私こと宇佐見蓮子は、こう見えて古本が好きだ。
時間がある午前講義の日や休日など、電車に乗って遠くの街の古本屋に出かける時など心が躍る。
そう言えば、最近私の下宿先の周りにある古本屋の数が少なく、そして古本自体の値段も高くなってきて買い辛くなってきた。遠くに行けば安い古本が置いてあるわけでもないけれど、切符を買って電車に乗ると、そんなことは気にならなくなってしまう。
夏も近く気温の少し高い、程良い晴れの昼下がり、私はのんべんだらりと古本屋開拓の旅に出た。
遅めの朝食を済ませ、新聞を読み着替えて電車に乗る。小さな旅。
電車に揺られること一時間、私は馴染みの古本街へと降りた。ここは昔から古本が集まる場所で私が来た時からすでに古本の街と化していた。
「さて、行きますか」
大方通い尽くしてしまって新しい古本屋なんて会えないだろうけど、それでもここに来るとウキウキする。
駅から歩き始めて数分、いきなり霧が視界を覆った。天気予報にはこんなこと言っていなかったのに。
「なによ、この霧」
悪態を吐きつつ歩を進める。なに、ここらは庭みたいなものだから目を瞑っても歩いてみせる。
歩く事十数分、霧が晴れた頃、私は何やら妖しい店の前に立っていた。
「……こんな店が合ったかしら?建物の汚れ具合から新しく建ったものじゃないわよね」
ふむ、こんな店が建って居たろうか、それ以前にここは古本屋なのだろうか。
そして更に不幸なことは、先程の霧によって元来た道が分からなくなっていた事だ。
「……進むべきか引くべきか」
腕を組みつつ数瞬、私は意を決し店の扉を開け、入店した。
「…すいませーん」
薄暗い店内からは僅かに日の光が差し込み、少ない窓からは霧に煙る桜の木が見える。
骨董品や昔の道具が所狭しに置いてある、心地の良い店内。
「……素敵なお店だわ」
暫く外や商品を眺めていると、奥から物音がして一人の男性が出て来た。
「………いらっしゃい、歓迎するよ。客ならね」
気だるそうなこの男性が店主だろうか、それにしても無愛想。
「あ、どうも……ここは古本屋ですか?」
私の言葉を聞き、目の前の男性は眼鏡を掛け直しながら答える。
「一応古道具屋だからね、本も置いてあるよ。そこの棚」
指示された方へ行くと成る程沢山の本が置いてある。これは良い店を見つけたなぁ。
雑誌、文庫本、上製本、様々な種類の本が綺麗に整頓されている所を見ると店主はよっぽどの几帳面な性格なんだろう。
探すこと数分、私は見たこともない本に出会った。上製本でも文庫でも何でもない。今では珍しい和綴りの本だ。しかしもっと不可解な事はそれが経った今刷り降ろされたかのように新しい事。
「ん?古いと思ったら新刊じゃない、どれどれ……」
巫女、魔法使い、メイドに吸血鬼……こりゃ一体全体、空想科学魔法漫画のファンブックか何かかな。それにこの『八雲紫』とか言う妖怪、能力も姿もどことなくメリーに似てるわ。
しかしファンブックに和綴を採用するなんて、面白い会社もあったものね。
「あの、すいません」
「ん?どうしたんだい」
接客台で本を読んでいた店主を呼び付け、値段を聞いた。こりゃ面白いからメリーに見せて反応を試そうじゃないか。
「ふむ、幻想郷縁起。他の道具も買って欲しいんだが、まぁ良いか」
そしてここで私を驚かせたのが値段だった。
和綴、新品、そしてこの内容でどれくらい私の財布が軽くなるか、そこが少しばかり気がかりだったのだが。
「三百円だ」
「はい?」
こんな面白い本がたったの三桁。そこらの小学生でも買えそうなレベル。
「ホントに三百円?」
「あぁ」
「ホントのホントに、三百円?」
「そうだよ、しつこいなぁ」
商売下手なのかもしくは世間知らずなのかこの人は。たった三百円ぽっち、私が払えないわけ無いじゃない。
ガマ口を取り出し百円玉三枚を天板に乗っけて言う。
「はい、三百円」
しかし彼は笑って百円玉をつまみながら笑った。
「ん?こんなオモチャはよしなよ、払えないならツケ利くよ」
「オモチャじゃありませんよ」
「だってこれはオモチャだ、本物はこれ、見てごらん」
彼が差し出したのは大きく『百円』と漢字で掘られた旧貨幣。今や博物館でしかお目にかかれない昭和期の物だ。
