――衣玖、衣玖。
雲の中で浅い眠りについていると、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
実を言うともう少し目を閉じていたかったが、相手を待たせる訳にもいかない。
私は‘空気を読む程度の能力‘の保持者で、彼女もそれを十分に理解しているからだ。
呼んでいるのは、‘竜宮の使い‘の仲間のヒトリだった。
「……どうしました、亜玖」
横になっていたために多少乱れた着衣を正し、トレードマークの帽子を被って顔を出す。
すぐに応えることを予想していたのだろう、仲間は、涼しげな笑みを浮かべていた。
その割に、両腕を後ろに回している不自然な体勢で、少しの違和感を覚える。
何か持っているのだろうか。
「おはよう、衣玖。あら」
「ええ、おはようございます……?」
「何方様かとのイメージトレーニングも程々に」
イメージトレーニングとはつまり想像の上での訓練であり、更に言うならばこの場合、自家発……。
「‘雷符‘ライトニング――」
知人ならともかく、仲間に遠慮をする必要はない。
だが、宣言するよりも先、人差し指を両手で包まれた。
代わりとばかりに胡乱気な視線を向ける。
彼女の表情は変わらなかった。
「……何か用があったのでは?」
手をやんわりと振りほどき、再び来訪の理由を尋ねる。
「そうなのですが……衣玖、貴女が昼寝とは珍しい。寝不足ですか?」
しかし、問いは問いで返された。
「ええ、まぁ、どうにも近頃寝つきが悪くて」
「なるほど、致していたのですね」
「その話はもういいです」
嫌いではないのだが。閑話休題。
一瞬残念そうな顔をした彼女だったが、またすぐに変わる。
先ほどのような笑みではなく、眉根を寄せ目を細めた。
所謂、『困った』顔だ。
何故だろう、私には、作った表情に思えた。
「小玖絡みの話です」
「あぁ、また彼女が何か」
「それはもう酷い悪戯を。こってり絞りましたわ」
小玖は、仲間のヒトリで最年少の者だ。
‘竜宮の使い‘にしては悪戯好きでやんちゃな性格をしている。
とは言え、あの方のように広範囲で洒落にならない悪戯ではないのだが……。
「はぁ、それは災難でしたね。ですが、その、私に何か関係が?」
亜玖が『こってり』と強調して叱ったのなら、私が出る幕はないように思う。
彼女は仲間内で最年長であり、主にまとめ役だ。
怒ると怖い。それはもう、怖い。
こほん――と空咳が打たれる。
此方の思考を読んだかのようなタイミングに微苦笑し、私は話の続きを促した。
「あるんですよ。衣玖、貴女はさっき、寝不足と言いましたね」
「夜な夜な私は自身の指を火照った部位に」
「頬でしょう?」
ノったらずばりと言い当てられた。あ、あれ?
「ともかく、話を戻しますね」
ぽかんとする私に微笑を浮かべ、彼女は『理由』を語りだす。
「こう言ってはなんですが、寝不足とは渡りに船です。
と言いますのも、小玖が悪戯したのは私の寝具なんですね。
眠りの浅い日が続いているのなら、別の物を使って見るのもいいのではないでしょうか」
なるほど、一理ある。
頷きかけた私はしかし、一つの事実と一つの情報を思い出した。
「亜玖、二つほど質問が。
寝不足だと知る前から、私に譲るつもりだったと?
