そう思った。
怖いほど正確に、まるで操り人形のような澱みの無さでナイフを投擲する自称人間。思えばあの時から、私は彼女に心を雁字搦めに絡め取られてしまったのだろう。
人形達は撃墜され、魔力も体力も削られ切って。
最後に私の意識を刈り取りに来た彼女の瞳と、至近距離で目が合って。
燃え滾る双眸の奥に隠された、小さくて脆い光に。
深く深く、恋に落ちた。
異変の後から、友人になるまでさして時間はかからなかった。
共通の趣味や知人の存在。一週間に何度か図書館へ訪れる度、出迎えてくれる彼女と言葉を交わす機会も多くて。
友人から親友になるのにも、さして時間はかからなかった。
完全で瀟洒。その二つ名に相応しい所作にいつも見惚れた。
瀟洒な仮面から時折零れる等身大の彼女を見るたび恋をした。
それでもずっと奥で揺れる寂しそうな瞳に、戻れない位に惹かれていった。
彼女の蒼に恋慕の色が混ざり始めたのはいつだっただろうか。それが私に向けられていると気付いたのはいつだっただろうか。
気付いて、けれど、互いに進めなかった。
顔を見る度に心が躍っても、声を聞く度に鼓動が高鳴っても、手が触れる度にこの上なく幸せな気分になれても。気付いていない振りをして、目を逸らして、彼女らしくない不器用な芝居で逃げ続けた。
軽蔑する気なんて起きなかった。
嫌いになんて、なれなかった。
それは、彼女の優しさだと分かっていたから。
そして、自分が臆病なせいだと、痛いくらいに理解していたから―――
「アリス」
やや硬い何かの感触で我に返った。視線をテーブルの向こう側にやると、呆れたような笑顔で頬杖をついた幽香が手に持ったクッキーを口元に押し付けてきていた。取り敢えず軽く口を開いてみるとゆっくりそれが口の中に入ってくる。
特に何の変哲もない、プレーンのクッキーだ。自分で作って持ってきたものだが、こうして食べてみるとなかなかの出来だった。微かに蜂蜜の匂いがして、それは以前、咲夜が少し得意げに作り方を教えてくれたものだと思いだす。
「前からお菓子作りは上手かったけど、少し前から随分腕が上がったわよね。味の付け方も、少し変わったし」
穏やかだが少しばかり行儀の悪い動作でクッキーを口に放りながら、幽香は私にそう言って笑った。
気の強い彼女にしては珍しい、けれど最近になってよく見るようになった、少し困ったような苦笑。それを見る度に心の奥がずきりと痛む。私は何も言わなかった。いや、言える言葉が見つからなかった。
「…………」
彼女も前から何度か紅魔館を訪れた事がある。
だから、気付いたのだろう。気付いていたのだろう。一体何故、料理の味が変わったか。
そして、一体誰のものに似たのか。
「……そうやって呆けているだけでも絵になるんだから、ずるいわよねえ」
そう冗談めかして私の頬をつついてくる幽香の顔からは、いつの間にか苦笑が消えて。代わりに浮かんでいるのは少し悪戯っぽい、小悪魔的な笑顔だった。
それを、見て。
あぁ、似ている。と。
いや、きっと「似た」のだろうと。
そう、思った。
「ずるいわね。食べたくなる位、綺麗」
妖しい光を宿した目をしながら、緩慢に、彼女の指が私の髪を梳いてくる。少し目を細めて、楽しそうに。
ふとそれに銀色の影が重なって、息も心臓も止まりそうになった。
ちょっとでも空気が沈んでしまいそうになった時、彼女はいつも冗談で誤魔化した。私が一歩踏み出そうとした時も、そうだった。際どくて、心臓に悪くて、そのくせい冗談とは思えない完璧なポーカーフェイスなのだから、本当にタチが悪くて。いつも私だけがムキになって、彼女はそれを涼しげな笑顔で受け止めていた。
悪戯好きのメイド長。
いつもいつも、そんな彼女に振り回されっぱなしで。
けれど過去に一度だけ。わざとらしく近付けてきた唇のすぐ横に事故を装ってキスをしてやったのは、今でも良い思い出だ。
確かに親友で、決してその枠から出ないじゃれあいが、楽しくて、辛くて。
『ねえ、アリス』
二つの口が、私を呼んだ。
―――意識が引き戻される。
向かい側の椅子に座っていた幽香が、私のすぐ隣まで来ていた。瞳の奥まで見透かさんとばかりに、顔が近付いてくる。そして、わざとらしく、吐息が触れ、掠めるほどの距離に、彼女の唇。
迷わず自分のそれを押し付けると、待っていましたとばかりに両腕が首の後ろに回された。
こうして触れていると、似ていても決して同じではないという事を感じて。その度に浮かぶのは、安堵と申し訳なさだった。
「キスの最中に、そんな顔はなしよ」
「あ、うん、ごめん」
「分かれば良いわ」
また、苦笑。けれどそれは一瞬で、さっきとは違う全てを奪い取ろうとしているかのような口付け。
いっそ暴力的とまで言えるそのキスに、脳の奥まで蕩けそうになる。
「ゆう……かっ……」
思考の表層は彼女で埋め尽くされた。
目を薄く開いて、超至近距離の彼女を見る。
もう脳の回路がスパークしてしまいそうな私とは違って、幽香は至って余裕があった。
けれど、何故だか。
余裕の奥に、親を探す迷子のような必死さが隠れているように見えた。
「……ッ」
お腹の奥から熱が上がり、目頭へ。
―――幽香、ごめんね。
零れそうになる熱は喉へと下り、声を張り上げて叫びたくなる。けど、その為の口は彼女の唇に塞がれているから。
もう一度熱が目の奥へ。つかえた声は生温い透明な雫になって、落ちる。堕ちる。
薄く開いた視線と視線がぶつかった。滲んだ視界では本当にそうだったかは分からないけれど、幽香の目は穏やかに見えた。
そっと、手が伸びてくる。頬に触れて、親指で雫の伝った跡を拭う。私と殆ど変らない筈なのに、その手は何故だかひどく温かく思えて。拭って貰う度それがトリガーになって、気付けば情けなく泣きじゃくっていた。
本当なら、私が幽香にこうしてあげるべきなのに。
声も涙も出さずに泣いている彼女を、抱き締めてやるべきなのに。
こうして私が泣けば、彼女は私以上に傷つくと知っているのに。
「良いのよ、アリス。好きなだけ泣きなさい。大丈夫、大丈夫だから」
足元から香る花の匂い。
椅子に腰かけていた私の体は持ち上げられて、いつしか咲き乱れた花のベッドへ降ろされた。
「全部、私に委ねなさい」
今まで何度も聞いてきたその台詞。浮かべる笑顔は、蠱惑的なくせに、とてもとても、寂しかった。
けど、私に重なる彼女の体は、苦しい位に温かくて―――。
◆
愛されないという事は理解していた。
彼女にはもう、焦がれて仕方のないものがいると知っていたから。
けれど決して、二人の未来が交差する事もないと分かったから。
そのせいで彼女の心に空いた、その僅か隙間にでも構わないから、私の存在を彼女の一番奥に刻んで欲しくて。
だから、自分の中でも割切った振りをして、彼女に近づいた。その隣という位置を、手に入れた。
「愛してる」
彼女に愛されないのなら、私が二人分の愛情をもって互いを繋げばいいのだと、そう思っていた。それがもつ意味が何なのか、それがどれほど底なしの虚しさを生むかも知らないままに。
触れて、囁いて、抱き締めて。
その度に泣きたくなった。虚無だけが募っていった。
けれど、彼女を想う事は諦められなかった。それは私の意地でもあったのかもしれない。一度雁字搦めに縛りつければ、例えその拘束がなくなったとしても紅い傷跡が長く永く残る事になる。
それならば、例えそれが一方通行だったとしても、彼女が応じてくれるなら構わないと思った。
こう言ってしまうと、まるで劇の脚本にでもなりそうな美しい愛情とも思えるかもしれない。
けれど、そんな生易しいものでは決してなくて。
使い古された表現をするのであれば、綺麗な薔薇にも棘があるように。
一方的に与える無償の愛情は、触れるものに傷を残す。
傷口をズタズタにして、傷が癒えた後もなお、痕が残り続ける。私にも、そしてきっと、彼女にも。
長く生き過ぎて、涙腺が枯れ切ってしまっている事が唯一の救いだろうか。
彼女の前で、みっともなく泣かずに済む。
澄んだ蒼い双眸には、いつだって儚い銀色が映っていた。
絶対に届かない、触れられない、赦されない、彼女のずっと、ずっと奥に。
あまりに絶対的過ぎて。彼女の仕草に銀色の影が過ぎる度、私はただ苦笑する事しか出来なかった。
―――どうやっても、叶わないのだと。敵わないのだと。
認めたつもりでいて認めたくなかったその現実を、真実を、嫌でも実感させられて。ただ互いを縛り付けて堕ちていくだけの今に、何も希望が見いだせなくなって。
そうしてある日、一つのきっかけで、私は大きな決断をする。
◆
陽光が照りつける、晴天。
「―――青巫女が彼岸に渡ったらしいわ」
「……そう」
幽香から告げられたその報せに、アリスは解れた人形を繕う手を休めないまま答えた。
少し俯きがちなせいで、その表情は読みとれない。瞳の色も陰に隠れて、今や青みのかかった灰色にしか見えなくなってしまっている。対する幽香も相手の反応を気にしてはいないので、別にどうという事はない。
「現人神とはいえ、人間である以上早く散るという運命には逆らえないのね。幾ら奇跡を起こせる能力を持っていたとしても……結局あの人間は、一人になってしまったわ」
名前を出してはいないものの「あの人間」が誰を指しているかという事くらい、アリスにも理解できた。厳密にいえばその人間には紅い館の住民がいるので決して一人ではないが、幽香がそう言う意味で「一人」と称した訳では無い事も分かっている。