まさかここ旧貨幣なんて持っているわけないが、買うと言ってしまったものを引っ込めるのは行儀がよろしくない。
「じゃ、じゃあこの時計置いてきます、売って下さい」
「時計?ふむ、見せてくれ」
仕方なしに腕時計を渡し、これを形にしてもらうよう交渉してみる。
すると彼は目を丸くさせ驚愕し、物凄い勢いで時計を眺めまわし、食い入るように見つめた。
「んぉ!こりゃ凄い、こんな科学的な時計どうして持ったんだい!?」
「去年の夏に買いました」
私の弁解を軽く聞きつつ、目の前の彼は時計を依然として撫でまわすがごとく見つめ、独りで何か呟く。ちょっと怖いなぁ。
「………時間が針では無く文字で表示されている、こんな先進的な時計ならここの本全部あげても良いよ、うん」
質流れ屋で雨の日に使うために買ったキズものの結構安い奴なのに。
「君はひょっとして………」
いきなり時計を置き私に詰め寄る。やだ、中々イケメン……じゃなかった、近い近い。
私は愛想笑いをしつつ距離を置く。すると今度は彼が顔を元の位置に戻す。
「………いやまぁ良いや、良いものを貰ったんだ、余計な詮索はしないよ」
「じゃあ今度三百円持ってきますんでその時まで待ってて下さいな」
「僕はこのままでも良いけどね、まぁ良いよ、ありがとうございました」
早速腕に時計をはめた店主に別れを告げ、駅へ歩き出すことにした。どうにも奇妙な人だったけど、中々に面白い。今度はメリーも連れてこようか、あの子結構骨董品とか好きだし。
しかし……
「こんなに駅まであったかしら、それにやけに木が生い茂ってるわねぇ」
先程まで立ち込めていた霧は晴れ、見えなかった景色が視界に広がってくると、どうにも歩き尽くしたと言っても良いここら一帯の風景の記憶と食い違う。まるで人が手を加えていないような深い森の中だ。
この近辺にこんな綺麗な森があったろうか。
「はぁ、今日は色んな事が起こるわねぇ」
そして天を仰いだ瞬間、私は頭がおかしくなってしまったのだろうかと思った。
「あれ、人?」
蒼く抜けた空には人影がくっきりと浮かび、何かを互いに放ちあっている。
幾何学模様が空を瞬く間に埋め尽くし、さながら花火大会の様な体を成していた。
「ゆ、夢を見ているのかしら」
だがすぐに物見遊山の様な気分で居られなくなった。その幾何学が此方に迫って来たのだ。
近くで見ると大きな紋様のほかに小さな弾が縦横無尽に飛び交っている。洒落にならないのは小さい弾。
着弾する音や木々を掠める音に驚いた私は慌てて近くの木に身を隠し体をぴったりとつけ頭を抱えうずくまり、目を閉じる。
買った本を胸に抱え、ひたすら体を縮こまらせるが一向に銃撃戦は遠ざかる気配を見せない。その時一際大きな音が響き近くの大木の小枝が煙を上げながら膝に落ちて来た。
「(冗談じゃないわ、こんなの………夢なら早く醒めて!)」
しかし状況はどうなのだろう、少しでも確認したいが顔を出すのはどうにも怖い。
そこで私は肩にかけていた鞄を弄り、手鏡を取り出し木の陰からそっと出し見る。
紫色の服を着た女性と紅白の衣装に身を包んだ少女が互いに色とりどりの弾丸を放ちあっていた。
「(あの紫色の服……ひょっとして)」
私は先程の本を捲り、妖怪の項を開いた。そして目の前の女性は挿絵に出て来た妖怪と同じいでたちであった事に気付いた。
「(あれ、八雲紫……?)」
信じられなかった、否、信じたく無かった。まさか架空の存在だと思っていた者が目の前で激しい戦闘を繰り広げていると言う事が。
「(………何なの、この世界)」
そして鏡越しだがその彼女、紫と一瞬だけ目が合った。驚く事に、その目は絵で見るよりも遥かに私の友人、マエリベリー・ハーンに似ていたのだ。
その瞬間、またもや霧が出始め、音だけしか聞こえなくなったが、後背に視線を感じる事から彼女は木の後ろに隠れている私を見つめているのだろう。
途端、へたり込んでいた体が起き上がり自然に足が動き始めた。
「わっ……わわっ」
足がまるで自分のものじゃないようで、勝手に走っていく。もしも体上下分割するなら、私の上半身は取り残され、下半身だけ去っていくように思えるくらい私の言う事を聞かないのだ。
どれ位走ったろうか、既に先程の銃撃戦の音は聞こえなくなっているが、どれ位まで逃げて来たろうか。