もう一つ、悪戯されて使えなくなった物を譲ると言うのは、失礼だと思いませんか?」
敵意がないのに言葉が強くなってしまったのは、概ね、相手の方が上手だからである。
そして――『答えはここにある』――さもそんな風に、彼女は両手を前に持ってきた。
「これは……」
差し出された物は、確かに寝具だった。
白みの強い肌色で大きさは小児ほど、所謂、抱き枕だ。
修繕したのか、一見悪戯された形跡は見当たらない。
『使えなくなった』と言う感想は、どうやら早合点だったようだ。
だが、ならば他者に譲る、それも私限定と言うのはおかしな話じゃないだろうか。
再び視線を戻すと、相変わらず、彼女は愉快気な微笑を浮かべている。
「小玖は、これにジュースを零したのです。
洗濯して色は落ちましたが、匂いが残ってしまいました。
私には少しきつく感じられますが、衣玖、貴女なら気にならないのではなくて?」
言って、嗅ぐように仕草しつつ、彼女が枕を手渡してきた。
「新品だったんですよ? それをもう、あの子ったら……」
くん、と鼻を鳴らす。
吸い込んだのは、甘い匂い。
指摘の通り、私は嗅ぎなれていた。
気付けば遠くなっていた彼女の嘆きを遮って、呟く。
「桃の匂い……ですか」
それは、自信過剰で無鉄砲、空気を読まない寂しがり屋、そして、可愛らしく愛おしい、あの方の香り。
「因みに、衣玖が見ているのは裏です」
抱き枕に裏とかあるのか。
表裏で柔らかさが違ったりするのかもしれない。
感触を確かめていると、彼女が手を伸ばし、ひっくり返した。
天子様が、そこにいた。
「――な!?」
「これも、あの子の悪戯です」
「なるほど、お手製の抱き枕と言う訳ですね」
……。
「天子様を寸胴と仰られますか!?
確かにお胸はございませんが、成長過程であり期待大!
腰のラインにくびれがないのは許し難く、何よりも、おみ足にメリハリがないじゃないですか!?」
あぁだけど幼児体型の天子様も愛らしい……!
「お顔のプリントだけですよ」
「幻視余裕でした」
「衣玖?」
突然の対面に、私は動揺しているようだ。
息を大きく吸い、吐く。
よくよく見れば彼女の言う通りで、写真の拡大コピーが張り付けられているだけだった。
とは言え、コピーは加工したのか滑らかで、縫いつけた糸も周りの生地と違和感がない。
悪戯にしては手の込んだものだと感心するが、今、口にしなくてはいけないのは叱咤の言葉だ。
「小玖、貴女こそはマエストロ」
「感心しないでください」
「上の口も正直です」
なんだか素敵に絶好調なワタクシ。
はふと小さな溜息が吐かれる。
続いて、ぱちんとウィンク一つ。
結論を出せ――彼女の瞳が、そう言った。
息を吸って吐いて……吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、吸ってぇ吐いてぇ――応える。
「亜玖、譲り受けますわ」
「そうして頂けると有り難い」
「ええ、捨ててしまうのも勿体ないですし」
空気の入れ替えをした私に、動揺と言う言葉は無縁だった。
枕を左腕で抱き、右手を挙げ、仲間に一時の別れを示す。
「では……今日の所は失礼します。
気持ちを静めると眠気が戻ってきてしまいました。
これから総領娘様と初夜を過ごし、アニバーサリーターイっ!!」
密着すると芳しい桃の香りが鼻を覆い、もう、私はもぅ……!
「最後の最後で崩れないでくださいな。――良き眠りを、衣玖」
文字通り跳ねる私に、彼女の呟きは届かなかった――。
さて、就寝の時間だ。
羽衣を雲の上に敷き、シーツの代わりとする。
傍らに膝をつき、枕をその更に上へと横たわらせた。
先ほどははしゃいでしまったが、なんてことはない、これは枕だ。
ただ『抱き枕』と言うだけあって通常の物よりは大きく、初めて使うことに高揚を感じなくもない。
自己分析、以上。
そして、私は、枕に覆い被さるように身を横たえようとしたら、天子様と目があった。
この表情には覚えがある。
博麗神社落成式の際に、天狗が撮ったものだ。
数秒後に再び崩れる神社を後ろに、天子様は笑みを浮かべていた。
自信に満ち何処か誇らしく、けれど幼さを残す、極上の微笑。
ごくん。
唾を飲み込んだ自身に気付く。
その意味を深く考えないよう意識しつつ、私は、呟いた。
「天子様、失礼します」
――明けて、翌朝。
天界の端、何時もの場所で、私は立ち、天子様は座っている。
「えーと、暇つぶしに呼んでみたんだけど……」
私たちは向き合っていた。
天子様の『呼び方』は少し特殊だ。
此方を確認するのではなく、御自身を確認させる。
どういうことかと言うと、‘大地を操る程度の能力‘を僅かに放つのだ。
お父上の比那名居様から‘目付役‘を頼まれている私は、悪戯をしないよう注意しに出向かなくてはならない……と言う訳だ。
「あのね、衣玖」
「総領娘様、その前に」
「あぁ、おはよう。それでね、ばいばい」
そんな御無体な。
珍しく感情が顔に出たのだろう、抑えるように天子様が両手を此方に向けてくる。
「衣玖、怖い」
「私は貴女の可愛らしさが怖い」
「あ、ありがとう……? じゃなくて――」
一旦言葉を切り、天子様は、両の人差し指を私の眦にあてがい、続けた。
「目が真っ赤よ」
「お言葉ですが、元からです」
「表現を変えるわ。なんか血走ってる」
だって寝てませんもの。
そう……結局、私は昨夜、眠れなかったのだ。
横になろうとすれば天子様と向き合う形で、心が爆ぜた。
ならばと座り瞳を閉じれば傍にいる笑顔の天子様が脳裏に浮かび、落ち着けるかこんちくしょう。
人に言えば『枕どければ?』と諭されそうだが、できるわきゃねぇだろぉ!?
