人が神や霊を信じ、京の都にも魑魅魍魎が跋扈していた時代のこと。あるところに、一つの寺が建っていた。山の中腹辺りにぽつんとあるそこは、桜の美しさで有名だった。ちょうど今頃、如月の半ばともなると庭に植えられた何十本もの桜の木々が枝に花を一杯に咲かす。都からは少し遠いのだが、風流を好む人々は毎年この地に足を運んでいる。
その花の美しさは夜になっても変わることはない。春にしては冷え、人がいれば体を震わすような闇の中でも薄く色づく花びらは、雲間から覗く月明かりを受けて怪しい光を灯している。
と、庭の真ん中の何もない空間にぽっかりと穴が出来た。穴の中には幾つもの目が浮かび、妖しげな異彩を放っている。
彼女はその穴の境目を跨ぐようにして現れた。山寺の庭に立った彼女は、その場の雰囲気に全くと言っていいほどそぐわなかった。大陸風の紫衣装に金色の毛髪。何よりもその瞳は怪しく光り、視点はしっかりしているのに何を見ているのかがまるで分らないのだ。
それもそのはず。彼女――八雲紫は人ではなく妖怪なのだから。
紫は扇を手元にやってあちらこちらの木々に目をやる。
普通だ。何の変哲もない桜がただ突っ立っているだけでつまらない昨日のあの匂いはどこから来たのだろう。あの濃い死の匂いは。
重い税にあえぎ、病と飢えに怯える民草で埋め尽くされたこの時代で、人が死ぬなんてことはそう珍しくない。けれど、あの匂いは違う。冥界の死霊たちが放つ、あの冷たい感じにそっくりだった。妖怪の彼女は惑わされるはずもないが、その珍しさにちょっとお誘いを受けることにした。
紫はきょろきょろしながら、歩を進める。桜の下は歩くに限る。飛んでいるのは花びらだけで十分なのだから。
植えられているのはほとんどが桜のようで、視界が華やかだ。ここの連中はよっぽど桜が好きなのだろう。
そうしてしばらく歩いていると、一番奥まで来たのだろうか、一際枝を大きく広げている木が立っていた。やっぱり山桜なのだが、他とは雰囲気が違う。
一目見て紫は驚いた。その木はただの木ではなく、自分と同じ妖怪であったのだ。きちんとした自我は持っていないものの、蓄えられた妖力はなかなかの物だ。
あの匂いを放っていたのはこの木だろうか?
幹に手を触れようと足を踏み出した時だった。
「どちら様、かしら?」
唐突に紫が問う。
後ろで茂みが揺れて、隠れていた何かが出てくる。この場所、妖怪桜が見える場所に来てから常に視線を感じていた。相手は隠れているつもりだったようだが、紫には簡単に分かった。
紫は振り返り、かくれんぼの相手を見た。
それは人間、しかもまだ小さな少女だった。十に届いたばかりだろうか、真っ黒なくせっ毛が幼さを匂わせている。
おや、と紫は眉を潜めた。てっきりもう何人かいると思ったのに、現れたのは彼女だけだった。
「こんにちは、お花見にはとっても良い夜ね」
にこやかな紫の声に、少女は肩を強張らせたものの、口を開いた。
「ここで何をしているの」
初めて聞いた声には棘がこれでもかと盛り込まれていた。
「見て分からないかしら? 夜桜を楽しんでいたのよ」
「人様の土地に入り込んでまで?」
「今夜は月明かりが乏しくてね、人が定めた領域なんてうっかり見えなくなっちゃうのよ」
会話をやり取りしながら、紫は笑みを零した。おもしろいことに、彼女は紫を警戒こそしているようだが、怖がってはいないのだ。夜更けの庭先に突如現れた相手を物の怪だと疑いもしないのだろうか。
そうだ、攫ってみよう。ふと、妖怪らしく恐ろしい思い付きがまるでかわいらしい悪戯のようにして生まれてしまった。
夜の私を怖がらない彼女だ。拐して、他の妖怪と遊ばすのは楽しいに違いない。心の中でくつくつと笑いながら、問いを投げた。
「どう、あなたも一緒に桜を愛でない?」
