その日、見覚えのある二股の尾を持つ猫を見かけた。
すらりと俊敏そうな、美人というよりは可愛い顔立ちの黒猫さん。
「こんにちは」
懐かしさに近寄って声をかけたら、彼女は「にゃあ」と瞳を細く、同じく久しぶり! とばかりにぴょんと肩に飛び乗ってきた。
そのまま首の周りをくるくると二回りして、頭の上に昇り、寛ぐようにへばりついてごろごろと喉を鳴らしだす。
僅か五秒にもみたない早業におっとと体勢を直せば、すでに頭の上は普通の猫より体温の高い火車の熱で温かくなっていた。
「相変わらずですね」
少し抜けた毛が頬についたので拭いながら苦笑して、潰れている帽子をその体の下から抜き取った。
「そういえば、お燐さんが人里にいるなんて珍しいですね? 今日はお使いですか?」
尋ねると、彼女、火焔猫燐、通称お燐さんはにゃあと鳴いた。そしてひらり、と紙が落ちてきたので指で挟んで捕まえて、何だろうと広げる。
そこには、花の名前や紅茶にお酒、焼き菓子や果物の名前がずらりと書かれていた。
「あぁ、確かにこれらは地底じゃ手に入りにくいですものね」
彼女が此処にいる理由に納得がいって、そう声をかけたら、返事はごろごろと喉を鳴らすだけだった。。
うん? と思い、ちょっと手でゆさゆさと揺らしてみたら、頭に爪をたててしがみついてきたので慌てて揺らすのをやめた。
「お燐さん?」
「にゃー」
……。
あぁ、はい。
つまり、代わりに買っておけばいいんですね。
甘える様な、それは可愛い鳴き声にくらりと、私は自分でも単純に午後の散歩の予定を切り替えた。
「確かに、人里には不慣れでしょうしね。おすすめのお店を教えますよ」
「にゃー♪」
ゴロゴロ、一際大きく喉を鳴らして、ひょいと小さな頭が垂れてくると、ぞろりと鼻先を舐められた。
調子が良いなぁと、くすぐったさに笑いながらその頭を撫でて、指先をこちょこちょと喉下にもっていくと、その体は心地よさげにくにゃりと力が抜けて、尻尾がぴたぴた交互に後頭部をたたいていく。
可愛いなぁと笑って、近くの露天に煮干が売られているのを見つけて声をかけた。
「お燐さん。煮干売ってますけど買いましょうか?」
「にゃ~ん♪」
嬉しそうに爪をたててカリカリするお燐さんのまるっきり猫な様子に感心するやら呆れるやらついでに痛いやらで。この調子では人型になるつもりはないのだろうなと、煮干を一袋購入し、頭上のお燐さんにひょいと渡す。
早速はぐはぐと食べきって、もっととおねだりする様に指を丹念にぞろぞろ舐められた。
可愛いなぁと、また思った。
うん。
今日の午後は、可憐な火車の彼女のお供をする。それなりに楽しい時間になりそうだと、心持ち足が軽くなった。
それからの事。
いつの間にか人型になったお燐さんに腕を取られ、あれもこれもと恐喝、もとい、おねだりされて、購入するものが明らかに増えていき、最終的に結局荷物もちで地霊殿にまで運ぶ役目をおおせつかった私であった。
いえ、楽しかったですけどね。
彼女は甘え上手で、それでいて話し上手で一緒に居て楽しかったですよ。ただ、猫だからこそに抜け目がなくてちょっと素っ気無くて、でもだからこそ笑顔が可愛いと。
思い出しただけでほかほかと胸が温かくなる一時でした。
……疲れたけど。
ん。
で、でもお礼として美味しいまたたび酒をたくさん貰ってしまったし、そのおかげで今は命蓮寺の皆で楽しく飲んでいる訳で、そのお酒が原因で普段はお酒に強い星がべろんべろんに酔っ払ってナズーリンの顔が唾液でどろどろになるまで舐めるわ、ぬえが私を殺したいのだろうかってぐらいの目つきで睨んでくるわと。それなりに楽しい夜をお蔭で過ごせるのである。
……。
あぁ、いやだなぁ。自分すらだませない嘘って。何でこんなに空しいんだろう?
