通り雨に降られること。恋を患うこと。それらは似通っているな、と不意に考えた。
駆け込んだ軒先でハンカチを取り出し、目の前にある小さな背中を拭いてあげる。
「災難だねぇお姉ちゃん。どうしよっか。どこかで降り止むのを待つ? 私としては温かい紅茶を飲んだ方が良いんじゃないかなぁと思う。ほら、お姉ちゃんすぐに風邪ひいちゃうじゃない?」
とかなんとか言いつつ濡れた髪の毛を猫のように振る我が妹よ、水しぶきが冷たいのですけれど。
「すごい雨ー」
こちらの視線を少しも気にせず暗い色の雲に向けた視線。
浮かんだ言葉は空からの音に溶解するだけだった。
「贅沢なこと」
私の呟きに「んー?」と小首を傾げる。
こいし。
胸元に在る心の瞳は何の変哲も無く閉じられていた。
こいしが我が地霊殿に帰ってきた。美味しいものを食べさせてあげたいと思い買い物に出かけたのが一時間ほど前。適度に賑わっていた下町は私たち姉妹の姿を見かけてすぐに気温を下げたが私にはそれが心地良かった。こいしは嫌っているけれど。しかしそれでもバカにされるよりは怖がられる方が良いと私は思う。悠々とふたりで散歩ができることに文句がある筈もないが、こいしの表情は少し硬いように感じた。手を繋いであげた。その時は静かな天気だったのだけれどまさかこんな風に豹変するなんて思ってもみなかった。
珍しくこいしが私の買い物に付いて来たからかしら。なんてね。
この地底世界にも雨は降る。
それだけの雲が在るのだ。
かつて伊吹萃香という収集の上手い鬼がいた。年がら年中季の変化が無いこの世界に嫌気がさし水気を集めて雲を作り雨を作り空気を集めて風を作りそれらを組み合わせて雪を作った。その下で満足そうに笑って彼女は酒を呑んだ。その日は大層な宴会となったそうだ。一晩中笑い声が絶えなかったと聞く。
伊吹萃香はもういない。
しかし鬼たちはその後も雲を作り雨を作り風を作り雪を作った。
味気の無い酒を呑むことは彼らの美徳に反するから。
だからこうして雨が降ることは不思議なことではない。
「お姉ちゃん?」
左に小首を傾げるこいし。財布は私が持っている。この子ひとりでは勝手に茶屋に向かわないと思う。無意識の内にやって良いことと悪いことは言い聞かせてあるから。それに今日のこの子はバロメーターが低位置で安定している気がする。あくまで気がするだけなのだけれど。しかし私と雨を交互に見る瞳には苛烈な興味も深刻な傷も見えないから私の読みは今回は外れていないと思う。外れていたら、嫌だな。
「家まではもう近いですから、傘を買って帰りましょう。ほら、ちょうどここは万屋」
「ワオ、ご都合主義チック。それとも私の無意識が成せる業? ああなんてこと。私は私が怖い。お姉ちゃん、寒くない?」
「大丈夫ですよ。ご店主、そちらの傘を一張ください。お釣りは不要です。お騒がせをしてしまったようですから」
突然の通り雨に遭遇して雨宿りに駆け込んだ建物が傘の取り扱いもある万屋。なるほど確かにご都合主義的かもしれない。しかし幸と不幸に見舞われる確率が同程度であると考えるならばこの状況は不思議なものではないと思う。先に不幸に出会ってしまっただけだ。順番の問題。傘を差す。雨の下へと一歩進み出る。
「さぁ、行きましょう」
「なんで一つしか買ってないの」
「これだけ大きな傘なら、私たちの身体くらいはカバーできるでしょう」
ついでに言えば先ほどの買い物で少し浪費をしてしまい倹約をしたいという思いもある。こいしが家にいる時はついつい良い食材を買ってしまうのは自分の悪い癖であるとも思うが直す気は無い。ならば他の部分で切り詰めなければ。
「どうしたの? あなたの好きなハンバーグは、そこに立っているだけでは出てこないわよ?」
「んー」
ピョンと、小さな川を飛び越えるようにしてこいしは傘の下に入り込んだ。
そしてぼんやりと雨を見つめている。
こちらは見ない。
「行きましょうか」
雨音が町を包んでいた。
私もこいしも口を開かない。
私は良い。玩具が無ければ思考運動を楽しむ性格だから。
しかしこいしはぼんやりと足元を見ているだけで。
「ちゃんと前を見なさい」
と言ってもリアクションが無く、不安の気持ちが大きくなる。
この子はいったい何を思っているのやら。
喋り出せばそれはそれで混乱を招く言い回しが多いが黙られると困惑の度合いはそれ以上だ。
いつものように声を聞かせてくれれば嬉しいのだけれど。
なんて、心の中で呟いてみてもこいしが掬い取れる訳がない。
遠いなぁと、なんとなしに思った。
ダンスを踊るように、こいしが一歩二歩と前方に進み出た。
「馬鹿なことをしていないで、おとなしく私の横にいなさい」
クルンとこちらへ振り向いた顔には笑みが在った。
「私はここかなぁ」
ちょっと恥ずかしがった様子か、それとも自身を恥じていることの表れか。
心を見ることに慣れてしまった私にはこいしの言いたいことが分からなかった。
「そんなところにいては風邪をひくわよ」
「うん。お姉ちゃんに雨を防いでもらうなんて、私はいいや」
「キャッチボールができていないわね。昔の私たちなら良かったのですが、今はもっと発する言葉に気を遣ってほしいと思います」
