ここにきてまさかのバレンタインネタ。
明らかに大遅刻だが、あえて来年のバレンタインに対するフライングだと言い張ってみる。
「…」
ちくたくと鳴る時計の音以外何も聞こえない部屋。明かりはついておらず、ただカーテン越しに流れ込んでくる薄い光が窓越しに置かれたベッドのシーツを淡く照らしているだけ。そんな薄暗い部屋の片隅に置かれた化粧台の前に佇む少女。ただボーっと正面の鏡を見つめ、時折思い出すかのように手元に持った小箱を眺めているだけ。僅かな光を反射して鏡に映った表情は暗く、本来ならまばゆい光を反射するであろうプラチナの髪や深く輝くアメジストの瞳は今はまるでくすんだ鉱石のように見える。
「…はぁ」
さっきからこうしてため息を吐くことしかしていない。もう起床してから何時間も手元の小箱を突いている。そのたびにその小箱…蒼い色紙で包まれて赤いリボンでテーピングされたそれはかさかさと軽い音を立てリボンを揺らすだけ。
「…はぁ」
またひとつ。
「何やってんだろう私は」
視線を右にずらすとそこには卓上用の小さなカレンダー。数字の羅列が並ぶ中、赤いペンで丸く印を押されたものがひとつだけありその真中には存在を主張するかのように14の数字が浮かんでいた。
「今日は特別な日だってのに」
14日…2月の、14日。2月14日という特別な日。
そう、バレンタインデーだ。好きな人にチョコレートを捧げ気持ちを伝えるという特別な日。本来バレンタインとはそういった意味を持ってはいないが…何、皆楽しめればそれでいいのだろう。
最近では友達や家族、仕事の同僚などに親交の証として捧げたりもするそうだが、彼女もそうかというとそういうわけではない。
「何でこないのよ…アリス」
誰にも聞こえないような小声で一言。箱に挟まったバレンタインカードの角を指でなぞりながら彼女は呟いた。
アリス。勿論不思議の里のアリスでも眠れる山のアリスでもない。幻想郷広しと言えどもアリスと言えば神の指先を持つ人形遣いことアリス・マーガトロイドしか存在しない。ちなみに神の指先とは咲夜が勝手に思っているだけである。
「ずっと待ってるのに」
そう言って今日何十度目かのため息を吐き出す。結論から言うと十六夜咲夜はアリス・マーガトロイドに恋をしている。
しかし、元来彼女は色恋沙汰には疎くこういった経験が無かったためどうしていいかわからず、アリスに対して恋心を抱いてから今の今までアプローチと呼べるもののほとんどをしたことが無かった。いや、したくてもできなかったといったほうがいいかもしれない。彼女はそういうことに疎いだけでなく極度の恥ずかしがりやだったのだ。ここで働いているときはメイド長としての矜持からかそのような雰囲気は一切感じないが、それ以外、特にアリスに関することに対してはとことん羞恥心に翻弄されてしまうのだから困ったものである。
にも関わらずここに来てのいきなりバレンタインデーにチョコを贈るという大胆なアプローチ。いつも瀟洒と呼ばれる彼女からここまで余裕を奪い取るには造作もなかった。
…つまり、全てを総合し一言で表すと…咲夜はへたれなのだ。
「図書館にでも来てくれれば紅茶のトレーに乗せて渡したりできたのに」
何を消極的なと笑うかもしれないが、去年までに比べたら大きく進歩した方なのだ。ちなみに補足すると去年のバレンタインは羞恥心のあまり会いに行く前にダウンしてしまい実行し損ねたという。
今朝は5時に起床し夜番の妖精メイドたちから引継ぎを受け、7時の一時休憩時間までの間に50回は脳内でそのときのことをシュミレートしたし、その中で何回も告白した。トレーニングは完璧…のはず。何時アリスがきても対応可能な臨戦状態。しかし、8時を回ってもアリスは一向に現れず非常に焦っていた(もっとも、そんな時間に図書館を訪れるような彼女ではないだろうが)。そんなことだからどうしても仕事に集中できず、時間を止めているのか進めているのかよく分からないほどに酷い有様。当然主人から待機を命じられた訳で。
「もうすぐ8時半、か。いや、まだ半、か」
さっき時計を確認してから長針は5メモリも移動していない。しかし感覚としては短針が10メモリ動いた後のような気分。
時を操る能力を持っていながらそのような気後れを取るほどに深刻なものなのだ。これは。
「自分から行く…のは無理ね。…仕事あるし、こんな日にいきなり行っても狙ってるみたいでみっともないし」
あくまでも「恥ずかしい」とは言いたくないようである。そしてまたため息。もうじきため息の回数が三桁に達しようとしていたそのとき、扉が軽く2回ノックされる音が部屋に響いた。
「どうぞトイレなら廊下の突き当たりにありますよ…」
「いやですね咲夜さん。私ですって」
無遠慮に扉を開けて足を踏み入れてきたのはこの館の門番であり仕事仲間の紅美鈴。何故屋敷の中に門番がいるのだろうと疑問になるが紅魔館では些細なことは気にしてはいけない。おそらく休憩中なのだろう。
門番はそのままずかずかと咲夜の元まで近づくと鏡越しに映る蒼い小箱に目を向け小さく笑みをこぼした。
「今年はしっかりと作ったんですね」
「…何時までも子供じゃないわ」
「いいじゃないですか。若々しいってのは」
「そんなことを言いに来たの?」
まさか、と門番は壁に腰を傾ける。仕事柄、椅子に座るよりも壁にもたれかかるほうが馴染んでいるのだろう。では何をしに来たのか。門番はただ休憩中に世間話をしにきたと白い歯を見せて笑うだけ。
