ある日の香霖堂の昼下がり、いつものように白黒魔女、霧雨魔理沙がそこそこ大きな荷物を持ってここを訪れた。
「おーい、香霖いきてるか~・・・っと」
元気にドアを開いて店内に侵入した魔理沙は、中の様子を確認するとすぐに自分の口を塞いで声を殺す。
香霖堂の店主、森近霖之助は彼がいつも座る椅子に座り顔に器用に本を乗せて、スースーと静かに寝息を立てている。
「ったく無用心だぜ、泥棒が入って来たらどうするんだ・・・全く。」
彼女の独り言は、とても小さな声だったが、店内全てに響いたような気がした。それほどに店内は静かな空間になっている。魔理沙は忍足で香霖堂の奥の台所へと歩いて行く。
「さて・・・とっ」
持ってきた荷物を一旦置いて腕を組む。
(どうするかな。香霖寝てるし・・・とりあえず飯は・・・まあ後でいいか。とりあえずお湯を沸かして・・・お茶っ葉は・・・ああ、あったあった。)
ヤカンを火にかけお茶っ葉の入っている缶を取り出してその近くに置いて、再び店の方に戻り腕を組んでうろうろと歩き始める。
(むう、もうする事が無くなってしまった。やっぱり今日は先に神社に寄ってから来るべきだったかなあ。)
「・・・む?これは・・・」
あれこれ考えながら歩いていた魔理沙の目にある物が映る。そして、にやりと若干口元を歪ませる。彼女が手にとったのは筆、霖之助がいつも書いている日記の・・・彼曰く幻想郷の歴史、その上に置かれていた筆ペンであった。
「にっしっし・・・」
魔理沙はその筆ぺんにしっかりとインクを馴染ませ――
「~♪~~♪」
数分後、魔理沙は楽しそうに霖之助の顔に落書きを施していた。霖之助はと言うと、時々むずがゆそうに顔をヒクつかせるくらいで、そこまで起きる気配はない。
(しかし起きないなあ、徹夜で本を読んでたのか?)
「さて・・・次はどこに描くかなあ・・・ん?」
一通り顔面の落書きを終えて、少し考えた後、霖之助の頬にターゲットを絞り、霖之助の側頭部あたりに魔理沙の顔が近づいた時、彼女の動きが一旦止まる。
(ツーンときたぜ・・・こいつちゃんと風呂に・・・は、入ってるか。そういや耳の裏なんて私もあんまり洗わないな。だからこんな臭いが・・・)
そんな事を考えながら霖之助の耳の裏から漂ってきた臭いに少し苦い顔をしながらも、魔理沙は鼻をつまんだり顔をそこから離す事もせず・・・
(あ・・・あれ?どうして私こんな所の臭いなんか嗅いでるんだ?臭いし、普通嫌だろこんな臭い、でも・・・あれ?・・・あれ?)
魔理沙はスンスンと鼻を鳴らしてまで臭いをかぐようになっていた。自分のしている事が恥ずかしい事だとも思っているのだろう、彼女の顔は少しだけ紅潮し、変な汗が出ているような、妙な感じの感覚を、魔理沙は感じていた。
(こ・・・これは・・・癖になりそうだ・・・。ハッ!いかんいかんいかん、私は何をやっているんだ!!)
ここで我に帰ったのか、ぐいっと身体で顔を引っ張るようにそこから顔を離す。離したところで・・・霖之助と目があった。
「よ・・・よう、おはよう香霖。今日も私は元気なのぜ。」
若干ギクシャクした動きで片手を上げる。その手は若干震えていた。顔も目も一応霖之助の方を向いているが視点は定まらずぐるぐると回っているようだ。
「おはよう魔理沙、といってももう昼前みたいだね。お湯が沸いているみたいだけど・・・」
霖之助が挨拶を返す。彼は台所から聞こえるヤカンの蓋がカタカタとその中身が沸騰している事を知らせる音に気づき、目の前にいる魔理沙に尋ねる。
「お、おう。そうだったな!ちょっと待ってろ!とと、とりあえずお茶を淹れて来てやるぜ」
まだ若干落ち着きのない様子で、魔理沙は慌てて台所へと駆け込んだ。
「おおおちつけ私、あれはきっとばれてない・・・ばれてない・・・!!そうだよ、起きてたらあんな・・・うんうん。」
魔理沙はヤカンの火を止めた後、自分の胸に手を当てて小声でぶつぶつと呟いて気を落ち着かせる。
「ふぅ・・・あちっ!!・・・うぅ。」
一呼吸置いて胸に当てていた手を下ろした時、うっかりヤカンに触れてしまい、指を少しやけどしてしまった。ヤカンに触れた部分を口に咥える。
「なんだか間抜けな声が聞こえたけど、大丈夫かい?」
その様子を聞きつけてか、霖之助が台所に入ってきた。
「間抜けだとぅ?どの面下げてぐふっ!?・・・まあいいや、別になんでもないからあっちで座って待ってな。すぐに茶を淹れてやるぜ。」