ちょいちょい、と二本の指で手招きする。声は迷い込んだ仔猫に対するように優しく、思わずそばに寄りたくなるような響きであった。
だが、彼女は全く動かなかった。
「その桜」
代わりに言葉を紡いだ。
「その桜……どう見える?」
桜、この妖怪桜だろうか。なぜそんな質問を? とは思うが、少し思案の後答えた。
「そうね、私は今まであんな桜は見たことがないわ。枝は何かを呼び寄せるように伸び、花は月明かりを栄養のように取りこんで……ふふっ、まるで妖みたいね。
だからかしら、ついつい見つめていたくなってしまう。ええ、こんなに魅力的な桜は他にないわ」
扇が音を立てて閉じる。
その答えに何を思ったのか、少女は何も言わずに紫の方へ急いで歩み寄ってくる。そして脇に立つと、紫の服の袖を強く引いた。
「あなたも誘われるの? 妖怪さん」
またひとつ驚いた。彼女は私が妖怪だと気づき、そのうえで近づけたのか。
「……どうして私が妖怪だと?」
「だって、人間は何もないところから出てこないわ」
一体、今日は何回驚けばいいのか。思わずため息が漏れる。
紫がこの寺に着いたとき、周りに人の気配は感じなかった。あの少女が現れたのも妖怪桜の前に来てからだ。
「ねぇ、どうなの? 人ならざる物であるあなたでもあの桜はそんなに惹かれてしまうものなの?」
袖を掴む手にはさらに力がこめられる。
紫はやんわりとその手を取り、問いかけた。
「人をいきなり妖怪だなんて穏やかじゃないわね。あなたは見てもいないことが分かるとでもいうの?」
答える少女はぷぅ、と頬を膨らませる。
「あら、わたしはあなたが急に現れたところを見たという話を聴いただけよ」
「聴いた? 誰にかしら?」
それまで流暢に話していた少女は、急に口を噤んだ。顔を伏せているせいで、表情が読み取れない。
「あなたはわたしを怖がらない?」
言葉にも勢いがない。
「あなたから見れば私は妖怪なのでしょう? だったら、夜に怖れるものなど何もないわ」
「そう……それじゃあ」
少女は掴まれた手を振り解いて、桜の木の下へと駆けた。月が雲に隠れてしまったらしく、振り向いた彼女の顔には影が差してしまっている。と、思っていたら彼女の肩口に青白い炎が浮かび上がった。人魂はゆっくりと旋回して少女の頭の丸い輪郭をはっきりと映した。
幽霊。なるほど、寺ということで大して気にしていなかったから認識しづらかったのも納得だ。あれが彼女に教えたのだろうか。だとしたら、あの子にはわずかばかりでも霊感が備わっているのかもしれない。
紫が考え事をする時のいつもの癖から扇で口元を隠そうとした時、下ろした腕をおぞましいほどの寒気が襲った。腕を人魂が通過したのだ。人魂は紫の腕をあとに、少女の元へと向かった。向かったのは一つだけではなく、二つ、三つ……十を超すほどの数の人魂が彼女の周りを漂った。
人魂達はそれぞれ勝手に浮いたり沈んだりしていたが、少女が手をかざすとぴったりとその動きを止めた。そして、その手が緩やかに空を撫でると、人魂達も合わせて動き出した。少女は軽やかな舞いを始め、幽霊達もまた続いた。更に風も吹き始め、桜が枝を揺らして柔らかな音で舞いに彩りを与える。
紫はただ茫然と目の前の光景に心奪われていた。幽霊と戯れる姿はこの世の物とも思えず、生命などどこかに忘れてしまったかのような美しさであった。
“死霊を操る程度の能力”
不意にこんな言葉が浮かんだ。と同時にすべてのことに合点がいった。この寺に来てからの多数の気配。紫の正体に気付いたこと。そして、どうしてあんなことを訊いたのか――
「ねぇ、妖怪さん」
はっ、と我に返ると、目の前には自分を見上げる少女の顔があった。丸い瞳には人懐っこそうで、でもどこか悲しげな輝きがこもっていた。
「やっぱり……わたしが怖い?」
