「何を見ているの、橙」
「あっ、紫様!」
マヨヒガ内のハナミズキの木をしげしげと見つめる橙を見つけて紫は声をかけた。
「見てください、あれ!」
紫はハナミズキの桃色の花でも見ているのかと思い、微笑ましい気持ちになっていたが橙の指す指の先には枯れ草の塊があった。
「まあ、鳥の巣」
やっぱり妖怪とは言え猫か、と気落ちしたり、心のどこかで安心したりもした。
木の高い所にヒヨドリが来て耳を貫くような声で鳴く。
「ほら橙、橙がいるから鳥が怖がっちゃってるわよ」
「食べたりしないのに・・・」
「え?食べないの?」
「食べませんよお」
橙の方が呆れたように返す。
「毎日毎日藁運んできていつの間にかあんな立派な巣になってたんです、あんな頑張ってるの見ちゃったら食べるなんて・・・」
「まあ・・・」
紫は持っていた扇で顔を半分隠す。
式の式、ただの猫、ただの獣、どこかでそんな風に見ていた橙がそんな理性的で人間の子供みたいな事を言い出すものだから、なんだか可愛くて、
紫はだらしなく緩む口元を隠さずにいられなかった。
それから橙は少しはなれた所からヒヨドリの巣を見つめていた。
ヒヨドリは何度も飛び立っては戻り、立派な巣を更に立派にしていく。
「卵産むのかなー」
なんて、橙は独り言のように呟く。
そんな橙を微笑ましく思い、見守る紫だった。
しかしヒヨドリの声というのは煩い。
ギャーオギャーオと甲高い声で喚いたかと思うとグチャグチャおしゃべりする。
家のすぐそばで鳴かれたらたまったもんじゃないのだ。
「あ、これか」
藍が箒片手にヒヨドリの巣に近付いた。
「キャー!藍様!だめー!」
箒を巣に振りかざす藍に向かって橙は飛びついた。
「ん?どうした?」
藍はギリギリの所で手を止め、ヒヨドリの巣は一命を取り留めた。
「お願いです藍様!壊さないであげて!」
「ええっ、でも煩いしなあ・・・」
「お願いします!」
両手を前で合わせて縮こまる橙とヒヨドリの巣を交互に見ると、木の上の方にいたヒヨドリがギャーと鳴く。
「ふふふ、藍、理性的な橙を見習いなさい」
急に隙間から出てきた紫に驚きもせずにきょとんとする藍。
「命を尊ぶ心を踏みにじるって言うの?」
「はあ・・・紫様からそんな言葉が出るとは・・・」
「まあ、私ほど命の美しさを尊んでいる妖怪なんていないわよ」
「そうですか」
また、ヒヨドリがギャーと鳴く。
藍は小さくため息をついて橙の頭にぽんと手を乗せた。
「ま、何も悪い事してないしな」
その言葉を聞いてぱっと明るくなる橙の顔に藍も顔が綻ぶ。
紫がどう言おうと藍もまた、橙の心の成長を見るようで嬉しくなっているのは確かだった。
しばらくするとヒヨドリは行ったり来たりするのをやめて巣に居座るようになった。
「きっと卵生んだのねえ」
巣を見つめる橙の横で紫が呟く。
「雛はいつごろ孵るんでしょうか・・・」
「そうねえ、二週間位かしら」
「二週間かあ・・・」
好奇心を溜め込んできらめく瞳は獲物を狙う鋭い獣の目ではなく、健気な小鳥を慈しむ穏やかな瞳だった。
「橙は賢い子になるわ」
廊下から飽きずに鳥の巣を見上げる橙を眺めながら紫が呟いた。
「はあ、それなら良いんですけど」
紫の後ろで机に向かい仕事をこなす藍はそっけなく答える。
「もしも貴方よりも良い式になるようなら、貴方の代わりに橙を私の式にしようかしら」
「そりゃ仕事が減って助かります」
「もう、張り合いがないわね」
「貴女と張り合うなんて物好きだけですよ」
紫はふう、とため息をつく。
憎まれ口を利くほど賢くなるといかんせん可愛げがない、なんていう自分勝手な言葉を飲み込みつつ、橙の後ろを眺めた。
(ま、この賢い式が育てた式だからこんなに良い式になったのよね・・・)
なんて事も、思うだけで口には出さなかった。
それからハナミズキの花が全部落ちる頃になると、巣から小さなピンク色の頭が覗くようになった。
