私の目の前をにゅっと突き出た細い腕が横切って、向かいに座っている一輪の手から剥きかけの蜜柑を奪った。突然のことなので反応出来なかったらしく、「あっ」と当の一輪が目を丸くするのを私はぼんやりと眺める。一方、見事盗人を演じきってみせたぬえは満足気な顔で、奪ったばかりの蜜柑をちぎって口に運ぶ。わざとらしい勝ち誇ったような表情は、なるほど、これは当事者だったら腹が立つなと思った。
「ちょっと、何するのよ」
「ちんたら剥いてる一輪が悪い。筋なんてわざわざ剥かなくても食べられる」
「ひとがどういう食べ方しようと勝手でしょ。村紗もなんか言ってやってよ」
「ノーコメント」
面倒事に巻き込まれたくない私は大きくあくびをして、もぞもぞとコタツの中に潜り込んだ。心地の良いぬくさが寒さのせいではなく冷えた身体に染み渡る。私は寒さには強い方だと自負しているが、それはまったく寒さを感じないからというわけではなく、単に他人より我慢がきくというだけのことだ。好き好んで寒い場所に身を置きたいとは思わない。故に、無償の暖かさがそこにあれば喜んで享受する。ぬくぬくとした幸せに浸っていると、幼いけれどもどこか尖った調子の馴染みの声がそれに横槍を入れてきた。
「ムラサ、足冷たい。どけて」
そうは言っても、血の通わない死者の身である私の体温は暖房器具の恩恵に預かった所でちょっとやそっとじゃ上がらないことには変わりない。コタツに入っているとよくこうして文句を言われてしまう。おまえの羽だって充分迷惑なんだから黙ってろという意思を込めて一睨みすると、ぬえは頬杖をついて睨み返してきた。私達三人がこうしてコタツで顔を合わせると、およそ暢気さや平穏さというものがいつもどこかへ姿を隠してしまう。寺の他の誰かがいれば、まだましなのだけれど。
一輪は懲りずに新しい蜜柑に手を伸ばしていた。白い筋を全部取ろうとする彼女のやり方は、私から見てもまあじれったく感じられないこともない。さすがにぬえのようにちょっかいをかけたりしようとは思わないが。長い付き合いの私から言わせてもらえば、一輪は自分がどうでもいいことに対しては結構大雑把なのに、彼女の中のこだわりに関わる部分ではちょっと几帳面になりすぎるきらいがある。
一月の深夜に、床に着くこともせずコタツに潜り込むぐうたらな妖怪が三人。
命蓮寺だとよく見られる光景だ。聖と寅丸は夜には自分の部屋で雑務を片付けているか、そうでなければ早めに眠ってしまうことが多い。ナズは比較的この輪の中によく加わる。気が向けば同じくコタツでぐだぐだするし、向かない時はさっさと部屋に戻って眠るか、ネズミ相手に何やら話し込んでいる。今日は後者のようで、夕食を食べてある程度時間が経ったら自室に引っ込んでしまった。ぬえと張れるくらいのマイペースさは彼女の美徳の一つでもある。
「雪」
蜜柑を半分ほど食べ終えたらしい一輪が閉ざされた窓の方へ視線を向けた。さっきよりも幾分か瞼の位置が下がっている。
「降ってる?」
「と、思う」
「降ってるね。外の音が全然聞こえない」
器用に耳をぴくぴくと動かしながらぬえがそう言うと、ふうんと返事をして一輪は口の中のものを飲み下した。それから大きくあくびをする。時間差があるから、別にさっきの私のがうつったわけでもないだろう。思えば、もう零時近い時間なのだ。
寝る? と訊ねると、一輪は目を擦りながら答えた。
「ちょっと寝る。あんまり遅くなったら起こして」
「あいさ」
「朝まで放っておこう、ムラサ」
「やめてよ。起きた時に腰が痛くてたまらないし、風邪はひくし」
それじゃおやすみと口にして、今まで座っていた座布団を枕に一輪はころんと横になった。コタツの高さのせいで私の位置からは姿が見えなくなってしまったから、少し腰を浮かせて覗き込んでみれば蒼天の色をした柔らかい髪がきれいに横顔を縁取っている。瞼は閉ざされていて、規則正しい呼吸の音が僅かに聞こえてきた。驚くべきことにもう寝入っている。