「しかし、薄情ですよね。こんなにも心苦しくしているのに来ないなんて」
「さぁね」
「でも今日が何の日か分かってるでしょうに。…ああいった方はそういうものに疎いんでしょうかね」
「アリスを悪く言わないで」
「そうですよね。あなたの好きなアリスさんはそんな人じゃないですよね。私は一言もアリスなんて言ってませんが」
なるほどどうやら本当にただ世間話をしにきたようだ。苦虫を噛み潰したような顔をしてへらへらと笑う門番を睨みつける。すると門番も恋する乙女をからかうべきじゃありませんでしたね、と頬を掻いて見せた。
「しかし、困ったことになる前に手を打つべきですね」
「何が言いたいのかしら」
「いえ。夜の森は妖怪でも平気で襲うような怪物が闊歩していたりしますから危険だと思って」
「私がそんなものに遅れを取ると思う?」
「あなたに何かあれば彼女は悲しみます。早いとこ済ませたほうがいいのでは?」
「他人事ね」
窓の外を眺めながら今日は雲が多いですと呟いている様子はまさに他人事。しかし、彼女とて悪魔の城のメイド長。伊達に戦ってきたわけではなく、この便利な能力以外にもそれなりの実力を持っていると自負している。しかし、もし万が一不覚を取って怪我をしたら。…アリスは果たして心配してくれるだろうか。疑問とも願望ともつかない想像が頭をよぎる。
「…でも、確かに早いほうがいいかもしれないわね」
「ええ。『お嬢様は』心配ないとおっしゃられるでしょうが、やはり早いところ行っといたほうがいいですね」
「…」
美鈴にとって今の咲夜の乱れきった感情を読み取ることは気を操るくらいに簡単なことなのだろう。
なんだか門番如きに考えを看破されたのがいたたまれなくなってしまう。
「自分一応あなたの同僚だからそこまで酷くはないですよ」
「…ちょっと出かけてくる」
「あ、はーい。いってらっしゃい」
チョコレートを引っ掴んで館の門前を通り過ぎたあたりで、ようやく門番に乗せられたことに気づく彼女だった。
…
「…で、私は何をしているのかしらね」
目の前を通り過ぎていく人間たち。そのほとんどの手にはチョコレートが握られている。
今彼女は魔法の森にはいない。魔法の森にこんなに人間がいては世も末だと思われてしまうであろう。彼女が今いるのは人里の繁華街の中心地、市の中央だ。なぜ魔法の森ではなく人里なのか。そこは彼女も乙女。恋の前にはワンクッション置かねば落ち着けないのだろう。
「魔法の森に行かなきゃいけないのに」
頭では分かっていても中々体が分かってくれない。これといった目的もなくただひたすら市の中を歩いているだけである。
一体何のために館を飛び出してきたのか。このまま帰ったとしたら確実に門番からそのことで弄り倒されるであろうことは目に見えている。それだけは避けたい。何としてもアリス邸に行かなくては。
「あ、あの…これっチョコレート…」
「…え、あ、ああ…うん。ありがとう…な」
「……これは私へのあてつけかしら」
ふと目を横にすると木陰の下で丁度本日の目的を見事果たした男女を見つけてしまった。
女性のほうは顔を真っ赤にしながら俯いており、男性のほうはそれに負けないくらいに顔を真っ赤にして挙動不審に陥っている。あまりにもテンプレートすぎる展開に彼女を頭を抱えた。私もこうなればどんなにいいことかと心の中で涙する。
「とりあえず落ち着こう」
落ち着こうと考え頭の中で好きなチョコレート菓子を夢想することにした。
ガトー、マカロン、ボンボン、プラリネ、ガナッシュ、ザッハトルテ、フィレナワール…。
どれもこれも手の込んだものばかりである。こんなもの全て食べていたら虫歯など通り越して糖尿病一直線だろう。しかし瀟洒であることを信条にしている彼女はそのような痴態は晒さない。甘いものを食べた後はしっかりと運動してカロリーを消費するし、歯を磨くことを忘れたりはしない。
さて…ようやく思考が正常に戻ったことを確認し、またひとつため息をこぼす。
「…とりあえず、頑張って魔法の森の入り口までだけでも…」
「あら?…咲夜?」
いきなり声をかけられる。人間というものは後ろから声をかけられればそれがどれだけ親しい人間の声だったとしても振り返って誰かと問うてしまうものだ。勿論、彼女も例外なく振り返りつつ誰かと聞いてしまった。頭の中ではとっくに声の主に気づいていたが。
「ん、どな…?」
「あ、やっぱり咲夜だ」
「…ア、アリス…よね…やっぱり」
アリス・マーガトロイドが笑顔で手を振りながら近づいてくる。あまりにも都合のいい出会い方に思わず近くに主がいて運命でも弄ってるのではと回りを見渡してしまう。
「今日はどうしたの?」
「い、いや…その、買出しでっ…パチュリー様の鎮痛剤をね…じゃなくって!」
「?」
いつもなら「あらアリス奇遇ね。私はお嬢様の午後のお茶のために昆布を探しているの」と華麗に答えることが出来ただろう。…その受け答えが果たして華麗と言えるのかは分からないが、現にこの間はこれで受け答えしていたのだから華麗と言えるのかもしれない。
しどろもどろになりながらもとっさに手に持った小箱をメイド服のポケットに隠す。
「そうなの?大変ね。あの子の病弱っぷりは見てるこっちが心配になるわよねぇ」
「そ、そうなのよーあはは…はぁ」
「どうかした?」
「いや、なんでも」
