かつん。
何かが床に落ちた音がした。目を走らせていた書類から足元へと視線をずらすと、そこには見覚えのない口紅が一本。
「こいし?」
拾い上げたそれを手の中で転がしながら虚空へと声を投げかければ、
「あはは、見つかっちゃった」
呑気な声とともにこいしが現れた。
「まったく、帰ってきているのならそうと言って欲しいものね」
「だって、ただいまって言おうとしたらばれちゃったんだもの」
落とさなきゃ、ただいまって言えたのになあ。笑いながら、渡された口紅をこいしはくるくるとペン回しの要領で回してみせる。
なるほど、手から飛び出して落ちたのね。
「それ、どこで?」
どうか、『知らないうちに持ってた』という答えが返ってきませんように。だって、その口紅、結構値が張りそうなんですもの。
「勇儀がね、くれたんだ」
「勇儀さんが」
そうか、勇儀さんからのもらいものか。確かに彼女クラスの鬼なら、これくらいのものを持っていても不思議ではない。よく見れば蓋の精緻な紋様は星を模しているし。
「注文したのと違う色だったんだって。使わないのはかわいそうだから、良かったら使っちゃくれないかいって」
蓋をとったりつけたりを繰り返しながら、歌うようにこいしは説明してくれた。ちらりと見えたその色は濃い紅色。彼女の好みは桜色なので、確かに困ってしまったに違いない。『この盃で飲むときにゃ、この色が映えるような気がしてねえ』と以前言っていたし、譲れないこだわりのはずだから。
「事情は分かったわ。作った方や勇儀さんに感謝して大事にお使いなさい」
「はーい。ねえお姉ちゃん、のどかわいちゃった」
「はいはい、お茶にしましょうか」
少し目が疲れてきていたところだったので、こいしの要望はまさに渡りに船。口紅への疑問も解決したので、私は軽やかに(本人比)椅子から立ち上がった。
「地上で、綺麗なお菓子をもらったんだ。お姉ちゃんにも分けてあげるね」
「それは楽しみね。さ、手を洗ってらっしゃい」
◆◆◆◆◆
「ほら、見て見て!」
食卓で、瓶からお皿の上に、幻想の花畑が広がった。ジャスミンにコスモス、アヤメにタンポポ。向日葵に撫子、桜まで。
本来なら決して共に咲くことない様々な花の姿をした、それは見事な砂糖菓子。
「綺麗」
撫子一輪、手にとって。精巧さにひとしきり感嘆してから口へと運ぶ。うん、とっても甘い。
「こんなのもあるんだよ」
自らも桜を口に放り込み、こいしは別の瓶の蓋を開いた。中から何かを取り出すと、そのまま熱い紅茶の中に落とす。
「…………?」
その何かは水面に浮いたと思ったら、少しずつ少しずつ広がってゆく。
やがてカップに咲き誇ったのは、砂糖でできた大輪の薔薇。
私のカップには紅の。こいしのカップには青の薔薇が花開いた。
「これは、すごいわ」
この砂糖菓子を作った誰かへの称賛を込めながら私は感嘆の息を吐く。そのままじっと見つめていると、花びらは一枚、また一枚とはがれて。そして溶けていった。
後に残ったのは、甘い香りのする静かな水面。
けれど、どうしてだろう。向かい側に座る、こいしの青い薔薇は溶けていない。
「ねえ、お姉ちゃん」
白々しいまでにのんびりとこいしは言う。この口調は、なにかを企んでいる時のもの。
「なあに?」
「青い薔薇はありえないんだって」
「ええ、知っているわ」
だからこそ“ありえない”ことの象徴なのだろう。
「でもね、ほら。ここに一輪あるでしょう?」
笑いながらこいしは片手で私の二つの目を、もう片方の手で第三の目を覆ってしまった。
―だから、今ここは、ありえない世界なんだよ。
いち、にぃ、さん。
不意に、視界が明るくなった。辺りをぐるりと見渡せば、そこは日の光降り注ぐ幻想の花畑。
ジャスミンにコスモス、アヤメにタンポポ。向日葵も。本来なら決して共に咲くことないそれらが作り出す、“ありえない”花畑。
「こいし?」
さっきまで私の目を覆っていたはずの彼女の姿がどこにもない。本人いわく“ありえない”ことが起こっているのだから、姿が見えなくなる、というのはこの世界では“あたりまえ”の事なのかもしれないが。
「こいし」
それでも、私はこいしを呼び続ける。だって、こんなに綺麗な世界を一人で見るのは勿体ない。
二人で、滅茶苦茶だね、でも綺麗だねって笑いあいたいじゃない。
「こいし?」
かさりと後ろでした物音に振り向けば、そこには大きな薔薇の木。どうやら花どうしが擦れあって音をたてたらしい。
さっき辺りを見渡したときには無かったはずなのに。
まったく、面白い世界だこと!
「あら」
こいしの帽子が薔薇の木にひっかかっている。取ってあげようと宙に浮かべば、紅い薔薇が一輪散って私の頬を、唇をかすめていった。
その感触が、妙に唇に残って。
少し舌を出してなめた唇は、砂糖菓子の味。
◆◆◆◆◆
「さとりさま、さとりさま」
燐に肩を叩かれて私は我に返った。あの世界は、こいしの白昼夢だったのだろうか。
「どうなさっ……!?」
“さとりさまのお顔、紅まみれ!”
「えっ!?」
慌てて洗面所に走って、顔を確認する。鏡に映った私の頬と唇は、燐が思った通り紅まみれだった。発色の良さから察するに、これはどうやらこいしが勇儀さんからもらってきたもののようだ。
と、いうことは―?
「…………っ」
白昼夢の中、唇をかすめた花の感触がはっきりと思い出された。
こいさと、もっと広がってほしいなぁ
こいしちゃんもあと少しだけ勇気をだしてみよう