一瞬だけ僅かに顔を上げたものの、すぐにまた視線は人形へと戻った。
「……そう」
全く変わらないように聞こえる、返答。
けれど伏せた双眸の奥が揺らいだことなど、簡単に見透かされていた。それに、分かりやすいほど手の動きが鈍っている。
穏やかさ以外の全てが完璧に排除された声で、幽香はアリスに語りかけた。
「アリス」
「……なに?」
「あなたはいつも冷静で、冷めた目をしてて。だから私はそこに惹かれたのだけど」
「なによ、いきなり」
唐突な恋人の言葉に、アリスは人形から完全に目を離して訝しげな顔をする。眉を寄せて、少し首を傾げる仕草。幽香の視界の中で、金と銀色の影が重なった。
「きっとあなたも、あの人間の、人らしからぬ目に惹かれたのでしょう?昔も、そして……今も」
無意識に浮かぶ、苦笑い。
「……ッ!」
自身の正面から、息を飲むのが聞こえた。
「よく似た瞳の持ち主が逝ってしまう前に、焼きつけてきても良いんじゃない?」
ねえ、アリス。そう呼びかける幽香の声は、優しい。
魔女は端正な顔立ちを迷いに歪めて、小さくかぶりを振った。
「……でも」
「分かってるから」
駄々をこねる子供のような声を遮る。無慈悲に、むごい程の優しさを以って。
「前からずっと言っているでしょう?貴女が愛しているのはあの人間だって知ってるって。だから、ね。随分時間が空いてしまったけれど」
片手に持ったティーカップを傾けて、幽香は顔をしかめる。随分と温くなって、味が落ちてしまっていた。思わずくしゃくしゃになってしまいそうな自分を誤魔化すのには丁度良くて。喉の奥だけで、微かに。自嘲気味に笑った。
「…………」
俯いて顔を覆う金髪の奥で、揺らぐ表情。
それに思わず折れてしまいそうな自分を奮い立たせる。最良の選択肢なんてきっと、最初から存在していないのだ。ならばせめて、正しいと確証は持てなかったとしても、自分が決断した事を貫き通すしかない。
声を出そうとして、心臓が握り潰されそうな程痛くなって、自分の存在すら捩じ切られてしまいそうな程の圧迫感にえづきそうになって。それでも、意地とプライドを杖にして。
努めて笑顔を作った。
「―――行ってきなさいな。アリス。貴女の初恋を叶えてきなさい。きっとあの人間の事だから、あなたへの想いの時間だって止めている筈よ」
それは即ち、今まで重ねてきた時間の全否定。ただ、自己満足だったという現実を直視する事。それとなんら変わりは無かった。
俯いていたアリスの体がびくりと震えて、ゆっくりと顔を上げた。
零れ落ちそうな程涙の溜まった、澄んだ瞳と目が合った。
「ゆう、か」
声は潤んで、ぐちゃぐちゃに震えている。
彼女の泣き顔を見るのは、花のベッドの上で体を重ねた日以来だったか。
いつまで経ってもその顔は苦手で。
彼女の横に立って、手を差し出した。躊躇いながら微かに膝から手が上がるのを見て、幽香はその手を掴むと少し強引に彼女を立ち上がらせる。
「……ほら、さっさと行ってきなさい。老いた人間は枯れそうな花と同じで、いつ死ぬか分からないんだから。着いたらもう死神のお迎えが来てました、なんて事だってあり得るのよ?」
冗談にならない冗談を言いながら、アリスの背中を押した。押されたそのままに、数歩、アリスが前へ進み出る。どんな表情をしているかは見れなかった。勇気が無かった。
これでおしまいだと、気付いていたけれど。
幽香も、そして、アリスも。
自分の背中を押した時に込められた力は強くて。
もう振り返るなと、そう幽香が無言のうちに言った気がして。
背を向けたまま、呟いた。
別れの言葉にしてはあまりにも暖かくて、愛の囁きにしてはあまりにむごい、心からの感謝を。
「……ありがとう。幽香」
「こちらこそ。愛してたわ、アリス」
幽香の声はいつもと全く変わらず。どんな表情をしているかは分からない。
けれど、アリスは振り向かなかった。
瞼を閉じて、自分と彼女、二人の瞳の色によく似た蒼い空の中へと飛び出していく。閉じた瞼の裏側にちらつく、銀色と、緑。微笑む二人の影が重なって、輪郭がぼやけ、消えていく。
輪郭すら瞼の裏の闇に消えて、代わりに熱い何かが込み上げてきて、けれど、それは決して零さなかった。
もしかしたら、例えそれが一瞬だけだったとしても。
「愛してた」と言われた、たったその一瞬だけだったとしても。
自分は幽香の事を、確かに愛していたのかも知れない。
アリスの顔を見ると、門番はいつもと全く変わらない笑顔で彼女を迎え入れた。
主人とその妹、そして知識の魔女は図書館に籠もっているらしい。意外に親バカなんですよあの人たち、と、妙な踊りを踊りながら門番は屈託なく笑う。
一体何故かと聞けば、門番たるもの客人は心からの笑顔で迎えなければならないからだという。
命の短い花を愛する彼女だからこそ、その努めを全う出来ているのだろうなとアリスは思った。そして、その強さに一瞬だけ、憧憬めいた感情を抱いた。
妖精メイドに案内された部屋の前。
今まで何度も通された事のある、けれど最後に見た時より随分と古びてしまった簡素な扉。震える手を、胸元の高さまで。
最初に一回。間をおいて、続けて二回。
「―――アリス?」
小さな声が、扉越しに聞こえた。
声質は随分と変わってしまっていたけれど。弱々しくなってしまっているけれど。
焦がれて、ようやく、また聴けた。
大好きな、彼女の声だった。
◆
「すっかりおばあちゃんになっちゃってね、おもてなし出来なくて申し訳ないわ」
「良いのよ。そんなこと気にしないで」
アリスはベッドの脇に置かれた椅子に座り、咲夜の髪を撫でてやる。
すっかり老いてしまって、髪の艶は衰えて、肌の張りもなくなって、真っ白な肌にはいくつもの皺が刻まれていた。
けれど、それでも澄んだその声が。
髪を撫でられると気持ち良さそうに細められる蒼い瞳が。
あの時と、何も変わっていなくて。
長い年月を越えてまた、自分を深い深い恋に落とした。
「早苗は、私より長生きすると思ったのだけど」
ベットに寝たまま、顔だけをアリスの方へ向けて、ちょっと苦笑してみせる。
「寂しい?」
「ええ、寂しいわ」
「……そう」
彼女の髪を梳く手は止めず、なんとか胸の奥に走った痛みを堪えた。
咲夜は苦笑を崩さないまま、ちょっとだけ、首を傾ける。
「……あの子が彼岸に渡る直前、二人きりで話していたの」
蒼い四つの瞳が交差した。
銀色の髪を微かに揺らして、半分の瞳はどこか遠くを見ている。
「本当に、真っ直ぐな子だったわ。あの子は本当に純粋で。だからこそ、私は愛せたのかもしれない」
それはアリスに向かって話しているというより、独り言を呟いているようにも見えた。
一切のためらいもなく愛したと断言する咲夜の言葉に、心が切り裂かれたかのような痛み。
でも。
けれどね、と。そう続ける咲夜の瞳を、アリスは真っ直ぐ見つめ続けた。
「きっと私は取り返しのつかない事をしたんでしょうね。臆病なせいで、目をそらして、一人の愛情を、利用した」
淡々とした口調。けれどあの頃と変わらない双眸が、言葉より如実に咲夜の感情を映していた。
「あの子は、幸せでしたって。笑いながら逝ったわ。あの死に顔なんてまさに神憑り的に綺麗だったわよ。……でも、忘れられないの」
滲む、憂い。それすら塗り潰して見えなくする程に濃い、後悔。
「本当に一瞬だったけど……最期のキスの後かしら」
―――あの子、凄くね、寂しそうに、哀しそうに笑ったのよ。
冷静に語る咲夜の声にも、一瞬。強い感情が宿った。
「……ここに来る前、幽香と話してきたんだけど、」
凍える様で、けれど実は燃えるように熱い、蒼。長い事見ない間にその色は濃さを増し、見透かせなくなっていた。
「別れ際、あの人もきっと、その時の早苗と同じ顔をしてたと思う」
自分の言葉に対して何か口を開きかける咲夜の声を、アリスは「それでも、ね?」と。問いかけの前置きで遮った。
「さっきあなたが言ったように、彼女は最期、幸せそうに笑ってたんでしょう?」
声は優しく、柔らかい。様々な感情の入り混じった、彼女を象徴する色を彷彿とさせる声音。表情も、同じく。いつくしむようなアリスの微笑には、ティーカップ一杯分位の自嘲が混ざっていた。
―――自分は、笑顔で別れる事が出来なかったから。
あの時からまだ一時間も経っていない。最後に見た寂し過ぎる笑顔と、背を向けて見上げた空の青さが、今もまだ鮮明に瞼に焼きついている。
振り払いはしなかった。
立ち上がって、屈んで、視線の高さを同じにしながら、シーツの中にある咲夜の手を探る。乾いた布の感触を手で確かめながら、あの時と変わらない温度を見つけ出すのに殆ど時間は要らなかった。今アリスが握っている、昔もただでさえ華奢だった手は更に細くなって、脆くなって、随分と頼りなくなってしまったけれど。
握るだけで鼓動が高鳴る、魔法の手。
きっと、彼女の指からは紅い糸が伸びていて。自分に届いて、それを辿って。だからこそ巡り逢えたのだろう。アリスの両手にはもう操り糸があったから、途中で絡んで、こんがらがって、辿りつくのに随分と時間がかかってしまったけれど。
「咲夜、あなたがもし、それを罪だと思うなら」
折れてしまわないように、離れてしまわないように。壊れ物を扱うようにそっと、アリスは指を絡ませた。
ずっと寄り添ってきた、恋人の様に。
「私もそれを背負うから」
―――ねえ、咲夜?
