「ぶん、ぶん、ぶーん」
庭の草木に柄杓で水を撒いていたら、妙なる音色で暢気に唄う声が聴こえてきた。
「ハチが飛ぶ」
ちょうど私が振り向いたところへ我らが尼公・聖白蓮が、鈍色虹色大小様々の器を周りに浮かべて姿を現す。
これぞかの高僧・命蓮上人から受け継いだ秘術・飛鉢の法――どうやら虫のことではなかったみたい。
「お池のみなもに蓮華が咲いたわ」
私と目が合った聖はこちらに手を振りながら、寺の縁側に腰と鈍色の鉢――もとい金ダライを下ろした。
そういえばハスは夏に花を咲かせるものだったか。池の周りにはまだ手をつけていなかったので、後で散水がてら見に行くのもいいかもしれない。
我らが命蓮寺は妖怪の山にある大蝦蟇の池に引けを取らないほどの、ハスの名所として知られているのだ。
その霊験あらたかな眺めは、きっとこの蒸し暑い夏のことを一瞬忘れさせてくれるに違いない。
「ぶん、ぶん、ぶーん、鉢が飛ぶ」
頷き返した私が再び水撒きに戻っていると、聖は唄いながらタライの中に氷を二、三個ほど加えていく。
中にはあらかじめ水が入っていたのだろう、氷はちゃぽんちゃぽんと音を跳ねさせながらみなもに漂い始めた。
それから聖はタライを足元に置き、そっと両足を中に沈めていった。
「いざ、冷やさん――くぅ!」
しかしいかに夏の盛りといえど、氷水の中に足をくぐらせるのは少々刺激が強すぎたのだろう。
押し殺したような悲鳴が、聖の正反対側に水を撒いていた私の耳にもしっかり届いてくる。
ただすぐに慣れたのか、からからと氷がかき混ぜられる音も聴こえてきた。そしてそれはぱしゃぱしゃと水を蹴る音にとって代わられる。
どうやらすこぶるご機嫌らしい。思わず口元を緩めながら振り返ると、小首を傾げて微笑む聖の姿が目に入ってきた。
「……?」
ふと、私はその笑顔を見て何か呼びかけられているような気がした。
それに日陰の縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせている姿からは、どこか手持ち無沙汰で寂しげな印象をも抱かされる。
気になった私は柄杓と桶をその場に置いて聖のもとまで駆け寄ることにした。
「あら、別にそのまま仕事を続けていても構わなかったのですけど」
「いいえ。私にとって何より優先すべきは聖の都合。何か御用があるのでしたら、なんなりとお申し付け下さい」
「もうっ、それはよしてちょうだいって、いつも言っているでしょ?」
ちょっと大げさなくらい畏まる私を見て、聖は両の眉尻を下げて抗議する。
「でもせっかく来てくれたのなら……はい。ここいらでちょっと一息入れませんか?」
しかしすぐに笑顔を戻すと、聖は浮かべていた虹色の小鉢――あんみつを入れたガラスの器を一つ、手にとって私に差し出してきた。
「ああ、ありがとうございます。聖がお作りになったのでしょうか?」
「ええ。他のみんなにも配ろうと思っていたんだけどね、ムラサ以外見当たらなかったのよ」
「え? それはまた珍しいですね。一人二人が外出しているならともかく、ここまで揃ってみんながいなくなるなんて」
言われてみれば、何やら寺全体が常にない静寂に包まれているような気がする。
ずっと一つの場所に留まっているとなかなか気付けないものだ。そのくらい今の命蓮寺の敷地は広いということを自覚させられる。
「本当、いつもはにぎやか過ぎるくらいだから、こう静かだとなんだか落ち着かないものね。
ほら、ムラサも隣に来て涼んでいきなさい。私の用意した鉢はどちらもよく冷えていますよ」
「了解です」
聖の許しを得た私はその隣に腰掛け、草履を脱いで足をタライの中に浸ける。
「んっ」
やはり、ずっと日向で焙られていた足をいきなり氷水に触れさせるのは沁みるものがあった。
思わず身じろぎすると、その拍子に自分の足が聖のそれと軽く触れてしまう。
「あっ、も、申し訳ありま……聖?」
「うふふ、ちょっと冷やしすぎたかなと思っていたから、今のムラサの足はちょうどいい塩梅ですよ」
私の謝罪を遮って、聖は冷たさのせいなのか震えている足を寄り添わせてくる。
その感触と温度は私の暑気を払うには全く不向きだった。かといって無下に離すわけにもいかず、離すにしても惜しく。
「ムラサ、食べないのですか?」
「いえ、その、い、いただきます」
結局聖の言葉に押し流されたため、私達は互いの膝をそろえたままでいることになった。
周りに浮かんでいた残り六つの小鉢が、無駄に背筋を伸ばした私をからかうようにくるくると回っていた。
「――それでね、青色の寒天はブルーキュラソーというもので色付けしたのですよ。
幻想郷の外から迷い込んだという、里の洋菓子職人さんにいただきまして――」
聖がお作りになったあんみつには色様々な寒天が入っていた。イチゴの赤、リンゴの黄、紫の水羊羹――