ぬえの視線がまたたび酒で、ようやくとろんとしてきたのにほっとしながらも、どっしりと体に疲れがたまり、今日はもう休みたかった。
と。ぬえが急にずいっと身を寄せてきた。
「そうか分かった! ムラサは『猫』が好きなのね!」
「……は?」
「話を聞いたら、あんたあの火車に貢ぎすぎなのよ! ざけんじゃないわよ! 私も行きたかった!」
「え? え?」
「そうよ! 私だって、猫科が混じってたりするわよ! だからほら、にゃーよにゃー!」
「……あ、あぁ、だからいつもより酔ってるのか。びっくりした」
若干引きつつ、またたび酒の効果に、聖や一輪だけで飲むべきだったかと後悔するがもう遅い。
とうとう聖までべろべろ舐めだした虎に、ナズーリンも一輪も笑顔で獲物を構えて、星と一緒に外に飛んで行ってしまった。聖は最初は笑っていたけれど「け、喧嘩はだめよ」って慌てて追いかけていく。その頭にうさ耳の飾りがあるあたり、聖も酔っている。
何これ? このお酒、またたびの他にも何か入っているんじゃなかろうか? そっちも不安になってくる。
「ぬこになる!」
「え?」
「私は今日から、封獣ぬこよ!」
「……ぬ、こ?」
「ぬこ!」
「……ぬこ……」
「にゃん!」
あれやばい。
ぬえが本気で酔ってる。
何この状況どうしよう?!
戦慄して、さっき一輪たちの後を追えばよかったと更に後悔した。今日の私は後悔だらけだけど、もうしょうがないよねと、ぬえの行動が予想つかなくてびくびくする。
「え、えと。ぬえ?」
「違うわ! ぬこよ!」
「……ぬこ」
「にゃー!」
「…………ッ」
誰か助けてッ!
なんか、ぬえの酔い方がおかしい!
あのぬえが、にっこり笑顔で『にゃーっ』て鳴いてるよ?! 普段なら間違っても鳴かないって! なんか目の色がおかしいし、これ本気でまずいよね?!
「さあムラサ! ぬこに何かしたい事があるでしょう!」
「え……?! いや、と、特にないけど」
「しゃー!!」
威嚇された?!
ぬえの背中の羽がぎらりと六対全部こっちに向けられて狙いをつけられていた。
なにこれ怖くて泣きそう。
「ぬ、ぬえ? いえ、ぬこさん?」
「そうね。鵺子ね」
「鵺子?!」
「ん? ぬこだっけ?」
「そ、そっちね! ぬこね! 流石にその改名はどうかと思うかな! お願い正気に戻ろうよ!?」
いつもと違う意味で酔っ払うぬえを必死に宥める。
ぬえは「我輩はぬこである~♪」とご機嫌にけらけら笑い出して、またたび酒をごきゅごきゅラッパ飲みである。
嫌な予感が鰻上りで焦りが止まらない。
「ぬ、ぬこさん? あまり飲みすぎはどうかと思うよ?」
「むーらーさー」
「はい!?」
「うりゃ!」
「へぷっ!?」
とう! とぬえがまたたび酒を顔にパシャリとかけてきた。
いきなり広がる甘い方向と冷たいが粘度を感じる液体、つんっ鼻に入ってむせそうになった。
「ひ、ひょっと!?」
抗議の声をあげようとして、満足げな瞳が見えた。ぬえの、本人が言っただけあって、猫科を連想させる赤い瞳の奥、瞳孔がきゅうと細まって、濡れた私をにやにやと見ている。
「新鮮ムラサのまたたび付け~」
「……え?」
「いただきましゅ」
「……はあッ?!」
気付けば、ぬえはあーんと、可愛らしい犬歯をむき出しに小さな舌を除かせて大きく口を開けていた。
「ち、ちょっと待った! 私なんか食べてもお腹壊すって! 死んでるから! 腐って、はいないけどまずいから!」
「ん? んん? んふふ~♪ なになにムラサ、私に美味しく食べて欲しいの~?」
「会話が通じない?!」
「しょうがないなぁ、ムラサは甘えん坊なんだから♪」
「ごめん誰かマジで助けて下さいッ!」
この酔っ払いの危険度やばすぎです!
