春よ来い。早く来い。今すぐ来い。ハリー、ハリー、ハリー!
博麗神社の縁側に座る霧雨魔理沙は、あまりの寒さに奥歯と身体をガタガタを震わせながら、足をバタつかせ、怒りを表現した。
寒い寒いと毎日文句を言いつつ、暖かくなればなったでいつ外套を仕舞えばいいのかと文句を言う程度には彼女は我侭だ。
だが、彼女に限らず季節の変わり目というのはいつも人を振り回す。
春から夏の間には雨が多いし、半袖では寒く、長袖では濡れて気持ちが悪い。
夏から秋の間も相変わらずの日差しで、長袖では熱く、半袖では夕方過ぎに風邪をひく。
秋から冬の間は厚手の外套にするか否かで、季節との熱い読み合いが発生し、負ければもれなく冷たいお仕置きが待っている。
そして、季節を告げる妖精がいると言われる春から冬の間も、それは例外ではない。
どの季節もその境界は曖昧で、それに振り回されているうちに季節はすっかり変わってしまう。
彼女はこの日もまた、振り回された結果、厚手の外套を着ないことを選択してしまった。
森で花のつぼみを見つけたのだ。
ようやく春が来たか!
と、喜び勇んでつぼみを採り、博麗霊夢と春を分かち合おうと薄着で家を出た途端にこの有様だ。
温かい茶はとうの昔に胃に流し込んだ。
すっかり空になって冷たくなった湯呑みを追慕し、春告精に呪いの言葉を吐きながら、霊夢が境内を掃き終わるのを持った。
余談だが、緑茶は体を冷やす。
程なく、境内の掃除を終えた霊夢が縁側まで戻ると、魔理沙が青い顔で倒れていた。
「魔理沙、お待たせって……ちょっと、どうしたのよ!」
「春野菜ってのはさ、春になる頃にはもう、美味しくなくなってるんだってな。私の身体も、春になる頃には冷たくなってるのかな……」
倒れたまま、遠い目でうわ言のように呟く。
「やだ。ちょっと、勝手に死なないでよ。春も近いのに神葬祭とか、私は嫌よ」
霊夢は慌てて魔理沙を引きずって部屋に入れると、火鉢で炙った。
「ああ、生き返った。感謝するぜ」
肩を回し、寒さで硬くなった関節を曲げ伸ばししてから大きく伸びをする。
「まったく、まだまだ寒いのに、何だってそんな薄着なのよ」
「ああ、コイツを見つけたんだ」
魔理沙は帽子の中から、緑色の蕾を二、三取り出す。
地面から顔を出す、フキの花のつぼみ。フキノトウだ。
「あら、これは何の花? まだつぼみみたいだけど」
「なんだ、見たことないのかよ。これはフキのつぼみ、フキノトウだ。春になると、地面から顔を出すんだよ」
「へえ、地面から。面白い花ね」
「だろ? 天ぷらにしても美味いんだぜ」
魔理沙がそう言うと、霊夢は火鉢を超えて身を乗り出した。その長い髪の先が火鉢の灰に触れることも気に留めない。
「え、食べられるの!?」
物凄い食いつきようだ。
「まったく、花より団子だな。少しは季節の趣を感じるとかないのかよ」
呆れた顔で霊夢の髪についた灰を払ってやりながら、それを嗜める。
「季節の趣を感じるのはいつだって胃袋よ。食べ物はあらゆる季節を先取りできるのだから」
「ふむ、一理あるな」
二理はない。魔理沙は続けてその味を説明する。
「甘くて、ちょっとばかし苦味があって、青っぽい、なんというか春の香りがするんだ」
「へぇ、ますます気になるわね。昼には早いけど、さっそく揚げてみようかしら」
「気が早いな」
「まだ寒いのに花を出そうとするそいつの方が、よっぽど気が早いわよ」
「違いない」
笑い合う。
「そういや、天ぷらの材料は足りてるのか?」
「小麦粉ならたっぷりあるわよ。赤貧生活の友達よ。あ! 天ぷらをするには油が足りないかも」
それを聞くと魔理沙は歯を見せて笑った。