言い返そうとした魔理沙だが、霖之助の顔を見て吹き出しそうになったため、顔をあらぬ方へ向けた後、ヤカンに手を伸ばす。
「・・・なんでもなくはないだろう?」
霖之助はそう言って魔理沙の手を取り、魔理沙が咥えていた所・・・つまりさっきヤカンに触れた所を優しく触る。魔理沙は「あぅ!」と小さな声を漏らす。
「やれやれ、どうして君はこう、どうでもいい意地ばかり張るんだ。・・・ほら、これ持って行ってあっちで座って待ってるんだ。お茶を淹れて持っていくから。ああ、30分は冷やさないとダメだよ。」
桶をとり出し、飲み水を貯めておくための水瓶の水を入れて魔理沙に渡す。
「・・・わかったよ。」
魔理沙はそう言って桶を受け取りズカズカと店の方へと戻って行った。
「さてと、お茶の葉は・・・ってまた良いお茶の葉を・・・」
魔理沙がもどっていったのを見届けた後、魔理沙がお茶を淹れるのに使おうとしていたお茶っ葉の入れ物を見て呟くのだった。
(・・・どうでもいい、かあ。私からしたら、どうでもいい意地なんて張ったことはないつもりなんだが・・・香霖から見たらどうでもいい事なんだろうか。あいつが言うどうでもいい意地ってやっぱり家の・・・やめたやめた。考えるだけ不愉快になるだけな気がするぜ・・・)
手をぶっきらぼうに桶に突っ込みながらふてぶてしい表情を浮かべる。
「お茶が入ったよ、魔理沙。まったく、君たちはどうしてこう毎回毎回高級なお茶ばっかり選ぶんだい?」
暫くして、おぼんに湯のみを二つ乗せて、霖之助が奥から出てきた。
「お目が高いと言ってくれ。ってあれ?香霖、顔・・・」
魔理沙が振り返ると、霖之助の顔からは落書きが消えていた。
「あんまりくだらない事ばかりするものじゃあないよ、魔理沙。・・・そろそろ水も温くなっているだろう。取り替えて来るから」
霖之助はそう言うと、お盆を彼がいつも使っている机に置くと、桶を手に取り再び台所へと戻っていった。
「店番もせずにぐーすか寝てたらきっとまたああなるぜ。」
「まだ店は開けてなかったんだけどね。」
霖之助は台所から少し大きな声で返事を返す。
「ん~。やっぱ私が選んだ茶葉は違うぜ」
湯のみの茶を一啜りしてほう、と息と一緒に感想を述べる。
「くっ・・・くく、まあそうだね。うんうん、うちのお茶は美味しいなあ。」
霖之助は返事をしながらまた、店の方に戻ってきた。新しい水の入った桶を魔理沙に渡しながら言う。
「なんだなんだぁ?気色が悪い。変な物でもつまみ食いしたのか?」
「いやね、くっく、はっはっは!君が飲んでるお茶。それ、君が選んだのじゃあなくて僕が選んだちょっぴり安物の茶葉で淹れた物なんだよ。」
霖之助はこらえ切れないように笑う。
「な、なんだと!?騙したのか!?」
魔理沙は自分の持つ湯のみと霖之助の方に交互に視線を送る。
「騙したなんて人聞きの悪い、僕は別に君が選んだお茶を淹れてきたなんて言ってないよ?」
「なんだと?だってさっき・・・あ!・・・ったく、酷いぜ香霖。」
「人が寝てる間に顔に落書きするのは酷くないのかい?君があんな事をしなければ黙って飲ませていたんだけどね。」
そう言うと霖之助は彼がいつも座る、先程まで魔理沙のいたずらの犯行現場であった椅子に座り、自分の分のお茶を啜る。
「なお悪いぜ」
魔理沙はフンッとそっぽを向いてしまった。
「でも美味しかったろう?」
霖之助はニヤリと笑いながら言う。
「・・・」
魔理沙は黙り込む。霖之助はそれを肯定と捉えて話を続ける。
「これも一種の言霊、という奴だね。今のは、僕の言の葉の力が君のお茶を美味しくしていたんだ。」
「もうあんまり美味しい気がしないんだが・・・」
魔理沙は渋い表情で霖之助を見る。
「だからこれは仕返し、だよ。君が悪さをするから僕の言霊で君のお茶をあまり美味しく無い物に変えてやったんだ。」
「むう・・・」
魔理沙が唸ったところで店の入り口のドアが開く。霖之助はチラリとそちらを見るが、すぐに視線を自分の手に持つ湯のみに戻す。
「あら、魔理沙来てたの。霖之助さん、台所借りるわよ~。どうせ朝もお昼も食べてないんでしょう?」
店に入ってきたのは博麗霊夢。手には何か食材でも入っているのだろう。
「おう、霊夢か。そういや私も食料を持ってきてやってたんだっけな。」
そう言うと魔理沙は立ち上がり手を冷やすための桶を持って台所へと歩いて行く。
「どうしたの?それ」
霊夢が魔理沙が手を入れていた水の入っただけの桶を指差し尋ねる。