「見て!紫様!生まれたんですよ!」
「ほんとねえ」
「いち、にい、さん・・・三羽も!」
こうなると親鳥はまた忙しく餌を運び空を飛び交うようになる。
「こうなるとやっぱり巣を壊さなくて良かったと思うな」
紫と橙の後ろで藍が呟く。
「あら、じゃあ橙に感謝ね」
「ふふ、そうですね」
藍がそう言うと、橙はちょっと照れた様に笑った。
ヒヨドリは雄と雌、交互に餌を運びどちらかが怠ける事はない。
「人間はどっちかが怠けて、自分の子を殺す事もあるのよねえ」
「嫌な事言わないでくださいよ」
橙が遊びに行っていないのをいい事に、紫がそっと呟いた。
その後ろで仕事をこなす藍からすれば「人間」という前提を置いた例え話だとしても複雑な思いのする言葉だった。
「私も鳥を見習うべきかしらね」
「紫様はなんだかんだ言って、仕事してる方なんじゃないですか?」
「あら?わかってるじゃない?」
「紫様は私を遣うのが仕事ですからね」
それを聞いて紫は満足そうに笑うのだった。
「あら、橙が近くに寄ってもあんまり煩くしなくなったわね」
雛が生まれてから煩かったヒヨドリは静かになった。
「えへへ、私は敵じゃないってわかってくれたんですよ」
橙は嬉しそうに言う。
紫はこっそり餌を運びに来るヒヨドリの様子を見ながら少し眉を顰めた。
「・・・そうね、橙の気持ちが鳥に通じたんだわ」
「見て紫様、雛達かなり大きくなったでしょ?」
「ええ、あんなに羽も生えて・・・これじゃあすぐに巣立ってしまうわね」
紫はちょっと意地悪な顔で聞く。
「うーん、それは寂しいけど、やっぱり早く大きくなってほしいです」
「ふふ、偉いわね橙は」
その手で橙を撫でる。
紫は、もしかしたら橙が「ずっとこのままならいい」、なんて言うと思っていた。
子供というのは、時間が止まった世界に生きているものだと認識していた紫は
橙がそんな子供の時間を過ごしているわけではないのだと知り、考えを改めた。
「もしかしたら巣立った鳥がまたここに巣を作るかもしれないわね」
「あ!そうなったら嬉しいです!また来ないかな~」
その希望で満ち溢れた瞳はまだまだ幼さを残していて、どこか紫をほっとさせる。
ヒヨドリは二人の会話もおかまいなしにそっと餌を探しに出かけた。
その日の雲は黒く、風が吹き荒れ今にも雨が降りそうだった。
親鳥はそれをわかっているのかいないのか、いつものように飛び交っている。
「・・・結構大きい嵐かもしれない・・・」
吹き荒れる風が揺らす木にちょこんと乗る藁でできた巣。
三羽の雛は何も知らないように頭を出したりひっこめたりしている。
橙は不安を覚えずにいられなかった。
巣のある場所の斜め上辺りにもう一本枝があり、そこに木の板を挟めば風除けになる、そう考えた橙は手ごろな木の板を持ち、木の箱で足場を作って背伸びをしながら巣の近くに手を伸ばした。
すると飛んできた親鳥が橙の手をかすめてギャーと鳴いた。
そしてそれに驚いたかのように、雛はチーイと高く鳴く、耳を貫くように。
「ごめんねごめんね、これ風除けになるから、ちょっとで終わるから・・・」
飛び交う親鳥も必死に鳴く雛鳥も傷つけないようにそっと木の板を枝に挟むと、
急いで木の箱から降り巣から見えない遠くの茂みに走った。
茂みに隠れながらこっそり巣を覗くと親鳥はしっかり巣に座り込み、もう一匹の親は木の上を何度も迂回しているのが見える。
「・・・やらなきゃ良かったかな・・・」
か細い声で呟くと、ポツっと足元に雫が落ちる。
それから次々にポツポツ雨粒が落ちる音があたり一面に響いた。
風の音もごおごおと強くなる。
橙は自分の手をぎゅっと握り締めて心の中で呟いた。
(・・・どうか耐えて・・・)
雨と風の音が辺りを包む、その音はどの生き物にも不安を与える。
それでもヒヨドリはしずかに餌を探しに出かけた。
夜が明けると昨日の嵐が嘘のように晴れ、青空が広がっていた。
清清しい風だけが木を揺らしている。