いくら何でも手に負えません!
というか、何でさっきからべたべたくっついてくるのか、今も指を絡めてきててちょっと動きづらいです!
「ほらほら、ムラサ、にゃー♪」
「は、はぁ?!」
「猫がいいんでしょ~? だからあんな猫とデートして、しかもお持ち帰りされちゃったんでしょ?」
「……え、えぇ? 何その悪意しか感じない解釈の仕方」
はっきり断言するが、ちょっとした親切をしたら華麗につけ込まれてお財布と体力と時間を使わされて、しかもお礼にと渡されたのが現状の現況であるまたたび酒とか、もうまさに踏んだり蹴ったりの流れなんですけど。
お燐さんに悪気はきっと全然無かったのが更に切ない感じなんですけど?!
「ムラサ、ほらほら、ぬこちゃんを撫でろ~!」
「……うぅ、もうやだ」
「撫でろー! 一杯撫でろムラサー!」
「わ、分かったってば」
少し自分の考えに浸るとすぐさま噛み付きかねない勢いで顔を寄せてくるぬえ。実にお酒臭くて、ついでに鬱陶しい。
あぁ、まあでも、今日は変にべたべたしたがるけれど、ぬえは酔うといつも絡み上戸だし、そこは慣れている。とにかく、今のぬえには逆らわずに適度に相手をしていればいずれ寝入ってしまうだろう。
「ん、そうだ。ムラサぁ、胡坐かいて」
「は?」
「いいから!」
「え。ん。……こう?」
「うん。そんで、こう!」
「へ?」
突然、酔っ払い特有の予想できない突然の申し込みで胡坐をかいたら、そのままその上にぬえの小さなお尻が置かれて、人の足の上で寛ぎだした。
思わず、体がぎしっと固まる。
「ほらほら、ぬこちゃんよ!」
「え、えぇ? あ、あぁ、よしよし」
「~♪」
流石にパターンが読めて、戸惑いながらもぎくしゃくと頭を撫でる。
すると、ぬえは途端に肩をすくめてくすぐったげに、きゅふぅ、と本物の猫みたいに気持ち良さそうな音を鳴らした。うわぁ、気持ち良さそうな顔。
「……ぁ。もしかして、ぬえって、猫とかのごろごろって音も出せるの?」
「ん? んへへ~♪ だせるよぉ。何? 聞きたい? 聞きたいのぉムラサ?」
「あ、いや。別に気になっただけだから」
う、うざい。
普段から悪戯とかで鬱陶しいなーとか思ったりするけれど、これは今までの比ではない。
うっかり突き飛ばして足の上からどかしたいぐらいだ。
しないけど!