呼びかける声は、よく通った。
それは神の前で永遠の愛を誓う花嫁のような、或いは、愛を囁く恋人のような。
その例えは半分違って、もう半分は合っていた。
花嫁でも、恋人でもないけれど。アリスは今、伝えようとしていた。
窓から真っ白な光が差し込んで、二人を白く染めている。穏やかで静かな銀と蒼、決意を湛えた金と蒼。決して色彩豊かではない二人の世界。けれど、全ての色が白に対してよく映えた。それだけで十分だった。
繋いでいた手を緩やかにほどき、その手で咲夜の頬を撫でる。細められた目と、真っ直ぐな視線がぶつかった。それだけで良い。言葉は必要としていなかった。
金色の髪が重力に従って靡き、銀髪と触れ合い白い光を照り返す。
「――――――」
人形のような少女は、人形の様な少女だった人間と唇を重ねた。
近付くまでは緩慢で、離れるまでは長かった。
静かに触れた唇は乾いていて、温度もなかった。けれど代わりに、時を止められたままだった瑞々しい二人の想いが重なる。それははっきりと、好きだと伝えるキスだった。
顔を離し、至近距離で見つめ合う。
思わずアリスは息を飲んだ。
瞼の裏に浮かべていたような、ぼんやりとした影のようなものではなく。
あの日の咲夜がそこに確かな像を結んで、二つの銀色の優しい笑顔が、視界の中で重なった。
何も言葉が出てこない。
言うべき言葉は、痙攣する喉のすぐそこまで出かかっているのに。
なんで、なんで大事な時に、この臆病な自分を壊せないのだ。ただ震える肺の奥で、呻きによく似た、それ以上に嗚咽に似ている音ばかりが鳴って。
―――たった、二文字で良いのに。
どうしようもなく自分が情けなくて、泣きたくなった。
「……アリス」
咲夜が、泣きそうなアリスの顔の横まで手を伸ばしていた。微かに震えるその手は、上にあげるだけで辛そうだ。けれど咲夜は疲労も辛さも一切表に出さず、あくまで瀟洒に微笑みかける。
「ありがとう」
数秒。アリスの呼吸が止まる。
思考がぐちゃぐちゃになる。
なぜなら。
アリスは、咲夜のその言葉が、残酷すぎるほどに愛に満ちた。
―――拒絶だと気付いたから。
涙は一滴も伝っていないアリスの乾いた頬の上を、咲夜の指が愛おしそうに滑っていた。
一層深みをました双眸は、見捨てられた子犬の様に体を小刻みに揺らすアリスに、大丈夫だよと言っていた。
「ごめんね。私はもう、時を戻せない」
慈愛に満ちた微笑だった。声だった。指だった。包み込むように柔らかく、あまりに、むごい。
「いつか貴女が来てくれたら、伝えようと思っていたことがあるの。ねぇ―――お願い、アリス。もうあの頃とは随分変わって、おばあちゃんになっちゃったけど。私の我儘、聴いてくれる?」
アリスは頷く事しか出来なかった。嫌だと、言えなかった。きっとその我儘は、天然な咲夜らしくあまりに的外れで、馬鹿げたものだと。そしてとても優しいものだと、直感で気付いていたけれど。
「貴女は貴女の為の時間を生きて。アリス、貴女の時間はとても長いから」
―――操り糸は、解けたから。
無理をして喋りすぎているのだろう。掠れた声でそう冗談めかして言われたって、ちっとも笑えない。
なんてとんでもない冗談を言うのだ、このブラックジョーク好きの元メイド長が。アリスは部屋の天井を振り仰ぐ。
忘れろと言うのか。
戯れとして受け流せと言うのか。
どんなに離れていても、顔を見なくても。
見て、触れて、声を聴いて、その度、恋に落ちる位に。
ずっとずっと、愛おしくて堪らなかった、咲夜。貴女の事を!?
「そんな顔、しないで?アリスはどんな顔でも絵になるけど、笑ってる方が私の好みだわ」
「…………ッ」
額をこつんと突き合わせて。冗談っぽく言う咲夜は無邪気に笑った。
心臓が苦しくなって、どくんどくんと、鼓動が跳ねる。
沸騰するほどの熱がアリスの体の奥底で沸きあがり、そして、目頭へ。溢れ出しそうになるそれを何とか堪えた。
咲夜の前で、涙を流す訳にはいかないから。
笑顔が好きだと、言ってくれたから。
そうして、後は黙って咲夜の体を抱きしめた。
さっきのキスより長いか短いか、それくらいの時間。
一振りのナイフの様に洗練された咲夜の存在を、目に、心に、魂に、深く深く、刻む。何があっても決して忘れないために。例え万が一彼女の名前も声も忘れてしまったとしても、この温度だけは覚えていられるように。
体を離して、しばらくの間、見つめ合う。
彼女の瞳の奥で何かが揺れた。けれど、それが何かは分からなかった。湛えているのは瀟洒な笑顔。対するアリスは、無理矢理作ったような、それでもなお可憐な微笑。
そうだ、この目に、表情に、自分達は恋をしたのだ。
このまま時が止まってしまえばいいのにと、心からそう思った。
けれど、それはどうにもならない事だから。
「お邪魔したわね。ゆっくり休んで」
アリスは静かに、ベッドに横になる咲夜へ背を向けた。伝えたいことは山ほどあった。けれど、それは言う事が出来ずに。たった一つの別れの言葉を残して。
けれど。
ドアノブに手をかけた所で、小さい声が、歩を進めようとするアリスの足を止めさせた。
きっと、独り言だったのだろう。微かで、普通なら耳を澄ましても聞こえないような、声。それがアリスの耳に言の葉の形を保ったままで届いたのは、それこそ奇跡的な事だったのかもしれない。
「……愛してる」
ぐらりと、眩暈がした。
今すぐにでも振り返って、駆け寄りたかった。涙で顔がぐちゃぐちゃになったって構わないから、この震える心のまま、叫びたかった。でもそれは出来なかった。今の自分は、彼女が好きだと言ってくれた表情を作れていないから。
けれどアリスは、全身が引き裂かれることよりも勝る痛みを、歯を食いしばることで耐えて。軋む蝶番の音を立てながら、何の変哲もない木の扉を開いた。
「私も、ずっと前から」
―――咲夜の事が、好きだった。
ばたん、と。
最後の言葉は、閉じる扉の音に掻き消された。
アリスが平静を取り繕えていたのは、扉から数歩の所までだった。
「…………」
紅い壁にもたれると、ひゅー、ひゅー、と喉の奥から乾いた息が零れる音がする。
熱くて仕方のない頬と唇に、触れる。ただそれだけで、胸が鼓動するのを感じた。
初めて出会った頃と全く変わらない。こんなに心臓が暴れるのは。彼女に心を絡め取られてしまった時から、何も変わってはいなかった。目をそらして背を向けて、他の誰かを愛したように自分を誤魔化して。けれど結局、咲夜の事を想い続けていたのだから。
「……それなら、」
茫然とした表情で、ぽつりと、呟く。
呆けたようなアリスの表情。焦点の合わない瞳から、音もなく。透明な涙が一筋伝った。
「隣に居れば良かったじゃない……っ!!」
―――気付くのが、遅すぎた。
結局心の中で彼女を愛し続けていた以上、そして愛されていた以上、おいていく事も、おいていかれる事も変わらない。
ならば痛みを覚悟して、正面から受け止めて、彼女の傍に居れば良かったとアリスはようやく理解したのだ。
「それならっ……そうしてたら……っ!」
そうすれば、誰も理不尽に傷つかなかった。罪の意識に苛まれ続ける事も、愚直なまでの愛に身を焦がしていく事も、苦し過ぎて泣き叫ぶような事も、愛されないと理解しながら一方的に愛し続ける事も、なかった筈だ。
「咲夜ぁっ、さくやぁッ、ぅ、ぅう、うあぁっ」
あれは最初で最後のキス。
きっと、あの優しい目が自分を映すのも最後だった。
気付いていた。銀時計の針が止まるのは、そう遠い未来の事ではないと。
愚かだった。恐れていなければ、覚悟さえ、出来ていれば。
冷たい瞳がよく似ていて。そして臆病すぎる所までそっくりで。
天井を見上げた。けれど、抑えようとした涙は許容値を超えて流れ出る事を止めようとはしてくれなかった。
「ふ、ぅう、っ、ああぁ」
ぼやけて滲んだ視界の中で、細い光の道が自分に向かって伸びているのに気付く。ずっと前にも見た、ここで仕える人間が館の中でも陽の光を浴びれるようにとの配慮のもとで作られた小さな窓。そこから陽光が差し込んでいた。
咲夜も枯れた涙腺で、あの部屋で泣いているのだろうか。今の自分と同じように。
今すぐ扉を開いて縋りたい。けれど、そんな事を許されるとは思えなかった。
動かない足。腰は抜けて、赤い絨毯にへたり込んで。動かない。動かない。ただ目と喉の奥ばかりが痙攣するように動くだけで。臆病すぎた。こんな時にまで。今こうしているのだって、自分が臆病だったからなのに。
こんなに、こんなに、後悔をしているというのに!
