とある満月の晩、鬼の伊吹萃香は、誰も踏み入れないような山奥にある廃寺の仏間で一人、酒を煽っていた。鬼といってもその姿はただの童女にしか見えず、着ている浴衣は袖や裾を大分余らせている。だが頭に生えた二本もの恐ろしげな角や、空を睨む双眸の猛々しさを見れば、彼女の本性にすぐ気付くことだろう。
大盆になみなみと注がれた酒を、萃香は一気に飲み干した。ここまでは仲間たちが開いている宴会の楽しそうな喧騒は聞こえてこない。鬼の性分に漏れず、萃香も酒と宴会が大好きだ。気の置けない仲間と馬鹿な話に盛り上がりながら、朝まで飲み明かすのを至上の喜びとしている。
けれども、ときどき静かに一人で酒を飲みたくなる時がある。鬼だけでなく、ありとあらゆる物の怪から敬われ、畏れられるというのは存外疲れるのかもしれない。
この夜はちょうどそんな気分で、一本だけ灯った蝋燭の明かりを前にぼんやりと物思いにふけっていた。
そんな物憂げな何杯目かを口に運んだ時だった。
――ぱん、ぱん――
不意に乾いた音が暗い部屋の中に響き渡った。
――鬼さんこちら、手の鳴る方へ――
どこからともなく、不気味な女の声まで聞こえる。
萃香は目を細め、辺りを不機嫌そうに伺った。この廃寺は萃香が秘密の住処としている場所で、親しい友人ぐらいにしか教えていない。やがてある一点に目をやると、手に持っていた大盆を力いっぱい投げた。大盆は目にも止まらぬ速さで宙を飛んでいく。
と、何もないところから突如手が現れ、捕まえられてしまう。手があるところの空間には切れ目が入っており、その『隙間』は大きく広がって、一人の女性を吐き出した。
この国では見られない金色の髪、周りとの異質さを醸し出す紫の衣装、加えて口元の扇でも隠し切れない胡散臭い笑み――八雲紫だ。
「八雲か。何の用だ?」
「あら、ご挨拶ね。せっかく遠路はるばる訪ねてきたのに」
ふん、と萃香はわざとらしく鼻を鳴らした。
八雲紫、境界を操る程度の能力を有する一人一種族の大妖怪だ。その能力の使い道は多岐にわたるが、萃香に彼女を信用させない原因となっているのが、空間の境界を弄ることで作り出す『隙間』を利用して、ありとあらゆる場所へと神出鬼没に現れることだ。せっかくの秘密の場所も気が付いたらばれてしまっているようで、どうもおもしろくない。
「まぁまぁ、そんな露骨に嫌そうな顔しないで。これでも食べて落ち着いてくださらない?」
そう言って、紫は隙間の中から笹の葉の包みを取り出した。中身は串に刺さった兎の丸焼きが二つで、いかにも焼きたてらしい良い匂いが萃香の不機嫌な顔を和らげた。
「へぇ、旨そうじゃないか。貰っていいのかい?」
などと言いつつも、萃香は答えを待たずに串をひったくって早速かぶりついた。甘辛いタレの香ばしさが口いっぱいに広がる。
紫はその様子を見てとると、蝋燭を挟んで彼女の前に腰かけた。余ったもう一本の串焼きには手を付けず、脇に置いた
「まぁ、せっかく来たんだ。一杯付き合えよ」
「いただくわ」
芳香な香りをはらんだ銘酒が、紫の持ったままだった杯に注がれる。紫はそれを一口で飲み干した。萃香はその様子を見て楽しそうに笑いを漏らす。八雲紫は信用ならない奴だ。けれども良い飲みっぷりをする奴は、そう嫌いにはなれなかった。
「それで、今度はどんな面倒事を持ってきたんだい。まさか私に兎をごちそうするためだけに来たってわけじゃないんだろ?」
「せっかくこんなに丸い月が昇った夜ですもの、少しあなたとお話したくなったのよ」
「ふーん、あっそ。で、何が訊きたいんだい?」
都の近くに住む妖怪内では、萃香の顔は特に広い。鬼だけでなく、山にいる噂好きの天狗とも交流があるため、その情報量はそれなりに多かった。
「……西行という人間のことを聞いたことはないかしら?」
萃香は空いている紫の杯にお代わりを注ぎ、自分は愛用の瓢箪から直接飲み下した。そして、大きく息をつくと、ゆっくりと一人の男と妖しい桜について語りだした。