とまぁ、そのような経緯があり、今の私は不思議なテンションに至っている訳で、あれ、普段言えないことをさらっと言わなかったか?
「なに、寝てないの?」
発言を思い出している間に、指は既に離されていた。あぁんっ。
「……答えなさい、衣玖」
鋭い言葉が投げかけられた。
嘘を吐くべきか。
それとも、はぐらかすべきか。
浮かんだ思考にひそりと微苦笑する。
偽りのない労わりの視線を‘読めない‘ほど、幼くはない。
「ご推察の通りです、総領娘様。
昨夜は興奮の余り一睡もできず、その前日も体が火照り碌に寝ておりません。
されども私は妖しく怪しきモノであり、数日の不眠など、どうと言うこともございませんわ」
言葉に、胡乱気な表情となる天子様。
幼くはない私だが、それ故に、臆病でもある。
本心を口にする勇気などあるはずもなく、ただ、瞳に想いを込めた。
『寝ていないのは確かですが、問題はありません。――ですから、傍に居させてください』
一つ頷き、天子様が口を開く。
「寝てないのは確かだけど、問題はない……って解釈でいいのかしら」
「壊れるほどチョメチョメしても三分の二しか伝わらない」
「いや、壊さないでよ……ん」
テンションが高い現状でも、二文字を四文字に変えてしまうワタクシ。
少女を拗らせた者の末路などこんなもの、傷つくのを恐れている。
何故だろう、この点だけは、天子様に同様の匂いを感じた。
天子様の心は少女と言うには幼く、では、幼女を拗らせるとどうなる……?
深く沈みかけた思考はしかし、唐突に耳を打った天上の音色により放り出される。
「ふぁぅ……」
口を抑え、天子様が欠伸した。
「私どうこうより、総領娘様も寝不足なのでは?」
「んぅ……違うわよ。貴女のがうつっただけ」
「せめて経口でうつしたかった……!」
せめての前は言えません。淑女ですから。ねちょねちょ。
――恐らく、言葉通りなのだろう。
天子様にはその類の傾向が見受けられなかった。
だけれど、だからと言って見過ごすべきものでもない。
睡眠不足以外の理由で出る欠伸はどう言った兆候を示すのか。
退屈と感じている時、もしくはその逆で、極度の緊張状態の時にも発生する。
前者は、私が来た時点で解消していると思う。思いたい。
そして、先の異変時ならともかく、後者に関しては論じる必要もない。
となれば……。
「生欠伸かもしれませんわ」
伝えた推測に、天子様が小さく肩を竦める――『かもね』。
私は、膝を曲げ、視線を合わし、続けた。
「軽く流すことではありません。
生欠伸は、継続的なストレスや体調不良の表れとも考えられます。
ただでさえ今は季節の移り変わり時、気付かぬうちに心身とも疲れているのではないでしょうか」
返答は半眼で返される。あれ?
