街中でも薄暗い地底は、街外れともなるとなおのこと暗く、静寂に支配されている。パルスィは、そんな世界で日々を過ごす。決してこの暮らしを気に入っているだとか愛しているだとかそんなことはなかったが、街中に住むよりはずっと落ち着けた。
暗くとも、特に困ることはない。地底の住人はもともと地上の住人よりもはるかに感度の高い目を持っているが、ずっと暗い場所で過ごし適応してきたパルスィにとっては、むしろ快適な状況だった。何より、誰かが通りかかったときに、自分からは見えるのに相手からは自分は見えていないという状況が好きだった。
あの人は早歩きだ。足腰が強いのだろう。妬ましい。
あの人は脚が綺麗だ。さぞかし自信もあることだろう。妬ましい。
あの人が履いている靴下が可愛い。妬ましい。
こんな具合で、他人観察をするのは割合と楽しかった。
……
なお、決して脚しか見ていないわけではない。
そもそもパルスィの存在に気づく者も少ないが、気づいたところで話しかける者もいなかった。知り合いでもなければ当然なのだろうが、加えて知り合いというのも極端に少ない。
そんなわけで、パルスィは今日も気楽に、橋の斜めやや下方の河原から人妖観察に勤しむのだった。
なお、このポジション取りは目立ちにくいからという理由であって、決して脚が見やすいからというわけではない。
「ねえねえ、毎日覗きばっかりしてて、楽しい?」
声をかけられたこと自体があまりに久しぶりすぎて、パルスィはしばらくの間、それが自分に対する言葉だと気づかなかった。
その声を聞いて、十秒ほどたってから、もしかして自分だろうかと思い立って、振り向く。真後ろに、小さな少女が立っていた。
少女は、晴れやかな笑顔を浮かべている。
「……私?」
一応、念のため、自分を指差して、少女に確認する。
少女は、大きく首を縦に振った。
「あ、覗きだっていう自覚がないんだったら、ごめんね」
余計な言葉を付け加えて。
「別に否定をするつもりはないけど。何か用なの、古明地こいし」
「私のことも知ってるんだ。偉いね」
「割と有名人だと思うけど」
少女の姿をさっと眺めただけでも、まず絶対に目に付くのは、胸元にある「目」だった。はっきり言えば、この閉じた目、ここだけ見ればもう特定できる。
もっとも、パルスィの知識からすれば、仮にその目を外していたとしても、少女の外見からこいしを特定するのは簡単なことだった。伊達に長年人妖観察を続けてきたわけではない。
「有名かなあ。お姉ちゃんならわかるんだけど。あんまり有名になっちゃっても困るんだけどなあ」
「用事は何」
「あー、でも、そうだよね、お姉ちゃんはこんなところ通ることないから。あなたにとってみれば、私のほうがまだよく見た顔かもね」
「用事は」
「もう、せっかちさんだなー。別に。あなたが寂しそうだから遊んであげようかなって思っただけ」
少し頬を膨らませて、こいしは言う。
パルスィは、軽くため息をついた。
「余計なお世話。帰って」
「やーだ、冷たい子だー」
「忠告でもあるのよ。ここは私の領域。あなたはすでに、足を踏み入れている。恐ろしい魔物に心を食い散らかされたくなかったら、早々に立ち去りなさい」
緑色の目を光らせて、こいしを睨み付ける。
パルスィの持つ力は、容易に人を狂わせる。その者の持つ力が強く、地位が高く、人望があるほどに、影響は破滅的に大きくなる。
恐ろしさも実績もあるがゆえに、真っ先に地底に封じられた妖怪だった。封じられるまでもなく、パルスィ自身もそれを望んだ。制御できない自分の力に、自分自身でもうんざりしていたのだ。
地底の住人であれば、パルスィの恐ろしさを知らないわけでもないはずだった。
「んー」
こいしは、指を口元にあてて、軽く首を傾げた。
「まあ、お姉ちゃんだったら、危ないかもね」
「自分が例外だと思っているのなら、破滅するわ」
「嫌いじゃないよ、破滅。ねえそんなことよりさ、ノート見せて、ノート。私のこと、あとお姉ちゃんのことなんて書いてあるか気になるなー」
「……帰りなさい」
パルスィの手の中には、確かに一冊の分厚いノートがある。これは人妖の観察記録である。何かに利用するつもりもなく、ただ、書きたいから書いたというだけのものだ。内容にさほどの価値はないだろう。
しかし、まずそれ以前に、これが観察記録であることを知る者などいないはずだった。こいしの今の言葉で、パルスィの警戒心は数段高まる。
「私と話すということは、少しずつでも心の大切な場所を削られていくということ。早く去って」
「私は気にしないからさー。見せてよ、ねえ」