脳内を埋め尽くす。懺悔。後悔。後悔。後悔。後悔。誰に謝ればいいのかも、どう償えばいいのかも分からなかった。ただ押し寄せるだけの衝動に、アリスは押し潰されてしまいそうだった。
糸が切れた人形のように崩れ落ちて。声を上げて、泣き崩れる。
人形遣いは、今や愛し続けた人間という操り手を失った人形だった。ひとりぼっちで泣くその体を抱きしめるものは、涙を拭ってくれるものは、もういない。
「う、あぁ……咲夜、ぁ……うぁ、うああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
愛しい人の名前を呼んで、魔女は、啼いた。
紅く薄暗い廊下に慟哭が響く。
その瞳はもうなにも見てはいなかった。あの日咲夜が魅入られた双眸の奥に揺れていた、小さな光はもう灯ってはいなかった。ただただ、後悔と孤独に染まっていた。感情が堰を切り、重い重い雫になって、落ちていく。
アリスの頬を止まることなく伝って堕ちる涙の軌跡を、撫でるように。
深い深い蒼の空が凪いで。
人間用に作られていた小さな窓から、ひとつだけ。
暖かい風が、静かに、静かに吹き込んだ。
◆
アリスが去っていってからも、しばらく腹が立つ程良く晴れた空を眺めていた。
幽香の周りを埋め尽くしているのは、自分の背よりも高く伸びた、太陽によく似ている夏の花。
「一瞬でも、愛してくれたのかしらね?銀色がよく似合う、七色の魔法使い」
枯れ切ったとばかり思っていた涙腺は、まだその機能を失っていなかったようで。
何の前触れもなく。
光を反射しながら、水滴が落ちる。堕ちる。
それは、丁度咲きかけの向日葵の根元に落ちた。
「あ……」
土に、よく目をこらさなければ見えないほどの大きさの染みが出来て、それを見た幽香は一瞬だけ声を漏らして。
そして、口の端を僅かに上げた。
泣き顔にしか見えない、恋する少女の哀し過ぎる笑顔だった。
「そうね、もう、やる事もなくなっちゃったし」
―――このまま全身の養分を堕として、彼女の髪によく似た金色をした太陽の糧になるのも悪くない。
そう呟いた瞬間、自分の中で何かが、少なくとも決定的で致命的な何かが、欠落する音が聞こえた。
「……ッ」
全身の急速な喪失感と共に、がくりと膝をつく。力が抜けて、上半身を立てている事すら、難しくなってくる。
とうとう終わりが来たようだ。長年生きながら、いつか枯れ、散る花と共に過ごしてきた妖怪としての勘だった。
体が完全に崩れ落ちるその直前、太陽を見上げる。
相変わらず燦々と輝いて。金と青が、想起させる。
生花にしては干からびるのが遅すぎて、造花にしては壊れるのが早すぎる恋だった。と。自嘲気味に、笑おうとして。
零れたのは笑い声でも涙でも無くて、ただ水分を失い始めた潤いのない息。
強く気高い花が、枯れていく。
花弁が散って、堕ちていく。
胸の前で手を組んで。
終わりを目前にしてもなお強い眼光は、ただ空を一心に射抜く。
全てを畏れなかった最強の花の妖怪の姿は、まるで神に祈る敬虔な信仰者の様に見えた。
―――もし、まだ奇跡が存在しているとしたら。
どんなに遠い未来の事だって構わない。
自分は、願おう。
何段も何段も深く深く恋をした彼女から繋がる赤い糸が。
相手を手繰り寄せる道標になって、いつか、また。
寒い春の日に、金と銀が出会えるように。
※死ネタ(におわせる表現含め)有りです。
私と彼女はよく似ていた。
だからこそ、互いに惹かれて、焦がれ合った。
瞳を見れば、互いが互いに恋をしている事なんて手に取るように分かった。
けれど、一言も「好き」だとは言わなかった。
手も繋がなかった。キスだってしなかった。友愛以上の表現は、互いに決してしなかった。
おいていく事が嫌だったから。
おいていかれる事が嫌だったから。
だから、私たちは背を向け合った。
振り向けばすぐそこに愛しい人がいると心の底から理解しながら、絶対に、振り向かなかった。決して触れることのない背中合わせで。私たちはそれぞれ、違う者の体を抱きしめて、違う者と唇を重ねた。
真っ直ぐに愛してくれた。だから、精一杯抱きしめた。たくさんの睦言を紡いだ。唇を、肌を、数え切れないくらい何度も重ねた。1人でいたって目を瞑れば、その声が、視線が、表情が、体温が、すぐそこにいるかのように浮かんでくる位に。
けれど。
―――ごめんね。
―――愛してる。
それはこの腕に抱いた彼女へか、それとも私によく似た瞳をした彼女にか。
ずっと、ずっと。
贖罪を求める咎人の声が、胸の中に響いている。
想いを隠した臆病者の心が、私の中で震え続ける。
◆
どうしようもない卑怯者だと、何度自分を責めただろう。救いようもない臆病者だと、何度自分を詰っただろう。蹲って、全てを見透かすような月の光を恐れて、彼女の髪色を想起させる太陽を見る度に心を焦がして、一体どれほどの時間を過ごしてきたのだろうか。
分からない。分からない。
彼女に焦がれたその時から、私の時計はすっかり狂ってしまった。
白ばかりが覆う寒い春の日。
銀と灰と紅と、そして申し訳程度の蒼。
それくらいの色しかなかった私の世界に、あまりに鮮やかな七色が飛び込んできた。
弾幕を撒きながら踊る小さな人形達。
その中心で、私を見つめる蒼い目に射抜かれたその時に。
なんて綺麗な瞳だろうか。
なんて、よく似ているのだろうか。
冬さえ凍りつかせてしまいそうな、冷たい光に目を奪われた。
完全な自律人形のような人形師。凍える様な双眸とは裏腹に、その髪の色は全てを焼き焦がす日の光を、白い肌は陽光を照り返す月を連想させた。
舞い踊る人形。散る弾幕。時を止めた世界でそれらは等しく灰色に染まる。
けれど彼女だけは、音も色もないその中で、確かに鮮やかな色に染まっていた。
それは単なる気の迷いだと思った。けれど、彼女の指から続く、魔力で紡がれた細い操り糸を見て。
繋がれたいと、操られたいと。一瞬でも、そう思ってしまった。
どくんと、心臓が跳ねた。
陳腐に表現するならば、きっとそれは、運命に出会った音だったのだろう。
異変の後から、友人になるまでさして時間はかからなかった。
共通の趣味や知人の存在。一週間に何度か図書館へ訪れる彼女と言葉を交わす機会も多くて。
友人から親友になるのにも、さして時間はかからなかった。
時折浮かべる笑顔に、惹かれていった。
ふと瞳の奥で揺れる冷たい光に、いつの日か私は、恋に落ちた。
彼女の蒼に恋慕の色が混ざり始めたのはいつだっただろうか。それが私に向けられていると気付いたのはいつだっただろうか。
気付いて、けれど、進めなかった。
顔を見る度に心が躍っても、声を聞く度に鼓動が高鳴っても、手が触れる度にこの上なく幸せな気分になれても。気付いていない振りをして、目を逸らして、自分らしくない不器用な芝居で逃げ続けた。
軽蔑されたって良かった。
嫌われる事も覚悟した。
どうしても、彼女を傷つけたくなかったから―――
「……咲夜さん?」
鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、遠くへと飛ばしていた意識が引き戻される。
最初に感じたのは、雪も降らず、暖かい陽が照らす縁側の板敷の温度だった。
そして視界いっぱいに広がる、見慣れた顔。息が触れ合うほどの至近距離で覗きこまれていた。ここまで近付いてもなお気付かなかった私に少々ご不満なようで、ちょっと拗ねたように唇を尖らせている。
「もう、さっきから何度も呼んでたのに」
「あー……ちょっとぼぅっとしちゃってたわ。ごめんね、早苗」
触れ合いそうな距離をそのままに、機嫌を損ねてしまった彼女の頭を撫でてやった。するとちょっと体から力が抜けて。そして慌てたように拗ねた顔を作ってみせる早苗は子供みたいで、可愛らしくて思わず笑ってしまった。
「なんで笑うんですか」
「いや、ね?拗ねてる顔も可愛いなって」
「……っ!か、からかわないでくださっ……!?」
真っ赤になって慌てる彼女の口を、自分のそれで塞いで閉じさせた。
何度もしてきているというのに、不意打ちだとガチガチに緊張してしがみついてくる初心な反応。けれど、背中を撫でてやると徐々に弛緩してきて、唇を軽く離す度にもう一度とせがんでくるようになる。
何度でも、何度でも。彼女の望むまま啄むキスを繰り返す。
何度も、何度も。
『あなたが好きです!』
いきなり初対面で告白された時、面喰ってしばらく何も言葉に出来なかった。
真っ直ぐに私を見つめる彼女の瞳の奥に、煌々とした熱い炎が灯っているのが見えた。
瞼の裏に過ぎる虹。それも、たった一瞬。
勢い良く一直線に向かってくる想いに気押されて。
『え、ええ』
気付いた時には、首を縦に振っていた。
彼女は同じ人間だから、おいていく事はきっとないだろう、なんて。
想い続けるひとを傷つける事になる位なら、いっそのこと、なんて。
今から思えば、彼女の気持ちと向き合わなかったあまりに自分勝手な判断だったと思う。
けれど、決めたから。誓ったから。
彼女が望むだけの体温を、愛情を、睦言を、全てを。この四肢を、心を全力で動かして与えると。
「ん……ふっ、ぁ……」
口付けの間隙に漏れる小さな吐息。ただ唇が軽く触れ合っているだけだというのに、彼女はすっかり茹で上がってしまっているらしい。
緑色をしたセミロングの髪をそっと梳いてやると、細く長い息が零れた。
もう、そうしてからどれだけ経っただろうか。
薄く開いた目でアイコンタクト。微かな残滓を残して顔が離れる。
力の抜け切った体で、早苗はこちらにもたれかかってきた。
「顔、真っ赤よ」
「咲夜さんが上手過ぎるんです……」
「あら、ただ触れるだけだったのに?」
「そーいうんじゃないんですよ」
もぞもぞと、胸元の辺りで顔を上げて。黄土と緑を溶かして混ぜたような、不思議な色の瞳と目が合った。
その奥で灯り、揺れる、炎。
「あなただから。咲夜さんだから、こうなっちゃうんです」
照れ隠しだろうか、それだけ言うと、そっぽを向いて。見た目相応に華奢な腕が体の後ろに回る。顔を見られたくないのだろうか、胸元に頭を埋めてきて。柔らかな洗髪剤の香りが鼻腔に届いた。
とん、と。体に重みがかかって。
ちょっとの衝撃と、体の上に覚える温かくて柔らかい感触。すっかり慣れたその温度を落としてしまわないように、そっと腕を回す。服越しに届くどこか甘い香り。人間の、少女の匂い。
心を満たす安堵と、痛み。
