「キスの日とか、何でそういう大事な日の事を教えてくれなかったのよ!」
馬鹿! 小さな拳がぽかぽかと肩を叩いてきて「…はぁ?」と入れたての緑茶を庭を見ながらすすっていた私は、首だけで振り返って赤い顔の正体不明を見る。
ぷくぅ、と。
その頬は見事に膨らんでいて、その赤い瞳は涙で少し潤んでいた。
「な、何のこと?」
「とぼけないでよ! これ!」
泣きそうな顔に動揺して戸惑う私に、ばさあっと突きつけられる新聞。
そこには『キスの日』という、何だか更に「はぁ?」なタイトルとこの日についての軽く捏造じゃないのかな? ってぐらいに濃厚なキスを交わすのが礼儀とか当然とかガンガンやれ! みたいに追い立てる内容が延々と書かれていた。
「……ごめん、初めて見た」
謝る必要性は多分まったく無いのだろうけれど、この剣幕では抵抗するだけ無駄である。素直に自分は無知でしたと白状する。
「……本当?」
「うん、っていうか、ぬえがどうしてそんなにショックを受けているのかも分かりません」
ついでとばかりにそこも白状すると、むうっとした顔のぬえから、またぽかぽかがきた。なんか頬が更に膨らんで力もちょっと強くなって「いたいいたい」とあまり痛くないけれど降参ポーズ。
「キスの日なんだってば!」
「いや、読んだから。とりあえず誰にキスしても許される日なんでしょう?」
多分。
この記事を見る分にはそういう意味なのだろう。エイプリルフールの様な、噓をついても許される日と似た様なものだろと、外の世界の人間は色々と免罪符を作りたがるものだと、元外の人間であった私は頬をかく。
「そうだよ! ……でも、そのキスの日、過ぎちゃったじゃん」
「? もしかしてぬえ、誰かにキスしたかったの」
どことなくしゅん、としている顔と羽を見ながら、その考えにいたる。
酷く口惜しそうに唇を噛むぬえを見てピンときたのだ。ははぁ。なるほどなるほど。
「協力してあげようか?」
「……へ?」
「ぬえがキスしたい誰かに、そんな免罪符なくてもキスできる様に、協力してあげようかってこと」
「……」
湯飲みをことりと置いて、目を見開くぬえに「船長さんにまかせなさい」とか言ってあげる。
本気なのか悪戯なのか、どちらの意味が込められていたのかは分からないけれど、キスっていうのは嬉しいもので、自分の好意を言葉無く相手に伝えられる優しい行為。
ぬえが誰かにそれをして、好意を伝えたかったと嘆くのなら、手伝ってあげてもいいよと。長い間こいつと悪友をして、多分このお寺の誰よりもぬえに近い私は応援したいのだ。
「……あんた、意味分かってる?」
「うん?」
「……それ、私がその『誰か』にキスするって事なんだけど」
「うん、そりゃ分かってるよ」
「……ムラサぁ」
「うん、何?」
俯いて、静かに名を呼ぶぬえに、いつの間にか不穏な空気みたいなのを感じて正座して姿勢を正すと。ガバッ! とぬえは顔を上げた。その瞳は、心なしか先程より赤い気がして、ビクリとしてから心配になる。
「ぬ、ぬえ、大丈夫?」
「いいから! もう怒った! ちょっとあんた、私にキスしてみろ!」
「うん? ん」
羽でびしっと鼻先を付かれたので、とりあえず怒らせてしまって内心首を傾げながらぬえの羽、青くて不思議な羽にちゅっ、とキスする。
触れるだけで、軽く吸っただけのキスだった。
「―――ッ」
ぬえが、両手で服を握っていたのだけれど、更にそれに力を込めていて、顔色が、スゥ、と急に悪くなった。
「……っ、ムラサ、さ」
「え? 違った?」
「……じゃ、なくて、ムラサって『人間』だよね。元」
「う、うん」
「なのに、そんな簡単に、他人の部位にキスとか、出来るんだ……?」
人間って、もっと、普通は恥らったりするじゃん。とかぶちぶちと。俯いたまま文句。
えぇ? と。ぬえがやれと言ったからやったのに、なんなんだろうと。少し気を悪くしつつ、相変わらずぬえの機嫌も行動も意味が分からない。
「……いや、ぬえは他人じゃないし」
「……え?」
「そりゃあ、私だって、流石に聖とか一輪にキスとか、恥らうだろうし、これは人工呼吸の延長ー! とか理由付けだってするだろうけど。でも、ぬえだから」
「……っ、ムラサ、それって」
「ん? ……あれ? そういや、何でぬえだといいんだろ?」
「………………………………」
自分の不可解な答えにうん? と悩むと。ぬえから非常に長い沈黙が返ってきた。
身を乗り出して聞いていたぬえは、そのままカクン、と膝と羽を折り曲げて「……ど、どっちの意味か分からなくなった。こいつ、最悪」って、またぶちぶち文句を言い出す。