一昔前のこと、西行という男がいた。なかなか名の知れた歌人で、諸国を回りながら数多の名歌を詠んだ彼は、殊更に桜を愛でていた。彼が詠んだ歌の中にこんなものがある。
――願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ――
死ぬ時は春、美しい桜の下がいい。
果たしてその願いは叶った。とある山寺に咲く、一本の桜。その枝ぶりの見事なこと、花の彩りの鮮やかなこと。若くして病に苦しんでいた西行は、その木の根元で生涯を閉じたのである。
だが、話はここで終わらない。西行の最期を看取った桜は、その後多くの人々が興味を持ち見物に訪れてきた。そしてあろうことか、彼の後を追うようにその桜の下で死ぬ者が出てくるようになった。その数の夥しいこと、純粋に歌人としての西行を尊敬していた者、偶然寺を訪れ、初めて西行のことを知った者まで多種多様であった。さらに、自害する者は普通刃物や毒を用いるのだが、いつの頃からか、ふっ、と魂の抜け出たかのように体に傷一つない死体が出るようになった。
都ではこんな噂がまことしやかに語られるようになった。
――自分は美しい。そのために歌人やそのあとに来た人間どもは我が花の下で死んでくれたのだ。ならば、自分を見て死ぬ人間が増えればもっと、もっと美しくなれるに違いない――
そう考えた桜は、もう自害する人々を待つだけでは満足できなくなった。やがて、桜を見るために訪れた人々を死へと誘い、血と精を吸う妖怪と成り果ててしまった。
「そして死臭を振りまく桜は、そもそもの原因となった歌人の名をとって、『西行妖』と呼ばれるようになったとさ……皮肉なもんだよねぇ。好きで好きでたまらなくて、最期まで一緒にいた桜に自分の名前がついたと思ったら、そいつは化け物になってんだから。あーあー、見る者などいないというのに、なぜお前は美しく咲くのか……なんてね」
萃香はそう締めると、楊枝代りに使っていた串をその辺に放り投げて、からからと笑った。兎は二羽とも萃香が平らげてしまった。
紫は微動だにせず、ただゆらゆら揺れる蝋燭の明かりばかり見ていた。
「そうだ。西行には娘がいてね、これにもけったいな噂があるんだ。父親が死んだ寺に住み込んで、夜な夜な桜が殺した霊どもを弄んでいるんだってさ。それを気味悪がって逃げていく連中も後をたたなくて、なんでも最近じゃ西行妖みたいに――」
かん。
杯が床にたたきつけられ、中の酒が零れる。軽い音は暗い部屋によく響き渡り、朗々と語っていた鬼の舌の動きを止めた。
「興味深い話をありがとう」
紫は早口に告げながら腰を上げた。
「なんだい、もう帰っちまうのか? まだまだ夜は長いというのに」
「ええ、あんまり長居してあなたのお友達のご厄介になるのは悪いから」
ひらひらと手を振り、紫は素早く隙間を開いた。しかし、なかなか動こうとしない。彼女の足はまるで張り付いてしまっているかのように地面から離れなかった。裾を持ち上げると、手の平ほどの小さな萃香が紫の両踝をがっしりと掴んでいる。
「どういうつもり?」
いつの間に、と考えながら紫が振り向く。視線の先では爛々と輝く鬼の瞳が笑っていた。
「まだお代を頂いてないからね」
「ちゃんと兎あげたじゃない。それも二羽も」
「兎はおもしろい話の分。これから貰うのは私が注いでやった酒代さ」
紫はこれ見よがしに大きく息を吐いた。
「あっそ…………で、何をお望みなのかしら?」
「決まってるだろ」
萃香は瓢箪の酒を一気に煽り、傍らに捨てた。瓢箪は小気味良い音を立てて、壁にぶつかった。肩をぐるぐる回しながら立ち上がり、紫の顔を正面から見据える。
「このところ遊んでなくて身体が鈍ってるんだ。せいぜい楽しませておくれよ、隙間妖怪」
「仕方ないわね」
紫は足元のちび萃香をつまみあげると、萃香に投げてよこした。
「少し…………夜に酔いましょう」
空を飛ぶ小鬼は宙を舞い、萃香の掌に収まる。掌はそのまま拳へと握り直され、目の前の標的に向かって振り被られた。
迎えうつ紫の瞳も妖しき輝きを放ち、恐ろしげな妖力を纏った右手を前にかざした。
