その日、気まぐれに外を散歩していた霖之助が見付けたものは――天から降りる一筋の糸だった。
「……フムン」
何の変哲もない青空に紛れ込んだ違和感。空を割るかのように走る直線。そしてその直線の先は丁度、霖之助の眼前へと伸びている。ならばと霖之助がもう一端の方に眼をやれば、そこには、ぽっかりと浮かぶ岩が一つあった。
空中に糸があると思えば、その先には空中に浮かぶ岩。そんな違和感と呼べるレベルを遥かに超えた幻想的な風景。その情景に霖之助は軽い目眩を覚え、しかしここは幻想郷なのだと自らを納得させた。巫女や魔法使いが当然のように空を飛ぶ世の中だ、岩の一つや二つ空を飛ぶ事もあるだろう、と。
一人納得した後、霖之助は考える。そう言えば昔、天より降りた糸を登る男を書いた小説があったはず。その話をなぞる訳ではないが、これを掴めば何か面白い事はあるかもしれない。
霖之助は沸き上がる好奇心に突き動かされるままに、目の前にある糸を掴み取った。
「掛かった!」
次の瞬間、霖之助の身体は天高く舞い上がっていた。糸を掴み登ったのではなく、糸に絡み取られて。
突然激しく揺さぶられた事で、前後不覚に陥る霖之助の視界。目の前が真っ暗になって天も地も判らぬ程の状態が収まった頃、その視界の先にまず飛び込んできたのは、目が覚めるような青い色だった。
青空の中でも一層に濃い青。蒼天の中にあっても自らを失わないような、そんな強い思いを感じさせるような色を髪を持つ少女が、今霖之助の目の前に立っていた。そしてその少女は霖之助を一瞥すると、当てが外れたかのような表情そのままに「なんだ、つまらなそうなものが掛かったわね」と素直な心情を吐露した。
「出会い頭からして随分だね君は。人と人とを繋ぐのは、まずは礼に始まるという事を知っているかい? 少なくとも糸で繋ぐのは間違っているという事も」
「貴方は釣り上げた魚にいちいち挨拶をするの? 随分と酔狂な趣味をお持ちなのね」
突如自分を簀巻きにした失礼な相手に対し、それ相応の感情を込めた挨拶をする霖之助。しかし彼の健闘むなしくその皮肉は受け流され、それ以上のものが返ってくる。そのやり取りに霖之助は内心嘆息し、どうして自分の出会う少女達はこう我の強い子が多いのかと我が身の不幸を呪うのだった。
「君の意見はもっともだ。魚に挨拶する人間がいたら、奇異の眼で見られるだろう。もっとも僕は人間であって、魚ではない。だから人間相応の扱いをして頂きたいものだね」
「こんなぶら下がった格好で言っても格好が付かないわよ。貴方の場合、ちゃんと立っていても格好は付かなそうだけど」
糸に繋がれたままの霖之助は、せめても釣り上げた魚扱いは止めてくれと嘆願する。しかし霖之助を縛る糸、その先端を結びつけた剣を手にしている少女は、先程と変わらぬまま退屈そうな表情で霖之助を見下ろしている。霖之助はその表情に微かな疑問を覚えた。絶対的な優位を手にしているのは彼女の筈なのに、それなのに何故彼女の表情には、何処か寂しげなものを感じるのだろうかと。
「まぁ落ち付いてくれ。宙に釣り下げられてはゆっくりと話も出来やしない。オーケー?」
「オーケー。取り敢えず場所を移しましょうか。こんな空の上で押し問答をしている方が、余程奇異の眼で見られそうだし」
霖之助の説得に納得したというよりも、寧ろこのやり取りに馬鹿らしくなったとでも言いたげな口調で、少女が提案に承諾する。二人は、と言うよりも一人と釣り上げられた一匹、とでも言い表した方がしっくり来る二人組は、ひとまず地上へと足を降ろすのだった。
「さて、君は何故こんな事をしていんだい」