「目を腫らしている貴女に言われたくはない」
あ、はい。
指摘は的確で、ぐうの音も出ない。
辛うじて浮かべることができたのは、微笑みだった。
素直な表情を曝け出す天子様とは違う、誤魔化すための作った顔。
とは言え、並大抵の者ならばこれで十分にかわせるのだが……。
「私は、体調管理くらい自分で出来るわ」
やはり、天子様には通じないようだ。
「だから、そう言う子供扱いは止めて頂戴。
そもそも貴女は、目付であって子守じゃない。
お父様やお母様みたいに、いちいち心配するのは……ん」
不機嫌な様を隠そうともしない天子様。
しかし、言葉が中途半端に止まり、口に手を当てられた。
先と同様の仕草であり欠伸が出る前兆と考えられ、完全なる静寂よ今ここに訪れよ!
次の瞬間、両の拳を強く握る私の視界に移ったのは、予想外にも表情を一転させ、にまりと笑む天子様だった。
「現状で心配されるべきなのは貴女の方よね――んふふ」
笑みと言葉の意味を問うよりも早く、世界が暗転する。
同時に耳朶を打ったのは、柔らかい音色。
‘ぽふ‘。
時間の流れが止まったかのように感じた。
混乱する。
何がどうなったのだろう。
いや、私は状況を理解していた。
触角と聴覚、何れよりも、嗅覚が否応なしに教えてくれる。
「体調管理の出来ない寝不足の衣玖ちゃん、母様のお膝で眠りましょうねー」
遅れて鼻を覆ったのは、自信過剰で無鉄砲、空気を読まない寂しがり屋、そして、可愛らしく愛おしい、天子様の香りだった。
「天子ママ、衣玖、おっぱいミルクが飲みたい」
「えーと、母乳? いやごめん、出ない」
「ですよね」
人間、極度の混乱状態に陥ると何を言い出すか解ったものじゃない。いや、私は人間じゃないけど。
……。
「死にたい……いっそ殺して……天子様に殺されたい……」
「あー、うん、順応早いなぁってむしろ感心した」
「ありがとうございます」
何時もはやきもきする天子様の幼さに、今日ほど感謝したことはない。
ばくんばくんと音が鳴る。
触れる大地に伝わらないことを、ただ祈った。
願わくば、もう少しだけ、この夢のような時間が続いて欲しい。
「当てが外れたのは悔しいけれど、ま、偶には労わってあげるわよ」
ふと、頭が微かに軽くなる。
天子様が帽子を取られたようだ。
代わりとばかりに、手が髪に置かれる。
さらり、さらり。
「少し寝なさい」
「ですから、その、私は」
「頭上げないし抵抗もしないんじゃ、説得力零だって」
言葉よりも行動が、私の本心を告げているようだ。
「……ですが、貴女の暇は潰れませんよ?」
落ちようとする瞼に抗って、最後に一つ、聞いてみた。
少しの間の後、天子様が応える。
「寝顔に悪戯描きでもしているわ」
「貴女色に染め上げて」
「さっさと寝ろ」
「おやすみなさい、てんしさま」
「ええ、お休み。……ところで貴女、時々、私を名前で――」
お休みの挨拶を交わし、瞼と口を閉じて、私は眠れるように努力した――。
一分か。
はたまた十分か。
それとも一時間後だろうか。
「……応えない、か。ちゃんと寝たようね。よしよし」
言葉から推測するに、大した時間は経っていないようだ。
さて、考えて頂きたい。
私は今、天子様の膝を借りている。
布越しとは言え健康的な肌に触れ、鼻は芳しい桃の香りに包まれていた。
つまりは結局――私、永江衣玖は眠れない。
と言うか、これからは桃の匂いを嗅ぐだけで今日のことを思い出し、私の枕は天子様の香りで、もうずっと寝れないんじゃなかろうか。別にいいや。
