その日の肝試しは、端的にいって大失敗であった。
暑い暑い夏の幻想郷、せめてもの涼を取ろうと肝試しを提案したのは霧雨魔理沙。
その場に居合わせた霊夢と早苗、それに気まぐれに主人から休暇を出された咲夜も伴って、訪ねて行くは旧地獄、
“心の底に眠る恐怖のトラウマ”を呼び覚ますサトリ妖怪、古明地さとりの自宅たる地霊殿である。
先の台詞の通り、彼女らのトラウマになっているであろう恐ろしいものを想起してくれないかと頼み込まれ、
気乗りのしない様子の小さな妖怪少女は、それでも彼女らの願いを聞き届けた。
まずは十六夜咲夜である。
胸元にある第三の目、心を見通すそれで咲夜をじっと見据えたさとりはおもむろに深呼吸をすると想起の力を発現させる。
すわ、出てくるのは何者かと身構えた彼女達の視線を弾き飛ばすかのような勢いで、さとりの口からさとりのものではない声が迸った。
「十六夜咲夜ァッ! 紅茶の準備は出来ているかッ!」
壮年の女性のものと思しき声がさとりの口から発せられた瞬間、咲夜は全身を緊張させ直立不動で返答する。
「いえ、今この場に用意は……」
「口からお花畑の臭いをさせる前と後にはサーを付けろ、このドジっ子メイド!」
「サーイェッサー!」
――後から咲夜に聞いてみれば、さとりの口から放たれたのは先代メイド長の声だとか。
体育会系で真に厳しく、尊敬の念こそ持ってはいるが、未だに大層苦手だと言うことであった。
その後も次々想起を行うが、その結果は散々なものであった。
魔理沙のトラウマを想起させてみれば、魔理沙の父親が想起され危うく本気で泣くところだったり、
霊夢は困窮時の食事内容を羅列され皆に同情されたり、
早苗は昔書いたノートの中身を延々と朗読されたりした。
「なかなか面白いことになってますが……なんだか本来の趣旨から外れてるような気がします。
ああ、嫌な汗でじっとりするー」
憔悴しきった顔の早苗がうめく。涼しくなったかと問われればそんな気もするが、なんだか嫌な感触が残るのも確かである。
霊夢も魔理沙も咲夜も早苗とおんなじ表情で、納得が行かぬとばかりにさとりを見ている。
安楽椅子に座ったさとりは少しばかり困った顔で、膝の上で丸まる猫のお燐を撫でた。
「恐怖のトラウマとは言いますが、別に忌避したいトラウマと所謂“恐怖”は必ずしもイコールではありませんからね。
貴方達の触れたくはないもの、忌避したいものには恐怖を呼ぶものは少ないんですよ」
なるほど、言われてみればどいつもこいつも、怖いもの知らずのお転婆少女ばかりである。
そもそも恐怖を求めてここまで来た時点で、“恐怖のトラウマ”を呼び出せるのかといえば怪しいと言わざるをえない。
しょうがない、他を回ろうかと四人が相談し始めたその時、
「――ああ、そうです。“アレ”なら確実に“怖いもの”を出せますね」
そうさとりが呟いたので、皆が彼女の方に視線を移す。
彼女が呟いてから視線が集まるまでの刹那、さとりの顔に浮かんだ笑顔に気づいたものは一人も居ない。
……その、口だけが亀裂のように釣り上がった笑顔を見たのは、膝の上のお燐だけであった。
にゃーん、とお燐は一声鳴いて、さとりの手をぺろりと舐める。
死体を運ぶ火車の黒猫は、さとりの膝から降りると昏い昏い地霊殿の何処かへ、歩いて消えていく。
さとりは安楽椅子から身体を投げ出すと、ちょうど魔理沙の目の前に着地する。
何事かと目を丸くする魔理沙の顔をさとりの手が左右からがしりと掴んだかと思うやいなや、ぐっと魔理沙の顔とさとりの顔が近づいた。
「?!」
「――――へぇ、大胆」
「やん、さとりさん略奪愛?」
その光景に何を想像したのか、霊夢の表情が強ばり、咲夜が些か瀟洒でない口笛を鳴らし、早苗は何故か霊夢を見ながらニヤニヤ笑う。
当事者の魔理沙はと言えば、顔を林檎のように紅潮させて完全に硬直してしまっていた。
もう半歩も踏み出せば唇が触れ合いそうなそんな距離で、一人と一妖が見つめ合う。
「勘違いしないように。これは心のもっと深いところを見ようとしているだけですよ。
小さな字を見るために新聞に顔を近付けるのと同じことです」
顔色を一つも変えず魔理沙を見るさとり。
胸元にある第三の目の瞳孔が静かに拡大する。
「きっかけはね、些細な事だったのですよ。こいしに少し、質問してみたんです。“無意識って、何が見えるの”って。
私達サトリ妖怪は普通の者達には見えない“心”を見ることができた。なら、瞳を閉じて別物に成り果てたあの子には一体何が、どんな風に見えていたんだろうと思いまして」
(ッ――――?!)