「あ!」
橙は木にしっかり残っている巣と、その中から顔を覗かせる雛を確認した。
あんまり嬉しくてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「よかったー!」
すると親鳥が飛んできて橙を睨んだ。
「あっ、ごめんね」
口を押さえて少しだけ後ずさる橙。
自分がとりつけた木の板が少し傾いているものの、そこにあるのを見てにっこり微笑む。
「あら、昨日の嵐、大丈夫だったのね」
どこからともなくやってきた紫が日傘を差しながら橙の後ろで呟く。
「見て紫様!私昨日風除けを作ったんですよ!」
「へえ?」
風除けというほどでもない木の板に紫はくすりと笑う。
紫が来てヒヨドリはまた慌てて上空を飛び回った。
「鳥も喜んでるじゃない、やったわね橙」
「えへへ・・・でも違うんです、風除けをつけた時に驚かしちゃって・・・」
「んーん、私にはちゃんと聞こえるわよ、橙ちゃんありがとーって言ってるわ」
「紫様・・・」
橙は頬を赤くして手を後ろで組んで下を向いた。
「へえ、そんな事したのか橙、偉いぞ」
三人で夕飯の食卓を囲んで鳥の話をした。
藍にも褒められて益々嬉しい橙はご飯をほお張りながらまたその頬を染める。
「二度も命を救ってもらったものね、きっと後で恩返しに来るわよ」
「あはは、紫様、恩返しに来るのは雀ですよ」
「あらわからないわよそんなの、ねえ橙?」
「えっ、えっと、はい!」
藍と紫の顔を交互に見て頷いた。
ちょっと悔しそうな藍は箸で漬物をつつく。
「そうなったら箒で叩き落とそうとした私は仕返しされるかもしれないな」
「まあ藍ったらいじけて」
「そ、そんな事ないですよ!藍様何もしてないじゃないですか!」
慌てて立ち上がる橙に藍も紫も笑った。
「そうだな、もしそうなっても橙に守ってもらえるもんな」
「あら藍、また橙に貸しができたわねえ」
「ち、違いますよぉ紫様!」
行灯に照らされて三つの影が揺れる。
それはとても化け物の影には見えなかった。
青空が境界の向こうまで続く空の下、
「おはよう鳥さん」
という声がするのが日常となっていたが、その日は違った。
まず最初にキャーという悲鳴が聞こえて、それからヒヨドリのけたたましい鳴き声がひっきりなしに続いた。
紫が慌てて見に行くと、巣は木から落ち、橙が木に登って獣の目をギラつかせていた。
(ああなんてこと、やっぱり獣は獣なの?)
紫は呆然とその光景を眺める。
昨日の夜笑っていたあの子はどこへと、なんとも言いがたい無念さと悔しさが込み上げてきた。
橙は紫と目が合うとはっとしたように木から下りて紫の前に立ちすくみ、俯いたまま声をあげた。
「紫様・・・!」
「橙・・・、・・・!」
紫は橙が手に持っている物を見て息を呑んだ。
橙はその獣の目に涙をいっぱい溜めて紫を見上げる。
橙は蛇を持っていた。
アオダイショウ、鳥を狙って食べる奴だ。
そいつは橙がいつものように巣を見に行くとすでに巣の上でトグロを巻いており、
それを見た橙は悲鳴をあげ、我を忘れて蛇に襲いかかった。
紫と目が合わなければ橙は蛇を殺していただろう。
蛇は所々橙に引っかかれた所から血を流し、そしてその腹はぽっこり三つに膨れている。
橙が震えながらそっと蛇を離すと蛇は慌てたように茂みに消えていった。
「・・・橙・・・」
紫は橙の体を抱きしめる。
堪えていたものが込み上げてきて橙の頬を流れた。
「紫様・・・!私がいけないんです、私が・・・!」
「どうして!あなた、鳥を守ろうとしたじゃない!」
「違うんです!蛇の奴がここに巣があるって気づいたのは・・・きっとあの時・・・!」
「あの時・・・?」
「私が驚かせたから・・・!」
紫ははっと小さく息を呑み、橙の肩を強く抱いた。
「そんな事ないわよ、偶然よ」
「でも・・・」
親鳥は木の上から落ちた巣をじっと見ていた。