「んん。ほらほら、聞いてムラサ」
「わ?! ちょっとぬえ?!」
「いいから、ほらぁ」
いきなりぎゅっと抱きつかれて、私はぬえのせいだけどまたたび酒で濡れているから、慌ててはがそうとすると、ゴロゴロゴロゴロ、確かに聞こえた。
思わずマジですか?! っと聞き入る。
その音は、煮干を上げた時のお燐さん以上に、高くて、響いて、楽しげで、リズムがあった。
「……っ」
うわあ。
ちょっと、いいかも、これ。
何だか凄く和む。
「ね? どう? 私は『鵺』だからこういう事もできるんだよ? ほら他にもある? 耳? 尻尾? 目も髪も全部変えれるよ?」
「い、いや。別にそこまで……って、それなら、ぬえの『正体』って、何なんだろね?」
「ん? うへへ♪ これだよ。もうこれにしたの。ずっと前から、これって決めたの♪ 今の封獣ぬえが『私』なんだ。私の『一番』と、同じがいいんだ。私は、もう、不明なままじゃないんだよ~」
「? へえ」
素朴な疑問が、ぬえの本質を聞いてしまって、内心慌てたが、ぬえは軽い調子で教えてくれた。よくは分からなかったけれど、信用されているのだろうかと、ちょっと嬉しい。
ぎゅう、と抱きつく力が強くなって。羽が嬉しそうに体に巻きつくから、ぬえは相当にご機嫌らしいと更に嬉しくなる。
ついには、もしかして今、私はぬえに甘えられる? なんて気付いてしまい、この滅多にない経験に戸惑うけれど、悪くは無くて、その頭を自然と撫でた。
「にゃ~」
あ、撫でたら鳴いた。
驚いて、更に撫でる手に力をいれると、ゴロゴロもリズムが変わって更に耳に心地良い。
鈴が鳴ってるみたいな、ゴロゴロじゃなくて、ころころって、笑ってるみたい。
「……」
ちょっと。
ほんのちょっとだけ、悪戯心がでてきてしまって。頭を撫でながら、くるくる撒きつく羽の付け根を、ちょっと触ってみたくなった。
いつもは、触ろうとすると凄く怒られるので、この隙に、なんて思ったのだ。
「んぅ? ぅ、駄目だよぉ、ムラサ、そこは」
「え?」
ドキリとして、触れようとした瞬間に、にひひ~♪ ってぬえが笑って、にゃあんと鳴いた。
「そこはねぇ、ぬこちゃんの弱い所なのさ」
「? 弱点って事」
「そう。だから、触らせるのはね、二人きりの時だけだよ♪」
「え? 弱点だから、触らせたら駄目でしょう? 急所なんだから」
ぷっ! と、ぬえはけらけらけらけら、笑い方は下品なのに、何だか可愛い声で笑って。ぱんぱんと私の背中を叩く。
「そうだねぇ、急所だ。他の奴はともかく、ムラサに触られちゃったら、スイッチが入っちゃうもの」
「? スイッチ」
「そう。ぬこちゃんのスイッチは押したら大変だよぉ?」
「……」
押したら駄目。
そう言われると、何だか気になってしまって、指がぴくぴくと動く。それが分かっているのか、ねえは赤い顔でにぃっと笑って。
「押しちゃう?」
耳元で、何やら濡れた様な声で囁いてきた。
「ッ、お、押さない!」
「あはは、いくじなし~♪」
「う、うるさいな」
思わず酷く動揺してしまって。何だか気恥ずかしくなって、そっぽをむいた。
両腕も両足も、ぬえが絡みついて上手く動けないから、せめてもの抵抗だった。
「怒った? 怒らないでよムラサ、にゃん」
「ッ、だ、だいたい、さっきからにゃあにゃあ、何なのさもう!」
「だってぇ、ムラサは『鵺』より『猫』が好きなんでしょう?」
「は?」
「だから、猫にはなれないけれど、猫の振りをしてあげる。ほら、ゴロゴロだよ? 爪だって研ぐよ?」
背中に爪が食い込んで、目をぱちぱちぬえを見る。
何だか、ぬえの不思議な行動の理由が、図らずも分かってしまって。驚きが駆け上がったまま降りてこない。
え?