「なんでもないぜ」
魔理沙は手を桶に突っ込んだままそれを持って霊夢と一緒に台所へ入っていった。
「魔理沙~、塩取って~。」
割烹着に着替えた霊夢と魔理沙は台所で料理に勤しんでいた。どうやらこの日は鍋にするらしい。
「ほいよっと、私は水を汲んで来るぜ。あとは大体鍋に突っ込むだけだろう?」
魔理沙は霊夢に塩の入った小瓶を渡すと、近くにあった水瓶の中を霊夢に見せてから、頭に被る三角頭巾を外して言う。
「そうね、わかったわ。行ってらっしゃい」
「おや、おでかけかい?」
台所から出た所で霖之助が魔理沙に声をかける。
「ああ、料理に使ったら水が少なくなってしまったんでな。」
そう言ってほとんど空の水瓶を霖之助に見せて、そのまま外へと出ていこうとする。
「ちょっと待つんだ魔理沙。」
「うん?なんだ?香霖」
魔理沙が振り返ると霖之助は机の上に置いてあった小瓶を持って魔理沙に近づいて彼女の手を取る。
「ななななんだ香霖!?」
魔理沙は突然の事になにがなんだかわからないのだろう。顔を真っ赤にしてその手を振り払う。
「どうしたんだ?今日はなんだかおかしいな。ほら、手を出して。軟膏を塗ってあげるから。」
霖之助は再び魔理沙の手を取り小瓶に指を入れて魔理沙が先ほど火傷した所に塗る。
「・・・」
魔理沙は黙って俯く。
「水は僕が汲んでくるよ。」
そう言って魔理沙から水瓶を取りそのまま外へと歩いて出て行った。
「・・・さて、しょうがない。ストーブの周りでも片付けておくかな。」
軟膏の塗られた手をきゅっと握りしめながら。
ストーブの横に椅子を置いて三人で囲みながらの食事になった。鍋には白菜やらキノコやらやたらと沢山の野菜と、肉団子のような物が入っている。季節は秋の暮、ストーブを付けて暖を取らなければならない程寒くはなく、かと言って暑いという程でもない。窓を開けて外から来る風が、ストーブの熱のお陰で涼しく感じる事ができる。それ位の気温である。
「ちょっと魔理沙、なにそれ。水炊きには醤油でしょう。」
霊夢は魔理沙の小皿を見て一言漏らす。
「何言ってんだ、酢醤油に決まってるだろう。塩気なんて最初にうっすら入れていた塩で十分だろう。」
「別にどっちもどっちでいいじゃないか。どちらかが困る訳じゃあないんだし。」
「それもそうだな。」
「それもそうね。」
その後暫くは、のんびりとした食事の時間が続いた。いつものように、霖之助の薀蓄があったり、霊夢や魔理沙がそれについてあれこれ言ったりと、いつもの香霖堂の日常の風景だった。しかし、食事の終わり時、日も傾いて来た頃に、霊夢と魔理沙の間にちょっとした問答が再び勃発していた。
「いやまて霊夢、何さらっとご飯でシメようとしてるんだ?」
お櫃としゃもじを持っている霊夢に魔理沙が両手でストップをかける。
「あら、何か問題でもあるのかしら?」
「おおありだぜ、ちょっと待ってな。」
魔理沙はそう言うと台所に駆け込みすぐに何かを持って返ってきた。
「鍋のシメと言ったらこれだろう。」
そう言って魔理沙はどうだとばかりに霊夢にうどんを見せつける。
「何言ってるの?うどんなんて、今日は水炊きよ?水炊きのシメはおじやが一番に決まってるじゃない」
「なんでもかんでも米をぶち込めばいいって訳じゃあないぜ。それに水炊きと言うには色々入れすぎだろう。今日の鍋は水炊きと呼ぶかどうか若干あやしいぜ」
彼女たちの問答は止むことなく続いた。二人の間に挟まれながら霖之助はお茶を啜るだけだ。こういう時、彼がどんな意見を出そうときっと取り上げられる事はないのだろう。そして終いには・・・
「よーしわかった。毎度の事だが・・・」
魔理沙が手を自分の前でパンッと打ち合わせる。
「魔理沙、霊夢、わかっていると思うが・・・」
「外でやれ、だろ?」
魔理沙がそう言うと二人とも外へと出ていった。スペルカードでの決闘で、鍋のシメを決めるようだ。
霖之助は開けていた窓の側に椅子を移動させ、霊夢と魔理沙の決闘を眺める事にした。以前、朱鷺の調理法で彼女たちがもめた時は、霖之助が一番美味しい調理法で朱鷺を調理した・・・しかし、今回は別なようだ。はなから彼女たちの弾幕ごっこを観戦するつもりらしい。湯のみを持ちながらのんびりとした姿勢を作る。
「あんまり妙な事ばかりされるのも、悪い気分じゃあないんだがなぁ・・・」
誰にも届く事のない独り言は、すでに始まっていた霊夢と魔理沙の少し賑やかな弾幕ごっこによって、かき消されるのだった。