血のように赤い衣装を来た少女が、私に微笑みかけた。
毒々しい赤と、透き通るように白い肌の対比が不気味だった。私が少女に何かを言おうと瞬間、少女が顔を上げた。
ぞっとするほど、整った顔立ちの少女だった。すらりと長い手を前に組んだ少女は、私の顔を見ると眉間に皺を寄せ、困ったような表情をした。
そして、やおらその色素の薄い唇を開き、何事かとつぶやこうとした。
うわあっ! と、思わず、叫んで飛び起きた。夢を見ていたらしい。
カーテンから漏れ出る朝日を見てぎょっとした。しまった、遅刻だ!
慌てて一階に駆け降り、髭を刷るのもそこそこに身支度を整え、車に飛び乗った。
朝方にゴソゴソ五月蝿い、とカミさんや娘に怒られるので、今日こそ静かに出ていこうとしたのに。何たる不覚だと自分を罵りつつ、私は前日に買っておいた遊漁券を車のサンバイザーのホルダーに挟み込んだ。
そろそろガタが来つつある愛車をいたわりながら、とりあえず北の方角へと走らせる。
背高の高層ビルが林立する街並みに、徐々に緑が混じってくる。2時間も車を走らせただろうか。気がつくと、車はまだ一面雪野原の山間部を走っていた。
適当な地点を見つけて入渓した私は、お気に入りのバンブーロッドを継いだ。フライは川虫のパターンを結んでみる。
ウエーダー越しにも谷川の身を切るほどの冷たさが感じられた。寝坊のおかげでマズメ時は過ぎてしまっている上に、日は既に高く登っている。この時期は雪代が入り水温が低下する日中には魚の追いは悪くなる。
案の定、魚信はなかった。私はため息を吐いて、雪が溶け残る川辺をさらに釣り登った。
一時間も釣り上っただろうか。相変わらず、魚信はない。
諦めて帰ろうかと思った矢先、ふと傍らにせり出した柳の木の根元に、何かが引っかかっているのを見つけた。
近づいてみると、それは紙の人形だった。赤い色紙で折られた着物を着せてある。今しがた水中に没したというように、まだふやけてすらいない。
ごくごく単純な造形だったが、どこか懐かしい雰囲気が私の気を引いた。
私はほとんど無意識に、その紙人形をベストのポケットにねじ込んだ。
フライを結び直す。冬の間に巻いた、雪虫のパターンだ。寒さに震える手に吐息を吹きかけながら、苦労してリーダーにフライを結ぶ。
気を取り直して第一投、とばかりに、川の流れの際にフライをキャストする。スーッと水面を滑った雪虫が、ガボンという音と共に水中へ引きこまれた。
来た! 私の心臓が高鳴った。ジー、ジーと音を立ててリールから糸を繰り出す。バンブーロッドが心地良く曲がる。
春先だというのにずいぶんしぶといやつだ。私は四苦八苦して引きをいなす。水底に引っ張っていこうとする引きは重い。
と、そのときだった。バシャッ、っという音と共に、魚が水面に躍り上がった。でかいイワナだ!
あっ、と叫ぶ暇もなかった。ラインを緩める間もなく魚は水中に没し、直後、手元から嘘のように重さが消えた。
慌ててラインを巻き取ると、雪虫のフライはリーダーの先から消えていた。
あぁ、とため息が漏れた。
解禁日を数日経ただけの春先に、あのサイズは貴重、いや、ほとんど食ったのが奇跡とも言える一匹だろう。
どうしてこんなことに? なぜあそこで自分はラインを緩めなかったのだろう? 思えば今日は朝からおかしかった。寝坊はするし、魚の追いは少ないし、せっかく掛けた魚はバラすし、全く散々な一日だと思う。
全身から力が抜け、思わずへたり込みそうになった私は、大イワナが消えていったあたりの水面を睨みつけた。
「今日は厄日だなぁ――」
私が呻いた瞬間だった。
ぞくっと、背筋が反り返った。
「そんなものを拾うからよ」
どこかで聞き覚えのある、怒ったような声が耳元に聞こえた。
はっと後ろを振り返ったが、そこには一面の銀野原があるばかりだった。
しばらく放心した後、私はふとベストのポケットを開き、あの紙人形を取り出した。
手のひらに乗った人形に、思い出す光景があった。今朝方夢で見た、あの赤い服の少女にそれは似ている気がした。
今しがた聞こえた台詞の意味が、なんとなくわかった気がした。
私はそっと、人形を流れに返した。
紙の人形はぷかりと水面に浮き、川の流れに逆らうことなく下流へ消えていった。
それを見届けた私は、ふうと息をついた。
もう日は高く登っている。粘れるだけ粘っても、結果は火を見るより明らかだろう。観念した私は川辺に上がろうとした。
そのときだった。パチャ、という音が何処かでして、私ははっと後ろを振り返った。
聞き間違いではないと、私の勘がそう告げていた。慌てて川辺に戻ると、再びどこかで水が割れる音がした。
見る間に、まるでスコールが降ってきたようなライズが始まった。なんということだ。こんなライズ、春先にはめったに出くわさないのに――。
慌ててフライを結び直す。やはり先ほどと同じ、雪虫のパターンだった。先ほどとは違う理由で、どうしようもなく手が震えた。
嵐のようなライズの音は鳴り止まない。私は無我夢中で春の川面にフライをキャストしていた。
了
すると、なぜかssで釣りの話を書きたくなる不思議。