「ムラサ」
ややフラつく足取りで、獣化してしまった大きな手のひらがむんずとセーラーの裾を掴んだ。
「すみません、少し酔ってしまったようです。肩を貸していただけないでしょうか」
それは頬を上気させ、やや酒臭い息での問。本人が言うように、はっきりとした物言いに泥酔は感じられなかった。
寅丸星は宴会にて酒を飲んで大虎となり、好き勝手に暴れ回った。具体的には飲み比べで天狗を潰したり、普段は悪戯されっぱなしのぬえをぎゃふんと言わせたり、変化が解けて文字通りの大虎となって皆をたいそう驚かせたり、とか。大虎とは本来、ひどく酒に酔った人。泥酔者。という意味だから厳密にいえば間違っている。しかし、気が大きくなるという意味合いも兼ねている。
真面目で勤勉で、物腰柔らかく、また思慮深い星が誰かをからかったり、困らせるようなアプローチをかけるということ自体が大変珍しい。なのでこうやって同居人の手を患わせるようなことを頼むのも珍しく、頼まれたムラサはきょとんとして直ぐには返事ができないでいた。
「いい、けど…星、大丈夫?」
「少し足がフラつく程度です。頭は冴えています。本来ならナズーリンに頼むのが筋なんでしょうが、何分彼女は丈が小さいので私が寄り掛かると潰してしまうかもしれません」
ムラサはそこで合点がいくと納得した。背丈は星の方がずっと大きいが、自分は力が強い分、彼女の杖として抜擢されたのだろうと。ナズーリンはというと、宴席にて唐傘の子とよろしくやっているみたいだった。星の普段しないお願いはむず痒く、泥酔ではないにしろ気が大きくなっているのかなと思ってみたり。と同時に、あまり遠慮をせずにいつでも頼ってくれればいいのに…とむくれてみたり。
「ほら、こっちに来なさい。私が責任持って連れてってあげるから」
「かたじけないです」
「よっと」
星の高身長に見合った長い腕を肩に回し、彼女の歩幅に合わせて歩き出した。空を飛んで帰れば早いのだろうが、それをするには心許ないくらいにはムラサも酔っていた。幸い、宴会は人里近くだったため、命蓮寺まで歩いて帰るのもそれほど苦ではなさそうだ。
昼間はうんざりするほど暑いが、夜はすっと冷えて、草むらではもう虫が鳴いている。夜風はさらりと吹いて幾分か頭を冷やしてくれて、空には満天の星がロマンチックに瞬いていた。
握った星の手が熱い。変化が解けて中途半端に獣化してしまった手は毛足の長い黄金の毛皮に包まれていた。大きく、そして肉厚な手が肩に爪を立てまいと、きゅっと丸められてちぢこまる肉球が可愛い。体温がやけに高く感じられるのは酒のせいなのか、夏のせいなのか、それとも解けた変化のせいなのか。
星がバランスを崩して倒れないように、ムラサは彼女の腕と腰を引き寄せてバランスを取る。密着して、小さな足取りでゆっくりと帰っていた。無言でぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す彼女が心配になり、ムラサは声をかける。
「しょー? 気持ち悪いの?」
「だいじょうぶ…です」
「さっきより具合悪そうよ」
「すみ、ません…やっぱり、天狗と飲み比べなんてするもんじゃ、ありま……せん、ね」
だらんと垂れ下がった虎の尾が力なく揺れる。あと少しで虎耳も出そうな勢いだった。
「今の星は酔虎ね」
「そう…、ですね。うくっ」
「歩くと酔いが回るかしら。ちょっと休憩しようか?」
「えぇ…おねがい、しますね」
残念なことに、ちらりと見えた牙に、ムラサは気付かなかった。
* * *
「…えっ?」
群れて川の様相を呈するまばゆい星と、ギラつく光をたたえた瞳の星と。
見渡す限りの星と目の前の星。ムラサの瞳にはそれしか映らなかった。
「手荒なマネはしたくないので暴れないでくださいね」
「え、えっ? なに、え、ちょっと星、これ、なに…」
星はムラサを休憩に訪れた木陰で有無を言わさず、どすんと押し倒した。草むらにムラサの黒髪が乱れて広がる。動揺するムラサの瞳は脆く、また儚く揺れる。
「ずぅっと我慢していたんですが、そろそろ頃合かと思いまして」
「あの、しょ…」
「手短に言いましょう。私とお付き合い願えませんか」
「!?」
「ムラサ、貴女を愛しています。封印前からずぅっと好きでした。私のものになってください」
ひゅう、っと息を飲む音がして、あとは無音が制した。虫の鳴き声ももう耳に入らない。
ぱぁぁん…!!という破裂音が静寂を破る。
「なに、するの…」
「くちづけですが、お気に召さなかったですか?」
ムラサは己の唇を袖口でごしっと拭い、星は熱を帯びた頬をさする。ある種の緊張感が二人の間に張りつめる。状況は未だマウントをとる星が有利であった。
獰猛な獣がか弱い女の子を襲っている。針のように細い黄金の瞳は爛々と光る。喉奥からはぐるると唸り声が漏れ出て、食おうとする口は顎いっぱいに開かれて裂肉歯が星明りできらめいていた。先ほどまで小さく可愛らしく丸められていた手からは、縦に長く硬い爪が毛の間から飛び出して、セーラーの襟を地面に固定している。少女は動けない。
「好きです、愛しています」
「酔ったふりしてたの…?」
「さっきまでは本当に酔ってたと、思いますよ?」
「私…嘘つく人嫌い、なのよねっ!!」
「あでっ!」
ムラサは爪で捕らえられたセーラーを地面に残し、頭突きを食らわせる。
星空のもと、星は頭突きの痛みに星を飛ばし、くらりと揺れる。
「そこで頭冷やして一人で帰ってきなさい、バカ虎!」
「ムラ、サ……あの、待ってください!」
「次やったらアンカーよ。それとも…お酒好きみたいだから虎骨酒にでもしてあげようかしら?」
破れた襟をはためかせ、ムラサは不敵に笑って飛び去る。
「はああああああああぁぁ……。やりかた、間違えちゃったかなぁ。本気なのになぁ。でもアンカー食らうのも、酒に浸けられちゃうのも嫌だなぁ…」
忘れ去っていた暑さがどっとぶり返してきた星はうずくまって、熱を帯びた吐息を吐いた。
でもムラサはお気に召さなかったようで……星ちゃんには是非リトライして欲しいですw
嘘は嫌なのにキスは嫌って言わないのは乙女心ですよ星ちゃん分かってあげて!!