何とか誤魔化せたようだが自然とため息が漏れる。それは誤魔化せたことに対してのものではない。ほんの一瞬でもアリスに心配してもらえた主の親友に対し、嫉妬に近いものを感じてしまった事に対しての「呆れ」のため息だ。
「そ、それよりアリスはどうしたの?」
「ん、私も買い物かな」
「へぇ」
先ほどから全くぎこちない反応しか返すことが出来ない咲夜。それもそのはず、今朝からずっと会いたいと思っていた少女が後ろから突然声をかけてきたのだ。心の準備をする暇は当然ない。この状況、恋する乙女にとっては非常にハードルが高いものなのだ。いかに空を高く飛べようが決して飛び越えることのできないものが一つや二つある。
さっきからポケットに入れた小箱にばかり意識が集中してしまうせいもあるのかもしれない。何やかんやと理由をつけては会いに行くことができなかったが、今なら渡せそうにもなかったその小箱を簡単に渡すことが出来る。しかし今それが出来るほど彼女に余裕はない。そもそも今渡せるようでは14日の日付変更と同時にアリス邸に突撃していたことだろう。
渡したい、しかし渡せないという葛藤が彼女から正確な会話能力を奪ってしまっていた。
「今日は少し多めに買い込もうかと思ってるの」
「た、大変ね」
「大丈夫よ。この子がいるもの」
「シャンハーイ!」
片手に持たれていたバスケットの中からいきなり人形が顔を出す。一見びっくり箱のような演出も見慣れれば全く驚かない。
「いつもながら元気な人形ね」
「上海、まだかごの中で待っててね?」
「シャンハーイ」
「じゃあ咲夜…」
…このままでは会話が終了して別れてしまう。恥ずかしがりやな咲夜のこと。この機を逸したらもう今日はアリスに会いに行くことなど出来ないだろう。そうなる前にこれを渡さなければ。そして出来ることなら気持ちを伝えなければ。
それらの感情が焦りとなって噴出したのか、彼女は突拍子もないことを言い出してしまった。
「アリス!荷物持ちさせて!?」
「…荷物持ち?」
「あ」
言ってからコンマ数秒で後悔するがもう遅い。いきなり荷物持ちをさせてくれなんて相手に変な勘違いを生み出しかねない発言に、彼女は今すぐ逃げ出したい気分になってしまう。むしろ気分はもう謝って逃走するモードにシフトしつつあった。
しかし…。
「確かにしてもらえると助かるわね。…お願いできる?」
アリスはただ喜ぶだけだった。
これに対しても咲夜はコンマ数秒で「喜んで」と返事をしてしまったことであろうことは想像に難くない。
…
「どんなもの買うの?」
「シャンハーイ」
「それは回ってからのお楽しみ」
「シャンハーイ!」
「それにしても随分と大きめな袋を持ってきたのね」
「シャンハーイ!!」
「ええ。小さめのバスケットじゃ不安だったから」
「シャンハーイ!!!」
「とりあえずどうにかしてこれ」
「シャンハーイ!!!!」
「こら上海。咲夜に乱暴しないの」
「シャンハーイ…」
偶然の邂逅からいくらか落ち着きを取り戻したところで二人並んで市の中を散策開始。
咲夜はさっきまで人形にぽこぽこと殴られていた後頭部をさすりながら市の様子を見渡していく。やはりバレンタインというだけあって周りからも甘い香りが漂ってくる。
やはり今日が特別な意味を持っているからだろうか、男女二人組みが多いことに気づく。中には女性同士で手を繋ぎ歩くものも見られる。…ごく少数だが男同士熱く肩を組みながら歩いているのを見かけたが気にしないことにした。
「やっぱり今日は混むね。できれば午前中の内に帰りたかったんだけどなぁ」
「ええ。バレンタインですもの…あの、そのアリスっ」
「ん?」
バレンタインに浮く里を眺めながらの会話。この流れなをどうにか持っていくことができれば自分も渡せるのではないか?と希望を抱き、勇気を出して話しかける咲夜。恋する乙女はごく稀に常人を圧倒できるほどの勢いを見せることがあるというが、果たして彼女は今それを発揮することができるのだろうか。
「バレンタインの…チョコなんだけどね?…その、あのえーっと、わたし…」
「シャンハーイ!」
「あ、あったあったあのお店!ありがと上海。行こ?咲夜…咲夜?」
「…何でも」
間違いのないように言っておくが上海人形は名目上は半自律でありまだ完全自律には至っていないはずである。だからアリスが半自律だと言い張る限りはどれだけ自律的な行為を起こしてもそれは自律ではなく半自律なのだ。
「ごめんください。えっと、これと…これをこのお金で買える分詰めてください」
「あいよ!気前いいねぇお嬢ちゃん」
「今日くらいは大判振る舞いで」
「シャンハーイ!」
咲夜は店の外から店主と談笑するアリスの後姿を眺め、ただボーっと思考を巡らせている。さっきの人形は確実に私の邪魔したようにしか見えないよねとか何であそこでもっと強く出ることが出来なかったんだろうとかなんだかアリス楽しそうだなとか考えているだけだった。
アリスは買い物の動作ひとつに限って見ても非常に洗練されている。無駄がなく、それでいて優雅とでもいうのだろう。…自分にもあれくらいの優雅さがあれば少しくらいはアリスに意識してもらえるのだろうか。
「…はぁ」
「シャンハーイ?」
「はっ…な、何よ」
「……シャンハーイ」
表情も言葉も何を言っているのか分からないが確実に彼女を馬鹿にしていることは明らかだろう。やっぱりこの人形は自律しているとしか考えられない。
「お待たせー」
「あ、持つわ」
「お願い」