そして、鼻をすすって顔をあげる。
「……ま、まぁ? 私もあんたとは付き合い長いし、今更あんたのそういうアレな言動でショックを受けたりとか、しないけどさ!」
「ぬえ? ぬえー」
「……つまり、そういう事? 自覚が足りない? それとも犬や猫と同列の扱いされてるかのどっちかって事? ……チッ、死んでるから性欲皆無なのが一番のネックなのよね。もしそれがあれがもっと早く色々と」
「おーい、ぬえ?」
「……いや、でも一応は妖怪。そんな本能も少しばかりは残ってるだろうし。……よし。引き出そう」
「うん。よく分からないなりに不安になったから、逃げていい?」
独り言が不穏になった気配を敏感に、爽やかに腰を上げるとガシッ! と羽が絡みついていた。……げっ。
「じゃ、ムラサ、そこに座る」
「……え、えと。すっごい嫌な予感がするんですけど?」
「うるさい、身から出た錆よ!」
「私に心当たりが無さ過ぎるッ?!」
先ほどの位置に無理矢理戻らされて、胡坐をかかされた。そしたらぬえが何を思ったのか、ぽすん、っとその上に乗ってくる。
柔らかな体、というか臀部の感触に落ち着かなくて、なんか顔が熱くなる。
「え、えーと」
私より身長が低いぬえが、こうすると真正面に顔があって、指先も勝手にそわそわする。
ついでに体は逃げようとさっきからぎくしゃくしていた。
「こ、この体勢、なに?」
「キスしやすい体勢」
「あぁ、そういう―――ハアッ?!」
驚いた。
あまりの台詞に咄嗟に逃げの体勢に入った私を、ぬえはすでに腕と羽でしっかり捕まえていて。
「逃げるな、ムラサ」
無慈悲な、ぬえの言葉。
私は知らず「ぁぐ」っと降参するみたいに情けない声を発していた。それぐらい、今のぬえは迫力があったのだ。
そして、そんな私を、ぬえはじいっと見つめて、それからフッ、と目を細めて笑った。
「じゃあ、ムラサ。船長さんらしく、さ。私とキスをしよっか」
ゾクッ、と。体に危険信号がピリッと灯る、そんな。
ぬえの瞳孔がきゅぅと細い、犬歯の存在が気になる、初めて見る類の、笑顔だった。
喉が、ぴくんと動いた。
チュ、と水音。
「知ってる? この新聞に乗ってたけどさ。キスする場所に、意味があるんだって」
「…っ」
ぬえの手の甲に口付けながら、ぬえの言葉を聞くけれど、とてもじゃないが集中できない。
私とぬえは、どうしてこうなったのか、分からないけれど強制的に、こうやって、キスをしあっていた。
「人間が勝手に作ったみたいなんだけどさ、でも、それもあながち間違ってないかもって、今のムラサを見てると思う」
「……?」
眉根を寄せて手の甲の感触だけを唇に、上目に問うと、ぬえはにんまり「秘密♪」って楽しそう、っていうか嬉しそうに言った。
羽がぴくぴく、こんなにも興奮してそうなのも初めてで、それは良いのだけれど、私は落ち着かなくて、ひたすら恥ずかしい。
外である。
縁側で、誰からでも見咎められそうな場所で、私は何をしているんだろうって、さっきからぴりぴりと緊張してしまう。
「次は私ね」
手の平からそっと唇を離したら、ぬえが組んでいた足を崩して、そっと身を寄せてきた。
「わっ」
「動かないでよ」
耳にふぅ、と息を吹かれてくすぐったかった。少しぞくりともして、逃げてしまう私の首をくっ、と掴んで引き寄せる。
「く、首、はやめてよ」
「うん、絞めない。良い子にしてたら、怖い事はしないよ」
「……うん、信用できない」
首が気持ち悪くてもぞもぞする。
前に、地底でふざけて首をぬえに絞められた事がある。その時は本気で暴れて、喧嘩して、暫く距離を置いたりしたぐらいに、私は首への攻撃は、まあ、トラウマを思い起こす意味で苦手だった。
「信用してよ、ムラサ」
「ちょっ」
「あれから、私、ムラサの首を絞めたりしてないよ?」
耳をくすぐるみたいに、チュッ、と口付けられて、うひゃわ?! と変な声をあげて首をすくめながらも、そ、そういえばって、目をぎゅっと瞑る。
「ほら? 私は良い子でしょう? だから、その空いてる手で、頭ぐらい撫でてよ」
「わ、分かったから、ちょっ、耳はやめてよ」
「お願いしたら良いよ?」
「……どうか、やめて下さい」
私の立場が非常に低くなっているなぁって。ぬえの頭をくしゃくしゃ、髪型崩れるとか文句を言われても仕方ないぐらい、撫でて、その背中もよしよしってした。
ぬえの髪も背中も心地よくて、いつまででも撫で続けられそうな、小動物を撫でているかの様な、きゅうっと穏やかな気持ちになる、不思議な感触だった。
「……」
「ぬえ?」
あれ?