そしていきなり私の足は走るのを止め、制動をかけた。
「うっ……わっ!」
唐突に動作が止まった私はバランスを取る事が出来ず、顔から地面に激突、したかのように思えたが寸での所で何者かに支えられていた。
「ふぅ、術をかけたのは私だけど貴方足速いわね、外来人さん」
恐る恐る顔を上げると先程見た妖怪、八雲紫がそこに居た。
「怪我はないみたいね、良かったわ」
「あ、ありがとうございます」
取り敢えずはお礼。さっきの本には強い妖怪には紳士的に対応しろって言ってたからね。
彼女は私を腕から降ろすと、袖から扇子を取り出して扇ぎ始める。
しかし何か、居心地悪いなぁ。
「霧が出ているとはいえ暑いわねぇ」
呑気な顔をして涼んでいる彼女の顔をじっと見ていると、やっぱりメリーにどこか似ている。強いて違う点を挙げれば雰囲気が違うところか、メリーは基本のんびり屋でドジっ子だが目の前の彼女、紫は見た目こそ呑気だがどうにも居心地が悪い空気を作りだしているのだ。
「……貴方が、八雲紫さんですね」
「あら、何で私の事知ってるの?」
若干驚いた顔を見せた紫に私は先程購入した本を掲げると、彼女は扇子を閉じ、恭しい手つきでその本を取る。
「ふぅん、案外あの店にもまともなものは置いてあるのよねぇ」
と言って彼女はその本を仕舞う。
余りにも急な出来事で呆気にとられている私の顔に気付いたのか彼女は簡単な説明をしてくれた。
「貴方が向こうの世界に帰りたかったらこの本は持っていけないわ、御免なさいね」
「何で、何で持って行ってはいけないんですか?それに向こうの世界って?これは夢なんですか?」
兎に角聞きたいことは山ほどある。
私が矢継ぎ早に問い掛けると彼女は頬を膨らませ拗ねたように言った。
「そんないっぺんに質問しないでよ。向こうの世界ってのは貴方達が住んでいた世界、そしてここは私たち妖怪や忘れ去られた者が住む幻想の世界、まぁ夢でも見てると思えば気が楽になるわよ」
「幻想の………世界……?」
つまり、ここは私と友人が夢に見、そして恋い焦がれた境界の向こう側、幻想郷なのだろうか。
「そ。そして幻想は向こうでは存在できない。その本を持って行ってしまえば境界は崩れてしまうのよ」
憧れでもあった境界の向こう側に居ると言うのに、私は早く帰りたくてしょうがなかった。
先程の店の雰囲気とは全くの逆、今ではこの世界は私を全力で拒んでいるように見えて、どうにも嫌な感じしかしない。
「私は、帰れるんですか?」
「貴方、幻想郷縁起読んだのよね?」
無言で頷くと彼女は彼女の能力は何かと問うてくる。
彼女の能力は確か『境界を操る程度の能力』境界を歪ませたり切れ目を作ることが可能な能力。
「そう、だから貴方みたいな人間一人送り返すなんて造作も無いわ」
言って彼女は扇子を一振りし、空間を歪ませる。
私はその時初めて『境界の切れ目』と言うものを見た。
「さ、往きなさい、私はそろそろ戻らなきゃ」
「戻るって、何処へ」
「貴方もさっき見ていたでしょ?決闘の途中だったのよ」
決闘と言う事は先程の銃撃戦、あれがスペルカードルール、弾幕ごっこと言う奴だったのか。
「じゃあ、また何時か会いましょう。……宇佐見、蓮子さん」
「なんで私の名前を………」
「さぁ、なんでかしらね?」
微笑んで私の名を口にした彼女に詰め寄り答えを聞こうとした刹那、私はスキマの中へ引き込まれ、掴みかかろうとした手は空を切っただけで終わった。
暫くのまっ暗闇、彼女、紫の最後の微笑みだけが私の網膜に焼き付いていた。
「………………こ、…………子」
「……あと五分だけぇ」
五月蠅いなぁ、もう少し寝かせてよぉ。
「……子!…………蓮子!」
「はい!はいはいはい」
眠い目を開け見据えるとそこには先程の八雲紫が腰に手を当て私をねめつけていた………と思ったら我が友人、マエリベリー・ハーンがこちらを睨んでいる。
「ん、おはようメリー、どしたの?」
「どしたの?じゃないでしょ蓮子、電話をかけても出ないなんて」
言われ携帯を見る。十分ほど前に電話してくれたのか。
頭をかきながら見渡すと私は寝間着に身を包んでいる、先程までの奇妙な体験は夢であったのだろうか。
