窓をたたく風の音を背景に、長く黄昏色の影を床へ落とした咲夜が、ふと口を開いた。
「この前ね、ある質問をされまして」
手にした白い箱を置いてこちらへ歩いてくるから、内心ホッとする。この白い箱、無縁塚で拾って持ち帰ったのだが、その名を『マイナスイオン発生器』というらしい。用途としては『くつろぎの時間を提供する』らしいのだが、そのつながりがよくわからない。マイナスイオンとやらは発生させるだけで良いことがあるのだろうか。
しかし外の世界の機械のようでもあるし、置いているだけで得られるくつろぎ、というのには興味がある。これさえあれば霊夢が勝手に一番いい茶葉で茶を淹れても、魔理沙が不安定な商品に腰をかけても、何もないところから妖怪の手がにゅっと這い出たって、僕は心穏やかでいられるのかもしれないのだ。詳しく調べるのはこれからだが、たとえ風鈴程度の効果しかなくとも、僕としては手放したくなかったのである。そこへやってきた咲夜が窓際へ陣取り、手持ち無沙汰にぽんぽん投げ上げはじめるから、気が気ではなかったのだ。
あまりに無造作に天井近くまで放るので、落とすのではとも危惧したが、彼女は手品師である。むしろ、その物の価値に気づいて、珍しい物が好きだろう彼女の主のために忠誠心を発揮するのではと、主にそちらの懸念から僕は彼女の手元から目を離せなかったのだ。
黙って持ち出したりはしないだろうが、売るつもりがないのに売らされてしまうなんてことは大いに有り得る。以前にも彼女にはしてやられているのだ。
「質問の内容はこう。楽しい時間はすぐに過ぎちゃうけど、そうじゃない時間は長く感じるのはどうして? って。それを教えて欲しいと言うのです」
番台の前に横座りして、僕の開いていた本のページを勝手に閉じる。茶の催促と受け取ることにして、湯をいれて置いていた急須から湯呑みに注いだ。
咲夜は時間をあやつるというけれど、僕の考えでは眉唾だ。しかし幻想郷縁起にも書かれていることでもあるし、寺子屋の子だって知っているだろう。
「それはずいぶん、可愛らしい質問だね」
礼も言わずに湯呑みを受け取り、一口飲んで咲夜は顔をしかめた。
「そうね。ええ、可愛い子でしたわ」
そして僕がまた開こうとした本を押さえて、ねえ正解は何だと思います? とさらにその上に頬杖をつく。
咲夜は客として訪れたわけではない。野分の勢いが強くて「飛んでも進まない」からと、雨宿りならぬ風宿りをしているだけである。それでこの態度なんだから随分である。もうちょっと礼儀をわきまえた人物だという印象があったのだが。
どうと風が吹き、香霖堂を囲む木々が枝の先で外壁をひっかく。ため息をついて、僕は自分の湯呑みの濁って見えない底を凝視した。
「それはあれだろう。流れている時間は当然同じだから、違うように感じるのは錯覚にすぎない。楽しくない物事には集中できないから、時間の経過が気になってしまう。その作業なり状況なりの終わるまでかかる時間の長さも頭から離れない。つまり、時間が気になっている時間、というのが長くなるから、結果的にそう感じてしまうんだね」
「さすが店主ね。ぜっんぜん分かっていませんわ」
頬をくるむ咲夜の指の間に、魔法のように銀時計があらわれる。面倒くさそうに横目で、咲夜は時刻を確認した。
「そもそも、なんで僕の意見が聞きたいんだい」
さすがにちょっとむっとして言い返す。もう一度文字盤を見て、咲夜はパチンと時計の蓋を閉じた。
「斬新な意見が聞けるかと思ったんです」
「斬新?」
「だってあなたには、楽しい時間もそうでない時間もないでしょう。日がな一日ここに座って、来るともわからない客を待ちつづけているだけなんだから」
「失礼だな。僕にだって楽しいと感じる時間はあるよ。そのために生きてるんじゃないか」
彼女にも何か面白くないことでもあったのかもしれないが、もうお引取り願おう。ほとんどそう決意して、喉まで出かかる。
すると視界の端がぱぁっと明るくなる。咲夜の鼻梁にやわらかな影が落ちて、見れば番台の脇にあったランプに火が入っている。
「もう暗いかと思ったの」