尋ねる彼女の笑みにはこぼれそうなぐらい、寂しさが溢れている。
紫はほとんど何も考えず、手を伸ばし、少女の頬を撫でた。初めて触れた彼女の肌は、柔らかくて、とても温かかった。
その花の美しさは夜になっても変わることはない。春にしては冷え、人がいれば体を震わすような闇の中でも薄く色づく花びらは、雲間から覗く月明かりを受けて怪しい光を灯している。
と、庭の真ん中の何もない空間にぽっかりと穴が出来た。穴の中には幾つもの目が浮かび、妖しげな異彩を放っている。
彼女はその穴の境目を跨ぐようにして現れた。山寺の庭に立った彼女は、その場の雰囲気に全くと言っていいほどそぐわなかった。大陸風の紫衣装に金色の毛髪。何よりもその瞳は怪しく光り、視点はしっかりしているのに何を見ているのかがまるで分らないのだ。
それもそのはず。彼女――八雲紫は人ではなく妖怪なのだから。
紫は扇を手元にやってあちらこちらの木々に目をやる。
普通だ。何の変哲もない桜がただ突っ立っているだけでつまらない昨日のあの匂いはどこから来たのだろう。あの濃い死の匂いは。
重い税にあえぎ、病と飢えに怯える民草で埋め尽くされたこの時代で、人が死ぬなんてことはそう珍しくない。けれど、あの匂いは違う。冥界の死霊たちが放つ、あの冷たい感じにそっくりだった。妖怪の彼女は惑わされるはずもないが、その珍しさにちょっとお誘いを受けることにした。
紫はきょろきょろしながら、歩を進める。桜の下は歩くに限る。飛んでいるのは花びらだけで十分なのだから。
植えられているのはほとんどが桜のようで、視界が華やかだ。ここの連中はよっぽど桜が好きなのだろう。
そうしてしばらく歩いていると、一番奥まで来たのだろうか、一際枝を大きく広げている木が立っていた。やっぱり山桜なのだが、他とは雰囲気が違う。
一目見て紫は驚いた。その木はただの木ではなく、自分と同じ妖怪であったのだ。きちんとした自我は持っていないものの、蓄えられた妖力はなかなかの物だ。
あの匂いを放っていたのはこの木だろうか?
幹に手を触れようと足を踏み出した時だった。
「どちら様、かしら?」
唐突に紫が問う。
後ろで茂みが揺れて、隠れていた何かが出てくる。この場所、妖怪桜が見える場所に来てから常に視線を感じていた。相手は隠れているつもりだったようだが、紫には簡単に分かった。
紫は振り返り、かくれんぼの相手を見た。
それは人間、しかもまだ小さな少女だった。十に届いたばかりだろうか、真っ黒なくせっ毛が幼さを匂わせている。
おや、と紫は眉を潜めた。てっきりもう何人かいると思ったのに、現れたのは彼女だけだった。
「こんにちは、お花見にはとっても良い夜ね」
にこやかな紫の声に、少女は肩を強張らせたものの、口を開いた。
「ここで何をしているの」
初めて聞いた声には棘がこれでもかと盛り込まれていた。
「見て分からないかしら? 夜桜を楽しんでいたのよ」
「人様の土地に入り込んでまで?」
「今夜は月明かりが乏しくてね、人が定めた領域なんてうっかり見えなくなっちゃうのよ」
会話をやり取りしながら、紫は笑みを零した。おもしろいことに、彼女は紫を警戒こそしているようだが、怖がってはいないのだ。夜更けの庭先に突如現れた相手を物の怪だと疑いもしないのだろうか。
そうだ、攫ってみよう。ふと、妖怪らしく恐ろしい思い付きがまるでかわいらしい悪戯のようにして生まれてしまった。
夜の私を怖がらない彼女だ。拐して、他の妖怪と遊ばすのは楽しいに違いない。心の中でくつくつと笑いながら、問いを投げた。
「どう、あなたも一緒に桜を愛でない?」
ちょいちょい、と二本の指で手招きする。声は迷い込んだ仔猫に対するように優しく、思わずそばに寄りたくなるような響きであった。
だが、彼女は全く動かなかった。
「その桜」