「ねえ、咲夜さん…………良いですか?」
覗きこまれた。ねだるような瞳。
そんな質問、意味なんてない。叶えようじゃないか、望まれるのなら、なんだって。
頬を掠めるバードキス。
「好きです」
覆い被さる彼女が、愛おしそうに目を細めながら私の頬を優しく撫でた。
「……ありがとう」
顔を近付けてきて、受け入れるために目を瞑る。数瞬後、唇に落ちてくる柔らかな感触。誰もいない神社の縁側で、互いの柔らかい部分を触れ合わせながら、徐々に徐々に、孕む熱は高まっていく。
頭が熱に浮かされる。
視界が全て早苗で埋まる。
―――瞼を閉じて、ふと、過ぎる。
かぶりを振って、目の前の体をきつくきつく抱きしめた。
痛いですよ、と苦笑交じりの抗議にも構わずに。
―――ごめんね、ごめんね。
声にならない謝罪を繰り返す。
触れるたび心が八つ裂きにされたかのように痛むのは、私をずっと苛み続ける一つの罰で。
奇跡の担い手を愛し続ける事が、私に出来る贖罪で。
背を向けた臆病さが。受け入れた卑怯さが。
そして、今でもずっと抱き続けている虹色への恋慕が。
決して忘れてはいけない、忘れる事なんてできない、私の―――罪だ。
◆
一目見た瞬間に、恋に落ちた。
異変の後、霊夢さんや魔理沙さんが連れて行ってくれた、あの大きくて紅い館の前で。
『ようこそ、紅魔館へ』
瀟洒。
その言葉がよく似合う人だった。
柔らかい笑みは完璧に整っていて。動作の一つ一つが、自分とほぼ同年代だとは思えない程に美しい。
だが、何より。どこか寂しげな目が印象的だった。
だからこそ、惹かれたのだと思う。
隣に居たいと思わせる、孤独な瞳。
気付けばその帰り、二人が先に空の向こうへ消えていった館の玄関で。
『十六夜咲夜さん、あなたが好きです!』
手を握って、叫んでいた。
常に余裕を湛えていた表情は崩れ、目を丸くしていた彼女を見て、年相応な姿を見れた事に心が躍って。
『え、ええ』
彼女が頷いてくれたのを見て、更に胸が大きく鼓動した。
そして今。こうして、彼女が隣にいる。
それだけの事実がどうしようもなく私の心を震わせて、揺るがして、満たしてくれて。こうして触れ合えている事が、抱き合えている事が、一つの確かな奇跡とさえ思えてくる。
「早苗」
軽いキスの合間に、真っ直ぐにこっちを見て名前を呼んでくれる。言葉の代わりに頬に口付けそれに応えると、少し擽ったそうに目を細めた。
いつも「悪魔の狗」と呼ばれ、また自称している割に、まるで撫でられている小さい子猫のような仕草。氷の彫像のように整い温度を感じさせない容貌がふにゃりと柔らかくなるこの瞬間が、好きで好きで堪らなかった。
飽きずに何度もキスを求める。頷き瞳を閉じるその一瞬だけ、彼女の蒼に過ぎる小さな、光。
低い温度の、孤独な光。
けれど、それは落とされる唇の感触と共に消えていく。
背中に回る腕から伝わる少し低めの体温と、抱き締める体から感じる鼓動。彼女の身を、心を、全てを、全身全霊で感じる為だけに、今私の肉体は存在していた。そうとしか思えなかった。だからきっと、そうなのだ。
陽の元では眩く。月の下では淡くきらめく銀色の髪が。
外の世界で見たことのあるどんな楽園の海より深い蒼と、昂ると血の色に染まり仄暗く輝く切れ長の双眸が。
彼女自身が吸血鬼なのではないかと思うほど白いその肌が。
名前を呼ぶ度、何度でも私を深く恋に落とす声が。
自身を象徴するひと振りのナイフの様に磨き抜かれたその心が。
心を掴んで、離さなくて、夢中になって、狂わされる。
誰よりも愛しくて仕方がない。
傍に居たい。
ずっと、ずっと、私だけを見ていて。
確かめるように、細い輪郭をなぞる。
「あぁ、よかった」
―――ここにいる。
「……どうしたの?」
訝しげな視線というよりは、親が泣きそうな子供を見て、あやしているような。穏やかで、優しい。
「いえ、なんでもありません」
彼女の瞳に映る私は、綺麗に笑えていただろうか。
あなたが時折、とても寂しそうな目をするから。
なんでもないわ。と、そう言いながら、無理矢理笑ってみせるから。
いつか両手いっぱいに溢れているこの幸せが指の間をすり抜けて、どこかへ消えていっていしまう気がして。こうして時々、無性に彼女の存在を確かめたくなる。
髪に触れて、頬をなぞって、胸の鼓動をこの耳で聴いて。
「大丈夫よ」
そんな私の不安なんて見透かすみたいに、私の髪を梳くように撫でながら彼女は笑う。ふわりとした、羽みたいな、軽やかな微笑。
「私はちゃんとここにいるから、ね?早苗、あなたのすぐ傍に」
諭すような微笑みは、迷子になりそうな私に差し伸ばされる手で。その手を握れる距離に居る事ができている今この時も、一つの奇跡なのだろう。
不安の霧は緩やかに晴れて。
その度ずっと更に深く、私は彼女に恋をする。
最初に出会えたことが、奇跡の始まりだった。
そして、あの日頷いてくれた事も。
こうして、一緒に居られる事も。
小説や映画で使い古された表現を使うのなら。
ちいさな偶然と必然が積み重なって生まれ続けるこの奇跡に、陳腐な名前を付けるとしたら。
これはきっと―――運命だ。
神の寄り代たる自分がこんな事を言うのも、可笑しな話だろうけど。
肩に軽く重みがかかった。
気付けば、彼女が私の肩のあたりに顔を埋めている。
「……どうしましたか?」
「ううん、なんでもないの」
ついさっき交わしたものと殆ど同じ問答。ただし今度は立場が逆だ。ならばもしかすると彼女は、私の存在を確かめようとしているのかもしれない。背中に回した手が強く、私の服を掴んでいた。
「大丈夫です。ここにいます。―――大好きですよ、咲夜さん」
耳元でそっと囁くと、彼女の体がぴくりと震えた。
ほんの、一瞬。
「私も、好きよ……早苗」
そして、蚊の泣くような、消え入りそうな声が返ってきた。恥ずかしいのか顔を上げず。肩に頭を乗せたそのままの体勢で。
耳元で呟かれたその言葉に、魂が震えた。
回した腕に力を込める。蟻一匹、風すら私たちの間に割り込む隙間は無い。何度こうしても決して慣れない、彼女の温度。抱いた体は鍛えられてこそいれど、紅い館の内部を殆ど一人で切り盛りしている事を考えれば、あまりに華奢だ。
「早苗……っ」
私の名前を呼ぶ声は震えていた。
だから、限界まで抱きしめた。
苦しそうな素振りも見せず、彼女は何度も甘い声で私を呼んでいた。
それは理性を狂わせる毒の様に蠱惑的で。
けれど何故だか、縋っているようにも聞こえたのだけれど。
◆
「愛してくれなくて良い。その分、私があなたを好きでいるから」
いつもとなんら変わりもない表情で、黄金色に光る太陽の畑の中、幽香は私にそう言った。
何度肌を重ねただろう。
何度彼女に好きだと言われただろう。
もうとっくに、数える事を忘れてしまった。
数える事に意味がないと知ったから。
少しでも、ほんの少しでも、心が揺らげばよかったのに、と。こうして目の前の花の妖怪に触れながら、いつもいつも自責の念に苛まれる。心臓を抉りとられる様な強い痛みと、ちいさな針で突き刺されるようなむず痒い痛みが波の様に交互に襲ってきて、決して私の心を休ませてはくれない。
けれど、休みたいとも思わなかった。思えなかった。
この痛みがなくなってしまえば、きっと私は空っぽになってしまうだろうから。
焦がれて狂って、そして怯えて。背を向けて、目を逸らして。外した視線のその先にあった優しい手を、私は握ってしまった。これで良いと、これが正しいのだと。疑いもしなかった。
泰然自若、落ち着いた光が瞳の奥に揺れる、彼女への甘え。
情欲に燃え滾る双眸に見つめられると、思考が砕けて、愛し合っているという錯覚に陥って。けれど、「好き」と言おうとすれば制された。「愛してる」と言おうとすれば、唇を以って塞がれた。
たった一度も、幽香は私に甘い言葉を囁かせてはくれなかった。
嘘は嫌いなのよ、と。幽香にしては珍しい苦笑いを浮かべて。「彼女」によく似た、寂しそうな瞳をしながら―――。
一目惚れだったのかもしれない。
白ばかりが覆う寒い春の日。
冷たい銀色が、私の世界に飛び込んできた。
軽口を叩きながら私を射抜く、今まで見た事もないほど冷たい、そのくせ全てを焼き焦がしてしまいそうな程に熱い瞳。点滅する蒼と紅に、舞う銀に、戦いの最中である事も忘れて目を奪われた。
目の前で弾幕を撒き散らしているのは、もしかして、人形?思わずそう呟いていた。それほどまでに、恐ろしい程に、整っていた。温度が無かった。とても寂しい、目をしていた。
透き通った、なのに決して奥まで見通せない、なんて美しい瞳なんだろうか。
まるで魅了の魔術にでもかかったかのように、釘付けになった。
一瞬にして消え、現れを繰り返す彼女が私に近付く度、鼓動が跳ねた。全くそんな場合ではないというのに、本気を出していなかったとはいえ、余裕なんて無かったというのに。もっと彼女を近くで見たいと、そう思った。
怖いほど正確に、まるで操り人形のような澱みの無さでナイフを投擲する自称人間。思えばあの時から、私は彼女に心を雁字搦めに絡め取られてしまったのだろう。
人形達は撃墜され、魔力も体力も削られ切って。
最後に私の意識を刈り取りに来た彼女の瞳と、至近距離で目が合って。
燃え滾る双眸の奥に隠された、小さくて脆い光に。
深く深く、恋に落ちた。
異変の後から、友人になるまでさして時間はかからなかった。
共通の趣味や知人の存在。一週間に何度か図書館へ訪れる度、出迎えてくれる彼女と言葉を交わす機会も多くて。
友人から親友になるのにも、さして時間はかからなかった。
完全で瀟洒。その二つ名に相応しい所作にいつも見惚れた。
瀟洒な仮面から時折零れる等身大の彼女を見るたび恋をした。
それでもずっと奥で揺れる寂しそうな瞳に、戻れない位に惹かれていった。
彼女の蒼に恋慕の色が混ざり始めたのはいつだっただろうか。それが私に向けられていると気付いたのはいつだっただろうか。
気付いて、けれど、互いに進めなかった。
顔を見る度に心が躍っても、声を聞く度に鼓動が高鳴っても、手が触れる度にこの上なく幸せな気分になれても。気付いていない振りをして、目を逸らして、彼女らしくない不器用な芝居で逃げ続けた。
軽蔑する気なんて起きなかった。
嫌いになんて、なれなかった。
それは、彼女の優しさだと分かっていたから。
そして、自分が臆病なせいだと、痛いくらいに理解していたから―――
