「そう、この世には少し、罪深い輩が多すぎる……」
彼女は手頃な大きさの岩に座って手酌をしながら、上司の口ぶりを真似て独り言を言ってみた。
今日の仕事はもう終わっている。
先ほど最後の魂を彼岸へ届けたばかりで、夕暮れの三途のほとりには彼女以外には何もいない。
春の西日は川面でゆらめき、どこからか迷い込んだ桜の花びらはゆらゆらと光と水にまかれながら流れていった。
彼方には水鳥が夕日を翼の形に黒くくりぬき、川辺に咲いたなずなはその小さな花を薄紅色に染めている。
きれいだな、と彼女は思った。
杯に残っていた酒を飲み干す。
そう、世界はこんなにも美しい……。
今日最後の客は自ら命を断ってこの三途へとやって来た。
いつも通り一方的に彼女の方から語りかけると、物言わぬ小さき魂は弱々しい思念でしかしはっきりと彼女にそう伝えた。
その少し粘着質な清々しさが舟をこぐ手にねっとりとまとわりつくようで、手に持つ櫂が少し重みを増した気がした。
進む先の灰色の波だけを見つめながら、彼女は客に問いかけた。
なぜ?
他に方法は?
家族や大切な人は?
色々な感情の入り混じった思念だけでは問いかけへの回答は判然としない。
それでもただ二つだけは目をそらしたくなるほど明瞭に伝えられた。
自分の意思で人生を終わらせたこと、そして自らのしたその選択にとても満足しているということ……
「無事に」此岸を離れられたことに浮き立つ喜びの念が、背中越しに這いよるように伝わる。
その思念に捕まったら自分も共に沈んでいくような気分にかられ、彼女は一念に舟をこぎ続けた。
彼岸での別れ際、その歪んだ後姿を、彼女は陰鬱な気持ちで見送った。
客は降ろしたはずなのに、舟はまた一段と重くなった気がした。
杯を傾けて、こくりとのどをならす。
思い出す内、気づけばずいぶん飲んでいた。
斜陽は西の方既に没し、転がる空き瓶を照らすのは日から星へと変わっていた。
アルコールで火照った体を生温い夜風がくすぐる。
その粘るような風があんまり気持ちよくなくて、体を後ろに倒して岩の上に寝転がってみる。
今度は背中がひんやりと心地よかった。
眼前、紫紺の空に浮かぶは満天の星。
那由他の彼方から届けられる星屑の小さな光が、儚く揺らぐ生命のともし火のようで愛おしい。
そこここに残る灰白の薄雲の、風にたなびく姿までもが風雅で。
星座に詳しくないけれど、それでもこれがどれほど価値のある眺めなのかは知っている。
ああ、美しい……
世界はこんなにも美しい。
願わくば……
そう、願わくばこの景色をさっきの客の生前に見せてやりたかった。
春の夕暮れの寂しさを、星降る夜のまぶしさを教えてやりたかった。
この世界の美しさをその目に焼き付けてやりたかった。
世界はあんたを幸せにする為にあるんだと、思い知らせてやりたかった。
きっとあいつはこんな風靡な景色にも目を向けてなどいられないほど、疲れ果てていたんだろう。
そう思うと眼前に広がる美しささえ今度はつらくなってきて。
彼女は右手で目をふさいだ。
風で少しだけ冷えた指先が熱くなった目頭をやさしくふさぐ。
川のせせらぐ音だけがさわさわと響いていた。
「やれやれ、らしくもない物思いに耽っちまったかね」
しばしして、手についた温かい雫の気恥ずかしさに思わず独り言が出た。
こんならしくないことをしたのだ。
明日は自分らしく午後からサボって昼寝でもしよう。
そしたらきっと上司が来る。
一杯やりつつ愚痴の一つも聞いてもらおう。
そんなことを思いながら体を起こして空を仰ぐと、箒星が一筋、天の原を横切るところだった。
あの罪深い魂も、来世で幸せになれるといい……
らしくないついでにそんなことを願ってみたら、その願いは川を超え時を超えきっと叶えられるような、そんな気がした。
彼女は手頃な大きさの岩に座って手酌をしながら、上司の口ぶりを真似て独り言を言ってみた。
今日の仕事はもう終わっている。
先ほど最後の魂を彼岸へ届けたばかりで、夕暮れの三途のほとりには彼女以外には何もいない。
春の西日は川面でゆらめき、どこからか迷い込んだ桜の花びらはゆらゆらと光と水にまかれながら流れていった。
彼方には水鳥が夕日を翼の形に黒くくりぬき、川辺に咲いたなずなはその小さな花を薄紅色に染めている。
きれいだな、と彼女は思った。
杯に残っていた酒を飲み干す。
そう、世界はこんなにも美しい……。
今日最後の客は自ら命を断ってこの三途へとやって来た。
いつも通り一方的に彼女の方から語りかけると、物言わぬ小さき魂は弱々しい思念でしかしはっきりと彼女にそう伝えた。
その少し粘着質な清々しさが舟をこぐ手にねっとりとまとわりつくようで、手に持つ櫂が少し重みを増した気がした。
進む先の灰色の波だけを見つめながら、彼女は客に問いかけた。
なぜ?