私が元のように座り直すと、ぬえは特に面白くもなさそうにちらりと一輪に目をやった。他人の食べ物をすぐ奪うくせに食べるのが遅い彼女は、ようやっと一輪から盗った蜜柑の最後のひとかけらを飲み込んだ所らしい。単に今日の蜜柑は甘め寄りだったから、酸味が強い方が好きなぬえの舌には合わなかったのかもしれない。
「しっかし、よく寝るわね一輪は」
「地底にいた頃もこんな感じだったわよ。冬場」
「別に普段は特別よく寝るわけでもないのに、コタツだと絶対寝るわよね」
「朝起きづらいって言ってた。寝るなら布団で寝ろって何度も言ったのに」
そうなのである。
暖房関係が一切存在しなかった命蓮寺に、えっちらおっちらと寅丸が人里からコタツを運び込んできたのがおよそ一ヶ月前のことなのだが、それからというもの一輪はほぼ毎晩、こうしてコタツで眠っている。聖がいる時は、失礼に当たるからと眠ろうとはしない。しかし聖が眠り、寅丸が眠り、こうして限られた面子だけが残されたこのコタツで、一輪は実によく眠った。
彼女はどちらかといえば普段は早寝早起きを実行する妖怪らしくない妖怪なのだが、その理想的なサイクルはコタツという不穏分子によってあっさりと崩される。夜遅くまでコタツで眠り、あと数時間で夜が明けようという時間帯になってやっと目を覚まし、自分の寝床に戻る。そうして上手く寝付けない頭を抱え、すっきりしない朝を迎える。たまに風邪をひく。関節が痛いとしきりに漏らす。
そうまでしても一輪がコタツで眠ろうとする理由が私にはよく分からなかった。見てきた限り、そのまま朝まで寝過ごしてしまったことは一度もなかったようだが。一輪は寒いのが苦手だから、なるべくなら自室の冷たい布団には戻りたくないだけなのかもしれない。あるいは、もうこの習慣が条件反射のように身体に染み付いて、コタツに入るだけで眠くなってしまうのかもしれない。なんにせよ私が口を挟むことではないし、実に気持ち良さそうに眠る彼女を見ていると、そもそも何かを言おうという気だってしゅるしゅるとしぼんでしまう。なんだかんだで、本人が良いとしているのならそれで充分なのだ。
「ていうかさ」
ふと、ぬえが思い出したように言った。なにと返事をして、私はコタツの中で足を折り畳んで三角座りをする。自分の太腿とふくらはぎが触れ合って、なるほど確かに冷たいなと思った。
「別にムラサが付き合うこともないと思うんだけど。よくやるよねえ」
「あー、まあ、それも単に習慣」
一輪が眠り込んでしまってから目を覚ますまでの間、私は特にすることもないのにいつもコタツに潜りながら彼女が寝床に戻るのを待っていた。先に部屋に帰って寝てしまっても多分文句は言われないだろうし、実際私以外はみんな、各々眠くなったら勝手にコタツから抜けてゆく。一方私はどんなに睡魔がのしかかってきてもそれに耐えながら、色々なことを考えて気を紛らわす。しばらくして一輪が目を覚ましたら一緒にコタツを出て、それぞれ自分の部屋に戻る。
正直言って私の行動には意味も何もないのだろうけれども、昔からそうだったからこちらもそれが習慣になってしまった。いつからそうだったのかは覚えていない。そもそもコタツなんてものがいつ頃私達の生活に登場したのかも覚えていない。妖怪の身とはいえ、長く過ごせばそれなりに昔の記憶は薄れる。
私の答えに納得したのかしていないのか、ぬえは小首を傾げてから「ムラサがいいなら、別に何も言わないけど」と口にした。それから立ち上がり、小さな身体を精一杯反らせて伸びをする。背中から突き出ている不可思議な羽が、本人の意思に反してなのかぐにゃぐにゃとのたうち回った。
「もう寝るわ。眠いし」
「夜型妖怪だったくせに。深夜徘徊が趣味じゃなかったの?」
「こんなとこで暮らしてれば誰だって昼型になるわよ。大体今日外に出たってつまらない。雪降ってるし、寒いし」
「まあ、そうでしょうね。その格好じゃ」
