寝所で横になりながら、潮騒を聞いていた。
灯りもない寝所は、夜の闇でしっとりと染まっている。掴みとれそうなほどには濃くなく、うっすらと白んでもいる夜の帳は、ほのかな色香さえ感じさせる。わずかに覗き込む星明かりも、眠りを妨げるほど眩しいものでは決してないので、このまま寝てしまうのには都合がよかった。
さあさあと引いては寄せる。
白泡の滲む柔らかな波が、まぶたの裏に浮かぶ。
もう、どれくらいそうしていたか、思い返すこともなかった。
長く眠り、そして短く起きることを繰り返して、何日が経っただろう。
横たわる身体は、節くれ立った老木のように細く、なにより朽ちていた。手足も、枝のように薄くなっている。覆い被さる寝具を、かすかに押すことすらもどかしい。自由に動かせるのは、まぶたと、そして眼だけであった。
それでも、不自由はなかった。常に控えの者がおり、食事や厠などの世話は、彼らの助けがあって事なきを得ていた。目線で訴えれば、彼らはすぐに動いてくれた。
今は、その者たちもいない。夕闇が訪れる頃、寝所から退出させた。
時期が近いことは、随分と前から分かっていた。
だから、労いの言葉とともに彼らを退出させた。皆一様に、堪えるような顔で居てくれたことが、ただただ申し訳なく、そして嬉しかった。
さあと引いては、さあと寄せる。
青い広がりが、身体を包みこむ。
大海から程近いこの地に寝所を定めたのは、譲れないわがままだった。粗末なものでも構わないので、この地にひと時でも長く居たかった。妄執とも、寂寥とも言われても、譲らないつもりでいた。
結果として、ここで迎えようとしている。
彼女と出会うことはなく、その時は近付いている。
望んだものが得られたとは言い難いが、それでも悔いのような苛立ちはない。大きく見苦しく、さざめいてしまうこともなく、潮騒に包まれて横たわっている。あの日のことを忘れたことは一度もなかったが、それでもこうして穏やかに居られることは、ささやかな誇りだった。
引いては寄せて、また引いては寄せる。
青く覆う中に、亜麻色が流れる。
ふと、まぶたを押し上げるが、柔らかな闇色だけが見えた。
そこには、鎌首をもたげてしまった期待の先は勿論、わずかばかりの虫も居ない。
あの時、彼女は海を背にしていた。
恨み辛みと口にし、しかし優しくも寂しげな顔で、ふわりと波間へ身を投じた。亜麻色の髪を、まぶたの裏にまで色濃く焼きつけながら、決して越えることのできない大海の隔ての向こう側へと、行ってしまった。
そのすべてが、禁忌を破った罰だった。
静けさを取り戻した後、傍らには誰も居なくなった。しばらくして、歌を伴った妹君がやって来たが、彼女は遂にその姿を見せなかった。
歌は、そらんじている。答えの歌さえ、詠めと言われれば詠める。
返すべき相手は、ここには居なかった。
潮騒が聞こえる。
波が、さざらさざらと鳴いている。
まぶたは、もう閉じようとは思わなかった。
時が近付いている。
さあさあが、さざらさざらと変わっていた。夜の帳が、いよいよ身体を包み込んできたかのように、すべてがぼやけてくる。大海が、一息で遠くなってしまったかのようだった。
だから、じっとまぶたを開けていた。この身体は、確かに寝具から一歩として動いてはいないことを、確かめておきたかった。瀬戸際で、意地を張りたくなった。
闇が、じんわりと濃くなる。
墨を磨ったかのように、見えている縁が塗り潰されていく。
それでも、まぶたは閉じない。老木のような手を、掴みとれそうなほどの闇へと伸ばす。
閉じて。
なるものか。
伸ばした手が、暖かい手に握り返された。
墨のような闇を、亜麻色の流れが打ち払う。
夢か。
幻か。
彼女の顔が、目の前にあった。
すべてがくぐもった中で、荒い息遣いが聞こえる。ぼやけてしまう彼女の顔は、微笑みながらもどこか焦っているようだった。握り返してくれる手もしっとりと湿っており、流れるような亜麻色の髪からは、ぽたりぽたりと滴が垂れている。
海を。
大海を。
越えられない隔たりを、越えてきたのか、彼女は。
枯れたと思っていた涙が、頬を流れた。止めどなく胸から込み上げる衝動は、しかしながら言葉になることもなく、しゃがれた呻き声にしかならない。醜い悲鳴が、悲しいよりもどかしい。それを上回り、いとおしい。会えて、もう一度だけでも会えて、嬉しい。
声にならない、しかし喜びは溢れてきた。
彼女は、柔らかく微笑んでいる。
得意げに謎かけをしたり、からからと朗らかにからかったりしてきた、あの頃となんら変わりない。
泰然と、そして綽々と、彼女は微笑んでいた。
そっと、耳元に唇が近付く。艶やかに、ふぅっと歌が詠まれる。
喉に、なにより声に、力を込めて。
答えの歌を詠んだ。
彼女の顔が、大きく揺れる。微笑みが崩れて、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
闇の帳は、もう止まらなかった。
瞬く間にすべてが薄黒く覆われる。足から上へ段々と、攫われるように軽くなる。潮騒など、とうに聞こえなくなっていた。
彼女の、いとおしい顔が迫る。遠慮がないほどの力で、身体が抱き込まれるのが分かる。だがそれも、すぐに感じなくなった。
泣きじゃくっていた。
会いたいと願い続けていた彼女は、笑ってくれたし、そして泣いてくれた。
幸せ者だな、私は。
今際で、心から笑えたのだから。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひ 貴くありけり
沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
月へと渡ったのは、穢れを嫌った他にこんな痛みがあったのかも知れないと思うと、切ない。