糸を解かれ、ようやく味わえる自由を全身で堪能しながら、霖之助は率直な疑問を少女にぶつける。
「別に、無聊を慰めていただけよ。私の無色透明な時間に、少しは色付けてくれる人は誰か居ないかなって」
「フムン。それで太公望気取りで釣り糸を垂らしていた、と」
少女は淡々と、自分の行動を何でもない事のように説明した。単に、暇潰しをしていただけと。
それで釣り上げられた方はたまったものではないがね、と霖之助は内心で呟く。それを口にした所で、先程のような悪びれもしない言葉が返ってくるのは判りきっている。なのでわざわざ音に乗せるような事はしなかった。
「君の言い分は判った。そしてそれは間違っているという事も」
代わりに、彼の口は別の言葉を紡ぐ。皮肉ではなく、率直に彼女の間違いを指摘する言葉を。
「わざわざ針も付いていないような糸に引っ掛かるような頓珍漢が、天人である私に意見するなんてよくもまぁ」
やはりというか、彼女は正面からその言葉を受け止めることはせず、まずはそれなりの皮肉を返してくる。
しかし、中空に浮かぶ岩に仁王立ちする辺りからどこか人間離れした感じを受けると思えば、まさか天人とは。それにしては僕の考えていた天人とは違って、随分と俗っぽいものだ。これも理想と現実の違い、というものだろうか。霖之助は彼女の返事の前半部分は聞き流しながら、そんな事を思っていた。
「しかし地を這う俗人といえど、この魑魅魍魎跋扈する大地に生きるのならば、それなりの知恵は持っているのだろう。良いでしょう。貴方の『間違っている』と言い張るその訳を聞いてあげても構わないわ」
「天人様に意見する機会を賜り恐悦至極に存じます」
どこまでも上からの目線を崩さない少女に対し、それならばとへりくだった姿勢をこれ見よがしに取る霖之助。もちろん、内心では真面目に天人を敬う気は毛頭無い。寧ろこの姿勢を取った事でますます少女が増長するのならば、天人という存在に対する認識を、遥かに下方修正する必要があると考えていた。
「別に、そんな堅苦しい口調はいらないわ。なんか小馬鹿されているようにも感じるし」
「それは助かる。僕は堅いのも苦しいのも苦手でね」
少女は、霖之助の態度の裏をすぐさま感じ取って見せた。それを受けて、霖之助は天人に対する認識を改める。下方ではなく上方へと。どうやら相手の内心を推し量る程度の器量は持っているようだ、と。あくまで自分の存在を上に見たままで。
「ではざっくばらんに言おう。単刀直入に行くと『場所を間違っている』だ」
自信満々に言い放つ霖之助。少女は彼の意図する所が今一掴めず「は?」と思わず口に出してしまうが、霖之助は一向に構わず、却って大仰な手振りを取りながら言葉を続ける。
「釣り人は何故、わざわざ水がある所で釣りをするか? それは、そこに魚がいるからだ。ならば暇を潰すには? 簡単だ。何もない所でなく、それがある場所に行けばいい。そうすれば、幾分ましな釣果を得られるだろう」
最後まで聞くことで、ようやく少女は彼の言いたい事を理解出来た。要は何もないあぜ道で待っていた所で、時間の無駄でしかないと彼は言いたいのだ。行為には、それを行うべき然るべき場所があると。
「簡単に言ってくれる。そこまで言い切るのならば、当然その暇を潰せるような場所にも心当たりがあるのでしょうね? 具体案も無しにただ批判をするならば、その辺の畜生となんら変わりはないわ」
「当然だ。僕をその辺の有象無象と一緒くたにして貰っては困る」
先程の大仰な身振りを崩さぬまま、霖之助は胸を張り上げそう答えた。しっかりと答えてやるから、黙って最後まで人の話を聞けと言わんばかりの態度で。