「あなたはまだ理解していないだけ。私の領域に踏み込むということは――」
「隙ありっ! ……おろ」
話の途中に、こいしは飛び掛ってきた。ノート目掛けて手を伸ばして。
それをさっと避ける。
「……」
ノートを抱きかかえて、こいしと対面して睨み合って。
そろそろ、パルスィの頭にも怒り筋が浮かび始めていた。
「あ、の、ね……」
「んん?」
すう。
パルスィは、一度、大きく息を吸った。
「いい加減にしてよっ! せっかくこっちが近寄りがたい雰囲気を演出してるんだから空気読んでもうちょっとそれなりの対応してよ! 一人芝居みたいになってて恥ずかしいじゃないの!」
「えーなんか理不尽な怒られ方だー……」
声を荒げるパルスィに対して、さすがにこいしも少し引き気味に応対した。
「いいんじゃないの、そういう、作ってるキャラが乱されてだんだん素になってくるタイプとか割と人気要素になるよきっと」
「一応アレでも素なの! 素でいることがめんどくさくなったの! あなたのせいで!」
「私だって素なのに……」
こいしは、むー、と口を尖らせる。
ううう、と唸るのはパルスィ。
「で、用事は結局、ノートなの?」
「ううん別に。あなたが寂しそうだから遊んであげようかなって」
「繰り返されたくない言葉を繰り返さないでっ!」
「理不尽だなあ」
「うう。今のは私はあんまり悪くない……」
いじけた顔で、パルスィは俯いて呟く。
「別に寂しくないし……遊んであげる、なんて言われて喜ぶほど飢えてないし……」
「みんなそう言うのよ」
「聞く耳持たないし……」
がくり。
肩を落とす。
そのまましゃがみこんで塞ぎこんでしまいたい気分だったが、プライドもあるのでなんとか耐える。
「だいたい、あなただっていつ見ても一人でしょうに。人のこと言えないんじゃ?」
「いつも見てるんだ? やだ、恥ずかしいっ」
「そういうのはいらないから」
「んー、ま、いつも一人だよ。気軽だし。ま、だから似たもの同士、仲良くしようよ、うん」
「遊んであげる、とか言ってる時点で完全に上から目線なんだけど」
「遊んで差し上げるから」
「言葉尻だけ謙譲語にしてもね!?」
このあたりで。
ここまで一気に喋る機会のあまりないパルスィの息が、切れた。
……はあ、はあと息を吐いて呼吸を整える。
「もう疲れちゃった? じゃあ鍛えなきゃね。付き合ってあげるよー」
「……いや、もう、放っておいて、割と本気で。疲れたから」
「あらら。じゃあ今日はちゃんと休んで明日に備えてね。弱ってて姿勢が崩れてると骨折とか肉離れとか起こしやすくなるから」
「明日から何が始まるの!?」
「いいのいいの。今はそんなこと気にしないでぐっすり休んで。ちゃんと栄養あるもの食べて、体を冷やしすぎないように気をつけて寝てね」
「お母さんか!」
「じゃあねー、パルちゃん。また明日ー」
「パルちゃんってうおおおいもういなくなったしっ! なんなのっ!」
唐突に姿を消したこいしの残像がまだ網膜に残った状態のまま、パルスィは叫んで。
――ふらり、と眩暈を感じて、しゃがみこんだ。
「あ……しゃべりすぎた……」
襲い来る頭痛に頭を抱えながら、そういえばと現状に気づく。ずいぶん賑やかに色々と喋ってしまった。誰か通りかかったりしなかっただろうか。ミステリアスな雰囲気が割と台無しになっていないだろうか。
などと心配しながら、ふう、と深く息を吐いて、なんとか眩暈をやり過ごした。
橋のほうをちらっと眺める。人の姿はないようだ。ずっとなかったかどうかはもう不明だが。
過ぎたことを気にしても仕方がない。あっさりとそう割り切って、パルスィはノートを開く。過去を振り返るのは嫉妬するときだけでいい。今はそんな気分にもなれなかった。疲れていた。
ペンをとって、古明地こいしの項目に一文を付け加える。
「以前より少し脚が太くなっていたように見える。やはり地上の食べ物は美味しいのだろうか。妬ましい」
無粋な誤字指摘を。すみません。
古明「寺」こいし
もしかして:地
こいし登場シーン付近と、
ラストで一文付け加える所が違いましたー。
なんかおかしいなあと思いつつ、検索してみると出てきたので、あってると勘違いしていまいました。ごめんなさい!
この二人は大好きなので、続きも楽しみにしてますっ。
珍しいカプ・後引く設定の妙、これは続き読みたい
萌える。
こいしのことも赤裸々に書いてあったりするのでしょうか。主に脚のこと。
つづきもたのしみにしてます!
そしてこいしちゃんはやっぱりふりーだむ。
脚フェチパルスィとは新しい。素晴らしい。