「アリス」
やや硬い何かの感触で我に返った。視線をテーブルの向こう側にやると、呆れたような笑顔で頬杖をついた幽香が手に持ったクッキーを口元に押し付けてきていた。取り敢えず軽く口を開いてみるとゆっくりそれが口の中に入ってくる。
特に何の変哲もない、プレーンのクッキーだ。自分で作って持ってきたものだが、こうして食べてみるとなかなかの出来だった。微かに蜂蜜の匂いがして、それは以前、咲夜が少し得意げに作り方を教えてくれたものだと思いだす。
「前からお菓子作りは上手かったけど、少し前から随分腕が上がったわよね。味の付け方も、少し変わったし」
穏やかだが少しばかり行儀の悪い動作でクッキーを口に放りながら、幽香は私にそう言って笑った。
気の強い彼女にしては珍しい、けれど最近になってよく見るようになった、少し困ったような苦笑。それを見る度に心の奥がずきりと痛む。私は何も言わなかった。いや、言える言葉が見つからなかった。
「…………」
彼女も前から何度か紅魔館を訪れた事がある。
だから、気付いたのだろう。気付いていたのだろう。一体何故、料理の味が変わったか。
そして、一体誰のものに似たのか。
「……そうやって呆けているだけでも絵になるんだから、ずるいわよねえ」
そう冗談めかして私の頬をつついてくる幽香の顔からは、いつの間にか苦笑が消えて。代わりに浮かんでいるのは少し悪戯っぽい、小悪魔的な笑顔だった。
それを、見て。
あぁ、似ている。と。
いや、きっと「似た」のだろうと。
そう、思った。
「ずるいわね。食べたくなる位、綺麗」
妖しい光を宿した目をしながら、緩慢に、彼女の指が私の髪を梳いてくる。少し目を細めて、楽しそうに。
ふとそれに銀色の影が重なって、息も心臓も止まりそうになった。
ちょっとでも空気が沈んでしまいそうになった時、彼女はいつも冗談で誤魔化した。私が一歩踏み出そうとした時も、そうだった。際どくて、心臓に悪くて、そのくせい冗談とは思えない完璧なポーカーフェイスなのだから、本当にタチが悪くて。いつも私だけがムキになって、彼女はそれを涼しげな笑顔で受け止めていた。
悪戯好きのメイド長。
いつもいつも、そんな彼女に振り回されっぱなしで。
けれど過去に一度だけ。わざとらしく近付けてきた唇のすぐ横に事故を装ってキスをしてやったのは、今でも良い思い出だ。
確かに親友で、決してその枠から出ないじゃれあいが、楽しくて、辛くて。
『ねえ、アリス』
二つの口が、私を呼んだ。
―――意識が引き戻される。
向かい側の椅子に座っていた幽香が、私のすぐ隣まで来ていた。瞳の奥まで見透かさんとばかりに、顔が近付いてくる。そして、わざとらしく、吐息が触れ、掠めるほどの距離に、彼女の唇。
迷わず自分のそれを押し付けると、待っていましたとばかりに両腕が首の後ろに回された。
こうして触れていると、似ていても決して同じではないという事を感じて。その度に浮かぶのは、安堵と申し訳なさだった。
「キスの最中に、そんな顔はなしよ」
「あ、うん、ごめん」
「分かれば良いわ」
また、苦笑。けれどそれは一瞬で、さっきとは違う全てを奪い取ろうとしているかのような口付け。
いっそ暴力的とまで言えるそのキスに、脳の奥まで蕩けそうになる。
「ゆう……かっ……」
思考の表層は彼女で埋め尽くされた。
目を薄く開いて、超至近距離の彼女を見る。
もう脳の回路がスパークしてしまいそうな私とは違って、幽香は至って余裕があった。
けれど、何故だか。
余裕の奥に、親を探す迷子のような必死さが隠れているように見えた。
「……ッ」
お腹の奥から熱が上がり、目頭へ。
―――幽香、ごめんね。
零れそうになる熱は喉へと下り、声を張り上げて叫びたくなる。けど、その為の口は彼女の唇に塞がれているから。
もう一度熱が目の奥へ。つかえた声は生温い透明な雫になって、落ちる。堕ちる。
薄く開いた視線と視線がぶつかった。滲んだ視界では本当にそうだったかは分からないけれど、幽香の目は穏やかに見えた。
そっと、手が伸びてくる。頬に触れて、親指で雫の伝った跡を拭う。私と殆ど変らない筈なのに、その手は何故だかひどく温かく思えて。拭って貰う度それがトリガーになって、気付けば情けなく泣きじゃくっていた。
本当なら、私が幽香にこうしてあげるべきなのに。
声も涙も出さずに泣いている彼女を、抱き締めてやるべきなのに。
こうして私が泣けば、彼女は私以上に傷つくと知っているのに。
「良いのよ、アリス。好きなだけ泣きなさい。大丈夫、大丈夫だから」
足元から香る花の匂い。
椅子に腰かけていた私の体は持ち上げられて、いつしか咲き乱れた花のベッドへ降ろされた。
「全部、私に委ねなさい」
今まで何度も聞いてきたその台詞。浮かべる笑顔は、蠱惑的なくせに、とてもとても、寂しかった。
けど、私に重なる彼女の体は、苦しい位に温かくて―――。
◆
愛されないという事は理解していた。
彼女にはもう、焦がれて仕方のないものがいると知っていたから。
けれど決して、二人の未来が交差する事もないと分かったから。
そのせいで彼女の心に空いた、その僅か隙間にでも構わないから、私の存在を彼女の一番奥に刻んで欲しくて。
だから、自分の中でも割切った振りをして、彼女に近づいた。その隣という位置を、手に入れた。
「愛してる」
彼女に愛されないのなら、私が二人分の愛情をもって互いを繋げばいいのだと、そう思っていた。それがもつ意味が何なのか、それがどれほど底なしの虚しさを生むかも知らないままに。
触れて、囁いて、抱き締めて。
その度に泣きたくなった。虚無だけが募っていった。
けれど、彼女を想う事は諦められなかった。それは私の意地でもあったのかもしれない。一度雁字搦めに縛りつければ、例えその拘束がなくなったとしても紅い傷跡が長く永く残る事になる。
それならば、例えそれが一方通行だったとしても、彼女が応じてくれるなら構わないと思った。
こう言ってしまうと、まるで劇の脚本にでもなりそうな美しい愛情とも思えるかもしれない。
けれど、そんな生易しいものでは決してなくて。
使い古された表現をするのであれば、綺麗な薔薇にも棘があるように。
一方的に与える無償の愛情は、触れるものに傷を残す。
傷口をズタズタにして、傷が癒えた後もなお、痕が残り続ける。私にも、そしてきっと、彼女にも。
長く生き過ぎて、涙腺が枯れ切ってしまっている事が唯一の救いだろうか。
彼女の前で、みっともなく泣かずに済む。
澄んだ蒼い双眸には、いつだって儚い銀色が映っていた。
絶対に届かない、触れられない、赦されない、彼女のずっと、ずっと奥に。
あまりに絶対的過ぎて。彼女の仕草に銀色の影が過ぎる度、私はただ苦笑する事しか出来なかった。
―――どうやっても、叶わないのだと。敵わないのだと。
認めたつもりでいて認めたくなかったその現実を、真実を、嫌でも実感させられて。ただ互いを縛り付けて堕ちていくだけの今に、何も希望が見いだせなくなって。
そうしてある日、一つのきっかけで、私は大きな決断をする。
◆
陽光が照りつける、晴天。
「―――青巫女が彼岸に渡ったらしいわ」
「……そう」
幽香から告げられたその報せに、アリスは解れた人形を繕う手を休めないまま答えた。
少し俯きがちなせいで、その表情は読みとれない。瞳の色も陰に隠れて、今や青みのかかった灰色にしか見えなくなってしまっている。対する幽香も相手の反応を気にしてはいないので、別にどうという事はない。
「現人神とはいえ、人間である以上早く散るという運命には逆らえないのね。幾ら奇跡を起こせる能力を持っていたとしても……結局あの人間は、一人になってしまったわ」
名前を出してはいないものの「あの人間」が誰を指しているかという事くらい、アリスにも理解できた。厳密にいえばその人間には紅い館の住民がいるので決して一人ではないが、幽香がそう言う意味で「一人」と称した訳では無い事も分かっている。
一瞬だけ僅かに顔を上げたものの、すぐにまた視線は人形へと戻った。
「……そう」
全く変わらないように聞こえる、返答。
けれど伏せた双眸の奥が揺らいだことなど、簡単に見透かされていた。それに、分かりやすいほど手の動きが鈍っている。
穏やかさ以外の全てが完璧に排除された声で、幽香はアリスに語りかけた。
「アリス」
「……なに?」
「あなたはいつも冷静で、冷めた目をしてて。だから私はそこに惹かれたのだけど」
「なによ、いきなり」
唐突な恋人の言葉に、アリスは人形から完全に目を離して訝しげな顔をする。眉を寄せて、少し首を傾げる仕草。幽香の視界の中で、金と銀色の影が重なった。
「きっとあなたも、あの人間の、人らしからぬ目に惹かれたのでしょう?昔も、そして……今も」
無意識に浮かぶ、苦笑い。
「……ッ!」
自身の正面から、息を飲むのが聞こえた。
「よく似た瞳の持ち主が逝ってしまう前に、焼きつけてきても良いんじゃない?」
ねえ、アリス。そう呼びかける幽香の声は、優しい。
魔女は端正な顔立ちを迷いに歪めて、小さくかぶりを振った。
「……でも」
「分かってるから」
駄々をこねる子供のような声を遮る。無慈悲に、むごい程の優しさを以って。
「前からずっと言っているでしょう?貴女が愛しているのはあの人間だって知ってるって。だから、ね。随分時間が空いてしまったけれど」
片手に持ったティーカップを傾けて、幽香は顔をしかめる。随分と温くなって、味が落ちてしまっていた。思わずくしゃくしゃになってしまいそうな自分を誤魔化すのには丁度良くて。喉の奥だけで、微かに。自嘲気味に笑った。
「…………」
俯いて顔を覆う金髪の奥で、揺らぐ表情。
それに思わず折れてしまいそうな自分を奮い立たせる。最良の選択肢なんてきっと、最初から存在していないのだ。ならばせめて、正しいと確証は持てなかったとしても、自分が決断した事を貫き通すしかない。
声を出そうとして、心臓が握り潰されそうな程痛くなって、自分の存在すら捩じ切られてしまいそうな程の圧迫感にえづきそうになって。それでも、意地とプライドを杖にして。
努めて笑顔を作った。
「―――行ってきなさいな。アリス。貴女の初恋を叶えてきなさい。きっとあの人間の事だから、あなたへの想いの時間だって止めている筈よ」
それは即ち、今まで重ねてきた時間の全否定。ただ、自己満足だったという現実を直視する事。それとなんら変わりは無かった。