「何か、約束してたっけ」
「してたわ、今日は図書館でレポート作成するから手伝ってって、貴方が言ったんじゃない」
スケジュール帳を見る。あ、ホントだ。
未だ寝ぼけている体を伸ばすために両腕を伸ばしながら両手を見る。
「どしたの?蓮子」
「ん、何でも無い」
そうは言っても気になる事は気になる。何しろ本の感触が両の手に残っているし、先程までの夢が夢で無いようにも思える。
あの夢で紫は夢だと思えば気が楽になると言っていた、と言う事は現実なのかしら?でもあんな現実、俄かには信じられない。
夢と片付けるには余りにも生々しく、現実として認識するには余りにも信じ難い。
「……夢か現かモーソウか」
「何言ってるの?蓮子」
顔を洗ってみても用を足してみても、やはりあの夢は消えるどころかはっきりと頭の中でその存在感を増すだけだった。
服に身を包み玄関先で靴を履いた瞬間、レポートの事なんか頭には無く、考えるよりも先に、言葉が出、体が動いてしまう。
「メリー!あの古本街行くわよ!」
「は?蓮子、貴方レポートは」
「後回しッ!」
気付いたらメリーの細くて白い手を掴み、駆け出していた。確かめよう、私は本当に境界の向こう側へ行ったのか。
夏の、気温の高い日だった。
古本街へとついた私とメリーは早速辺りを歩き回ることにした。
必ず、何処かに手掛かりがあるはず。
「ねぇ蓮子、こっちは?」
メリーの声に振り向き見ると指さす先は小さな森。
彼女がサークルの活動中に私の名を呼ぶのは何か小さな異変に気付いた時が多い、だからこそ私は問う。
「何か見えるの?メリー」
「はっきりとは見えないけど、なんか違和感が」
「境界の切れ目?」
多分、とメリーは呟いて歩きだす。
太陽の眩しい光が葉に遮られ地面は暗い。
数年前に行政が設置した森林試験施設で、道も整備され歩きやすく、遊歩道としても利用されている場所だ。
「歪みの大きい場所はどこか分かるかしら、メリー」
「ここ、じゃないかしら」
ここ、と言うのは森の入り口から歩いて横に逸れてある事十数分の開けた土地。
近くの切り株に腰を降ろしたメリーを見やりながら辺りを歩き回っていると、妙な違和感が私を襲った。
何故か、つい先程までそこに私がいたような錯覚。
「ここ、かしら」
一本の大木に手を触れようとした瞬間、私の頭に軽い衝撃が走り、ぽとりと音を立て私の頭に落ちた物体は地面に落ちた。
「ん、何?」
屈んで手に取ると見慣れた腕時計。
「これ、私の……?」
他の誰かが落とした同じ型、かと思っていたらどうも違う。調整されたバックルが私の手首にしっかりとフィットする、それにこの文字盤の傷、質流れ屋で見た時と同じ。
紛れも無くこれは私の腕時計、本の形にあの店主に渡したものだ。
「でも何でここに………」
考えていると、メリーの私を呼ぶ声が聞こえてくる。
元来た道をたどる前にもう一度先程の大木を見上げると、境界の裂け目から彼女、紫がこちらを見て微笑んでいる気がした。
「まさかぁ」
笑って目を擦るとやっぱり居ない。
けれどもあの場所で無くしたはずの時計がここで戻ってきた。
「つまり私は境界の向こうに行った、って訳よねぇ」
俄かには信じられないが、この世界何が起こるか分からない。
私は幻想郷へ行って来た、切り株に腰を降ろしている友人以外にこの事を信じてくれる人はいないだろうが、それで十分だ。
奇妙な客が来店した今日、僕は夜の店で帳簿をつけながら時計を見ていた。
『去年の夏に買いました』
とぼけた顔でそう言った彼女の顔が思い浮かぶ。しかしこれほど進んだ時計は妖怪の山でも作られていない、と思う。
もし作られていたとしてもまず人間は手に取る事なんか出来ない。あの客は見た目からすれば普通の、スペルカードを持たない人間だ。そんな彼女が持てるのだろうか。
「……外来人、だったのかな」
呟いた瞬間、空間が歪み裂け、中から手がにょきりと出た。
また彼女かとうんざりしつつその手を見ているといきなりその腕時計を持ち去って行ってしまった。
と同時にそのスキマから今日売ったはずの幻想郷縁起が滑り落ちてくる。
「……あの時計は持つべきものじゃないってか」
もう何も無い机を見据え、肩を落としながら帳簿を訂正することにした。