橙は自分が風除けを作った時にヒヨドリが大きな声で鳴き、その声で蛇が気付いてしまったのだと思ったのだ。
その憶測が正しいのか間違っているのかは蛇にしかわからない。
しかし橙はもう帰って来ない鳥を思って泣き続けた。
紫から話を聞いた藍は昨日楽しく囲んでいた机に顔を伏している橙の背中を見て胸が締め付けられた。
「蛇は逃がしたんですか」
「そうなのよ」
紫は体を半分隙間に入れ、顔を半分扇子で隠している。
「慰めてやって、私よりもあなたの方が適任だから」
「そうとも限らないと思いますが」
「いいから」
とうとう橙を指す指先以外隙間に隠れてしまった主人に藍は隠れて小さくため息をついた。
藍はそっと橙の右隣に座り背中を撫でる。
「藍様・・・」
橙は顔を上げ、慌ててに涙をぬぐった。
「えへへ、藍様・・・私鳥に酷い事しちゃって・・・」
赤くなった鼻を擦りながら無理して笑顔を作る橙は震える声で話を続けた。
「私・・・いい事したような気になって浮かれて・・・鳥の気持ちなんて全然考えてなくって・・・」
潤んだ瞳からこぼれる涙を頬がつたう前にぬぐう。
その小さな手をどけて藍の一回り大きな手で涙を拭いた。
「お前が悪いんじゃないって、鳥もわかってるよ」
「・・・・・・」
橙が黙って唇を噛むのを見て、藍はその橙の顔を覗きながら前髪を撫でる。
「それにしても驚いたなあ、お前は猫なのに、そんなに鳥を大事にするなんて」
「・・・そんなに変ですか・・・?」
「うんまあ、紫様も驚いてたけどさ、猫の頃のお前はよくスズメなんかを獲ってきたりしてたんだぞ」
「・・・蛇と一緒ですね・・・」
「今のお前は違うだろう?」
「・・・・・・」
「私だって好物の油揚げが目の前にあったら飛びついてしまうかもしれないのに・・・橙は本当にすごいな」
橙は潤んだ目を閉じて少しだけ微笑んだ。
「蛇を逃がしたのも可哀想だって思ったからだろ」
「・・・だって蛇は悪くないじゃないですか・・・」
「・・・そうだな、でもお前も悪くないんだぞ、悪くないんだ」
「・・・・・・」
橙はまだ何か言いたそうに口を開いたがすぐにまた閉じて涙を拭く。
「ま、また来てくれたら・・・今度はちゃんと守ってあげられるように頑張ります」
かすれた声だが前向きな発言に藍もほっとした。
「そうだ、お前ならできるぞ」
「はいっ・・・!ありがとう藍様・・・それに紫様・・・!」
その言葉を不思議に思った藍は橙の見つめる方向に振り返る。
壁に小さな隙間が開いているのを見て藍は呆れながらもどこか安心したように笑った。
地面に落ち空になった巣を元の場所に戻した橙はしばらくそれを眺め、やがて自分の家に戻っていった。
「何か言いたいならご自分で言ったらどうです?」
マヨヒガの屋根に座って欠けた月を見上げる紫を見つけた藍は呆れたように言い放つ。
「ふふ、言いたいことはみんな藍が言ってくれました」
「・・・そうですか?」
「そうです」
まだ少し肌寒い風が吹きぬける。
昨日までそこにいたヒヨドリ達はもういない。
「私が橙だったらあの蛇を殺していたかもね」
「そりゃあ紫様なら・・・」
「こら、フォローなさい」
「はいはい・・・もしも私達が殺されようもんなら紫様が仇討ちしてくれるのを期待してますよ」
「あら、それはちょっと今回の事例とは違うんじゃないの?」
「してくれないんですか?」
「ご想像にお任せするわ」
「なんですかそれ・・・」
紫はふっと笑うと隙間を作って橙の部屋を覗いた。
背中を丸めて眠る橙に獣の面影と少女の面影を感じ、どこか安心したように頬杖をつく。
「何ニヤニヤしてるんです、気持ち悪いですよ」
「あんたはいつもこんな顔してるわよ」
隙間を閉じた紫は藍を見つめながら橙に向けた笑顔と同じように微笑んだ。
「あっ、紫様!」
マヨヒガ内のハナミズキの木をしげしげと見つめる橙を見つけて紫は声をかけた。
「見てください、あれ!」