「だろうと思ってな、ほれ」
帽子の中から瓶を取り出す。水よりもとろみのある琥珀色の液体が、瓶の中でちゃぷちゃぷと波打つ。
「菜種油だ。これを使え」
「なによ、あんたも食べる気満々なんじゃない」
「へへ……」
人差し指で鼻の頭を掻く。ごまかす様に障子の方に目を向ける。
「春を待つ気持ちってさ、なんかこう、毎年違うんだよなあ」
いずれ障子の向こうに訪れるであろう、春の景色に思いを馳せる。
「そうね。出会いもあって、別れもあって、食べ物も美味しくて新しい季節って感じがする」
霊夢も同じ方を見る。その景色は、樹に咲く薄桃色の花弁か、野に咲く一面の七色か、畑に広がる青か。それとも、花咲くように広がった、さくさくの衣か。
顔を見合わせ、小さく笑う。炊事場に移動する。
「あのさ」
衣を水でとき、洗ったつぼみに絡ませながら魔理沙が切り出す。
「リリーホワイトがどこから来てどこに行くのか、誰も知らないだろ?」
「そういえばそうね。私の勘も働かないみたい」
油を鍋で火に掛けながら霊夢は答える。リリーホワイトとは、春を告げる妖精の名だ。彼女がどこから来て何処へゆくのか、誰も知らない。知らなくても春は訪れるし、訪れる頃になれば桜が咲いて花見に忙しくなるので、多くの人はその所在に興味を持つのが馬鹿らしくなるのだ。
「な。でさ、思ったんだ。こういう、私たちの想いが、少しずつ集まっては毎年違う春告精って形になって、飛んで来るんじゃないかなあ。って」
霊夢は聞きながら菜箸の先で衣を鍋に落とす。じわっと小さな音を立て、丸い玉は鍋の底まで落ち、浮き上がる。まだ気が早い。
「それで、思い思いの春告精はそれぞれの春になって、景色の中に溶けていくんだ。だから、どこから来るか分からないし、どこに行ったかも分からない」
「毎年新しい春が生まれるのね。なるほど春らしいわ」
菜種油の独特の香りが漂ってくる。再び衣を落とす。先ほどよりも軽くて小気味の良い音が油の表面で弾け、衣は小さな泡をまといながら鍋肌につくことなく浮き上がる。頃合いだ。衣をまとったつぼみを入れる。
じわじわぱちぱちと音を立てながら、油の中に衣の花が咲く。
「なんだか、ドキドキするわね」
「ああ、まさに春を待つ気分だ」
ほどなく、つぼみは黄金色の花を咲かせた。箸で油から上げ、余分な油を新聞紙に吸わせる。
「文の新聞が始めて役に立ったな!」
「これも春のおかげかしらね」
見合わせ、くくっと喉の奥で笑う。
「んじゃ、頂こうかね!」
指でつまみ上げる。
「もう、行儀が悪いんだから」
批難の言葉を発しながら、しかし霊夢は笑顔であった。
天ぷらを頬張る。
からりと上がった衣を前歯で一気呵成に噛み砕く。
――サクッ、ガリ
膨らんでいないつぼみの硬さが、前歯の侵入を拒んだ。
口いっぱいに青臭い苦味が広がる、これでもかというほどに春を主張する。
喉の奥から熱いものがこみ上げる。
霊夢が満面の笑顔で魔理沙を見ている。
笑顔を返し、口の中の苦味とこみ上げる熱さを飲み込む。
青ざめた苦笑い。
「――霊夢、フキノトウは低い温度から入れたか?」
やっとの思いで嚥下した魔理沙は、恐る恐る霊夢に尋ねた。
「え、そういうものなの? 鮎揚げる時と同じ要領でやったけど」
キョトンとした顔で霊夢はそう答えた。
魔理沙は忘れていた。彼女はフキノトウを食べたことがなかったのだ。
「早く春にならないかねえ……」
薄桃色の花弁がひとひら、障子の外を舞った。
――彼女はその晩、腹を下した。
季節の変わり目というのは、いつも人を振り回す。
今の子たちもふきのとうって食べたりするのかなー?