確かにもう夕刻である。してみると読書の邪魔をしたのは、僕の眼を気遣ってのことだろうか。番台から身を起こした彼女は、どこか納得したように笑みを浮かべて、手の中で湯呑みを回している。
「うふふ」
「なんだい。気味が悪いな」
「ごめんなさい。お嬢様のことを思い出していたの。気にさわったのなら謝るわ。――それじゃ答えあわせといきましょう。どうして、楽しい時間とそうでない時間が、等価に感じられないのか」
ドアの隙間から風が舞い込み、ランプの灯が揺れる。
「それは同じじゃないから」
「なんだって?」
「違って当然ですよ。楽しい時間を生きる自分と、そうでない時間を生きる自分は、別人だから。同じように感じられなくって、当たり前なんです」
魚は水を、鳥は空を泳ぐ。掃除するときには高いところから順番に埃を落とす。咲夜の口調はまるで、そういう当たり前を説明しているかのようだ。
「そんな馬鹿な。すると君は、十六夜咲夜はつねに二人いるとでもいうのかい」
僕は口の中に乾きをおぼえて茶を流し込んだ。
「二人以上、というのは確実ですわね」
「僕には何にも見えないよ」
「時間を止めれば見えますわ。同じ見かけだから私にも区別はつかないけれど、私は何度も、彼女たちに会っています」
鎖にぶら下がった懐中時計が咲夜の胸の前で揺れている。あるいは僕は、催眠術にでもかけられているのかもしれない。
「楽しい時間を過ごす自分と、そうでない時間を過ごす自分が、入れ替わり立ち現れているとでも? 悲しい時間や、腹立たしい時間はどうなんだい」
「人によりけりですわね。私の見るかぎり、人間は個人差が激しいんです。平均すれば大体5、6人で肩代わりしているようだけれど、多ければ二桁ね。かと思えば、すべて楽しい、楽しくないの二人分で済ませてしまう人もいるし……」
この世には自分に瓜二つの存在がいて、その者と出会えば不幸になる、などと書かれた書物を以前に読んだ覚えがあるけれど、咲夜の言っているのはそれとは少し違うように思えた。
番台の上で燃えるランプを中心にして、壁際へ行くほどに濃くなる薄闇を、僕は背中で意識する。さっきから風でがたつく音だと思っているけれど、振り向けばそこには咲夜と同じ顔をした少女が佇んでいたりするのかもしれない。
「妖怪は人間と違って安定していますわ。だいたい二人か三人で事足りるようですね。ちなみにうちのお嬢様は、ただ一人です。いつもお一人ですわ」
咲夜の声音がほんの少しだけ誇らしげだったから、僕は安堵する。ここは彼女との会話を楽しめばいいと気づいたからだ。つまりはそういう会話なのだ。
「楽しい時間を過ごす自分は、常に楽しい時間の中にいるの。楽しくない私は、ずっと楽しくないまんまよ」
「なんだそりゃ。不公平じゃないか」
僕の背後の咲夜が、とたんに恨めしそうな顔になる。想像して、可笑しくなった。
「そう、そうなんです」
僕が笑うと、つられたように咲夜も笑う。飲み干していたはずの湯呑みには、いつの間にか新しい茶が満たされている。口をつけると、同じ茶葉とは思えない豊かな味がした。
「その代わり、楽しい時間を生きる自分は、だいたい短命なんです」柔らかい物腰で咲夜は窓際へ歩き、カーテンを引いた。「短いと感じるままに、生き急いでしまうのね。老人がたいてい偏屈で怒りっぽいのはそのせい。楽しくないと感じる自分しか、残っていないから」
「ひとつ、聞いてもいいかな」
呼びかけると、番台の前に戻ってきて膝を正して座る。僕を見つめる瞳にランプの灯が映り、波が引くように風の音が遠ざかった店内に、なつかしくも退屈な静寂が押し寄せてくる。
「知ってのとおり、僕は半妖だ。僕の時間はいったい、何人いるんだい」
「そうですね……」
ゆっくりと顔の横に上げた咲夜の手が開き、銀時計がしゃなりとエプロンの膝に落ちる。
「残念、タイムリミットだわ」
「どうでした?」
尋ねるより先に尋ねられて、僕は混乱する。すると咲夜は、白いエプロンをめくってその下のスカートに載せたものを見せた。
「マイナスイオン発生器……」
「あら。そんなけったいな名前なんですか」