紫はハナミズキの桃色の花でも見ているのかと思い、微笑ましい気持ちになっていたが橙の指す指の先には枯れ草の塊があった。
「まあ、鳥の巣」
やっぱり妖怪とは言え猫か、と気落ちしたり、心のどこかで安心したりもした。
木の高い所にヒヨドリが来て耳を貫くような声で鳴く。
「ほら橙、橙がいるから鳥が怖がっちゃってるわよ」
「食べたりしないのに・・・」
「え?食べないの?」
「食べませんよお」
橙の方が呆れたように返す。
「毎日毎日藁運んできていつの間にかあんな立派な巣になってたんです、あんな頑張ってるの見ちゃったら食べるなんて・・・」
「まあ・・・」
紫は持っていた扇で顔を半分隠す。
式の式、ただの猫、ただの獣、どこかでそんな風に見ていた橙がそんな理性的で人間の子供みたいな事を言い出すものだから、なんだか可愛くて、
紫はだらしなく緩む口元を隠さずにいられなかった。
それから橙は少しはなれた所からヒヨドリの巣を見つめていた。
ヒヨドリは何度も飛び立っては戻り、立派な巣を更に立派にしていく。
「卵産むのかなー」
なんて、橙は独り言のように呟く。
そんな橙を微笑ましく思い、見守る紫だった。
しかしヒヨドリの声というのは煩い。
ギャーオギャーオと甲高い声で喚いたかと思うとグチャグチャおしゃべりする。
家のすぐそばで鳴かれたらたまったもんじゃないのだ。
「あ、これか」
藍が箒片手にヒヨドリの巣に近付いた。
「キャー!藍様!だめー!」
箒を巣に振りかざす藍に向かって橙は飛びついた。
「ん?どうした?」
藍はギリギリの所で手を止め、ヒヨドリの巣は一命を取り留めた。
「お願いです藍様!壊さないであげて!」
「ええっ、でも煩いしなあ・・・」
「お願いします!」
両手を前で合わせて縮こまる橙とヒヨドリの巣を交互に見ると、木の上の方にいたヒヨドリがギャーと鳴く。
「ふふふ、藍、理性的な橙を見習いなさい」
急に隙間から出てきた紫に驚きもせずにきょとんとする藍。
「命を尊ぶ心を踏みにじるって言うの?」
「はあ・・・紫様からそんな言葉が出るとは・・・」
「まあ、私ほど命の美しさを尊んでいる妖怪なんていないわよ」
「そうですか」
また、ヒヨドリがギャーと鳴く。
藍は小さくため息をついて橙の頭にぽんと手を乗せた。
「ま、何も悪い事してないしな」
その言葉を聞いてぱっと明るくなる橙の顔に藍も顔が綻ぶ。
紫がどう言おうと藍もまた、橙の心の成長を見るようで嬉しくなっているのは確かだった。
しばらくするとヒヨドリは行ったり来たりするのをやめて巣に居座るようになった。
「きっと卵生んだのねえ」
巣を見つめる橙の横で紫が呟く。
「雛はいつごろ孵るんでしょうか・・・」
「そうねえ、二週間位かしら」
「二週間かあ・・・」
好奇心を溜め込んできらめく瞳は獲物を狙う鋭い獣の目ではなく、健気な小鳥を慈しむ穏やかな瞳だった。
「橙は賢い子になるわ」
廊下から飽きずに鳥の巣を見上げる橙を眺めながら紫が呟いた。
「はあ、それなら良いんですけど」
紫の後ろで机に向かい仕事をこなす藍はそっけなく答える。
「もしも貴方よりも良い式になるようなら、貴方の代わりに橙を私の式にしようかしら」
「そりゃ仕事が減って助かります」
「もう、張り合いがないわね」
「貴女と張り合うなんて物好きだけですよ」
紫はふう、とため息をつく。
憎まれ口を利くほど賢くなるといかんせん可愛げがない、なんていう自分勝手な言葉を飲み込みつつ、橙の後ろを眺めた。
(ま、この賢い式が育てた式だからこんなに良い式になったのよね・・・)
なんて事も、思うだけで口には出さなかった。
それからハナミズキの花が全部落ちる頃になると、巣から小さなピンク色の頭が覗くようになった。
「見て!紫様!生まれたんですよ!」
「ほんとねえ」
「いち、にい、さん・・・三羽も!」
こうなると親鳥はまた忙しく餌を運び空を飛び交うようになる。
「こうなるとやっぱり巣を壊さなくて良かったと思うな」