と、信じられない気持ちでぬえを見た。
「……ぬえ?」
なあに? とでも言いたげな顔で、にやにやと、尻尾がまるで猫の尾の様に、ぴたぴたと。頬をなでた。
「……い、いや。あの」
パニック、に近い心理状態の中、ぐるぐると頭の中が渦を巻いている中で、私はぬえの顔を見る。
口が、勝手に開いた。
「そ、その。猫には、とても失礼だし悪いけどさ」
言い出しにくそうに。自分でも何を言おうとしているのか分からないまま。
私はん? って顔で猫みたいな口をするぬえから、思わず目を逸らして、慌ててまた戻して、こほんこほん、わざとらしく咳払いする。
「わ、私は! 『猫』より『鵺』のが、好きなんだけど……っ、とか」
ぴたり。
ふぇ? と、ゴロゴロが止まった。
それから、ぬえの瞳が丸くなって、ぽかん、と口が半開きになって「……うそ」と言った。
私はカアッと、急に全部が恥ずかしくなって俯いた。
「い、いや、本当、なんだ、けど」
「うそ、嘘だ」
「う、嘘じゃなくて本当。私、猫も犬も鳥も、それなりに好きだけれど、でも、何が一番って。い、一番を決めるなら『鵺』が好き、だから」
「……っ」
「だって、さ。鵺は綺麗だもの」
「は、はあ?! あ、あんなの、不気味じゃん! 色々と混ざってて、訳が分からなくて、自分でも悪趣味って」
「き、綺麗だってば! 私はあれ、格好良いし、可愛いし、なんか、いいなーって思ったし。何より」
目が優しかった。
猿の顔の瞳は、濡れてキラキラして、暖かくて。蛇の瞳も静かに透き通っていて、纏う空気が、佇まいが、王者の風格に落ち着きを持っているみたいに見えて、見惚れた。
私は、何て綺麗な獣だろうと。いつまででも見つめていたかったのだ。
「……でも。まあ、すぐに何処かに行っちゃって、探したけど会えなくて、数ヶ月ぐらい後でやってきた女の子が、まさかあの時の『鵺』だとは思わなかったけど」
「……」
「私は、本当に『鵺』が好きだよ」
「……嘘、じゃなくて、ほんとう、に?」
「うん、本当」
「ッ、じゃあ!」
ぽこん、と。
ぬえの小さな拳が胸をたたいた。
ぽこんぽこん。
まるで照れ隠しみたいに、痛みの無い優しい拳で、心をノックするみたいに、ぬえは俯いて表情を隠しながら、笑っているのが分かる声で、言った。
「……じゃあ、いい。いいよ」
「ん?」
「……許したげる」
「ん、ありがとう」
何を許されるのだろう? と首を傾げながらも聞かず、感謝した。
こうやって、笑うぬえを見るのは好きで、はにかむ顔も本当はずっと見ていたくて、怒らせるしかできない私は、久しぶりにそれが間近で見れて、満足で、その頭を撫でる。
「……じゃあ、私、封獣ぬこじゃなくて、封獣ぬえに戻る」
「うん」
「……ねえ」
「何?」
「たまになら、ムラサにだけなら、『鵺』の私も見せてあげる」
「……」
それは、魅力的過ぎて。
思わずいいのかな? って目を丸くすると、ぬえは後悔する様に目を伏せた。
「……やっぱり、見たくない?」
「え? ううん、見たい。凄く見たいよ」
「……本当? 無理してない?」
「してない! 『鵺』のぬえも好きだもの!」
「そ、そっか。ありがと、う……? って、あれ『も』って?」
「えっ?! あ、いや。……何でもない」
「?」
あ、危なかった!