唐突に、霊夢の背を怖気が走り抜けた。
全身の神経がささくれ立ち、細胞が妖怪殺しの歓喜に沸き立つ。
しかし本能的に起動した攻撃意思を、理性が無理やり捩じ伏せる。
何を馬鹿な。さとりは少しばかり性格は悪いが、他の連中と比べれば言葉の通じる妖怪だ。
何故こんなふうにいきり立つ必要があるのか。魔理沙がデレデレしているからってここまで頭に血を登らせることもない。
登らせることもない、はずだ。
「そうしたらね、あの子は無意識の海の中に沈んでいる“アレ”を見せてくれました。その姿を認識して、気がついたら」
さとりの頬が吊り上がる。ちっとも楽しそうには見えない満面の笑みが顔に貼り付いた。
「あの子の臓物を引きずりだしてました。ええ、こう、馬乗りになって。私自身も上から下から汚物と涙を撒き散らしてて。
よっぽど怖かったんでしょうね、私。それを見せている妹を迷いなく殺そうとしてしまうくらいには。
後で謝りましたけど、許してもらうまでずいぶん掛かりました」
クスクスさとりは笑うけれども、霊夢達はとても一緒に笑う気にはなれなかった。
早苗が一歩後ろへ退く。戦うための間合いを開けるためでなく、逃げ出そうとするために。
何を馬鹿な、妖怪に少し脅かされたくらいで逃げようとするなんて、なんて臆病。
きっとここで逃げたら笑われてしまう。これは単なる怖い作り話なのだから。
単なる作り話、の、はずだ。
「私が見たのは集合的無意識というやつで、知性を持った生物の無意識の繋がった物であるらしいのですが、なんであんな恐ろしい物がそこに潜んでいたのか。
私は“アレ”を見て、何故か理解をしてしまいました。何故でしょうね? きっと理解すべき内容も、一緒に無意識の中に閉じ込められているんでしょう。
――――全ての理性ある生物は、いずれ“アレ”と敵対しなければならないのです。あの強大にして邪悪で醜悪な存在と。
だからこそ、全ての無意識の中には“アレ”の恐ろしい姿が刻み込まれている。戦うべき敵を忘れぬように、対抗できぬうちは忌避できるように、そしてその恐怖を乗り越える試練のために」
ぎしりと、さとりの両手に力が篭った。捕まえられた魔理沙の頬に爪が食い込み、皮膚が破れて血が流れる。
けれども痛みは感じない。全ての感覚は眼前のさとりに向けられていて、痛みを感じる余裕なんてまるで無い。
ただ、腰が抜けて崩折れそうな身体を無様に支え続けることだけが、許された能動的な行動だった。
「でも、あの頃の私達はそんな恐怖に負けないくらい最悪の所に居た。私達サトリ妖怪を拒絶する人妖の悪意は私達をとてもとても追い詰めていた。
…………だから、そんな人妖達に復讐するために“アレ”を利用するのは悪いことじゃないと思いませんか?
私は“アレ”を想起するために、無意識にまで視線を届けねばならなかった。
意識の網を通りぬけ、深層意識を潜りぬけ、集合的無意識の海へ視線を届ける練習は、とても難儀しましたね。それは私の領域じゃない、こいしの世界。
今みたいにじっくり見つめて、ゆっくりと無意識下まで能力を潜らせる必要がある。こいしのように目を閉ざす気にはなれませんしね。
うまくいっても、まるでピントの外れたカメラみたいにボヤけた像しか想起できなかったけれども、それで十分。
鮮明な姿を想起してしまったら、私自身発狂してしまいますし」
気がつけば、咲夜はナイフを抜き放ちさとりに切っ先を向けていた。
何を馬鹿な、なんてもう考えない。さとりは明らかに御巫山戯の域を逸脱している。
ナイフで少しばかり血の気を抜いてやる必要がある。さもなければ、自分達は――――!
だが、それ以上の行動を取ることが出来ない。指先ひとつ動かせない。
何らかの呪縛を受けているわけではない、ただ、怖かった。
あまりにも逸脱しすぎた恐怖が心と体を縛る。全身は凍りつき、意識は聞きたくもないさとりの話に集中する。
何よりも恐ろしいのは、“何故そんなに怖いのかが一つも分からない”ことだ。
たださとりが喋っている。それだけで恐ろしい出来事なんて一つも起こっては居ないのに。
咲夜の右隣から衣擦れの音がする。早苗がへたりこんでしまったらしい。
「霊夢!」
左隣の霊夢に声をかけるが、戻ってくるのは酷く震えた声だった。
今しがたの咲夜自身の声も、もはや悲鳴に近い。
「ごめん、私も動けそうにないわ。何、これ」
クスクスクスクスとさとりが笑う。
一つも楽しく無さそうに、とてもとても愉しそうに。
「色々な悪さをしました。海の向こうの“えじぷと”と言う国で、“アレ”の恐怖を使って人間達を配下にしてみたりもしました。
黒いファラオ、女王二トクリス、膨れ女、顔のないスフィンクス。色々な名前で呼ばれましたよ? みんな恐ろしすぎて、私がどんな姿をしているかも曖昧になってしまったようで。
怖くて怖くて逆らえないから、私が理不尽に人を殺せと言ってみても、何の戸惑いもなくやってくれました。姉妹共々神様みたいに扱われちゃって、楽しかったですね。
それで少しばかりやんちゃが過ぎてこの旧地獄に封ぜられましたけど、たまにこっそり現世に抜けだしたりもしています。
外の世界の戦争の時、八咫烏の光を地上に生み出す方法を人間に教えたりもしました。そんな私のペットにお空が居るのは皮肉というかなんというか。フフフ」
ばさりと、さとりが翼を広げたのを魔理沙は見た。
いや、あれは空だ。さとりの後ろにお空が立っているだけだ。なんでそんなところに立っている?