二つの異形がぶつかり合うと、風圧で蝋燭の火はたちどころに消える。それこそ暗闇が、妖怪の世界が始まる合図となるのであった。
大盆になみなみと注がれた酒を、萃香は一気に飲み干した。ここまでは仲間たちが開いている宴会の楽しそうな喧騒は聞こえてこない。鬼の性分に漏れず、萃香も酒と宴会が大好きだ。気の置けない仲間と馬鹿な話に盛り上がりながら、朝まで飲み明かすのを至上の喜びとしている。
けれども、ときどき静かに一人で酒を飲みたくなる時がある。鬼だけでなく、ありとあらゆる物の怪から敬われ、畏れられるというのは存外疲れるのかもしれない。
この夜はちょうどそんな気分で、一本だけ灯った蝋燭の明かりを前にぼんやりと物思いにふけっていた。
そんな物憂げな何杯目かを口に運んだ時だった。
――ぱん、ぱん――
不意に乾いた音が暗い部屋の中に響き渡った。
――鬼さんこちら、手の鳴る方へ――
どこからともなく、不気味な女の声まで聞こえる。
萃香は目を細め、辺りを不機嫌そうに伺った。この廃寺は萃香が秘密の住処としている場所で、親しい友人ぐらいにしか教えていない。やがてある一点に目をやると、手に持っていた大盆を力いっぱい投げた。大盆は目にも止まらぬ速さで宙を飛んでいく。
と、何もないところから突如手が現れ、捕まえられてしまう。手があるところの空間には切れ目が入っており、その『隙間』は大きく広がって、一人の女性を吐き出した。
この国では見られない金色の髪、周りとの異質さを醸し出す紫の衣装、加えて口元の扇でも隠し切れない胡散臭い笑み――八雲紫だ。
「八雲か。何の用だ?」
「あら、ご挨拶ね。せっかく遠路はるばる訪ねてきたのに」
ふん、と萃香はわざとらしく鼻を鳴らした。
八雲紫、境界を操る程度の能力を有する一人一種族の大妖怪だ。その能力の使い道は多岐にわたるが、萃香に彼女を信用させない原因となっているのが、空間の境界を弄ることで作り出す『隙間』を利用して、ありとあらゆる場所へと神出鬼没に現れることだ。せっかくの秘密の場所も気が付いたらばれてしまっているようで、どうもおもしろくない。
「まぁまぁ、そんな露骨に嫌そうな顔しないで。これでも食べて落ち着いてくださらない?」
そう言って、紫は隙間の中から笹の葉の包みを取り出した。中身は串に刺さった兎の丸焼きが二つで、いかにも焼きたてらしい良い匂いが萃香の不機嫌な顔を和らげた。
「へぇ、旨そうじゃないか。貰っていいのかい?」
などと言いつつも、萃香は答えを待たずに串をひったくって早速かぶりついた。甘辛いタレの香ばしさが口いっぱいに広がる。
紫はその様子を見てとると、蝋燭を挟んで彼女の前に腰かけた。余ったもう一本の串焼きには手を付けず、脇に置いた
「まぁ、せっかく来たんだ。一杯付き合えよ」
「いただくわ」
芳香な香りをはらんだ銘酒が、紫の持ったままだった杯に注がれる。紫はそれを一口で飲み干した。萃香はその様子を見て楽しそうに笑いを漏らす。八雲紫は信用ならない奴だ。けれども良い飲みっぷりをする奴は、そう嫌いにはなれなかった。
「それで、今度はどんな面倒事を持ってきたんだい。まさか私に兎をごちそうするためだけに来たってわけじゃないんだろ?」
「せっかくこんなに丸い月が昇った夜ですもの、少しあなたとお話したくなったのよ」
「ふーん、あっそ。で、何が訊きたいんだい?」
都の近くに住む妖怪内では、萃香の顔は特に広い。鬼だけでなく、山にいる噂好きの天狗とも交流があるため、その情報量はそれなりに多かった。
「……西行という人間のことを聞いたことはないかしら?」
萃香は空いている紫の杯にお代わりを注ぎ、自分は愛用の瓢箪から直接飲み下した。そして、大きく息をつくと、ゆっくりと一人の男と妖しい桜について語りだした。
一昔前のこと、西行という男がいた。なかなか名の知れた歌人で、諸国を回りながら数多の名歌を詠んだ彼は、殊更に桜を愛でていた。彼が詠んだ歌の中にこんなものがある。