<了>
《竜宮の使いの雑談》
「あ、小玖、貴女の名前を借りしました」
「なにしたあんたぁ!?」
「おほほ」
《最年少の彼女の名前は、拙作『どうぞどうぞ』のコメント六番様から頂きました。この場を借りて、礼を申し上げます》
雲の中で浅い眠りについていると、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
実を言うともう少し目を閉じていたかったが、相手を待たせる訳にもいかない。
私は‘空気を読む程度の能力‘の保持者で、彼女もそれを十分に理解しているからだ。
呼んでいるのは、‘竜宮の使い‘の仲間のヒトリだった。
「……どうしました、亜玖」
横になっていたために多少乱れた着衣を正し、トレードマークの帽子を被って顔を出す。
すぐに応えることを予想していたのだろう、仲間は、涼しげな笑みを浮かべていた。
その割に、両腕を後ろに回している不自然な体勢で、少しの違和感を覚える。
何か持っているのだろうか。
「おはよう、衣玖。あら」
「ええ、おはようございます……?」
「何方様かとのイメージトレーニングも程々に」
イメージトレーニングとはつまり想像の上での訓練であり、更に言うならばこの場合、自家発……。
「‘雷符‘ライトニング――」
知人ならともかく、仲間に遠慮をする必要はない。
だが、宣言するよりも先、人差し指を両手で包まれた。
代わりとばかりに胡乱気な視線を向ける。
彼女の表情は変わらなかった。
「……何か用があったのでは?」
手をやんわりと振りほどき、再び来訪の理由を尋ねる。
「そうなのですが……衣玖、貴女が昼寝とは珍しい。寝不足ですか?」
しかし、問いは問いで返された。
「ええ、まぁ、どうにも近頃寝つきが悪くて」
「なるほど、致していたのですね」
「その話はもういいです」
嫌いではないのだが。閑話休題。
一瞬残念そうな顔をした彼女だったが、またすぐに変わる。
先ほどのような笑みではなく、眉根を寄せ目を細めた。
所謂、『困った』顔だ。
何故だろう、私には、作った表情に思えた。
「小玖絡みの話です」
「あぁ、また彼女が何か」
「それはもう酷い悪戯を。こってり絞りましたわ」
小玖は、仲間のヒトリで最年少の者だ。
‘竜宮の使い‘にしては悪戯好きでやんちゃな性格をしている。
とは言え、あの方のように広範囲で洒落にならない悪戯ではないのだが……。
「はぁ、それは災難でしたね。ですが、その、私に何か関係が?」
亜玖が『こってり』と強調して叱ったのなら、私が出る幕はないように思う。
彼女は仲間内で最年長であり、主にまとめ役だ。
怒ると怖い。それはもう、怖い。
こほん――と空咳が打たれる。
此方の思考を読んだかのようなタイミングに微苦笑し、私は話の続きを促した。
「あるんですよ。衣玖、貴女はさっき、寝不足と言いましたね」
「夜な夜な私は自身の指を火照った部位に」
「頬でしょう?」
ノったらずばりと言い当てられた。あ、あれ?
「ともかく、話を戻しますね」
ぽかんとする私に微笑を浮かべ、彼女は『理由』を語りだす。
「こう言ってはなんですが、寝不足とは渡りに船です。
と言いますのも、小玖が悪戯したのは私の寝具なんですね。
眠りの浅い日が続いているのなら、別の物を使って見るのもいいのではないでしょうか」
なるほど、一理ある。
頷きかけた私はしかし、一つの事実と一つの情報を思い出した。
「亜玖、二つほど質問が。
寝不足だと知る前から、私に譲るつもりだったと?