紫と橙の後ろで藍が呟く。
「あら、じゃあ橙に感謝ね」
「ふふ、そうですね」
藍がそう言うと、橙はちょっと照れた様に笑った。
ヒヨドリは雄と雌、交互に餌を運びどちらかが怠ける事はない。
「人間はどっちかが怠けて、自分の子を殺す事もあるのよねえ」
「嫌な事言わないでくださいよ」
橙が遊びに行っていないのをいい事に、紫がそっと呟いた。
その後ろで仕事をこなす藍からすれば「人間」という前提を置いた例え話だとしても複雑な思いのする言葉だった。
「私も鳥を見習うべきかしらね」
「紫様はなんだかんだ言って、仕事してる方なんじゃないですか?」
「あら?わかってるじゃない?」
「紫様は私を遣うのが仕事ですからね」
それを聞いて紫は満足そうに笑うのだった。
「あら、橙が近くに寄ってもあんまり煩くしなくなったわね」
雛が生まれてから煩かったヒヨドリは静かになった。
「えへへ、私は敵じゃないってわかってくれたんですよ」
橙は嬉しそうに言う。
紫はこっそり餌を運びに来るヒヨドリの様子を見ながら少し眉を顰めた。
「・・・そうね、橙の気持ちが鳥に通じたんだわ」
「見て紫様、雛達かなり大きくなったでしょ?」
「ええ、あんなに羽も生えて・・・これじゃあすぐに巣立ってしまうわね」
紫はちょっと意地悪な顔で聞く。
「うーん、それは寂しいけど、やっぱり早く大きくなってほしいです」
「ふふ、偉いわね橙は」
その手で橙を撫でる。
紫は、もしかしたら橙が「ずっとこのままならいい」、なんて言うと思っていた。
子供というのは、時間が止まった世界に生きているものだと認識していた紫は
橙がそんな子供の時間を過ごしているわけではないのだと知り、考えを改めた。
「もしかしたら巣立った鳥がまたここに巣を作るかもしれないわね」
「あ!そうなったら嬉しいです!また来ないかな~」
その希望で満ち溢れた瞳はまだまだ幼さを残していて、どこか紫をほっとさせる。
ヒヨドリは二人の会話もおかまいなしにそっと餌を探しに出かけた。
その日の雲は黒く、風が吹き荒れ今にも雨が降りそうだった。
親鳥はそれをわかっているのかいないのか、いつものように飛び交っている。
「・・・結構大きい嵐かもしれない・・・」
吹き荒れる風が揺らす木にちょこんと乗る藁でできた巣。
三羽の雛は何も知らないように頭を出したりひっこめたりしている。
橙は不安を覚えずにいられなかった。
巣のある場所の斜め上辺りにもう一本枝があり、そこに木の板を挟めば風除けになる、そう考えた橙は手ごろな木の板を持ち、木の箱で足場を作って背伸びをしながら巣の近くに手を伸ばした。
すると飛んできた親鳥が橙の手をかすめてギャーと鳴いた。
そしてそれに驚いたかのように、雛はチーイと高く鳴く、耳を貫くように。
「ごめんねごめんね、これ風除けになるから、ちょっとで終わるから・・・」
飛び交う親鳥も必死に鳴く雛鳥も傷つけないようにそっと木の板を枝に挟むと、
急いで木の箱から降り巣から見えない遠くの茂みに走った。
茂みに隠れながらこっそり巣を覗くと親鳥はしっかり巣に座り込み、もう一匹の親は木の上を何度も迂回しているのが見える。
「・・・やらなきゃ良かったかな・・・」
か細い声で呟くと、ポツっと足元に雫が落ちる。
それから次々にポツポツ雨粒が落ちる音があたり一面に響いた。
風の音もごおごおと強くなる。
橙は自分の手をぎゅっと握り締めて心の中で呟いた。
(・・・どうか耐えて・・・)
雨と風の音が辺りを包む、その音はどの生き物にも不安を与える。
それでもヒヨドリはしずかに餌を探しに出かけた。
夜が明けると昨日の嵐が嘘のように晴れ、青空が広がっていた。
清清しい風だけが木を揺らしている。
「あ!」
橙は木にしっかり残っている巣と、その中から顔を覗かせる雛を確認した。
あんまり嬉しくてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「よかったー!」