何処からともなくこいしが現れて、姉の頭に帽子を被せた。
部屋の照明が落ち、薄暗い部屋の中で人間達が意識的に分断される。
魔理沙の目の前に居るのはさとり。黒い翼を持ち、薄暗がりの中でなお暗く滲み、奇怪な王冠を頂いた、両の眼と“第三の瞳”を悍しく燃え上がらせる古明地さとり。
何だ? 目の前の古明地さとりは一体何だ?
「…………捕まえた」
さとりが呟く。けれどもさとりはこんな声をしていただろうか。
外宇宙の深淵で鳴り響く単調でか細いフルートのような、地獄の声をしていただろうか。
そして、さとりは宣言する。全ての知性体が心の奥底に眠らせている敵対者の姿の想起を高らかに宣言する。
その宣言された名前はあまりにも恐ろしすぎて、人間の理解できる音として捉えることは出来なかった。
想起「■イ■■ラ■■■プ」
真っ暗になった。
さとりの姿も床も天井も意識できなくなり、暗闇の中に魔理沙/霊夢/咲夜/早苗だけがひとり、浮かぶように立っている。
他には何処にも、何も無い。
いや、見回すと、あった。虚空の中に窓枠が一つ浮かんでいる。
そして、そのまどの、向こうに、いや、あの手は何だ。窓に、窓に。
窓に張り付いているのは右手と頭。
その右手にはこの地球上に存在するあらゆる生物の特徴が一つずつ備わり、かつこの地球上に存在しないあらゆる生物の特徴が一つずつ備わっていた。
質感は筆舌しがたい色と艶にて脳内にその不可思議な感触を焼き付け、その動きはユーグリット幾何学を完全に無視した奇怪な揺らぎで組み立てられている。
その腕は窓を破ろうと蠢き続けているが、ひょっとしたらいつでも破れるものを戯れに弄んでいるのかもしれなかった。
そして自分を覗き込むその顔はまるで行く手を塞ぐ窓がないかのように魔理沙/霊夢/咲夜/早苗の眼前に移動する。
三段重ねの狂的な意匠の王冠を載せたその顔は古明地さとりと古明地こいしに限り無く似ていながら目も鼻も口もなく無貌の荒野が広がるばかりであり。
その時点で魔理沙/霊夢/咲夜/早苗の精神は完全に平衡を失い、痴れ狂った思考は我々には理解しがたいプロセスを以てして目の前の“外なる神”を完璧に理解した。
――――くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー しゃめっしゅ しゃめっしゅ
――――にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
無貌の神に捧げる祝詞が、魔理沙/霊夢/咲夜/早苗の口から、際限なく零れ続けた。
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「そこまでよ。悪戯もほどほどになさい」
「あら、ご機嫌麗しゅう、賢者殿?」
「その子達はこの箱庭の世界に無くてはならぬ人間よ。壊されてしまっては困る」
「妖怪とはこういうモノですもの。油断していたこの子たちが悪いんです」
「まあ、最近ちょっと舐めすぎな所もあったわね。とは言え、あんまりやり過ぎると反撃を喰らうわよ。
そうなれば、妖怪が英雄に勝てるはずがないと言うのは承知しているわよね?」
「当然。深刻には壊していませんよ、御巫山戯の範囲内です」
「――――ん。確かに四人とも軽い処置で意識は戻りそうね。ま、たまにはいい薬かしら。それじゃあ連れて帰るわよ?」
「ちゃんと今日の事は忘れさせてあげてくださいね。嫌われてしまっては悲しいですから」
「いい性格してるわ、貴女」
「貴女が妖怪らしからぬほど慈愛に満ちているだけですよ、紫さん」
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会話の相手と四人の少女が地霊殿から消えて失せ、さとりだけが残される。
否、その背後で霊烏路 空が黒い翼を鳴らし、その胸に抱かれて古明地こいしが嘲笑い、その手を真っ黒い獣の火焔猫 燐がそっと舐める。
――――くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー しゃめっしゅ しゃめっしゅ
――――にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
地霊達が、彼女らを祝福する祝詞をいつまでもいつまでも唱え続けていた。
でもさとりんもアリだな
うおるでいい、すいけんみい、しるけいうす?マグナ・マータ!
すみません、面白かったですwww
さとりんとこいしちゃんはこういうポジションが似合ってる