もう一つ、悪戯されて使えなくなった物を譲ると言うのは、失礼だと思いませんか?」
敵意がないのに言葉が強くなってしまったのは、概ね、相手の方が上手だからである。
そして――『答えはここにある』――さもそんな風に、彼女は両手を前に持ってきた。
「これは……」
差し出された物は、確かに寝具だった。
白みの強い肌色で大きさは小児ほど、所謂、抱き枕だ。
修繕したのか、一見悪戯された形跡は見当たらない。
『使えなくなった』と言う感想は、どうやら早合点だったようだ。
だが、ならば他者に譲る、それも私限定と言うのはおかしな話じゃないだろうか。
再び視線を戻すと、相変わらず、彼女は愉快気な微笑を浮かべている。
「小玖は、これにジュースを零したのです。
洗濯して色は落ちましたが、匂いが残ってしまいました。
私には少しきつく感じられますが、衣玖、貴女なら気にならないのではなくて?」
言って、嗅ぐように仕草しつつ、彼女が枕を手渡してきた。
「新品だったんですよ? それをもう、あの子ったら……」
くん、と鼻を鳴らす。
吸い込んだのは、甘い匂い。
指摘の通り、私は嗅ぎなれていた。
気付けば遠くなっていた彼女の嘆きを遮って、呟く。
「桃の匂い……ですか」
それは、自信過剰で無鉄砲、空気を読まない寂しがり屋、そして、可愛らしく愛おしい、あの方の香り。
「因みに、衣玖が見ているのは裏です」
抱き枕に裏とかあるのか。
表裏で柔らかさが違ったりするのかもしれない。
感触を確かめていると、彼女が手を伸ばし、ひっくり返した。
天子様が、そこにいた。
「――な!?」
「これも、あの子の悪戯です」
「なるほど、お手製の抱き枕と言う訳ですね」
……。
「天子様を寸胴と仰られますか!?
確かにお胸はございませんが、成長過程であり期待大!
腰のラインにくびれがないのは許し難く、何よりも、おみ足にメリハリがないじゃないですか!?」
あぁだけど幼児体型の天子様も愛らしい……!
「お顔のプリントだけですよ」
「幻視余裕でした」
「衣玖?」
突然の対面に、私は動揺しているようだ。
息を大きく吸い、吐く。
よくよく見れば彼女の言う通りで、写真の拡大コピーが張り付けられているだけだった。
とは言え、コピーは加工したのか滑らかで、縫いつけた糸も周りの生地と違和感がない。
悪戯にしては手の込んだものだと感心するが、今、口にしなくてはいけないのは叱咤の言葉だ。
「小玖、貴女こそはマエストロ」
「感心しないでください」
「上の口も正直です」
なんだか素敵に絶好調なワタクシ。
はふと小さな溜息が吐かれる。
続いて、ぱちんとウィンク一つ。
結論を出せ――彼女の瞳が、そう言った。
息を吸って吐いて……吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて、吸ってぇ吐いてぇ――応える。
「亜玖、譲り受けますわ」
「そうして頂けると有り難い」
「ええ、捨ててしまうのも勿体ないですし」
空気の入れ替えをした私に、動揺と言う言葉は無縁だった。
枕を左腕で抱き、右手を挙げ、仲間に一時の別れを示す。
「では……今日の所は失礼します。
気持ちを静めると眠気が戻ってきてしまいました。
これから総領娘様と初夜を過ごし、アニバーサリーターイっ!!」
密着すると芳しい桃の香りが鼻を覆い、もう、私はもぅ……!
「最後の最後で崩れないでくださいな。――良き眠りを、衣玖」
文字通り跳ねる私に、彼女の呟きは届かなかった――。
さて、就寝の時間だ。
羽衣を雲の上に敷き、シーツの代わりとする。
傍らに膝をつき、枕をその更に上へと横たわらせた。
先ほどははしゃいでしまったが、なんてことはない、これは枕だ。
ただ『抱き枕』と言うだけあって通常の物よりは大きく、初めて使うことに高揚を感じなくもない。
自己分析、以上。
そして、私は、枕に覆い被さるように身を横たえようとしたら、天子様と目があった。
この表情には覚えがある。
博麗神社落成式の際に、天狗が撮ったものだ。
数秒後に再び崩れる神社を後ろに、天子様は笑みを浮かべていた。
自信に満ち何処か誇らしく、けれど幼さを残す、極上の微笑。
ごくん。
唾を飲み込んだ自身に気付く。
その意味を深く考えないよう意識しつつ、私は、呟いた。
「天子様、失礼します」
――明けて、翌朝。
天界の端、何時もの場所で、私は立ち、天子様は座っている。
「えーと、暇つぶしに呼んでみたんだけど……」
私たちは向き合っていた。
天子様の『呼び方』は少し特殊だ。
此方を確認するのではなく、御自身を確認させる。
どういうことかと言うと、‘大地を操る程度の能力‘を僅かに放つのだ。
お父上の比那名居様から‘目付役‘を頼まれている私は、悪戯をしないよう注意しに出向かなくてはならない……と言う訳だ。
「あのね、衣玖」
「総領娘様、その前に」
「あぁ、おはよう。それでね、ばいばい」
そんな御無体な。
珍しく感情が顔に出たのだろう、抑えるように天子様が両手を此方に向けてくる。
「衣玖、怖い」
「私は貴女の可愛らしさが怖い」
「あ、ありがとう……? じゃなくて――」
一旦言葉を切り、天子様は、両の人差し指を私の眦にあてがい、続けた。
「目が真っ赤よ」
「お言葉ですが、元からです」
「表現を変えるわ。なんか血走ってる」
だって寝てませんもの。
そう……結局、私は昨夜、眠れなかったのだ。
横になろうとすれば天子様と向き合う形で、心が爆ぜた。
ならばと座り瞳を閉じれば傍にいる笑顔の天子様が脳裏に浮かび、落ち着けるかこんちくしょう。
人に言えば『枕どければ?』と諭されそうだが、できるわきゃねぇだろぉ!?