手に持つとずっしりとした重さとが伝わってくる。
一体なんだろうかと覗こうとすると白い指で額にデコピン。存外痛かった。
「咲夜お手付き。めっ」
「ご、ごめんなさい」
「シャンハーイ」
条件反射に従ってつい覗こうとしてしまったようだ。考えてみればいくら荷物持ちをしているからと言って勝手に誰かの買い物袋を覗くのは失礼であろう。内心で激しく後悔する咲夜。
「さ、次行きましょ?」
「あ、うん」
そんなことは露知らず、アリスはただ楽しそうに笑いながら咲夜の(荷物を持っていないほうの)手を引っ張るのだった。
…。
……。
………。
「…うぅ」
結論から言うと咲夜は荷物持ちを志願したことを少し後悔していた。
買い物を始めてから大体1時間。アリスと一緒に過ごせるのは嬉しいのだが、どうにもこうにも肩が痛い。なぜなら…
「大丈夫?」
「へ、へーきよ…」
「シャンハーイ!」
「だからって肩に乗るな」
まさか米俵並みの量を買い込むなんて想像すらしていなかったのだ。
今現在咲夜は見るからに瀟洒とはかけ離れた姿をしている。背中には大きな荷物袋を背負い、両手には中身のぎっしりと詰まった手提げ袋が引っさげられているその姿。これでは遠くの市場に買いだめに来た田舎の肝っ玉かあちゃんのようにしか見えない。肩関節がさっきからぼきぼきと悲鳴を上げてばかりで煩くて仕方がない。
アリスは心配して私も持とうと言ってきたのだが、そこは荷物持ちを自ら志願した意地で丁重にお断りしたのである。…それをいいことに肩でその身を休めている人形を見ているとやっぱり持ってもらえばよかったとまた後悔するのだった。
「ごめんなさいね。次で最後だから」
「ま、まだあるのね…い、いてらっしゃい」
アリスが店で物色をしている間は咲夜も流石に肩の荷を下ろす。と言ってもやはり瀟洒な彼女は荷物を直に地面に置いたりはしない。いつも持ち歩いている大き目のハンカチを広げてその上においている。
「もう、肩が…限、界」
そうしてまたため息を吐き出す。疲労と呆れの両方からだ。
ポケットに手を突っ込み中の小箱に触れる。多少角が凹んでしまっているようだがおおかたまだ無傷なその箱を指で転がしながらまたひとつため息を漏らす。
渡すチャンスは何度もあった。話題に何回もバレンタインのチョコの話が出てきた。咲夜は誰に渡すの?なんて核心を突くことまで聞かれた。なのにどのチャンスでも渡すことができなかった。自身のあまりのへたれっぷりにまたため息。さっきから思考の泥沼に嵌っているが、強い疲労のためか気づけてはいないようだ。
びゅうっと少し強めな風が頬のあたりを吹き抜ける。…ふと、甘い香りが鼻腔を擽った。目を向けるとそれはどうやら足元の袋からのようだ。アリスはああ言っていたが、一度気になってしまったらもう遅い。耐え難い見たいという衝動に彼女は駆られてしまう。
「秘密って言ってたけど…」
目線をアリスに向ける。
「そこをどうにか…」
「うーん。…おじちゃん大好きって言ってくれたら5割引してあげるんだけどなぁ」
「ソイツハセクハラハツゲンダ。バツトシテナナワリビキダナ」
「すげぇ!人形がしゃべったぁ!」
「多分腹話術です」
店の店主と値引き交渉をしているようだ。
「…すこしだけ…なら」
心の中でごめんねと呟いて彼女は袋の中を覗き見る。すると…。
「…チョコ…だらけ?」
チョコだ。見渡す限りチョコレートだ。中には多量のチョコが所狭しと詰まっていた。袋中に芳醇なカカオの香りが充満している。いっぱいに詰まったチョコレート…通常なら見ているだけで胸焼けしそうな光景だが、自他共に認める甘党な彼女にとってみれば非常に魅力的な光景である。それが異常か正常かはこの際どうでもいい。
しかしそこでふと当たり前の疑問を浮かべる。
「…いくらなんでも多すぎよね」
咲夜ならともかく一般人が食べるチョコの量としては明らかに多すぎるのだ、この量は。普通に食べても軽く数ヶ月は持つだろう。だが優しい彼女のことだ。もしかしたら沢山作って友人たちに配るつもりかもしれない。そのための圧巻の量なのだろう。
そこまで考えて…ふと、自分がどうにも思い上がった勘違いをしているような違和感が背筋を上った。
「私…アリスがチョコを作ってない前提でものを進めていたわ…」
いつも瀟洒な彼女らしからぬミスだ。アリスだって女の子。バレンタインチョコを作るくらい何の問題もない。加えてアリスには沢山の友達がいる。霊夢や魔理沙は勿論、我が紅魔館の面々にも親しくしてくれている。その他にも氷精とその友達妖精や夜雀、山の青巫女や烏天狗、果てはスキマやフラワーマスターまで友好を持つ彼女。むしろチョコを作るのが自然といったほうがいい。
罪悪感を置き去りにして他の袋も覗き見る。そちらにはフルーツや卵、牛乳といった様々なお菓子に使えそうな材料が詰まっている。料理の得意なアリスなら沢山の種類に富んだお菓子が作れることだろう。その他はお菓子用の調理器具など。
「それはそれで楽しみが…あ」
違和感の正体…頭にとある予感がよぎる。いや、それは予感というよりも確信といったほうがいいのかもしれない。咲夜はアリスを好いている。しかし、アリスはそうか?いいやそうとは限らない。
…もしかしたら自分もこのお菓子を配られるうちの一人なのではないだろうか。それはいい。だがしかし、それに籠められた意味はどうだろう。他の皆と同じ気持ちで、同じ立ち位置として渡されるのではないだろうか?