そろそろ文句を言うだろうにと、半ば覚悟していたのに、何故かぬえは今の所、無言。
どうしたのだろう? と更に頭と背中を撫でて反応を待つも、やっぱり無反応。
ぎゅ、っと。ぬえのしがみつく力が少し強くなっただけだった。
と。
ふきゅぅ……。
って、喉が震えた様な、猫が出すみたいな、酷く、気の抜けた音がして。
こてん、と頭が預けられた。
「ムラサ~」
「え?」
「……それ、気持ち良い~」
へぅ?
「……もっと」
ぇ…うん?
「そこ、して……?」
蕩けそうな顔が、すぐ、そこに。
赤い瞳がさくらんぼみたいに甘そうに濡れて、香りたっていそうな。
とろんとした力の抜けた体が、少しだけ熱を持っていて、触れると。
って?!
「―――――うわあッ?!」
「へ?」
万歳したっ!
びしっと両手を空へと向けて固まってしまった。
「ちょ、ムラサ? ……あぁ、せっかくムラサが撫でてくれてたのにぃ……」
「ご、ごめ、ごめめ、いや、も、申し訳ございませんでした!」
「え? ムラサ?」
「……ッ」
頭が、ぐらぐらする。
何、この、何?!
顔が、熱い気がする。触れていた両手が、唇が、何だか、ずっと熱を持って、くすぐったい。
「ムラサ? どうしたの?」
「や! いえ。その。わ、私の不徳の致す所ですので、何卒、ご理解頂きたい!」
「はぁ? ムラサ、なんか変よ?」
「っ、へ、変じゃないです!」
いや、変だろう? って顔でぬえがジッて見てくるけれど、何故か万歳した手も、何もかも、元に戻す勇気が出てこなくて、私はそのままそっぽを向いてしまう。
「……ムラサ」
「な、何でしょう?」
「……嫌だった?」
くん、っと胸元のスカーフを引かれる。
それは、違う。と反射的に思った。でも、私はこの状況から解放されたくて、ただ居た堪れなくて、ひたすらにこくこくと頷く。頷いてしまう。
「そっか。嫌なんだ」
「……い、嫌かも、です」
「そう。じゃあ、何が嫌だったの?」
「へ?」
くん、っとスカーフが、更に引かれて、嘘をついてしまった罪悪感と見透かされている様な台詞に、氷を飲み下した様な深いな怖気が走った。
「だーかーら、ムラサは今の行為の『何』が、我慢でなかったの?」
「…ッ、そ、それ、は、その」
「ほら、教えて? そうしたら、今度はそれはしないであげる」
ちゅ、って。
スカーフに口付け。
びくりとして、も、もしかして、からかわれてる? ふざけてる、のかな? って、期待を込めて、逸らしていた目を、戻したら。ぬえの瞳とぶつかる。
途端、びくり! と、喉が絞られた。
真剣な赤い瞳が、そこにあった。
表情はどこか面白そうなのに、目は、本気。
私の何も、見逃さないって、酷くまっすぐに、熱く、真剣に、見つめられていた。
落ち、着かない。
「……そんな、の。分かりませんよ」
「そう?」
「…………」
落ち着け、ない。
そわそわ、する。逃げて、この場を離れてしまいたい。
だから、逃げようと力を込めてみれば、何故か四肢に力が入らない。完全に固まってしまって、自力でほぐせない。
蛇に睨まれた蛙ってぐらい、動けなくなっていた。
分からなくて、それが、恐い、とまで思えてきて、涙が勝手に盛り上がると、ぬえが、その瞳をすうっと、細めた。
はあ、って溜息。
「……ったく、ムラサはしょうがないなぁ」
「ッ」
びくってして、体が更に強張ると、ぬえは少しだけ、困ったようにも気まずそうにも見える表情で、握る私のスカーフを見て、私から目を逸らした。
「……ずるいなぁ、馬鹿だなぁ、卑怯だなぁ」
「ぬ、ぬえ?」
「でも、それがムラサだって、私は知ってたからさ。今更、それでどうこうって、ならないのが更に悔しいっていうか。呆れるっていうか」
「ぬ、ぬえ、ぬえってば!」
「だから、さ。せめて、これぐらい頂戴よ」
へ?