番台に置かれたそれを、僕は自分の手元に引き寄せた。若干がっついた手つきになったが、なりふりかまってはいられない。
「店主がそれを気にしているように思えたの。価値のあるものなの?」
「それはこれから調べるのさ」
「なるほど。では――」
風と雲を抜けた本日最後の日差しが、カーテンに窓枠の、十字の影を焼き付ける。ランプの灯より強い残照が、咲夜の頬にのぼる。
「私がランプをつけたのを、覚えているでしょう?」
「ああ。それが?」
「気づきませんでした?」
「だから、何をだい」
「私がそれを」僕の手元の発生器を示す。「お手玉しはじめてから、ランプをつけるまで」ここからここ、と番台の一辺を物差しにように使って指で区切っている。「ランプをつけてから、今時計の蓋をあけるまで」
「まさか……」
「そうです。その二つの時間は、ぴったり同じだったの。一秒や二秒の差はあると思うけれど」
言われてみれば、咲夜は何度か時刻を確かめていた。最初からそのつもりで調整していたのか。
「どちらが長く感じました?」
にこにこと、身を乗り出してくる。店を訪れた彼女はいつも整った髪を乱して、風に追われてやむを得ず、という感じだったのに、いつからそんな悪戯を思いついていたのだろう。
「つまり君は」
前半はわざと僕を怒らせ、後半は楽しませようとしたのか。彼女が受けたという質問のとおりに、実験をしたのだ。何のために?
言いかけて黙り込んだものだから、ずっと得意げだった咲夜が首をかしげる。僕は彼女のその鼻先で小さく手を振った。
「残念だけど、この実験は失敗だね」
「あら、やっぱり?」
僕の答えを予期していたようにほほ笑む。それは少し哀しげだった。
怒らせたり喜ばせたり。そういうのは、なかなか自在に思ったとおりになるものじゃない。そう言いかけて、僕はそれこそが咲夜の目的だったのかもしれないと思った。妖怪と人間は違う。妖怪の中で暮らす人間である彼女は、自分が人間的感情を持っているのか、その喜びや悲しみが他人と共有できるものなのか、時折不安になるのかもしれない。
「だって君が言ったんじゃないか。つまり前半の時間と後半の時間の僕は、別人さ。どちらが長く感じたかなんて、比べようもない」
半分だけ人間の言うことから何を読み取ったのか、咲夜の唇から白い歯がこぼれる。
ドアベルが鳴った。咲夜は手櫛で髪を撫でつけて、開いたドアへ歩いていく。
「質問の件は、本当よ。私がどう答えたかは、本人に聞いてみてくださいね」
「お? 咲夜」
箒をかついで入ってきた魔理沙の帽子は傾き、鼻先に小さな落ち葉が載っている。風が弱まったからと、無理やりに飛んできたのだろう。
「なんだ、私の話か?」
「ええ。店主はあなたのこと、かわいいって言ってたわよ」
そして入れ違いに、開け放したドアの向こうに消える。森の匂いをはらんだ風がいっぱいに吹き込み、メイドの足音などまるで聞こえない。
魔理沙は定位置にしている壷の前で、服についた落ち葉を落としている。店の外でやって欲しいが、こちらを見ていないのをさいわいと、僕は番台の下に、マイナスイオン発生器を押し込んだ。
「なんだ、めずらしくたくさん客が来ていたのか? 私が見るかぎり、咲夜一人だけだったような気がしたんだが」
魔理沙は壷にひょいと飛びのって、番台の横を指差した。見れば確かに、咲夜が使っていた湯呑みを囲んで、飲み残しのお茶の入った湯呑みが5つ、盆の上にぐるりと並んでいる。
「なあ、私にもお茶をくれよ。向かい風に逆らって飛んだら、喉がかわいて仕方ない」
そうしてマフラーをゆるめて僕を見た瞳は小さな期待に揺れている。先ほどの咲夜の発言を、なかったことにはしてくれそうもない。
盆を取り上げて奥へひっこみ、薬缶を火にかけて、6つの湯呑みを順々に水ですすぐ。これも結局、咲夜の手品に違いない。けれど、魔理沙ならば湯呑みの数はいくつ必要になるのだろうと、自然とそう考え出す僕がいるのだった。
<了>
咲夜さんはやっぱりいいなぁ
霖之助は何人なんでしょうね。それを考えるとワクワクします。
面白かったです
作者さんの計算通りに読まされてしまいましたが、その計算を感じさせない技量も凄いです