俯いていたアリスの体がびくりと震えて、ゆっくりと顔を上げた。
零れ落ちそうな程涙の溜まった、澄んだ瞳と目が合った。
「ゆう、か」
声は潤んで、ぐちゃぐちゃに震えている。
彼女の泣き顔を見るのは、花のベッドの上で体を重ねた日以来だったか。
いつまで経ってもその顔は苦手で。
彼女の横に立って、手を差し出した。躊躇いながら微かに膝から手が上がるのを見て、幽香はその手を掴むと少し強引に彼女を立ち上がらせる。
「……ほら、さっさと行ってきなさい。老いた人間は枯れそうな花と同じで、いつ死ぬか分からないんだから。着いたらもう死神のお迎えが来てました、なんて事だってあり得るのよ?」
冗談にならない冗談を言いながら、アリスの背中を押した。押されたそのままに、数歩、アリスが前へ進み出る。どんな表情をしているかは見れなかった。勇気が無かった。
これでおしまいだと、気付いていたけれど。
幽香も、そして、アリスも。
自分の背中を押した時に込められた力は強くて。
もう振り返るなと、そう幽香が無言のうちに言った気がして。
背を向けたまま、呟いた。
別れの言葉にしてはあまりにも暖かくて、愛の囁きにしてはあまりにむごい、心からの感謝を。
「……ありがとう。幽香」
「こちらこそ。愛してたわ、アリス」
幽香の声はいつもと全く変わらず。どんな表情をしているかは分からない。
けれど、アリスは振り向かなかった。
瞼を閉じて、自分と彼女、二人の瞳の色によく似た蒼い空の中へと飛び出していく。閉じた瞼の裏側にちらつく、銀色と、緑。微笑む二人の影が重なって、輪郭がぼやけ、消えていく。
輪郭すら瞼の裏の闇に消えて、代わりに熱い何かが込み上げてきて、けれど、それは決して零さなかった。
もしかしたら、例えそれが一瞬だけだったとしても。
「愛してた」と言われた、たったその一瞬だけだったとしても。
自分は幽香の事を、確かに愛していたのかも知れない。
アリスの顔を見ると、門番はいつもと全く変わらない笑顔で彼女を迎え入れた。
主人とその妹、そして知識の魔女は図書館に籠もっているらしい。意外に親バカなんですよあの人たち、と、妙な踊りを踊りながら門番は屈託なく笑う。
一体何故かと聞けば、門番たるもの客人は心からの笑顔で迎えなければならないからだという。
命の短い花を愛する彼女だからこそ、その努めを全う出来ているのだろうなとアリスは思った。そして、その強さに一瞬だけ、憧憬めいた感情を抱いた。
妖精メイドに案内された部屋の前。
今まで何度も通された事のある、けれど最後に見た時より随分と古びてしまった簡素な扉。震える手を、胸元の高さまで。
最初に一回。間をおいて、続けて二回。
「―――アリス?」
小さな声が、扉越しに聞こえた。
声質は随分と変わってしまっていたけれど。弱々しくなってしまっているけれど。
焦がれて、ようやく、また聴けた。
大好きな、彼女の声だった。
◆
「すっかりおばあちゃんになっちゃってね、おもてなし出来なくて申し訳ないわ」
「良いのよ。そんなこと気にしないで」
アリスはベッドの脇に置かれた椅子に座り、咲夜の髪を撫でてやる。
すっかり老いてしまって、髪の艶は衰えて、肌の張りもなくなって、真っ白な肌にはいくつもの皺が刻まれていた。
けれど、それでも澄んだその声が。
髪を撫でられると気持ち良さそうに細められる蒼い瞳が。
あの時と、何も変わっていなくて。
長い年月を越えてまた、自分を深い深い恋に落とした。
「早苗は、私より長生きすると思ったのだけど」
ベットに寝たまま、顔だけをアリスの方へ向けて、ちょっと苦笑してみせる。
「寂しい?」
「ええ、寂しいわ」
「……そう」
彼女の髪を梳く手は止めず、なんとか胸の奥に走った痛みを堪えた。
咲夜は苦笑を崩さないまま、ちょっとだけ、首を傾ける。
「……あの子が彼岸に渡る直前、二人きりで話していたの」
蒼い四つの瞳が交差した。
銀色の髪を微かに揺らして、半分の瞳はどこか遠くを見ている。
「本当に、真っ直ぐな子だったわ。あの子は本当に純粋で。だからこそ、私は愛せたのかもしれない」
それはアリスに向かって話しているというより、独り言を呟いているようにも見えた。
一切のためらいもなく愛したと断言する咲夜の言葉に、心が切り裂かれたかのような痛み。
でも。
けれどね、と。そう続ける咲夜の瞳を、アリスは真っ直ぐ見つめ続けた。
「きっと私は取り返しのつかない事をしたんでしょうね。臆病なせいで、目をそらして、一人の愛情を、利用した」
淡々とした口調。けれどあの頃と変わらない双眸が、言葉より如実に咲夜の感情を映していた。
「あの子は、幸せでしたって。笑いながら逝ったわ。あの死に顔なんてまさに神憑り的に綺麗だったわよ。……でも、忘れられないの」
滲む、憂い。それすら塗り潰して見えなくする程に濃い、後悔。
「本当に一瞬だったけど……最期のキスの後かしら」
―――あの子、凄くね、寂しそうに、哀しそうに笑ったのよ。
冷静に語る咲夜の声にも、一瞬。強い感情が宿った。
「……ここに来る前、幽香と話してきたんだけど、」
凍える様で、けれど実は燃えるように熱い、蒼。長い事見ない間にその色は濃さを増し、見透かせなくなっていた。
「別れ際、あの人もきっと、その時の早苗と同じ顔をしてたと思う」
自分の言葉に対して何か口を開きかける咲夜の声を、アリスは「それでも、ね?」と。問いかけの前置きで遮った。
「さっきあなたが言ったように、彼女は最期、幸せそうに笑ってたんでしょう?」
声は優しく、柔らかい。様々な感情の入り混じった、彼女を象徴する色を彷彿とさせる声音。表情も、同じく。いつくしむようなアリスの微笑には、ティーカップ一杯分位の自嘲が混ざっていた。
―――自分は、笑顔で別れる事が出来なかったから。
あの時からまだ一時間も経っていない。最後に見た寂し過ぎる笑顔と、背を向けて見上げた空の青さが、今もまだ鮮明に瞼に焼きついている。
振り払いはしなかった。
立ち上がって、屈んで、視線の高さを同じにしながら、シーツの中にある咲夜の手を探る。乾いた布の感触を手で確かめながら、あの時と変わらない温度を見つけ出すのに殆ど時間は要らなかった。今アリスが握っている、昔もただでさえ華奢だった手は更に細くなって、脆くなって、随分と頼りなくなってしまったけれど。
握るだけで鼓動が高鳴る、魔法の手。
きっと、彼女の指からは紅い糸が伸びていて。自分に届いて、それを辿って。だからこそ巡り逢えたのだろう。アリスの両手にはもう操り糸があったから、途中で絡んで、こんがらがって、辿りつくのに随分と時間がかかってしまったけれど。
「咲夜、あなたがもし、それを罪だと思うなら」
折れてしまわないように、離れてしまわないように。壊れ物を扱うようにそっと、アリスは指を絡ませた。
ずっと寄り添ってきた、恋人の様に。
「私もそれを背負うから」
―――ねえ、咲夜?
呼びかける声は、よく通った。
それは神の前で永遠の愛を誓う花嫁のような、或いは、愛を囁く恋人のような。
その例えは半分違って、もう半分は合っていた。
花嫁でも、恋人でもないけれど。アリスは今、伝えようとしていた。
窓から真っ白な光が差し込んで、二人を白く染めている。穏やかで静かな銀と蒼、決意を湛えた金と蒼。決して色彩豊かではない二人の世界。けれど、全ての色が白に対してよく映えた。それだけで十分だった。
繋いでいた手を緩やかにほどき、その手で咲夜の頬を撫でる。細められた目と、真っ直ぐな視線がぶつかった。それだけで良い。言葉は必要としていなかった。
金色の髪が重力に従って靡き、銀髪と触れ合い白い光を照り返す。
「――――――」
人形のような少女は、人形の様な少女だった人間と唇を重ねた。
近付くまでは緩慢で、離れるまでは長かった。
静かに触れた唇は乾いていて、温度もなかった。けれど代わりに、時を止められたままだった瑞々しい二人の想いが重なる。それははっきりと、好きだと伝えるキスだった。
顔を離し、至近距離で見つめ合う。
思わずアリスは息を飲んだ。
瞼の裏に浮かべていたような、ぼんやりとした影のようなものではなく。
あの日の咲夜がそこに確かな像を結んで、二つの銀色の優しい笑顔が、視界の中で重なった。
何も言葉が出てこない。
言うべき言葉は、痙攣する喉のすぐそこまで出かかっているのに。
なんで、なんで大事な時に、この臆病な自分を壊せないのだ。ただ震える肺の奥で、呻きによく似た、それ以上に嗚咽に似ている音ばかりが鳴って。
―――たった、二文字で良いのに。
どうしようもなく自分が情けなくて、泣きたくなった。
「……アリス」
咲夜が、泣きそうなアリスの顔の横まで手を伸ばしていた。微かに震えるその手は、上にあげるだけで辛そうだ。けれど咲夜は疲労も辛さも一切表に出さず、あくまで瀟洒に微笑みかける。
「ありがとう」
数秒。アリスの呼吸が止まる。
思考がぐちゃぐちゃになる。
なぜなら。
アリスは、咲夜のその言葉が、残酷すぎるほどに愛に満ちた。
―――拒絶だと気付いたから。
涙は一滴も伝っていないアリスの乾いた頬の上を、咲夜の指が愛おしそうに滑っていた。
一層深みをました双眸は、見捨てられた子犬の様に体を小刻みに揺らすアリスに、大丈夫だよと言っていた。
「ごめんね。私はもう、時を戻せない」
慈愛に満ちた微笑だった。声だった。指だった。包み込むように柔らかく、あまりに、むごい。
「いつか貴女が来てくれたら、伝えようと思っていたことがあるの。ねぇ―――お願い、アリス。もうあの頃とは随分変わって、おばあちゃんになっちゃったけど。私の我儘、聴いてくれる?」
アリスは頷く事しか出来なかった。嫌だと、言えなかった。きっとその我儘は、天然な咲夜らしくあまりに的外れで、馬鹿げたものだと。そしてとても優しいものだと、直感で気付いていたけれど。
「貴女は貴女の為の時間を生きて。アリス、貴女の時間はとても長いから」
―――操り糸は、解けたから。
無理をして喋りすぎているのだろう。掠れた声でそう冗談めかして言われたって、ちっとも笑えない。
なんてとんでもない冗談を言うのだ、このブラックジョーク好きの元メイド長が。アリスは部屋の天井を振り仰ぐ。
忘れろと言うのか。
戯れとして受け流せと言うのか。
どんなに離れていても、顔を見なくても。
見て、触れて、声を聴いて、その度、恋に落ちる位に。
ずっとずっと、愛おしくて堪らなかった、咲夜。貴女の事を!?