ぴんと張り詰めた空気が緩んで、そのせいで、ぬえにもう止めようよ、って言おうとしていた唇が、その表情を見て止まった。
そして。
「ねえ、ムラサ。キスの格言って知ってる?」
唇は―――
その台詞を、言う前に。
シン、と。言葉は二人の間に飲み込まれて。
こくん、と。
どちらかの中に、飲み込まれてしまった。
「――――――」
何が、起きているのか、分からなくなった。
全身で抱きつくぬえは、思ったよりも、小さくて。
ただ。
意識する唇は、燃える様に、熱かった。
「ぅ、わぁ……っ!」
ぺたんと座って、帽子を抱きしめる。
体がいう事を聞かない。子供みたいに膝を抱えてぎゅうって座り込む。
先ほどまでの温もりは消え、時間は経過し、唇はでも、微かに疼く。
そして、私の傍らには、くしゃくしゃになった新聞紙。
「……ッ」
それを見たから、私は、こんなにぷすぷすおかしくなって。煙が出そうになっている。
そう。ぱらぱらと捲られた新聞に、乗っている内容。
答えはそこにあるよ、と。放心する私に、ぬえはそう言った。だから、ハッと我を取り戻した私は、それを見た。
そこには、小さな文字で、でもはっきりと書かれていた。
キスの格言。―――手の上なら、尊敬のキス。額の上なら、友情のキス。頬の上なら、満足感のキス。唇の上なら。
唇、なら。
『愛情』のキス。
「――――――――」
きゅうきゅう、心が鳴いている。
ぬえ、の奴め。
正体不明め。
噓か、本当かすら分からない、全然、分からない。
だけれど。
『答えは、好きな時でいいよ』
なんて。
そんな事を、私に負けない赤い顔で言い切った意地っ張り。
そんなんじゃあ、答えなんて、言ったも同然で。
そして、私はただ恥ずかしくて、でも、分かった事があって。
ずっと胸にあった、それに、ようやく気付いてしまって、いて。
そんな気持ちに、もうずっと前から気付いていたのだろうぬえが、凄くて、そして悔しくて、負けていて、なんだか酷く恥ずかしくて。
だから、だから。
赤い薔薇の花束を買おう。
たくさんのプレゼントも買おう。
正装をして、それらを持って、そして。
そして。
愛情のキスを。言葉と共に彼女に贈ろう。
「わ、私は、船長、なんですからね……!」
だから。
それをする為に。まず。
脳内のぬえに、いちいち赤面しない様に、慌てない様に、恥ずかしくて逃げ出したくならない様に、思わず、か、かか、可愛い、なんて! 言ってしまわない様に。
練習しなくちゃって。
私は決意する。
早くしないと。レディを待たせるなんて、船長のする事じゃないからって。
帽子を深く被って、私は。唇を抑えて、笑うぬえを描いて。告白の想像をして。
へにゃりとうずくまった。
ぬえが、可愛すぎると、初めて知った……ッ。
ずるくないよ?
でも、さ。
笑う。
心からうきうきして、楽しくて、嬉しくて、全身に活力が満ちて、このまま何でもできちゃいそう!
今までずっと、本当にずっと私が待っていたんだから。
だから、私と同じ気持ちを味わってよ。
好きって、言いたくても言えない気持ち。
大切に大切に。その好きをムラサの中でもっと大きくしてよ。
そして、その気持ちをいつか、私に伝えてよ。
私からは言わないよ?
だってムラサ、ずっとずぅっと私を待たせたんだからね。
だから。毎日ムラサに私を好きになって貰う様に、可愛くなる。
料理だって掃除だって、苦手だけど、頑張る!
だから、私と同じぐらいやきもきして、そして、いつか。
いつかちゃんと。私に好きって言ってよ、ムラサ。
私、きっと泣いちゃうからさ!
だから、たくさん泣かせてよね、ムラサ。
ムラぬえひゃっほう!
100年未満でできるよう、とりあえず、毎年キスして慣らしていけばいいと思う。
こんなイチャイチャ50年も見せ続けたら、
周りの方がもどかしくて、おかしくなりそうです……w
ムラぬえひゃっほい。
ムラぬえごちそうさまでした。
ムラサのいくじなし!
ぬえをあまり待たせてやるなよ?
読みながら身悶えてしまった