とまぁ、そのような経緯があり、今の私は不思議なテンションに至っている訳で、あれ、普段言えないことをさらっと言わなかったか?
「なに、寝てないの?」
発言を思い出している間に、指は既に離されていた。あぁんっ。
「……答えなさい、衣玖」
鋭い言葉が投げかけられた。
嘘を吐くべきか。
それとも、はぐらかすべきか。
浮かんだ思考にひそりと微苦笑する。
偽りのない労わりの視線を‘読めない‘ほど、幼くはない。
「ご推察の通りです、総領娘様。
昨夜は興奮の余り一睡もできず、その前日も体が火照り碌に寝ておりません。
されども私は妖しく怪しきモノであり、数日の不眠など、どうと言うこともございませんわ」
言葉に、胡乱気な表情となる天子様。
幼くはない私だが、それ故に、臆病でもある。
本心を口にする勇気などあるはずもなく、ただ、瞳に想いを込めた。
『寝ていないのは確かですが、問題はありません。――ですから、傍に居させてください』
一つ頷き、天子様が口を開く。
「寝てないのは確かだけど、問題はない……って解釈でいいのかしら」
「壊れるほどチョメチョメしても三分の二しか伝わらない」
「いや、壊さないでよ……ん」
テンションが高い現状でも、二文字を四文字に変えてしまうワタクシ。
少女を拗らせた者の末路などこんなもの、傷つくのを恐れている。
何故だろう、この点だけは、天子様に同様の匂いを感じた。
天子様の心は少女と言うには幼く、では、幼女を拗らせるとどうなる……?
深く沈みかけた思考はしかし、唐突に耳を打った天上の音色により放り出される。
「ふぁぅ……」
口を抑え、天子様が欠伸した。
「私どうこうより、総領娘様も寝不足なのでは?」
「んぅ……違うわよ。貴女のがうつっただけ」
「せめて経口でうつしたかった……!」
せめての前は言えません。淑女ですから。ねちょねちょ。
――恐らく、言葉通りなのだろう。
天子様にはその類の傾向が見受けられなかった。
だけれど、だからと言って見過ごすべきものでもない。
睡眠不足以外の理由で出る欠伸はどう言った兆候を示すのか。
退屈と感じている時、もしくはその逆で、極度の緊張状態の時にも発生する。
前者は、私が来た時点で解消していると思う。思いたい。
そして、先の異変時ならともかく、後者に関しては論じる必要もない。
となれば……。
「生欠伸かもしれませんわ」
伝えた推測に、天子様が小さく肩を竦める――『かもね』。
私は、膝を曲げ、視線を合わし、続けた。
「軽く流すことではありません。
生欠伸は、継続的なストレスや体調不良の表れとも考えられます。
ただでさえ今は季節の移り変わり時、気付かぬうちに心身とも疲れているのではないでしょうか」
返答は半眼で返される。あれ?