…すなわち、「友人」として。
少し考えれば分かったことだろう。相手がどう出るか、どう考えているかなんて本来なら最初に考えるべき所だ。だが、失念していた。分かることができなかった。…もしかすると分かりたくなかっただけなのかもしれない。
少し離れたところで必死に交渉を続けているアリスを漠然と見つめる。身振り手振りで色々と話を振っている様子がまるで他人事のように視界に入っている。…ふと、指先に何かが巻かれているのが見えた。よく見るとそれは絆創膏やガーゼ…つまりは傷口だった。更に観察すると結構な箇所にそれは張られていて、細く白い指とはアンバランスな見た目は痛々しい印象を与えるだけ。咲夜はそこでようやく自分の勘違い…つまり独りよがりをしていたのだと気付かされた。
恋は盲目とはよく言ったものである。
「ごめんなさい咲夜ー。財布の薄さが深刻で値下げ交渉粘ってたら遅くなっちゃった…って…咲夜?」
「…シャンハーイ?」
「…あれ?どこいっちゃったのかな」
…
「最悪だ私」
ちくたくと鳴る時計の音以外は何も聞こえない部屋。明かりはついておらず、ただカーテン越しに流れ込んでくる緋色の夕日が窓越しに置かれたベッドのシーツを紅く照らしているだけ。そんな薄暗い部屋の片隅、ベッドの上に蹲る少女が一人。ただボーっと窓の外を眺め、時折思い出すかのように手元に持った少し形の歪んだ小箱を眺めるだけ。僅かな光を反射して窓に映った表情は青く、本来ならまばゆい光を反射するであろうプラチナの髪や深く輝くアメジスト瞳は今はまるで汚れた鉱石のように見える。
「何一人で勝手に舞い上がって勘違いしてたんだろ」
さっきからこうして後悔の言葉を吐くことしかしていない。もう帰還してからもう何時間も手元の小箱を突いている。昼食は食べていない。気力が湧かず、スープですら喉元を通り抜けようとはしなかった。
「しかもアリスに何にも言わずに荷物置いて帰っちゃうなんて」
視線を上にずらすとそこには小さな壁掛け時計。数字の羅列が円形となって並ぶ中、短針に指差された5の数字がその存在を主張していた。
「絶対アリスに嫌われた…」
もうじき後悔の言葉の数が二桁に達しようとしていたそのとき、軽快な足音とともに扉が軽く3回ノックされた。
「どうぞトイレなら廊下の突き当たりにありますよ…」
「いやちゃんと3回ノックしましたって」
またもや無遠慮に扉を開けて足を踏み込んでくる門番。今彼女は休憩中ではないはずだが紅魔館では些細なことは気にしていられない。おそらく代わりを立ててきたのだろう。
そのままずかずかと彼女の元まで近づくと小箱に目を向ける。
「渡してこれなかったんですか」
「…渡さなかったのよ」
「嘘はよくない」
そう言ってベッドに腰掛ける美鈴。どうやら世間話をしにきたようではないようだ。長年共に仕事をこなしてきた咲夜は知っている。美鈴が真面目な話をするときは何かに座る癖があるということを。
「喧嘩でもしました?」
「…してない」
美鈴はそういうと咲夜の少しばかり乱れた銀糸を手櫛で撫でた。長年共に仕事をこなしてきた美鈴は知っている。咲夜が嘘をつくときは髪をかき乱してしまう癖があることを。
咲夜には見えていないであろうが、今の美鈴の目はまるでわが子を見るかのごとく優しい色をしている。
「咲夜さん。アリスさんに嫌われたって思ってる?」
「な、何でっ」
「だったら…」
「なっこ、こらっ!頭撫でるなぁ!」
「はいはい」
こうなると咲夜も弱いものだ。本人は恐らく気付いていないだろうが、どうも彼女は頭を撫でられると強い行動に出ることができなくなってしまうようなのだ。単に苦手なのか抗体がないからなのかは分からない。しかし今はそのことに感謝する美鈴だった。
「謝ってこなきゃ、ね」
「…分かってる」
「怒ってないと思うけど」
「…ええ。多分、きっと怒ってないと、思う。けど…」
「じれったいですねぇ、このままじゃ本当に嫌われちゃうかも知れませんよ?」
「アリスは…そんなんじゃないと思う、でも」
しかし咲夜とてもうわかってはいた。確かにアリスは荷物を置いて帰ったくらいで咲夜を嫌いになるほど心の狭い妖怪ではないだろう。今日という日を逃せば仲が発展する機会がまたぐっと減ってしまうかもしれない。自分の羞恥心の大きさは嫌というほど自覚している。明日になってしまったら想いを打ち明けることができない日々がまた続くことになるのだ。きっとそう。でも、そんなのは嫌だ。もしその間にアリスが誰かに取られでもしたらと考えるとゾッとする。…実際はまだ彼女のものになったわけでもないのだがそこは乙女のフィルターというものだ。