――願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ――
死ぬ時は春、美しい桜の下がいい。
果たしてその願いは叶った。とある山寺に咲く、一本の桜。その枝ぶりの見事なこと、花の彩りの鮮やかなこと。若くして病に苦しんでいた西行は、その木の根元で生涯を閉じたのである。
だが、話はここで終わらない。西行の最期を看取った桜は、その後多くの人々が興味を持ち見物に訪れてきた。そしてあろうことか、彼の後を追うようにその桜の下で死ぬ者が出てくるようになった。その数の夥しいこと、純粋に歌人としての西行を尊敬していた者、偶然寺を訪れ、初めて西行のことを知った者まで多種多様であった。さらに、自害する者は普通刃物や毒を用いるのだが、いつの頃からか、ふっ、と魂の抜け出たかのように体に傷一つない死体が出るようになった。
都ではこんな噂がまことしやかに語られるようになった。
――自分は美しい。そのために歌人やそのあとに来た人間どもは我が花の下で死んでくれたのだ。ならば、自分を見て死ぬ人間が増えればもっと、もっと美しくなれるに違いない――
そう考えた桜は、もう自害する人々を待つだけでは満足できなくなった。やがて、桜を見るために訪れた人々を死へと誘い、血と精を吸う妖怪と成り果ててしまった。
「そして死臭を振りまく桜は、そもそもの原因となった歌人の名をとって、『西行妖』と呼ばれるようになったとさ……皮肉なもんだよねぇ。好きで好きでたまらなくて、最期まで一緒にいた桜に自分の名前がついたと思ったら、そいつは化け物になってんだから。あーあー、見る者などいないというのに、なぜお前は美しく咲くのか……なんてね」
萃香はそう締めると、楊枝代りに使っていた串をその辺に放り投げて、からからと笑った。兎は二羽とも萃香が平らげてしまった。
紫は微動だにせず、ただゆらゆら揺れる蝋燭の明かりばかり見ていた。
「そうだ。西行には娘がいてね、これにもけったいな噂があるんだ。父親が死んだ寺に住み込んで、夜な夜な桜が殺した霊どもを弄んでいるんだってさ。それを気味悪がって逃げていく連中も後をたたなくて、なんでも最近じゃ西行妖みたいに――」
かん。
杯が床にたたきつけられ、中の酒が零れる。軽い音は暗い部屋によく響き渡り、朗々と語っていた鬼の舌の動きを止めた。
「興味深い話をありがとう」
紫は早口に告げながら腰を上げた。
「なんだい、もう帰っちまうのか? まだまだ夜は長いというのに」
「ええ、あんまり長居してあなたのお友達のご厄介になるのは悪いから」
ひらひらと手を振り、紫は素早く隙間を開いた。しかし、なかなか動こうとしない。彼女の足はまるで張り付いてしまっているかのように地面から離れなかった。裾を持ち上げると、手の平ほどの小さな萃香が紫の両踝をがっしりと掴んでいる。
「どういうつもり?」
いつの間に、と考えながら紫が振り向く。視線の先では爛々と輝く鬼の瞳が笑っていた。
「まだお代を頂いてないからね」
「ちゃんと兎あげたじゃない。それも二羽も」
「兎はおもしろい話の分。これから貰うのは私が注いでやった酒代さ」
紫はこれ見よがしに大きく息を吐いた。
「あっそ…………で、何をお望みなのかしら?」
「決まってるだろ」
萃香は瓢箪の酒を一気に煽り、傍らに捨てた。瓢箪は小気味良い音を立てて、壁にぶつかった。肩をぐるぐる回しながら立ち上がり、紫の顔を正面から見据える。
「このところ遊んでなくて身体が鈍ってるんだ。せいぜい楽しませておくれよ、隙間妖怪」
「仕方ないわね」
紫は足元のちび萃香をつまみあげると、萃香に投げてよこした。
「少し…………夜に酔いましょう」
空を飛ぶ小鬼は宙を舞い、萃香の掌に収まる。掌はそのまま拳へと握り直され、目の前の標的に向かって振り被られた。
迎えうつ紫の瞳も妖しき輝きを放ち、恐ろしげな妖力を纏った右手を前にかざした。
二つの異形がぶつかり合うと、風圧で蝋燭の火はたちどころに消える。それこそ暗闇が、妖怪の世界が始まる合図となるのであった。