「本日の収入もゼロと………」
時間がある午前講義の日や休日など、電車に乗って遠くの街の古本屋に出かける時など心が躍る。
そう言えば、最近私の下宿先の周りにある古本屋の数が少なく、そして古本自体の値段も高くなってきて買い辛くなってきた。遠くに行けば安い古本が置いてあるわけでもないけれど、切符を買って電車に乗ると、そんなことは気にならなくなってしまう。
夏も近く気温の少し高い、程良い晴れの昼下がり、私はのんべんだらりと古本屋開拓の旅に出た。
遅めの朝食を済ませ、新聞を読み着替えて電車に乗る。小さな旅。
電車に揺られること一時間、私は馴染みの古本街へと降りた。ここは昔から古本が集まる場所で私が来た時からすでに古本の街と化していた。
「さて、行きますか」
大方通い尽くしてしまって新しい古本屋なんて会えないだろうけど、それでもここに来るとウキウキする。
駅から歩き始めて数分、いきなり霧が視界を覆った。天気予報にはこんなこと言っていなかったのに。
「なによ、この霧」
悪態を吐きつつ歩を進める。なに、ここらは庭みたいなものだから目を瞑っても歩いてみせる。
歩く事十数分、霧が晴れた頃、私は何やら妖しい店の前に立っていた。
「……こんな店が合ったかしら?建物の汚れ具合から新しく建ったものじゃないわよね」
ふむ、こんな店が建って居たろうか、それ以前にここは古本屋なのだろうか。
そして更に不幸なことは、先程の霧によって元来た道が分からなくなっていた事だ。
「……進むべきか引くべきか」
腕を組みつつ数瞬、私は意を決し店の扉を開け、入店した。
「…すいませーん」
薄暗い店内からは僅かに日の光が差し込み、少ない窓からは霧に煙る桜の木が見える。
骨董品や昔の道具が所狭しに置いてある、心地の良い店内。
「……素敵なお店だわ」
暫く外や商品を眺めていると、奥から物音がして一人の男性が出て来た。
「………いらっしゃい、歓迎するよ。客ならね」
気だるそうなこの男性が店主だろうか、それにしても無愛想。
「あ、どうも……ここは古本屋ですか?」
私の言葉を聞き、目の前の男性は眼鏡を掛け直しながら答える。
「一応古道具屋だからね、本も置いてあるよ。そこの棚」
指示された方へ行くと成る程沢山の本が置いてある。これは良い店を見つけたなぁ。
雑誌、文庫本、上製本、様々な種類の本が綺麗に整頓されている所を見ると店主はよっぽどの几帳面な性格なんだろう。
探すこと数分、私は見たこともない本に出会った。上製本でも文庫でも何でもない。今では珍しい和綴りの本だ。しかしもっと不可解な事はそれが経った今刷り降ろされたかのように新しい事。
「ん?古いと思ったら新刊じゃない、どれどれ……」
巫女、魔法使い、メイドに吸血鬼……こりゃ一体全体、空想科学魔法漫画のファンブックか何かかな。それにこの『八雲紫』とか言う妖怪、能力も姿もどことなくメリーに似てるわ。
しかしファンブックに和綴を採用するなんて、面白い会社もあったものね。
「あの、すいません」
「ん?どうしたんだい」
接客台で本を読んでいた店主を呼び付け、値段を聞いた。こりゃ面白いからメリーに見せて反応を試そうじゃないか。
「ふむ、幻想郷縁起。他の道具も買って欲しいんだが、まぁ良いか」
そしてここで私を驚かせたのが値段だった。
和綴、新品、そしてこの内容でどれくらい私の財布が軽くなるか、そこが少しばかり気がかりだったのだが。
「三百円だ」
「はい?」
こんな面白い本がたったの三桁。そこらの小学生でも買えそうなレベル。
「ホントに三百円?」
「あぁ」
「ホントのホントに、三百円?」
「そうだよ、しつこいなぁ」
商売下手なのかもしくは世間知らずなのかこの人は。たった三百円ぽっち、私が払えないわけ無いじゃない。
ガマ口を取り出し百円玉三枚を天板に乗っけて言う。
「はい、三百円」
しかし彼は笑って百円玉をつまみながら笑った。
「ん?こんなオモチャはよしなよ、払えないならツケ利くよ」
「オモチャじゃありませんよ」
「だってこれはオモチャだ、本物はこれ、見てごらん」
彼が差し出したのは大きく『百円』と漢字で掘られた旧貨幣。今や博物館でしかお目にかかれない昭和期の物だ。