「だったらなおさら謝らないと。彼女は気にしてないのに咲夜さんが気にしてるってのもおかしな話でしょ?謝ってすっきりして、その上でそれを渡せばいい」
「美鈴」
「せっかくのバレンタインなんだから。どうせならいい目みたいでしょ?」
「…」
「大丈夫、きっとうまく行きます。この私が保証します」
「……あーあ。ほんと、嫌だなぁ」
正直、嫌だった。何が嫌かってさっきまで渋っていたのに急に行く気が湧いてきた現金な自分が。また、自分がまるで門番に励まされて行く気を取り戻したように見えるから。…まるで、結果がどうあれうまく渡せそうな、楽観的な予感がわが身を支配しているような気がしたから。
気付いたときには館の門前が背後にあった。
「…やっと行きましたか」
「…『きっとうまく行くきます。この私が保証します』…ねぇ?」
部屋の主が館を飛び出したころ、入れ違いのように館の主がやってきた。
今日は随分と早起きなことだ。いつもなら子供が寝静まるころに起きてくるというのに。随分と眠そうに羽を伸ばしあくびをしている様はまるで結果の決まりきっている抽選結果を見る子供のようだ。
「お嬢様。もういいですよね?これ以上表情を抑えるのは限界ですよ」
「ええ。ポーカーフェイスなんてできないあんたがよく頑張ったわ」
「隠し通せていたかは疑問ですが…恋する乙女は皆盲目なんですよ、きっと」
二人してくつくつと笑う姿はまさに悪魔のよう。
「咲夜は知らないんだろうね。アリスが一月前からここに通いつめてたこと」
「ええ。あれは傑作でした。私や小悪魔さんにまで『咲夜の好きなチョコレート菓子教えて』なんて聞くんだから」
「パチェも鬱陶しがってたわよ。自分にお菓子の作り方聞かれても困るって」
「アリスさん、洋食とか作るのは上手いのにお菓子は作れないなんて、ホント魔女っぽくないなぁ。あ、そうだ今日はお食事私が作りますね」
「ええ、中華以外で任せるわ。ま、あの子は…」
どうせ今日は帰ってこないだろうから。
…
「…勇んで出てきたけど、やっぱり恥ずかしい…」
日没から大体2時間。魔法の森の一角、人形遣いの住処の前で咲夜は文字通り右往左往していた。出発時は門番に煽てられて威勢のいいままに出てきたからよかったが、寒空を飛んで頭が冷静に戻ってくるとやはり恥ずかしさというものがぶり返してくる。それにもしアリスが荷物を置いて帰ったことに対して怒っていたらと思うと心配になってしまう。
「大丈夫。アリスはそんな子じゃないはずよ…」
ポケットに手を突っ込んで小箱を撫でる。中で転がされて大分形が悪くなってしまったようだが何、中身が無事なら問題ないだろう。大丈夫だ。自信を持て。頼りないが美鈴だってうまく行くと言ってくれた。恐れることはない。早くアリスに会いたい。
心の中で自分を鼓舞し深呼吸し、怖気ついてしまう前に扉をノックした。
「はーいただいま…あ、咲夜ー」
「アリス」
扉を開けるとそこにはエプロン姿のアリス。あまりのかわいさにあっけに取られる咲夜であったが、何の警戒もなく扉を開けてしまうアリスを見て少し心配になる。なんとなく目を合わせ辛くなり視線を下げると…お約束と言うかご丁寧と言うかは分からないが頬の辺りにチョコが付着していた。
「アリスチョコついてる」
「ほえ?」
残念だが今の咲夜に頬についたチョコを拭い取れるだけの度胸はなかった。
「ん、ありがと。それはそうと丁度いいところに来てくれたわ咲夜!何時までたっても戻ってこないから危うく自分から突撃するところだったよ。さあ上がって?」
「うん。でもその前に…いいかな」
見た感じ、アリスは先程のことに対して全く怒っていなさそうではあった。が、それでは咲夜の気が済まないのだ。どうしても謝っておきたい。まぁ、好きな子にはやはり少しでもマイナスの印象を持って欲しくないという打算的なものもあるかもしれないが。もっとも、今の咲夜にはそのようなことを気にしている余裕などない。
「えっと…その」
「うん?」