け、けど。
どうやらぬえはその意味に含まれる隠された気持ちには気付いていない様で、ほっとする。
ぬえが鈍くて助かったと、今日ほど感謝する日は無かった。
でも、不満そうにどこか不思議がっているぬえの、この後の追求は、どうやって誤魔化そうかなと考えて。
とりあえず。
せっかく、こんなに近いのだからって。少し躊躇して、でもちょっと勇気をだしたりして。
彼女の小さな体をぎゅうっておもいきり抱きしめてみた。
きゃ! って可愛い悲鳴。
腕の中でもぞもぞする感じにうわぁ、って。変な意味じゃなくて癖になりそうだと、体が熱い
ただ、心から湧く感情が『愛しい』で埋まって、我慢できずに、猫にするみたいに、その体を優しく撫でた。
ぬえは、濡れた瞳でうっとりと。瞳を閉じてくれた。
「は? 封獣ぬこ? ムラサ変な夢でも見てたの?」
「……うん。予想してた」
翌日。
結局帰ってこなかった他メンバーと。起きた瞬間、悲鳴をあげて抱きしめていた私をぶっ飛ばした正体不明。
知ってたって。
分かってたって!
ぬえがお酒に弱いっていうか、記憶無くくすタイプだってのは!!
う、うん、だから最後あたり、ちょっとだけ抱きしめられたんだし。
……。
ま、また酔った時に、ちょっとだけ。あ、いや。流石に意識の無い婦女子に不埒な真似は……でも、ちょっとぐらいは。
「ムラサー?」
「え? な、何?」
「いや、何か思い悩んだ顔してたから」
「そ、そう?」
「うん」
真顔で頷くぬえに、自分の頬を叩いて顔をひきしめる。
あー。なんか、もう懲りた。やっぱりお酒はやめよう! って、まだ少し揺らぐ心を閉じ込めて。部屋にまだあるまたたび酒は、博麗神社辺りに持って行こうと決めた。
「……そういやさムラサ」
「え?」
「封獣ぬこって、あんた。……ぬこの方が良いわけ?」
「……」
昨夜のぬえが、一瞬蘇って、頬が赤くなりそうになった。
でも、それを押さえ込んで、ううん、って首を振る。
「封獣ぬこより、封獣ぬえの方が良い」
「そ、そう」
「うん。猫より鵺が好き」
「え…っ?」
「あ、違うな」
「違うの?!」
「ん。正確には」
「…ッ、な、なによぉ!」
目を閉じて、あの日、最初に見た。
全てを失ったと、ただ嘆いた私の傍にきた、一匹の、綺麗な獣。
一瞬でも、目を奪われて。苦しみを忘れさせてくれた、優しい獣。
「どんな生物よりも『鵺』が好き」
きっと。あれ以上の生き物を、私は知らない。
私はあの日、あの獣の存在に『恋』してしまったのかもしれない。
「だから、ぬえが好き」
「あ、あああ、あんた、い、意味分かって」
「え?」
「ッああそうよ分かってたわよ! 分かってた! あんたのその綺麗な瞳見りゃね! 馬鹿! あほ! そんな綺麗な目で私を見るなぁ!!」
「へっ?! ちょ、ぬえ?! 待ってよねえ?!」
「私の気も知らないでムラサの鈍感ー!」
「は?! ち、ちょっと待って、なんか知らないけど、それを言うならぬえの方なんだけど?!」
私の気も知らずにべたべたした癖に! とか、口を滑りそうになったけど言えなくて。
私とぬえは、また今日も喧嘩をする。
「ムラサのばか!」
「ぬ、ぬえの方が馬鹿でしょうが!」
そうして暫く言い合っていたら、外から声がする。
皆が帰ってきたみたいで。
だから、今日もまたいつもどおりの一日が始まる。
でも。せっかくだから。
今日の午後。
こいつを誘って、少し出かけてみようかと。
そんな、勇気をだしてみようか、なんて。
ほんのちょっとだけ、思った。
いや、ほら。
また、封獣ぬこになられたら、迷惑だしね。うん!
だから今から、誘い文句を考えよう。上手い理由が見つかるといいけども。うん。
本気で、気合いれよう……!
ぬこ可愛いけどぬえはもっと可愛いよ!
甘え上手ってレベルじゃない
うおお、すごい可愛い!!
そうか、俺の病はあなたから感染ったものだったか