他に方法は?
家族や大切な人は?
色々な感情の入り混じった思念だけでは問いかけへの回答は判然としない。
それでもただ二つだけは目をそらしたくなるほど明瞭に伝えられた。
自分の意思で人生を終わらせたこと、そして自らのしたその選択にとても満足しているということ……
「無事に」此岸を離れられたことに浮き立つ喜びの念が、背中越しに這いよるように伝わる。
その思念に捕まったら自分も共に沈んでいくような気分にかられ、彼女は一念に舟をこぎ続けた。
彼岸での別れ際、その歪んだ後姿を、彼女は陰鬱な気持ちで見送った。
客は降ろしたはずなのに、舟はまた一段と重くなった気がした。
杯を傾けて、こくりとのどをならす。
思い出す内、気づけばずいぶん飲んでいた。
斜陽は西の方既に没し、転がる空き瓶を照らすのは日から星へと変わっていた。
アルコールで火照った体を生温い夜風がくすぐる。
その粘るような風があんまり気持ちよくなくて、体を後ろに倒して岩の上に寝転がってみる。
今度は背中がひんやりと心地よかった。
眼前、紫紺の空に浮かぶは満天の星。
那由他の彼方から届けられる星屑の小さな光が、儚く揺らぐ生命のともし火のようで愛おしい。
そこここに残る灰白の薄雲の、風にたなびく姿までもが風雅で。
星座に詳しくないけれど、それでもこれがどれほど価値のある眺めなのかは知っている。
ああ、美しい……
世界はこんなにも美しい。
願わくば……
そう、願わくばこの景色をさっきの客の生前に見せてやりたかった。
春の夕暮れの寂しさを、星降る夜のまぶしさを教えてやりたかった。
この世界の美しさをその目に焼き付けてやりたかった。
世界はあんたを幸せにする為にあるんだと、思い知らせてやりたかった。
きっとあいつはこんな風靡な景色にも目を向けてなどいられないほど、疲れ果てていたんだろう。
そう思うと眼前に広がる美しささえ今度はつらくなってきて。
彼女は右手で目をふさいだ。
風で少しだけ冷えた指先が熱くなった目頭をやさしくふさぐ。
川のせせらぐ音だけがさわさわと響いていた。
「やれやれ、らしくもない物思いに耽っちまったかね」
しばしして、手についた温かい雫の気恥ずかしさに思わず独り言が出た。
こんならしくないことをしたのだ。
明日は自分らしく午後からサボって昼寝でもしよう。
そしたらきっと上司が来る。
一杯やりつつ愚痴の一つも聞いてもらおう。
そんなことを思いながら体を起こして空を仰ぐと、箒星が一筋、天の原を横切るところだった。
あの罪深い魂も、来世で幸せになれるといい……
らしくないついでにそんなことを願ってみたら、その願いは川を超え時を超えきっと叶えられるような、そんな気がした。
小町の心情も上手く書かれてて良かったです。
>世界は美しいって思うだけで生きる力が湧くと言うか……
凄く分かります!!この言葉は大好き
読んでいて涙が出てきました。ありがとうございます。
私も何度か死にたいと思ったことがありますが、そんなときにみる星空や満月は確かに自分を救ってくれました。
これからも執筆のほう、頑張ってください!応援しています。
小町はいい子。
扱ってるテーマも。
あなたの書く長編をちょっと読んでみたいです。
サボったら愚痴を聞いてもらう前に四季様にがっつり怒られるぞ小町w
何気ない一言にものすごく力を頂いています。
1.奇声を発する程度の能力様
ありがとうございます。
伝えたかったことに同意していただいてとても嬉しいです。
2.名前がない程度の能力様
あなたのそのコメントが嬉しすぎて自分も涙出てきました。
ありがとうございます。
3.日間賀千尋様
応援してくださってありがとうございます。
色んな方に共感していただいて嬉しい限りです。
4.名前がない程度の能力様
Yes! 小町はいい子!
5.名前がない程度の能力様
ありがとうございます。
今実は長編書いてますが色々難儀しております。
もう少しお待ちください。
6.名前がない程度の能力様
確かにw
怒った後のフォローを欠かさないのが四季様と信じてますw