まさかここ旧貨幣なんて持っているわけないが、買うと言ってしまったものを引っ込めるのは行儀がよろしくない。
「じゃ、じゃあこの時計置いてきます、売って下さい」
「時計?ふむ、見せてくれ」
仕方なしに腕時計を渡し、これを形にしてもらうよう交渉してみる。
すると彼は目を丸くさせ驚愕し、物凄い勢いで時計を眺めまわし、食い入るように見つめた。
「んぉ!こりゃ凄い、こんな科学的な時計どうして持ったんだい!?」
「去年の夏に買いました」
私の弁解を軽く聞きつつ、目の前の彼は時計を依然として撫でまわすがごとく見つめ、独りで何か呟く。ちょっと怖いなぁ。
「………時間が針では無く文字で表示されている、こんな先進的な時計ならここの本全部あげても良いよ、うん」
質流れ屋で雨の日に使うために買ったキズものの結構安い奴なのに。
「君はひょっとして………」
いきなり時計を置き私に詰め寄る。やだ、中々イケメン……じゃなかった、近い近い。
私は愛想笑いをしつつ距離を置く。すると今度は彼が顔を元の位置に戻す。
「………いやまぁ良いや、良いものを貰ったんだ、余計な詮索はしないよ」
「じゃあ今度三百円持ってきますんでその時まで待ってて下さいな」
「僕はこのままでも良いけどね、まぁ良いよ、ありがとうございました」
早速腕に時計をはめた店主に別れを告げ、駅へ歩き出すことにした。どうにも奇妙な人だったけど、中々に面白い。今度はメリーも連れてこようか、あの子結構骨董品とか好きだし。
しかし……
「こんなに駅まであったかしら、それにやけに木が生い茂ってるわねぇ」
先程まで立ち込めていた霧は晴れ、見えなかった景色が視界に広がってくると、どうにも歩き尽くしたと言っても良いここら一帯の風景の記憶と食い違う。まるで人が手を加えていないような深い森の中だ。
この近辺にこんな綺麗な森があったろうか。
「はぁ、今日は色んな事が起こるわねぇ」
そして天を仰いだ瞬間、私は頭がおかしくなってしまったのだろうかと思った。
「あれ、人?」
蒼く抜けた空には人影がくっきりと浮かび、何かを互いに放ちあっている。
幾何学模様が空を瞬く間に埋め尽くし、さながら花火大会の様な体を成していた。
「ゆ、夢を見ているのかしら」
だがすぐに物見遊山の様な気分で居られなくなった。その幾何学が此方に迫って来たのだ。
近くで見ると大きな紋様のほかに小さな弾が縦横無尽に飛び交っている。洒落にならないのは小さい弾。
着弾する音や木々を掠める音に驚いた私は慌てて近くの木に身を隠し体をぴったりとつけ頭を抱えうずくまり、目を閉じる。
買った本を胸に抱え、ひたすら体を縮こまらせるが一向に銃撃戦は遠ざかる気配を見せない。その時一際大きな音が響き近くの大木の小枝が煙を上げながら膝に落ちて来た。
「(冗談じゃないわ、こんなの………夢なら早く醒めて!)」
しかし状況はどうなのだろう、少しでも確認したいが顔を出すのはどうにも怖い。
そこで私は肩にかけていた鞄を弄り、手鏡を取り出し木の陰からそっと出し見る。
紫色の服を着た女性と紅白の衣装に身を包んだ少女が互いに色とりどりの弾丸を放ちあっていた。
「(あの紫色の服……ひょっとして)」
私は先程の本を捲り、妖怪の項を開いた。そして目の前の女性は挿絵に出て来た妖怪と同じいでたちであった事に気付いた。
「(あれ、八雲紫……?)」
信じられなかった、否、信じたく無かった。まさか架空の存在だと思っていた者が目の前で激しい戦闘を繰り広げていると言う事が。
「(………何なの、この世界)」
そして鏡越しだがその彼女、紫と一瞬だけ目が合った。驚く事に、その目は絵で見るよりも遥かに私の友人、マエリベリー・ハーンに似ていたのだ。
その瞬間、またもや霧が出始め、音だけしか聞こえなくなったが、後背に視線を感じる事から彼女は木の後ろに隠れている私を見つめているのだろう。
途端、へたり込んでいた体が起き上がり自然に足が動き始めた。
「わっ……わわっ」
足がまるで自分のものじゃないようで、勝手に走っていく。もしも体上下分割するなら、私の上半身は取り残され、下半身だけ去っていくように思えるくらい私の言う事を聞かないのだ。
どれ位走ったろうか、既に先程の銃撃戦の音は聞こえなくなっているが、どれ位まで逃げて来たろうか。