すると親鳥が飛んできて橙を睨んだ。
「あっ、ごめんね」
口を押さえて少しだけ後ずさる橙。
自分がとりつけた木の板が少し傾いているものの、そこにあるのを見てにっこり微笑む。
「あら、昨日の嵐、大丈夫だったのね」
どこからともなくやってきた紫が日傘を差しながら橙の後ろで呟く。
「見て紫様!私昨日風除けを作ったんですよ!」
「へえ?」
風除けというほどでもない木の板に紫はくすりと笑う。
紫が来てヒヨドリはまた慌てて上空を飛び回った。
「鳥も喜んでるじゃない、やったわね橙」
「えへへ・・・でも違うんです、風除けをつけた時に驚かしちゃって・・・」
「んーん、私にはちゃんと聞こえるわよ、橙ちゃんありがとーって言ってるわ」
「紫様・・・」
橙は頬を赤くして手を後ろで組んで下を向いた。
「へえ、そんな事したのか橙、偉いぞ」
三人で夕飯の食卓を囲んで鳥の話をした。
藍にも褒められて益々嬉しい橙はご飯をほお張りながらまたその頬を染める。
「二度も命を救ってもらったものね、きっと後で恩返しに来るわよ」
「あはは、紫様、恩返しに来るのは雀ですよ」
「あらわからないわよそんなの、ねえ橙?」
「えっ、えっと、はい!」
藍と紫の顔を交互に見て頷いた。
ちょっと悔しそうな藍は箸で漬物をつつく。
「そうなったら箒で叩き落とそうとした私は仕返しされるかもしれないな」
「まあ藍ったらいじけて」
「そ、そんな事ないですよ!藍様何もしてないじゃないですか!」
慌てて立ち上がる橙に藍も紫も笑った。
「そうだな、もしそうなっても橙に守ってもらえるもんな」
「あら藍、また橙に貸しができたわねえ」
「ち、違いますよぉ紫様!」
行灯に照らされて三つの影が揺れる。
それはとても化け物の影には見えなかった。
青空が境界の向こうまで続く空の下、
「おはよう鳥さん」
という声がするのが日常となっていたが、その日は違った。
まず最初にキャーという悲鳴が聞こえて、それからヒヨドリのけたたましい鳴き声がひっきりなしに続いた。
紫が慌てて見に行くと、巣は木から落ち、橙が木に登って獣の目をギラつかせていた。
(ああなんてこと、やっぱり獣は獣なの?)
紫は呆然とその光景を眺める。
昨日の夜笑っていたあの子はどこへと、なんとも言いがたい無念さと悔しさが込み上げてきた。
橙は紫と目が合うとはっとしたように木から下りて紫の前に立ちすくみ、俯いたまま声をあげた。
「紫様・・・!」
「橙・・・、・・・!」
紫は橙が手に持っている物を見て息を呑んだ。
橙はその獣の目に涙をいっぱい溜めて紫を見上げる。
橙は蛇を持っていた。
アオダイショウ、鳥を狙って食べる奴だ。
そいつは橙がいつものように巣を見に行くとすでに巣の上でトグロを巻いており、
それを見た橙は悲鳴をあげ、我を忘れて蛇に襲いかかった。
紫と目が合わなければ橙は蛇を殺していただろう。
蛇は所々橙に引っかかれた所から血を流し、そしてその腹はぽっこり三つに膨れている。
橙が震えながらそっと蛇を離すと蛇は慌てたように茂みに消えていった。
「・・・橙・・・」
紫は橙の体を抱きしめる。
堪えていたものが込み上げてきて橙の頬を流れた。
「紫様・・・!私がいけないんです、私が・・・!」
「どうして!あなた、鳥を守ろうとしたじゃない!」
「違うんです!蛇の奴がここに巣があるって気づいたのは・・・きっとあの時・・・!」
「あの時・・・?」
「私が驚かせたから・・・!」
紫ははっと小さく息を呑み、橙の肩を強く抱いた。
「そんな事ないわよ、偶然よ」
「でも・・・」
親鳥は木の上から落ちた巣をじっと見ていた。
橙は自分が風除けを作った時にヒヨドリが大きな声で鳴き、その声で蛇が気付いてしまったのだと思ったのだ。
その憶測が正しいのか間違っているのかは蛇にしかわからない。
しかし橙はもう帰って来ない鳥を思って泣き続けた。