「目を腫らしている貴女に言われたくはない」
あ、はい。
指摘は的確で、ぐうの音も出ない。
辛うじて浮かべることができたのは、微笑みだった。
素直な表情を曝け出す天子様とは違う、誤魔化すための作った顔。
とは言え、並大抵の者ならばこれで十分にかわせるのだが……。
「私は、体調管理くらい自分で出来るわ」
やはり、天子様には通じないようだ。
「だから、そう言う子供扱いは止めて頂戴。
そもそも貴女は、目付であって子守じゃない。
お父様やお母様みたいに、いちいち心配するのは……ん」
不機嫌な様を隠そうともしない天子様。
しかし、言葉が中途半端に止まり、口に手を当てられた。
先と同様の仕草であり欠伸が出る前兆と考えられ、完全なる静寂よ今ここに訪れよ!
次の瞬間、両の拳を強く握る私の視界に移ったのは、予想外にも表情を一転させ、にまりと笑む天子様だった。
「現状で心配されるべきなのは貴女の方よね――んふふ」
笑みと言葉の意味を問うよりも早く、世界が暗転する。
同時に耳朶を打ったのは、柔らかい音色。
‘ぽふ‘。
時間の流れが止まったかのように感じた。
混乱する。
何がどうなったのだろう。
いや、私は状況を理解していた。
触角と聴覚、何れよりも、嗅覚が否応なしに教えてくれる。
「体調管理の出来ない寝不足の衣玖ちゃん、母様のお膝で眠りましょうねー」
遅れて鼻を覆ったのは、自信過剰で無鉄砲、空気を読まない寂しがり屋、そして、可愛らしく愛おしい、天子様の香りだった。
「天子ママ、衣玖、おっぱいミルクが飲みたい」
「えーと、母乳? いやごめん、出ない」
「ですよね」
人間、極度の混乱状態に陥ると何を言い出すか解ったものじゃない。いや、私は人間じゃないけど。
……。
「死にたい……いっそ殺して……天子様に殺されたい……」
「あー、うん、順応早いなぁってむしろ感心した」
「ありがとうございます」
何時もはやきもきする天子様の幼さに、今日ほど感謝したことはない。
ばくんばくんと音が鳴る。
触れる大地に伝わらないことを、ただ祈った。
願わくば、もう少しだけ、この夢のような時間が続いて欲しい。
「当てが外れたのは悔しいけれど、ま、偶には労わってあげるわよ」
ふと、頭が微かに軽くなる。
天子様が帽子を取られたようだ。
代わりとばかりに、手が髪に置かれる。
さらり、さらり。
「少し寝なさい」
「ですから、その、私は」
「頭上げないし抵抗もしないんじゃ、説得力零だって」
言葉よりも行動が、私の本心を告げているようだ。
「……ですが、貴女の暇は潰れませんよ?」
落ちようとする瞼に抗って、最後に一つ、聞いてみた。
少しの間の後、天子様が応える。
「寝顔に悪戯描きでもしているわ」
「貴女色に染め上げて」
「さっさと寝ろ」
「おやすみなさい、てんしさま」
「ええ、お休み。……ところで貴女、時々、私を名前で――」
お休みの挨拶を交わし、瞼と口を閉じて、私は眠れるように努力した――。
一分か。
はたまた十分か。
それとも一時間後だろうか。
「……応えない、か。ちゃんと寝たようね。よしよし」
言葉から推測するに、大した時間は経っていないようだ。
さて、考えて頂きたい。
私は今、天子様の膝を借りている。
布越しとは言え健康的な肌に触れ、鼻は芳しい桃の香りに包まれていた。
つまりは結局――私、永江衣玖は眠れない。
と言うか、これからは桃の匂いを嗅ぐだけで今日のことを思い出し、私の枕は天子様の香りで、もうずっと寝れないんじゃなかろうか。別にいいや。
<了>
《竜宮の使いの雑談》
「あ、小玖、貴女の名前を借りしました」
「なにしたあんたぁ!?」
「おほほ」
《最年少の彼女の名前は、拙作『どうぞどうぞ』のコメント六番様から頂きました。この場を借りて、礼を申し上げます》
とりあえず御大将なにやってるんすか