そしていきなり私の足は走るのを止め、制動をかけた。
「うっ……わっ!」
唐突に動作が止まった私はバランスを取る事が出来ず、顔から地面に激突、したかのように思えたが寸での所で何者かに支えられていた。
「ふぅ、術をかけたのは私だけど貴方足速いわね、外来人さん」
恐る恐る顔を上げると先程見た妖怪、八雲紫がそこに居た。
「怪我はないみたいね、良かったわ」
「あ、ありがとうございます」
取り敢えずはお礼。さっきの本には強い妖怪には紳士的に対応しろって言ってたからね。
彼女は私を腕から降ろすと、袖から扇子を取り出して扇ぎ始める。
しかし何か、居心地悪いなぁ。
「霧が出ているとはいえ暑いわねぇ」
呑気な顔をして涼んでいる彼女の顔をじっと見ていると、やっぱりメリーにどこか似ている。強いて違う点を挙げれば雰囲気が違うところか、メリーは基本のんびり屋でドジっ子だが目の前の彼女、紫は見た目こそ呑気だがどうにも居心地が悪い空気を作りだしているのだ。
「……貴方が、八雲紫さんですね」
「あら、何で私の事知ってるの?」
若干驚いた顔を見せた紫に私は先程購入した本を掲げると、彼女は扇子を閉じ、恭しい手つきでその本を取る。
「ふぅん、案外あの店にもまともなものは置いてあるのよねぇ」
と言って彼女はその本を仕舞う。
余りにも急な出来事で呆気にとられている私の顔に気付いたのか彼女は簡単な説明をしてくれた。
「貴方が向こうの世界に帰りたかったらこの本は持っていけないわ、御免なさいね」
「何で、何で持って行ってはいけないんですか?それに向こうの世界って?これは夢なんですか?」
兎に角聞きたいことは山ほどある。
私が矢継ぎ早に問い掛けると彼女は頬を膨らませ拗ねたように言った。
「そんないっぺんに質問しないでよ。向こうの世界ってのは貴方達が住んでいた世界、そしてここは私たち妖怪や忘れ去られた者が住む幻想の世界、まぁ夢でも見てると思えば気が楽になるわよ」
「幻想の………世界……?」
つまり、ここは私と友人が夢に見、そして恋い焦がれた境界の向こう側、幻想郷なのだろうか。
「そ。そして幻想は向こうでは存在できない。その本を持って行ってしまえば境界は崩れてしまうのよ」
憧れでもあった境界の向こう側に居ると言うのに、私は早く帰りたくてしょうがなかった。
先程の店の雰囲気とは全くの逆、今ではこの世界は私を全力で拒んでいるように見えて、どうにも嫌な感じしかしない。
「私は、帰れるんですか?」
「貴方、幻想郷縁起読んだのよね?」
無言で頷くと彼女は彼女の能力は何かと問うてくる。
彼女の能力は確か『境界を操る程度の能力』境界を歪ませたり切れ目を作ることが可能な能力。
「そう、だから貴方みたいな人間一人送り返すなんて造作も無いわ」
言って彼女は扇子を一振りし、空間を歪ませる。
私はその時初めて『境界の切れ目』と言うものを見た。
「さ、往きなさい、私はそろそろ戻らなきゃ」
「戻るって、何処へ」
「貴方もさっき見ていたでしょ?決闘の途中だったのよ」
決闘と言う事は先程の銃撃戦、あれがスペルカードルール、弾幕ごっこと言う奴だったのか。
「じゃあ、また何時か会いましょう。……宇佐見、蓮子さん」
「なんで私の名前を………」
「さぁ、なんでかしらね?」
微笑んで私の名を口にした彼女に詰め寄り答えを聞こうとした刹那、私はスキマの中へ引き込まれ、掴みかかろうとした手は空を切っただけで終わった。
暫くのまっ暗闇、彼女、紫の最後の微笑みだけが私の網膜に焼き付いていた。
「………………こ、…………子」
「……あと五分だけぇ」
五月蠅いなぁ、もう少し寝かせてよぉ。
「……子!…………蓮子!」
「はい!はいはいはい」
眠い目を開け見据えるとそこには先程の八雲紫が腰に手を当て私をねめつけていた………と思ったら我が友人、マエリベリー・ハーンがこちらを睨んでいる。
「ん、おはようメリー、どしたの?」
「どしたの?じゃないでしょ蓮子、電話をかけても出ないなんて」
言われ携帯を見る。十分ほど前に電話してくれたのか。
頭をかきながら見渡すと私は寝間着に身を包んでいる、先程までの奇妙な体験は夢であったのだろうか。
「何か、約束してたっけ」