「そう言えば自己紹介がまだだったね。僕は森近霖之助。外の世界の道具も取り扱う古道具屋を営んでいる」
「外の……道具……?」
「結界の外の世界。未だ詳しい姿を知る事叶わない未知の領域。そこから流れ込んだ道具を扱うのが、僕の店さ。君の見た事のない道具も、当然数多くあるだろう」
霖之助が『暇を潰せるような場所』として提案したのは、彼自身の店。
見た事もないようなものに溢れている場所ならば、いくらでも暇は潰せるだろうと霖之助は考えた。問題は、見た事もない故に自分すら使い方が判らないものも数多く溢れているのだが、その点に関しては今は伏せておく事にした。
「確かにそれは中々暇を潰せそうな提案ね。でももし潰せなかったその時は、貴方自身が潰されないように気を付ける事ね」
「それは全く恐ろしいね」
自信に満ちた表情を全く変えぬまま、霖之助は口先だけの恐怖を述べる。当然彼女としては、その自分を恐れぬ態度が癪に障った。
彼女はその激情のままに、手に持つ剣を霖之助の眼前へと突きつける。先程の言葉は脅しではなく、実際に行うだけの力が自分にはあると彼に見せつけるかのように。その彼女の気迫が形になったのか、空には途端に暗雲が立ち込めてくる。
「恐怖を微塵も感じていないような表情でいけしゃあしゃあと。余程の自信があるようね」
「それはもう。なにしろ僕の店だからね。自分自身が創り上げた物に自信が持てないのならば、その主たる資格はないだろう?」
それに――僕も誰にも相手にされない寂しさは知っているつもりだしね。言葉に出さないまま、霖之助は静かに心の中でそう付け加えた。
彼女の必要以上に強く出る態度は、きっと寂しさの裏返しなのだろう。寂しいからこそ他者を強く求め、寂しいからこそ他者を離さないよう支配したがる。霖之助はそう推量したからこそ、この場は彼女を受け入れてやる事を決めた。
彼女の我の強さは、決して悪い事ばかりではない。しかしこの幻想郷においては、何故だか皆が皆して我が強すぎるのだ。だから寂寥に任せて彼女のような態度を取れば、それは他の大きな我にとっては邪魔でしか無く、大きな反発を招くだろう。彼女が望むのは暇を潰してくれる何かではなく、自らの我を受け入れてくれる何かなのだと、霖之助は考えた。
もっとも、仮にも天人を名乗るほどの者ならば、金払いもきっと悪くないのだろうという邪な考えも大いにあったが。
「良いわ。貴方がそこまで釣果を保証するのならば、一つ乗ってみるとするわ」
喉元に剣を突きつけられた、絶体絶命と形容する他ない状況。しかしそのような状況に追い詰められてもなお威風堂々とした、ある意味空気が読めていないとも言える態度に毒気を抜かれたのか、彼女は手にした剣を納める。
「そいつは重畳。気に入った物があれば買って頂くと僕も助かる」
「そこは本音を出すべきではないわね。格好付けるのなら最後まで付け通すべきよ。中途半端だわ」
「生憎と中途半端なのは生まれつきでね」
一触即発の危機を抜けた安心からか、霖之助が軽口と共に微笑んでみせる。それを受けて彼女も、出会って以来の仏頂面を崩してようやくの笑みを見せた。それに伴い天気も先程までの暗雲はどこへやら、いつの間に透き通るような青が空に輝いていた。
そして彼女の笑顔はその輝く空と同じ色をした髪に良く似合っていて、まさしく天に浮かぶ太陽を霖之助に連想させる。
「そう言えば私の名をまだ教えていなかったわね。私の名は比那名居天子、ご存じの通り天人よ」
片や人間上がりの天人、片や人間混じりの半妖。素性は全く異なるものなれど、何処か似た所を持つ者達。そんな二人が仲良さげに肩を並べて歩く姿が、そこにはあった。
チクショウwwwww