代わりに言葉を紡いだ。
「その桜……どう見える?」
桜、この妖怪桜だろうか。なぜそんな質問を? とは思うが、少し思案の後答えた。
「そうね、私は今まであんな桜は見たことがないわ。枝は何かを呼び寄せるように伸び、花は月明かりを栄養のように取りこんで……ふふっ、まるで妖みたいね。
だからかしら、ついつい見つめていたくなってしまう。ええ、こんなに魅力的な桜は他にないわ」
扇が音を立てて閉じる。
その答えに何を思ったのか、少女は何も言わずに紫の方へ急いで歩み寄ってくる。そして脇に立つと、紫の服の袖を強く引いた。
「あなたも誘われるの? 妖怪さん」
またひとつ驚いた。彼女は私が妖怪だと気づき、そのうえで近づけたのか。
「……どうして私が妖怪だと?」
「だって、人間は何もないところから出てこないわ」
一体、今日は何回驚けばいいのか。思わずため息が漏れる。
紫がこの寺に着いたとき、周りに人の気配は感じなかった。あの少女が現れたのも妖怪桜の前に来てからだ。
「ねぇ、どうなの? 人ならざる物であるあなたでもあの桜はそんなに惹かれてしまうものなの?」
袖を掴む手にはさらに力がこめられる。
紫はやんわりとその手を取り、問いかけた。
「人をいきなり妖怪だなんて穏やかじゃないわね。あなたは見てもいないことが分かるとでもいうの?」
答える少女はぷぅ、と頬を膨らませる。
「あら、わたしはあなたが急に現れたところを見たという話を聴いただけよ」
「聴いた? 誰にかしら?」
それまで流暢に話していた少女は、急に口を噤んだ。顔を伏せているせいで、表情が読み取れない。
「あなたはわたしを怖がらない?」
言葉にも勢いがない。
「あなたから見れば私は妖怪なのでしょう? だったら、夜に怖れるものなど何もないわ」
「そう……それじゃあ」
少女は掴まれた手を振り解いて、桜の木の下へと駆けた。月が雲に隠れてしまったらしく、振り向いた彼女の顔には影が差してしまっている。と、思っていたら彼女の肩口に青白い炎が浮かび上がった。人魂はゆっくりと旋回して少女の頭の丸い輪郭をはっきりと映した。
幽霊。なるほど、寺ということで大して気にしていなかったから認識しづらかったのも納得だ。あれが彼女に教えたのだろうか。だとしたら、あの子にはわずかばかりでも霊感が備わっているのかもしれない。
紫が考え事をする時のいつもの癖から扇で口元を隠そうとした時、下ろした腕をおぞましいほどの寒気が襲った。腕を人魂が通過したのだ。人魂は紫の腕をあとに、少女の元へと向かった。向かったのは一つだけではなく、二つ、三つ……十を超すほどの数の人魂が彼女の周りを漂った。
人魂達はそれぞれ勝手に浮いたり沈んだりしていたが、少女が手をかざすとぴったりとその動きを止めた。そして、その手が緩やかに空を撫でると、人魂達も合わせて動き出した。少女は軽やかな舞いを始め、幽霊達もまた続いた。更に風も吹き始め、桜が枝を揺らして柔らかな音で舞いに彩りを与える。
紫はただ茫然と目の前の光景に心奪われていた。幽霊と戯れる姿はこの世の物とも思えず、生命などどこかに忘れてしまったかのような美しさであった。
“死霊を操る程度の能力”
不意にこんな言葉が浮かんだ。と同時にすべてのことに合点がいった。この寺に来てからの多数の気配。紫の正体に気付いたこと。そして、どうしてあんなことを訊いたのか――
「ねぇ、妖怪さん」
はっ、と我に返ると、目の前には自分を見上げる少女の顔があった。丸い瞳には人懐っこそうで、でもどこか悲しげな輝きがこもっていた。
「やっぱり……わたしが怖い?」
尋ねる彼女の笑みにはこぼれそうなぐらい、寂しさが溢れている。
紫はほとんど何も考えず、手を伸ばし、少女の頬を撫でた。初めて触れた彼女の肌は、柔らかくて、とても温かかった。