「してたわ、今日は図書館でレポート作成するから手伝ってって、貴方が言ったんじゃない」
スケジュール帳を見る。あ、ホントだ。
未だ寝ぼけている体を伸ばすために両腕を伸ばしながら両手を見る。
「どしたの?蓮子」
「ん、何でも無い」
そうは言っても気になる事は気になる。何しろ本の感触が両の手に残っているし、先程までの夢が夢で無いようにも思える。
あの夢で紫は夢だと思えば気が楽になると言っていた、と言う事は現実なのかしら?でもあんな現実、俄かには信じられない。
夢と片付けるには余りにも生々しく、現実として認識するには余りにも信じ難い。
「……夢か現かモーソウか」
「何言ってるの?蓮子」
顔を洗ってみても用を足してみても、やはりあの夢は消えるどころかはっきりと頭の中でその存在感を増すだけだった。
服に身を包み玄関先で靴を履いた瞬間、レポートの事なんか頭には無く、考えるよりも先に、言葉が出、体が動いてしまう。
「メリー!あの古本街行くわよ!」
「は?蓮子、貴方レポートは」
「後回しッ!」
気付いたらメリーの細くて白い手を掴み、駆け出していた。確かめよう、私は本当に境界の向こう側へ行ったのか。
夏の、気温の高い日だった。
古本街へとついた私とメリーは早速辺りを歩き回ることにした。
必ず、何処かに手掛かりがあるはず。
「ねぇ蓮子、こっちは?」
メリーの声に振り向き見ると指さす先は小さな森。
彼女がサークルの活動中に私の名を呼ぶのは何か小さな異変に気付いた時が多い、だからこそ私は問う。
「何か見えるの?メリー」
「はっきりとは見えないけど、なんか違和感が」
「境界の切れ目?」
多分、とメリーは呟いて歩きだす。
太陽の眩しい光が葉に遮られ地面は暗い。
数年前に行政が設置した森林試験施設で、道も整備され歩きやすく、遊歩道としても利用されている場所だ。
「歪みの大きい場所はどこか分かるかしら、メリー」
「ここ、じゃないかしら」
ここ、と言うのは森の入り口から歩いて横に逸れてある事十数分の開けた土地。
近くの切り株に腰を降ろしたメリーを見やりながら辺りを歩き回っていると、妙な違和感が私を襲った。
何故か、つい先程までそこに私がいたような錯覚。
「ここ、かしら」
一本の大木に手を触れようとした瞬間、私の頭に軽い衝撃が走り、ぽとりと音を立て私の頭に落ちた物体は地面に落ちた。
「ん、何?」
屈んで手に取ると見慣れた腕時計。
「これ、私の……?」
他の誰かが落とした同じ型、かと思っていたらどうも違う。調整されたバックルが私の手首にしっかりとフィットする、それにこの文字盤の傷、質流れ屋で見た時と同じ。
紛れも無くこれは私の腕時計、本の形にあの店主に渡したものだ。
「でも何でここに………」
考えていると、メリーの私を呼ぶ声が聞こえてくる。
元来た道をたどる前にもう一度先程の大木を見上げると、境界の裂け目から彼女、紫がこちらを見て微笑んでいる気がした。
「まさかぁ」
笑って目を擦るとやっぱり居ない。
けれどもあの場所で無くしたはずの時計がここで戻ってきた。
「つまり私は境界の向こうに行った、って訳よねぇ」
俄かには信じられないが、この世界何が起こるか分からない。
私は幻想郷へ行って来た、切り株に腰を降ろしている友人以外にこの事を信じてくれる人はいないだろうが、それで十分だ。
奇妙な客が来店した今日、僕は夜の店で帳簿をつけながら時計を見ていた。
『去年の夏に買いました』
とぼけた顔でそう言った彼女の顔が思い浮かぶ。しかしこれほど進んだ時計は妖怪の山でも作られていない、と思う。
もし作られていたとしてもまず人間は手に取る事なんか出来ない。あの客は見た目からすれば普通の、スペルカードを持たない人間だ。そんな彼女が持てるのだろうか。
「……外来人、だったのかな」
呟いた瞬間、空間が歪み裂け、中から手がにょきりと出た。
また彼女かとうんざりしつつその手を見ているといきなりその腕時計を持ち去って行ってしまった。
と同時にそのスキマから今日売ったはずの幻想郷縁起が滑り落ちてくる。
「……あの時計は持つべきものじゃないってか」
もう何も無い机を見据え、肩を落としながら帳簿を訂正することにした。
「本日の収入もゼロと………」