一度間が空いているため羞恥心がぶり返してきているようだ。ただ一言謝るだけなら簡単と思うかもしれない。が、その対象が自分の想い人だとあっては勝手も違う。何より恥ずかしがりな咲夜では普通に謝るだけでも恥ずかしいのだろうからきっと仕方のないことなのだ。
「さっきはその、勝手に荷物置いたまま帰って…ご、……ごめんなさい!」
「うん?いいよーそんなの気にしなくても。忙しい咲夜のことだから急に仕事が入っちゃったんでしょ?」
ただ微笑むアリス。そんな理由で帰ったのではない。もっと汚い感情に突き動かされてその場から逃げ出しただけだというのに。穴があったらスライディングダイブしていたことだろう。どこまでも純粋なその笑顔に咲夜は速攻で逃げ出したくなる。
「そんなんじゃないんだけどね。もっとよくないというか、あんまり褒められない理由だから」
「え?」
「もっと汚い理由で…あそこから逃げ出したのよ。本当にごめんなさい」
「もー、私がいいって言ってるんだから咲夜は気にしなくてもいいの」
不意に咲夜の掌に暖かい何かが触れた。はっとなって反射的に握り返すとそれは暖かな温度と柔らかな感触を返してくる。
…掌を握られた。そのことを数瞬遅れて認識した途端、活動限界まで暴れだす心臓の鼓動。胸はドクドクと痛いくらいに全身に血液を循環させ体温が急激に上がってしまう。自然と息が上がり顔が熱くなる。
「それに、咲夜はまた来てくれたじゃない。だから、ね?」
「…アっアリス、が…そう…言う、にゃら…っ!」
「にゃらだってー。咲夜でも噛むんだね」
呂律がまるで機能していない。さっきにも増して逃げ出したくなる。しかしそれでは駄目だ。ただ謝るだけのためにここまで来たのではない。第一の目的が達成された今、残すは第二の目的…ポケットに突っ込まれた小箱を渡さなければならない。
「ま、それはさておき改めて…いらっしゃい咲夜。上がって?」
「え、ええ」
足を踏み入れた途端に甘く蕩けた香りが鼻腔をくすぐってきた。チョコレートを始めとし、カカオやフルーツ、その他乳製品の匂いなど様々なものが混ざっている。例えるなら洋菓子店の厨房の裏側を通ったときのような。常人なら軽く気分を悪くしそうな匂い。だがしかし、他の追随を許さない程に超甘党な咲夜には通用しなかった。いやむしろ日常的に嗅ぎ慣れているといった方がいいのかもしれない。
「匂いきついと思うけどごめんね?」
「平気よ?とてもいい香りだと思うわ」
「…うん。やっぱり甘党なんだね」
今更になって今朝から何も口にしていないということに気付き必死にお腹がなるのを抑える。まぁ常人なら空腹時にこんなに甘ったるい空気を吸うと余計に気分を悪くしただろう。
玄関を通って通路を歩き、居間の前の扉まで歩くとアリスはくるりと回転して咲夜に向き直った。
「ねぇ、咲夜。目、瞑ってくれる?」
「え、何で」
「いいからいいから。…ね?」
有無を言わさぬ強制力を感じる。アリスにエプロン姿で首を傾げられて問われるとなんともいえない破壊力が生じることが現時点を持って証明されたのだった。主に咲夜限定で。
「アリス?…ひゃあ!?」
「あ、ごめんなさい、驚いた?」
何時の間に回ったのか後ろから柔らかい手が伸びてきて目隠しをされる。咲夜の演算能力はもう限界のようでアリスの一挙一動に過度な反応を示してしまう。ふと、脳裏に大丈夫だと断言した美鈴の顔が浮かぶ。心なしかその表情は笑っているように感じられて、帰ったら絶対ナイフ投げてやろうと理不尽な思考を展開する。そうでもしなければ我慢することなどできないのだ。ちなみに何が我慢できないかというと気絶しそうとか気が狂いそうといった類のもので、決して襲ってしまいそうとか大胆なことを考えているのではない。というか今の彼女にそんな大それた行動を起こす勇気も度胸もない。…乙女だから。多分。
「我慢してね?…ん、そのまま前進して」
「は、はい」
「緊張しなくても大丈夫。食べたりしないから」
「た、たべっ!?」
扉の開く音がする。上海人形だ。いつも咲夜にはバイオレンスな彼女(?)も主の命令には逆らえない。目隠しをされている咲夜には分からないが上海は確実に咲夜を睨んでいる…ように見えた。見えない視線をちくりと感じつつも躓かないように慎重に足を動かし居間に侵入。次の瞬間、玄関で感じた以上の甘い香りが伝わってくる。一体何があるというのか?
