月明かりの照らす神社の境内で、呑めや歌えや騒げやと、人妖が宴の輪を広げている永き夜。
喧騒の影うごめくその中心から少しだけ離れた場所に、私たちは二人きりで居た。
まだ酔いもせず、まだ眠りもせず、まだ狂いもせずに。
「わざわざ手伝いに来なくても、向こうで音頭とってればよかったのに」
「そういうのは魔理沙の役目だからいいの」
台所でおたま片手に調理を続けていた彼女の元へ助け舟を出したのは、つい先ほどのこと。
背後から声を掛けると金糸の持ち主は、遠慮がちにもこちらに振り向いてくれたのだった。
「ま、ほんとは、いいかげん酔っ払いどもとは付き合いきれなくなっただけなんだけどね」
水桶で手を清めながら肩をすくめてみせると、彼女は苦笑を浮かべて手元の鍋におたまを突っ込んだ。
「で、これはお吸い物?」
「酒以外呑まない連中だからね。いちおう干からびないように用意しとこうって――」
くるくると半透明な汁を掬い取り、だしの濃淡を舌で確かめている彼女の隣に並び立つ。
ああ、それにしても何でだろう。
いつもは和食なんてと眉をひそめ、苦り切っている彼女だというのに。
ことのほか、いや、こんなにも和食が似合うとは。
「――アリスって、割烹着が似合うと思うわ」
それがあまりにも私の心に嬉しい驚きを浸透させたので、つい口から酔狂な一言が出てしまった。
「ぶっ」
同時になぜか彼女の口からも、出てはいけない物が出てしまったようだ。
「ご、ごめんなさい。いや、でも、きっと似合うわよ」
まさに今その姿が様になっている貴女だからこそ。
それに、湯気で染まっているその赤い頬にも白はよく映えると思うのだけど。
「ほんと、ごほっ、かしら」
「ええ、もちろん」
懐に忍ばせておいたカエル印の手拭いを紳士的に差し出して、深く肯く。
それで口を拭いながらも彼女はぼうっと宙を見つめた。
想像しているのだろうか、自分の新たな姿を。
私の頭の中ではすでに、割烹着を着た彼女が私の耳を膝枕で掃除してくれているのだが。
「良妻賢母ね」
「え?」
「ううん、何でもない」
己の想像だけで悦に入ってどうする、私。
そんなのはあそこで珍奇な腹踊りを披露している鬼たちだけで十分だ。
「あ、お鍋、吹いてる吹いてる」
「っとと」
でも、ドジなお嫁さんもいいかもしれない。
だめだ、もう色々と思考が末期だ。
おかしいわね。この淀んだ空気にでも中てられたのかしら。
「アリス、頼んでいたものできた?」
そんななか突然、しっかり閉めていたはずの結界という名の障子が、がらりと勢いよく開け放たれた。
隙間から顔を覗かせたのは、二束の三つ編みを揺らす赤い館のメイド長だった。
「え……あ、うん、お待たせ」
「それじゃ、持ってくわね」
「わざわざありがとう、咲夜」
「こちらこそ」
行儀よく入ってきた銀の従者はその姿勢を崩さずに、アリスの抱えた鍋と私が慌てて差し出した椀一式をあっというまに攫っていってしまった。
瀟洒の洒と酒という字は見間違うほど似てるのに。
彼女はこの酒塗れの熱帯夜の中にも、静かで優雅で完璧だった。
私はこんなにもふらふらだっていうのに。
「次は、おつまみでも作る?」
「そうね。漬物ででも頭を冷してもらいましょうか」
どこか厳かになってしまった雰囲気を何とか緩めようと出した提案に、喜ばしくも彼女は上機嫌で乗ってくれた。
私が台所の隅からせっせと運んできた大きな糠床からきゅうりを掘り起こした彼女は、口角を吊り上げながらそれをまな板に並べていく。
お嫁さんふたたび、ね。
「ええと、包丁、包丁」
きょろきょろと視線を左右に振りながら目的の物を探すアリス。
あれ、でも、どういうことかしら。
「包丁ならまな板の横にあるじゃない」
灯台下暗し。
昔の偉い人は言いました。
灯台の下では暗い気分になってしまう、と。
きっとその人は、冷たい海に愛しい恋人を奪われたのでしょう。
私の頭が愁いの哀歌を奏で始めた頃、彼女は珍しく慌てた様子で包丁を握り締めた。
非常に貴重な光景を拝んでしまった。ふむ、ごちそうさまでした。
「……霊夢、味見してみる?」
「いただきます」
幸せのげっぷを漏らしそうだった私の口に、ずずいと彼女の白魚の指が近づいた。
こ、これはもしかして。
恋人同士が一度は経験するという、あの、かの。
正式名称は分からないけど、あれね。
「美味しい?」
「うん」
贈り物には三倍返し。
昔の偉い人は言いました。
恋人へのお返しにはいつも財布が大忙しになる、と。
きっとその人は、羨ましくも残酷なほどもてたのでしょう。
私の頭がなぞの爆発を起こしかけた時、彼女はまた一つきゅうりを正確に切り分けた。
お返しを渡すなら、もうこのタイミングしかない。
「アリスも、あーん」
「え?」
「私がじっくりたっぷり漬けた自慢のきゅうりよ、召し上がれ」
「……ん」
ご丁寧に瞼を閉じて、頬を染めて、彼女は受け入れ態勢に入った。
そして、ぱくりと。
彼女は私の指ごと、その可愛らしい唇できゅうりをくわえ込んだ。
ああ、きっとこの柔らかい感触は生涯忘れないでしょう。
ありがとう、美味しいきゅうりを産み落とした河童さん。
「美味しいわ」
「よかった」
彼女は今日一番の可愛らしい笑顔を浮かべてくれた。
その一言と表情に安心してお腹が空いたのか、無意識に私は湿った自分の指をぺろりと舐めてしまった。
思わぬ間接接吻。きゅうりの爽やかな匂いが鼻孔と乙女心をくすぐる。
「それじゃあ、持っていきましょうか」
「ちょっと待って霊夢、洗い物――」
「そんなのあとあと」
どうせ積もりに積もった皿の山は全部、あとで一辺に片づけなければならなくなるのだから。
今は、そんな残念な明日の未来のことよりも。
目先の幸福に、月明かりの夜に、酔ってしまいたい気分だった。
あそこで馬鹿をやっている連中みたいに。
「アリス」
「何?」
でも、実はすでに。
私も酔ってしまっているのかも。
「好きよ」
ちゅっ、ときゅうりの芳しい唇を奪ってしまえば。
どこかの誰かが灯台下暗し。
私の頭は哀歌を奏でながら爆発し、心は熱燗よりもどろどろに溶けて制御がきかなくなった。
「さ、いきましょ」
先ほどまでよりもずっと真っ赤になった彼女を引っ張って。
いざ、酒宴の海に溺れにいこうか。
だくだくとそそがれる瓶の中身をすべて呑みほしたあと。
朝鳥の合唱で眠りから覚まされる時にでも。
彼女の愛しい口から先ほどの返事を聞ければいいな、と。
ぐだぐだになってしまった脳みそで、私はひそかに思った。
甘くて素敵でした。次回作も正座して待ってます。