紫から話を聞いた藍は昨日楽しく囲んでいた机に顔を伏している橙の背中を見て胸が締め付けられた。
「蛇は逃がしたんですか」
「そうなのよ」
紫は体を半分隙間に入れ、顔を半分扇子で隠している。
「慰めてやって、私よりもあなたの方が適任だから」
「そうとも限らないと思いますが」
「いいから」
とうとう橙を指す指先以外隙間に隠れてしまった主人に藍は隠れて小さくため息をついた。
藍はそっと橙の右隣に座り背中を撫でる。
「藍様・・・」
橙は顔を上げ、慌ててに涙をぬぐった。
「えへへ、藍様・・・私鳥に酷い事しちゃって・・・」
赤くなった鼻を擦りながら無理して笑顔を作る橙は震える声で話を続けた。
「私・・・いい事したような気になって浮かれて・・・鳥の気持ちなんて全然考えてなくって・・・」
潤んだ瞳からこぼれる涙を頬がつたう前にぬぐう。
その小さな手をどけて藍の一回り大きな手で涙を拭いた。
「お前が悪いんじゃないって、鳥もわかってるよ」
「・・・・・・」
橙が黙って唇を噛むのを見て、藍はその橙の顔を覗きながら前髪を撫でる。
「それにしても驚いたなあ、お前は猫なのに、そんなに鳥を大事にするなんて」
「・・・そんなに変ですか・・・?」
「うんまあ、紫様も驚いてたけどさ、猫の頃のお前はよくスズメなんかを獲ってきたりしてたんだぞ」
「・・・蛇と一緒ですね・・・」
「今のお前は違うだろう?」
「・・・・・・」
「私だって好物の油揚げが目の前にあったら飛びついてしまうかもしれないのに・・・橙は本当にすごいな」
橙は潤んだ目を閉じて少しだけ微笑んだ。
「蛇を逃がしたのも可哀想だって思ったからだろ」
「・・・だって蛇は悪くないじゃないですか・・・」
「・・・そうだな、でもお前も悪くないんだぞ、悪くないんだ」
「・・・・・・」
橙はまだ何か言いたそうに口を開いたがすぐにまた閉じて涙を拭く。
「ま、また来てくれたら・・・今度はちゃんと守ってあげられるように頑張ります」
かすれた声だが前向きな発言に藍もほっとした。
「そうだ、お前ならできるぞ」
「はいっ・・・!ありがとう藍様・・・それに紫様・・・!」
その言葉を不思議に思った藍は橙の見つめる方向に振り返る。
壁に小さな隙間が開いているのを見て藍は呆れながらもどこか安心したように笑った。
地面に落ち空になった巣を元の場所に戻した橙はしばらくそれを眺め、やがて自分の家に戻っていった。
「何か言いたいならご自分で言ったらどうです?」
マヨヒガの屋根に座って欠けた月を見上げる紫を見つけた藍は呆れたように言い放つ。
「ふふ、言いたいことはみんな藍が言ってくれました」
「・・・そうですか?」
「そうです」
まだ少し肌寒い風が吹きぬける。
昨日までそこにいたヒヨドリ達はもういない。
「私が橙だったらあの蛇を殺していたかもね」
「そりゃあ紫様なら・・・」
「こら、フォローなさい」
「はいはい・・・もしも私達が殺されようもんなら紫様が仇討ちしてくれるのを期待してますよ」
「あら、それはちょっと今回の事例とは違うんじゃないの?」
「してくれないんですか?」
「ご想像にお任せするわ」
「なんですかそれ・・・」
紫はふっと笑うと隙間を作って橙の部屋を覗いた。
背中を丸めて眠る橙に獣の面影と少女の面影を感じ、どこか安心したように頬杖をつく。
「何ニヤニヤしてるんです、気持ち悪いですよ」
「あんたはいつもこんな顔してるわよ」
隙間を閉じた紫は藍を見つめながら橙に向けた笑顔と同じように微笑んだ。
自分が橙の立場だったら本当に蛇を殺してましたね。
橙はとても優しい子ですね。
紫さまがすごく素敵な役を演じていたと思います。
こんな優しくて気のまわる主なら、橙が懐くのも頷けます。
子供の頃育てていたアゲハ蝶を思い出しました。
生き物を育てるって自分を育てることでもあるのでしょうね。
橙の成長と暖かい八雲一家に乾杯。