「そんな顔、しないで?アリスはどんな顔でも絵になるけど、笑ってる方が私の好みだわ」
「…………ッ」
額をこつんと突き合わせて。冗談っぽく言う咲夜は無邪気に笑った。
心臓が苦しくなって、どくんどくんと、鼓動が跳ねる。
沸騰するほどの熱がアリスの体の奥底で沸きあがり、そして、目頭へ。溢れ出しそうになるそれを何とか堪えた。
咲夜の前で、涙を流す訳にはいかないから。
笑顔が好きだと、言ってくれたから。
そうして、後は黙って咲夜の体を抱きしめた。
さっきのキスより長いか短いか、それくらいの時間。
一振りのナイフの様に洗練された咲夜の存在を、目に、心に、魂に、深く深く、刻む。何があっても決して忘れないために。例え万が一彼女の名前も声も忘れてしまったとしても、この温度だけは覚えていられるように。
体を離して、しばらくの間、見つめ合う。
彼女の瞳の奥で何かが揺れた。けれど、それが何かは分からなかった。湛えているのは瀟洒な笑顔。対するアリスは、無理矢理作ったような、それでもなお可憐な微笑。
そうだ、この目に、表情に、自分達は恋をしたのだ。
このまま時が止まってしまえばいいのにと、心からそう思った。
けれど、それはどうにもならない事だから。
「お邪魔したわね。ゆっくり休んで」
アリスは静かに、ベッドに横になる咲夜へ背を向けた。伝えたいことは山ほどあった。けれど、それは言う事が出来ずに。たった一つの別れの言葉を残して。
けれど。
ドアノブに手をかけた所で、小さい声が、歩を進めようとするアリスの足を止めさせた。
きっと、独り言だったのだろう。微かで、普通なら耳を澄ましても聞こえないような、声。それがアリスの耳に言の葉の形を保ったままで届いたのは、それこそ奇跡的な事だったのかもしれない。
「……愛してる」
ぐらりと、眩暈がした。
今すぐにでも振り返って、駆け寄りたかった。涙で顔がぐちゃぐちゃになったって構わないから、この震える心のまま、叫びたかった。でもそれは出来なかった。今の自分は、彼女が好きだと言ってくれた表情を作れていないから。
けれどアリスは、全身が引き裂かれることよりも勝る痛みを、歯を食いしばることで耐えて。軋む蝶番の音を立てながら、何の変哲もない木の扉を開いた。
「私も、ずっと前から」
―――咲夜の事が、好きだった。
ばたん、と。
最後の言葉は、閉じる扉の音に掻き消された。
アリスが平静を取り繕えていたのは、扉から数歩の所までだった。
「…………」
紅い壁にもたれると、ひゅー、ひゅー、と喉の奥から乾いた息が零れる音がする。
熱くて仕方のない頬と唇に、触れる。ただそれだけで、胸が鼓動するのを感じた。
初めて出会った頃と全く変わらない。こんなに心臓が暴れるのは。彼女に心を絡め取られてしまった時から、何も変わってはいなかった。目をそらして背を向けて、他の誰かを愛したように自分を誤魔化して。けれど結局、咲夜の事を想い続けていたのだから。
「……それなら、」
茫然とした表情で、ぽつりと、呟く。
呆けたようなアリスの表情。焦点の合わない瞳から、音もなく。透明な涙が一筋伝った。
「隣に居れば良かったじゃない……っ!!」
―――気付くのが、遅すぎた。
結局心の中で彼女を愛し続けていた以上、そして愛されていた以上、おいていく事も、おいていかれる事も変わらない。
ならば痛みを覚悟して、正面から受け止めて、彼女の傍に居れば良かったとアリスはようやく理解したのだ。
「それならっ……そうしてたら……っ!」
そうすれば、誰も理不尽に傷つかなかった。罪の意識に苛まれ続ける事も、愚直なまでの愛に身を焦がしていく事も、苦し過ぎて泣き叫ぶような事も、愛されないと理解しながら一方的に愛し続ける事も、なかった筈だ。
「咲夜ぁっ、さくやぁッ、ぅ、ぅう、うあぁっ」
あれは最初で最後のキス。
きっと、あの優しい目が自分を映すのも最後だった。
気付いていた。銀時計の針が止まるのは、そう遠い未来の事ではないと。
愚かだった。恐れていなければ、覚悟さえ、出来ていれば。
冷たい瞳がよく似ていて。そして臆病すぎる所までそっくりで。
天井を見上げた。けれど、抑えようとした涙は許容値を超えて流れ出る事を止めようとはしてくれなかった。
「ふ、ぅう、っ、ああぁ」
ぼやけて滲んだ視界の中で、細い光の道が自分に向かって伸びているのに気付く。ずっと前にも見た、ここで仕える人間が館の中でも陽の光を浴びれるようにとの配慮のもとで作られた小さな窓。そこから陽光が差し込んでいた。
咲夜も枯れた涙腺で、あの部屋で泣いているのだろうか。今の自分と同じように。
今すぐ扉を開いて縋りたい。けれど、そんな事を許されるとは思えなかった。
動かない足。腰は抜けて、赤い絨毯にへたり込んで。動かない。動かない。ただ目と喉の奥ばかりが痙攣するように動くだけで。臆病すぎた。こんな時にまで。今こうしているのだって、自分が臆病だったからなのに。
こんなに、こんなに、後悔をしているというのに!
脳内を埋め尽くす。懺悔。後悔。後悔。後悔。後悔。誰に謝ればいいのかも、どう償えばいいのかも分からなかった。ただ押し寄せるだけの衝動に、アリスは押し潰されてしまいそうだった。
糸が切れた人形のように崩れ落ちて。声を上げて、泣き崩れる。
人形遣いは、今や愛し続けた人間という操り手を失った人形だった。ひとりぼっちで泣くその体を抱きしめるものは、涙を拭ってくれるものは、もういない。
「う、あぁ……咲夜、ぁ……うぁ、うああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
愛しい人の名前を呼んで、魔女は、啼いた。
紅く薄暗い廊下に慟哭が響く。
その瞳はもうなにも見てはいなかった。あの日咲夜が魅入られた双眸の奥に揺れていた、小さな光はもう灯ってはいなかった。ただただ、後悔と孤独に染まっていた。感情が堰を切り、重い重い雫になって、落ちていく。
アリスの頬を止まることなく伝って堕ちる涙の軌跡を、撫でるように。
深い深い蒼の空が凪いで。
人間用に作られていた小さな窓から、ひとつだけ。
暖かい風が、静かに、静かに吹き込んだ。
◆
アリスが去っていってからも、しばらく腹が立つ程良く晴れた空を眺めていた。
幽香の周りを埋め尽くしているのは、自分の背よりも高く伸びた、太陽によく似ている夏の花。
「一瞬でも、愛してくれたのかしらね?銀色がよく似合う、七色の魔法使い」
枯れ切ったとばかり思っていた涙腺は、まだその機能を失っていなかったようで。
何の前触れもなく。
光を反射しながら、水滴が落ちる。堕ちる。
それは、丁度咲きかけの向日葵の根元に落ちた。
「あ……」
土に、よく目をこらさなければ見えないほどの大きさの染みが出来て、それを見た幽香は一瞬だけ声を漏らして。
そして、口の端を僅かに上げた。
泣き顔にしか見えない、恋する少女の哀し過ぎる笑顔だった。
「そうね、もう、やる事もなくなっちゃったし」
―――このまま全身の養分を堕として、彼女の髪によく似た金色をした太陽の糧になるのも悪くない。
そう呟いた瞬間、自分の中で何かが、少なくとも決定的で致命的な何かが、欠落する音が聞こえた。
「……ッ」
全身の急速な喪失感と共に、がくりと膝をつく。力が抜けて、上半身を立てている事すら、難しくなってくる。
とうとう終わりが来たようだ。長年生きながら、いつか枯れ、散る花と共に過ごしてきた妖怪としての勘だった。
体が完全に崩れ落ちるその直前、太陽を見上げる。
相変わらず燦々と輝いて。金と青が、想起させる。
生花にしては干からびるのが遅すぎて、造花にしては壊れるのが早すぎる恋だった。と。自嘲気味に、笑おうとして。
零れたのは笑い声でも涙でも無くて、ただ水分を失い始めた潤いのない息。
強く気高い花が、枯れていく。
花弁が散って、堕ちていく。
胸の前で手を組んで。
終わりを目前にしてもなお強い眼光は、ただ空を一心に射抜く。
全てを畏れなかった最強の花の妖怪の姿は、まるで神に祈る敬虔な信仰者の様に見えた。
―――もし、まだ奇跡が存在しているとしたら。
どんなに遠い未来の事だって構わない。
自分は、願おう。
何段も何段も深く深く恋をした彼女から繋がる赤い糸が。
相手を手繰り寄せる道標になって、いつか、また。
寒い春の日に、金と銀が出会えるように。
良いですね咲アリは。
人形っぽい人達の人間っぽい表情はなんかそそります。
あの時アリスが行かなかったらどうなってたのかな、と考えずにはいられないですわ
こういう想いの交錯は大好きです
この組み合わせで続き(もとい経過か?)とかハッピールートを読みたいなと思ったけど
それじゃあこのSSの設定がいきないか・・・