「…もういいかな?はい、ご開帳ー」
「この香りは…ん?…おお?」
目の前の状況がうまく理解できていないのだろう、フリーズを起こしている。しばらく目を見開き…目の前の机に鎮座しているチョコレート菓子の山を傍観。
ガトー、マカロン、ボンボン、プラリネ、ガナッシュ、ザッハトルテ、フィレナワール…様々なものがある。おそらくこの世界におけるチョコレート菓子のほとんどがここに集結しているのではなかろうかという光景だ。
「これは…一体?」
「今日はバレンタインでしょ?」
「え…、そ、そうね」
未だに目の前で起こっている状況が理解できていないようだ。アリスは少しもじもじとしながら上目遣いに相手を見据える。アリスとて乙女なのだ。こういう反応も当然取れる。しかしその無意識の行為が更に咲夜の再起動の時間を遅延させてしまうことに彼女は気付いていない。
「だから、チョコを送ろうと思って」
「そ、そうなの。そ、それにしては多すぎない?皆に配るにしても…」
「私自慢じゃないんだけど、料理とか作るのは得意だけどお菓子作るのだけは苦手で…手がこんなになるまで練習しないと作れなかったの」
「そ、そう?」
料理は上手いのにお菓子は作れないとはこれ如何に。
「でも捧げるのならやっぱりおいしいって言ってもらえるものを作りたいじゃない?だからずっと練習して…で、練習するなら種類は多いほうが上達しやすいかなっていっぱい作って」
この量は半端じゃない。おそらく相当作りこんだのだろう。何も練習したからと言ってこんな量を作る必要はなかっただろうに。
物事を練習するとき、同じことを何回もやって体で覚えるタイプと色々なことをやっていく過程でコツを覚えるタイプが存在する。アリスは間違いなく後者だ。
「それに、どうぜいっぱい作るなら捧げる人が好きなものをいっぱい作ったほうが喜ばれるでしょ?」
「ま、まぁ、好きでもない物をいっぱい出されても飽きるし、ね」
咲夜はもう自分が何を言っているのかわからなくなっていた。なぜなら机に鎮座しているお菓子はそのほとんどが自分の好物だったのだから。捧げる人。この場合バレンタインの意味を考えれば想い人ということ。想い人に捧げるならその人が好きなものを作ったほうがいい。確かにそうだ。だがしかし、だからこそ、咲夜はわからなくなっていた。
(勘違い、してしまいそう)
あの時アリスが沢山チョコを買っていたのは友達である皆に配るためではなかったのか?そして自分もその中の一人ではなかったのか?咲夜の中でさっきの自分の考えが木霊する。しかし今そこにあるものは自分の好きなものばかり。
…果たしてこれは勘違いなのだろうか?
「咲夜!」
「は、はい!」
あたりには何も音がない、静かな空間が広がっている。しかし咲夜にとってはそうではなかった。耳の裏で激しく流れる血流が煩い。胸の内で激しく鼓動する心臓が喧しい。先程から不規則に乱れている呼吸が鬱陶しい。とにかくノイズだらけだ。
…簡潔に言うと緊張のピークにある。
「咲夜…」
「…」
「…好きです、咲夜。…世界のだれよりも」
「―――っ!」
咲夜の世界など誰も発動させてはいない。しかし、確かにそのときアリス邸では時間の流れが止まっていた。しかし時計は相変わらずちくたくと音を立てていることからも止まっているのは二人の脳内だけのようだ。二人の頭の中では激しくフリーズと再起動を繰り返しており、どちらも微動だにしない。
言っちゃった。アリスの中ではただそれだけが木霊している。対する咲夜の脳内の状態もまた似た様なものだ。好きです…世界のだれよりも―――。この言葉だけが彼女の中を音速を超えて駆け巡っていた。
「…えっと、つまり」
「えっ?」
「勘違いで勝手に…?」
「ど、どうしたの咲夜?」
鉛のような頭を死ぬ気で回転させて考える。咲夜はアリスが好きだ。アリスは咲夜に告白した。つまり、両想いな訳で。自分が勝手に早とちりをして悶々としていただけと?
アリスが何時ごろから咲夜に思いを寄せ始めたのかは分からない。逆もまたしかり。
…やはり、恋する乙女とは非常に厄介なものだ。
「…ああぁううぅぅ」
「えっ咲夜!?どうしたの!?あっまさかこの中に嫌いなものがあったの!?」
「ち、違う…から、ちょっと、待って…」
そんなわけがない。単なるうれし泣きである。恐らく、初めての。
咲夜は思う。何も恐れることなどなかったのだな、と。結局、美鈴の言った通り。癪だ。癪だけど、今はそんなことどうでもいい。ポケットに収められた小箱が揺れる。ここまで来て何を迷うことがあろうか。後は渡して想いを伝えるだけ。心配ない。うまく行く。両想いなんだから。勇気を出してそれを引き抜くだけだ。
「…アリス。私、きっとうまくいくと思う」
「えっ」
「だから心配ないよね」
ずっとポケットの底で転がされて形は悪くなってしまったが何、角が取れたと思うことにするほうがいい。いや、何がいいかはこの際どうでもいいのだ。
「これ…私の気持ちだから」
「…咲夜ぁ!」
小箱と一緒に出せる限りの勇気と丁寧に折りたたまれたカードを差し出す。
後ろでパタンと音が聞こえる。上海が泣く泣く気を利かせたのかゆっくりと居間のドアを閉めたようだ。
かすかな風が巻き起こり真っ赤なリボンが嬉しそうに揺れた。
好きです、アリス。世界のだれよりも。
十六夜咲夜
とても素晴らしい咲アリでした!!
咲アリと話の中のたくさんのチョコのせいで甘すぎて今日食べるものがすべて甘くなりそうだよぅ(感涙
恋する乙女は本当に可愛いらしい。
ごちそうさまです。
甘い咲アリをありがとうございます。
>>奇声を発する程度の能力さま
素晴らしいと言っていただけるとこの作品も光栄です…!
>>こーろぎさま
遅刻するからにはせめて相応の甘さは持たせるべきかと思い頑張りました。
>>3さま
にやにやしていただけるとは…感無量です!
>>4さま
むしろもっと引っ付けと声を大にして訴えたいものですw
>>5さま
瀟洒な彼女も恋をすれば純情な乙女となるのでした。
>>6さま
これがぎゃっぷもえというやつなのでしょうか…!
>> 華彩神護.Kさま
気付かなかった…。誤字報告ありがとうございます。