「そうかな。私は最適なことしか言わないよん」
「そう言うのならば、よん、なんて言わない」
「お姉ちゃんは細かいなぁ」
歩く。私は傘を差しながらこいしを追うように。こいしは雨に打たれながら私から遠ざかるように。
本音を言えば、これは意外だった。
こいしは自由奔放、傍若無人に見えて実際は極度の安定志向だ。怖がりと表現をしてもいい。意味不明と感じる言動はつまりはその裏返し。心を閉じ雑念を遮断したとしてもベースの部分は変わらない。ダメージを負いたがらない。常に笑おうとする。結局こいしはこいしなのだ。私はそう考えている。
そんな彼女が自ら雨の下に身を晒している。
無意識の内に心を覗きこもうとしていた。
もちろん見ることなんてできない。何度も理解をした筈なのに。まったく、癖とは厄介なものだ。
「あなたが風邪をひいて誰かが喜ぶと思うかしら」
「でもさぁ。私が入って、それでふたりで一つの傘を差してるとお姉ちゃんがちょっと濡れちゃう。それくらいは見てるよ。そういうの、やだ」
「ちょっとですよ。私たちくらいの身体のサイズならばたいして濡れない。だから、ほら」
「いやだよんー」
「こいし」
「間違ったのは私だね。力尽くでもあの店から自分用の傘を持ってこれば良かった」
「私の目の黒い内は窃盗なんて許しません」
なんとなく分かった。
こいしは、私がこいしのために無理をするのを嫌っているのだ。
例えそれが1ミリ程度のものであっても。
意外と単純なことだ。
けれどそれゆえの固さを感じた。
笑顔のまま、決して距離を埋めさせてくれない。
もう自分がサトリではなくなったことをハッキリと感じているということか。
私たちの間にはどうしようもない隔絶が存在するというのか。
まったく。
困った子だ。
私は傘を閉じた。
「え?」
笑顔を消失させ、ただ単純にキョトンと驚く顔を見せるこいしの目の前まで私は進み出て、
「昔はよくこうして雨を浴びて歩いたものだったわね」
ちょっとだけ過去に目を向け、
「私たちはあの頃と変わらず世界でふたりきりの姉妹です。なにか異論はある?」
そして、笑った。
「……お姉ちゃんは時々意味が分からなくて頭の中の検査が必要だと感じるわ」
「あなたに言われたくありません。ほら、さっさと帰るわよ。ハンバーグ、早く食べたいでしょう」
「あと、お姉ちゃんは空振りの名手だとも思う」
「スイングをしてるだけ褒めてください」
残念ながら私の意思とこいしの意思は上手く交差しない。z軸が異なる状態でx軸とy軸を同じ値に近づけようとしたところでどうしようもない。やはり、遠い。それはもうどうしようもないこと。
それでも。
「いっしょに雨に打たれましょう」
自然と出てきた言葉。
それに対してなにかを言おうとして、けれどこいしは溜め息を一つ吐いただけだった。
分かっている。私は卑怯者だ。正解を出すことを諦めて安易なシンパシーに跳びつく。それでは何も好転なんてしない。距離は埋められない。
それでも私は、こいしだけを雨天に晒すなんてことはしたくないと思うのだ。
「まったく、もう」
パッと、こいしは私たちの頭上にバリアを張った。
雨は一粒も落ちてこなくなった。
「お姉ちゃんは本当にしょうがないなぁ」
そう言ってスタスタと前に進んで行ってしまう。頭に雨があたった。あの子、自分を中心にちょっとした範囲だけをバリアで覆っているのね。
「待ってよ」
速足で歩き、こいしの横に並んだ。
結果から言えば、私は風邪をひいた。
晩御飯を作り、皆で食べて、ちょっとウィスキーでも舐めようかしらと考えたところで視界が揺れた。体温計は38度1分を表示した。常の体温が低いヒトガタである私に対しこいしが「寝た方が良い」と言ってくるのも仕方が無い数値である。ちなみにこいしは少しも体調を崩してはいない。体力のある子だ。というか、あれくらいの雨を浴びただけで熱が出た私が貧弱なだけ? いやいや、まさかそんなことは。
「まったくもう」
ベッドに横たわる私のおでこにこいしは濡れたタオルを押し付けた。
「あなたが帰ってきてくれたのが嬉しくて、少しはしゃぎ過ぎてしまったのかしらね。ごめんね、こいし」
「……お姉ちゃんは本当にしょうがない」
「ですね。さ、そろそろ自室に戻りなさい。こんなところにいたら風邪がうつっちゃうわ」
「んー」
こいしは軽く髪を触りながら、
「もうちょっとここにいるよ」
なんて言った。
「あなたは傍に来てほしい時には離れて、傍にいてほしくない時に寄ってくるのね」
「姉妹ってそういうものなんじゃないかしら」
こちらから視線を外してポツリと。
ちょっとだけ顔が赤くなってるのが見えた。風邪を患っている私とまるで変わらないその色。
恥ずかしがるくらいなら部屋に戻った方が良かったんじゃないの、と言いかけて、やめてあげる。
本来なら風邪の感染の危険性を諭すべきなのだろう。
でも、まぁ、今日くらいは我が儘に目をつぶってあげようか。
雨に打たれてしまったからか。随分と私も甘い。
「しょうがない子ね」
「お姉ちゃんの妹ですから」
熱を帯びた頭で、なるほど姉妹とはこういうものか、と考えた。
こいしちゃんはいつだって自由奔放