そして今しがた聞いたとおり、ブルーキュラソーの青。これら全ての色は飛鉢のスペルカードに含まれているものを使ったのだろう。
おまけに寒天が賽の目状ではなく短冊状に切り分けられていた。
ただ一つ、気になったのは……
「あの、聖。この色付けされていない寒天は?」
「それはみずあじよ。氷の妖精さんがそういう味付けで売り出していたかき氷を食べさせてもらったの。見事なまでにお水の味しかしなかったわ。
ただそこで私は気付いたのです。ありのままの氷の味を知ってこそ、かけられている色様々な糖蜜をより深く味わえるのだと」
「まぁ、言われてみればたしかに。だからあんみつにも味付けしていない寒天を入れたのですね」
「あ、でも妖精さんには味のバリエーションを増やしてみてはどうでしょうか、と提案しておきましたけどね。
客足が芳しくないことに悩んでいたみたいだったから」
最後にちょっと茶目っ気を混ぜながら言うと、聖は自分のあんみつ鉢を平らげた。
「ごちそうさまでした。聖のお作りになったあんみつは目で見ても涼しげで味わい深いものでしたわ」
少し遅れて、私も小鉢に張られていた糖蜜(シロップ)をすすり終える。
「おそまつさまでした。気に入ってくれたのなら、これからしばらくはみんなに作ってあげようかしら?」
「それはありがたいですね。みんなもきっと喜ぶと思います。特に、屋外に出ることの多いナズーリンや響子とか」
「そうね。そういえばここしばらくお話できていないけど、幽谷さんはみんなと打ち解けているかしら?」
「ご心配なく、ぬえが妙な対抗心を持っていますけど、誰もがあの子を好ましく思っていますよ。
ああいう元気の良いのは見ていて微笑ましいですわ……なんて言ったら、ちょっと年寄りくさいのですけど。
実際齢千年近いのだから仕方がないかもしれませんが」
「あら、駄目よムラサ。そんなふうに考えて塞ぎ込んでいては本当に心が老いてしまうわ。
私達妖怪にとっては心の在り様こそが肝心なのだから、もっとガンガン行く姿勢を持たないと」
「ガンガン、ですか……私にはちょっと難しいですけど、聖がそう仰るのなら善処します」
それにしても今日の聖はよく喋ると思った。
いや、説法などでもそういう傾向があることは知っていたけれど、このように日常の些細な事をとめどなく口に乗せてくる様子を私は知らない。
あるいは今のように、こうして二人きりで私事を交わし合う機会に恵まれてこなかっただけなのかもしれないけど。
と、風鈴の音が響き渡ってきた。
「風が、出てきましたね。そろそろ陽の傾く頃合、ようやく私の撒いた水が涼をもたらしてくれそうですわ」
「ええ、いつもご苦労様です。おかげで庭木も生き生きして見えるわ」
「いえそんな、今の私にはこのくらいしか仕事がありませんから。他のみんなのように忙しく寺の外を駆け回ることもないでしょうし……なんて、いけませんね。
この姿勢を改めないと、聖の仰るとおり本当に老けてしまいそう」
「そうそう、その意気よ。
……でもね。正直今日に限って言えば、貴女が寺からほとんど出かけないおかげで助かったわ」
少し自嘲気味に呟く私の肩に、聖はゆっくりと頭を傾けて寄り添わせてきた。
「ひじ、り?」
「本当に、貴女がいてくれて良かった。
お願い。邪魔かもしれないけど、他の誰かが戻ってくるまでこのままでいさせて……誰もいないところに取り残されるのは、もう……」
さらに縁側に置かれた私の手にてのひらを乗せ、少々痛いくらいに握ってきた。
ここでようやく、私は先程抱いた感覚が正しいものだったと確信した。ためらわず仕事を放り出して良かった。
「了解、です」
私はゆっくりと顔を近づけ、聖の耳元で静かに囁く。
それを聞いて安心したのか、聖は揺れる瞳をゆっくりと閉ざした。
千年の孤独――それは聖にトラウマを植えつけるのに充分すぎるほどの長さだったのだろう。
法界より返り咲いてからというもの、聖は私達への報恩と、それから人妖の平等を目指して常に誰かの傍へ寄り添っていた。
それはあるいは、独りになることへの怯えから行われていたのかもしれない。
ただ同時に、誰かに同じ思いを抱いて欲しくないと考えての行動だったと、私個人としては見なしたい。
喋り疲れていたのか、いつの間にか聖は穏やかに寝息を立てている。
肩越しに伝わってくる鼓動とぬくもりを感じながら、私は聖に救われた時のことを思い出していた。
あの時私を孤独な海から救い出してくれた聖を、今は私が孤独から救って差し上げることができている――ああ、これに勝る喜びと誉れはない。
「ご安心を、我らが聖。私達はもう二度と、貴女を独りにはさせませんから」
……サイダー色? アントシアニンを含む植物の汁とかからなんとか作れそうな気もしますぞ
魔法使い連中は青薔薇とかも作ってそうだし
でも、みず味の発想は良かった。 みず味の発想が良かった。 チルノめ、深いな……
あんみつが喰いたくなってきました。