明るい日差しが幻想郷を包む昼過ぎ。
「それでは魚を捕りに行ってきます」
籠を背負い、玄関の戸を開ける早苗。
「待ちなさい」
「? 何でしょう」
神奈子に呼び止められ、きょとんとした表情で振り返る。
「うちへ参拝に来る人たちが話してたんだけど、実は最近山の近くの川で溺れかける事故が多発してるみたいなの。万が一ということもあるし、早苗も気をつけて」
「なぁんだ。大丈夫ですよ。私は普通の人間とは違いますから、そんな事にはなりません」
「そうかしら。そうだといいけど」
「心配して下さり、ありがとうございます。ちゃんとお夕飯の準備には間に合うよう帰りますので、ご安心を。もちろん魚も大漁ですよ」
「ふふ、頼もしいわね。それじゃあ行ってらっしゃい」
「はい、行って参ります」
こうして早苗は意気揚々と神社を飛び立った。
そして溺れた。
「ギャー! 助けわっぷぷ」
山の中腹にある川で魚を捕っていた早苗。河原に置いた籠へ向けて、風で水ごと魚を巻き上げるだけの簡単な作業……の筈だった。
しかし急に水流の勢いが激しくなり、まず足元を掬われてドボン。体勢を立て直すこともままならず、そのまま押し流されていく。
(くっ、こういう時はパニックになっちゃダメ。落ち着いて、激流に身を任せ同化する!)
早苗は全身の力を抜き、流されるがままとなった。
――三秒経過。
「ぶっはぁっ、げほっごふっ、おぇ」
(バカなの私は!? 同化ってもうそれ死んじゃってるじゃない!)
全然落ち着いてなかった。自分が混乱していることにも気付かない程混乱してたようだ。
(ハッ、そうだ)
だが今度こそ大丈夫。彼女はようやく思い出した。
(飛べばいいじゃない)
自分が飛べることに。
善は急げと言わんばかりに全身に力を込めて浮き上がろうとする。が、
(ふっ、ふんっ……あれ)
体は上へ向かうどころか、逆にどんどん底へと沈んでいく。いつの間にかかなり深いところまで来ていたようだ。
流れが速いせいか、まるで何かに足を掴まれているかのように体の自由がきかない。
(う、うう、嘘っ、どうしよう、本当にマズイっ)
必死の抵抗も虚しく、自然はいとも容易く人間を飲み込む。
伸ばした手は水面にすら届かず、遠ざかる日の光が彼女の心に絶望の闇をもたらした。
(か、神奈子様……諏訪、子……さ…………ごめん、なさ)
二柱の顔を思い浮かべながら、その意識もボヤけていく。
とその時、不意に誰かが自分の腕を掴んだ。驚きのあまり、遠のいていた意識もハッと覚醒する。
もの凄い力で引っ張り上げられ、すぐに空気の世界へ戻ることが出来た。
水面から顔が出るやいなや、考えるより先にまず呼吸を求める体。
普段有り触れている空気。あれ程求めていたのに手に入らなかった空気。一度は諦めかけた空気。今再び自分が吸っている空気。生物に必要な空気。空気うめぇ!
(生きているって、素晴らしい)
目と鼻と口から粘質ゼロの水を垂れ流しながら、早苗は全身で幻想郷の空気を感じていた。自分を生かしてくれている空気に心から感謝する。
「ふ、ふふふ……あはは、ハッハッハッハッハ!」
もう笑うしかない。
「だ、大丈夫?」
「はぇ?」
声をかけられ、そこで初めて自分が誰かにしがみついていることに気がついた。そもそも助けられたからこそこうして息が出来ているのだ。
慌てて謝罪する。
「あわわわわ、ごめんなさい」
(じ、自分の世界に浸ってる場合じゃなかった)
赤っ恥である。
「い、いいっていいって」
「ん? この声は」
聞き覚えのある声に、ようやく命の恩人の顔を確かめてみれば、緑の帽子に水色の髪。
「にとりさんじゃないですか!」
「気付いてなかったの? まぁいいや。とりあえず岸まで行くから、しっかり掴まっててね」
「あ、は、ハイ」
見知った相手に安堵する早苗。まだあまり力が入らないので、大人しくにとりに甘えさせてもらうことにした。
陸に上がればもう安心。やはり人間は空でも海でもなく、陸で過ごすのが一番だ。
「助けてくれてありがとうございました」
「気にしないくて良いよ」
「いいえ、このお礼は必ずします!」
早苗はまるで妖怪退治に行く時のように煌く瞳でにとりを見つめた。目からグレイソーマタージ。
「う~ん、そこまで言うなら、じゃあ」
「ふむふむ」
「えーと、そのぅ」
「はいはい」
「と、友達になってくれー!」
「イエスイエス……って、それがお返しですか?」
「そうだけど。ダメ、かな?」
「いえいえいえ、むしろそんな事で良いんですか!?」
「うん。友達以上に欲しいものなんて無いよ」
その言葉に早苗は胸を打たれた。何と無垢な願いだろう。
「私の方こそお願いします! どうかお友達になって下さい!」
「!? も、もちろんだよ。ありがとう」
こうして二人はお互いに固い握手を交わし、友の契りを結んだ。
その後も幻想郷の至るところで、誰かが溺れてはにとりに助けられたという。
本人の人柄も相まって、人見知りだったにとりにも今はたくさんの友達がいる。
「まさに幻想郷のライフセーバーですね」
「きゅーかんばぁ?」
「……どう聞き間違えたんですか」
守矢神社の境内で楽しそうに話すのは、すっかり親しくなった早苗とにとり。
「とにかく、良かったですね、にとりさん」
「うん! よーし、この調子で友達百人目指しちゃうぞー!」
「ふふっ、頑張って下さい」
調子に乗りやすく、どこかすっとぼけたところのある性格のにとり。だがそれが人間からは好まれる。
これから彼女は、人間と河童の重要な掛け橋となるだろう。そう、早苗は確信していた。
ここは幻想郷。人間も神も妖怪も、見上げる空の色は同じなのだ。
ここに来て良かった。早苗は心からそう思った。
どこか清々しげに空を見上げる少女の隣で、にとりは美味しそうにぼりぼりと胡瓜をかじる。
(溺れさせたの私なんだけどね)
カッパだもんねー