「ムラサに言われたくないなぁ」
半眼で私を見てから、ふうと溜め息をついて「まあいいや。寝る」とぬえは部屋を出て行った。去り際におやすみと声をかければ、羽が動いてそれに応える。真っ黒い後ろ姿の中で、羽の色だけが奇妙に浮いていた。多分闇に包まれた廊下の中でも際立って見えるんじゃないかと思う。
さて、と私は机の上に顎をのせ、誰もいないように見える正面にむっつりと目をやった。言っておくと、別にこうして一輪を待つのが苦痛なわけでは断じてない。嫌だと思うことを自発的にするほど、私は自虐的な性分じゃない。話し相手がいないのは若干退屈ではあるけれど、まだ海にいた頃に比べたらずっとましだ。少なくともここは命蓮寺で、私は暖かいコタツに入っていて、眠ってはいるけれども旧友が同じ部屋にいて、ついでにお茶と蜜柑までついている。
だから私が一度コタツから抜けて一輪の側まで行ったのは、単なる気まぐれだった。
起こそうとか、ちょっかいを出そうとか、そういう意図があったわけじゃない。今まで熱の恩恵を預かっていた素足に、冬の空気をたっぷり吸い込んだ床の敷物が冷たい。廊下を歩くよりもずっと良いけれど。
ごそごそと四つん這いになって近寄ってみる。一輪は丸まって眠っていて、その姿はお気に入りの日溜まりでひっそりと眠る几帳面な猫を思わせた。いつもは愛用の頭巾に包まれている、癖のかかった髪は相変わらず、ちょうど良い具合に彼女の顔に淡い影を落としていた。薄く開かれた唇からすうすうと酸素の行き交う小さな音がする。私はもうずいぶん縁遠くなってしまった音だ。
なんとなく腕を伸ばして、前髪の下に手のひらをもぐりこませる。しかしそれがいけなかったようで、額に触れた瞬間一輪がうっすら目を開けた。そういえば私の手は冷たいことを忘れていた。
「ごめ、起こしちゃった」
「……むらさ。今、何時?」
「……ん、十二時半」
手を引っ込めてから、壁掛け時計に目をやって私は答えた。彼女が寝入ってからまだ三十分しか経っていない。いつもよりも早かった、私が起こしてしまったせいなのだけれども。一輪はごろんと寝返りを打って瞼を押し上げたけれど、起き上がることはせずに寝転がったまま私を見上げた。なんとなく手持ち無沙汰になって、私は改めて彼女の横に座り直す。
「今日も起きててくれたんだ」
「癖ね、もう。一人だけ戻るのは落ち着かないわ」
「眠いなら寝ててくれていいのに」
「今更だって」
一輪はうっすら笑い、おもむろにさっき引っ込めた私の手を取って自分の頬に当てた。想像していたよりも熱い。ただでさえ冷たい空気にさらされていた私の手の甲との温度の差が際立った。
「なにしてんの」
「冷却剤。コタツってあったかくなりすぎるから、そういうときちょうどいいの」
「さいですか」
夏になればもっと露骨に便利屋扱いされるのだから、これくらいで別に何かを言う気にもならない。なんとなくコタツに入るタイミングを逃して、冷たい敷物の上に正座していると、少しかすれた小さな声で呼ばれた。名字の方じゃなくて下の名前で。
顔を覗き込む。まだ眠りから覚めきっていないような表情だったけれど、なんだか楽しそうに見えた。
「ありがとね」
「何が」
「水蜜が側で起きててくれるから、私、安心して眠れるの」
「……光栄です」
少し照れた。何がおかしいのか一輪はくすくす声を漏らして、口元を手で押さえて笑っている。私はようやく足を崩し、横になっている一輪の隣でコタツに足を伸ばした。冷えた足がじんわりと暖まる。ようやく一息ついて、それから空いた手を一輪の髪にそっと埋めた。
くしゃくしゃと撫でたのは、多分照れ隠しがしたかったからだろう。上手く言葉だけで切り抜けるのはあまり得意じゃなかったりする。
「……順番が逆な気がする。一輪が寝るようになったから私が残るようになったんじゃないっけ」
「そうだったっけ。覚えてない」
「私も覚えてない。適当言った」
「でしょうね。水蜜がそんなに細かいこと覚えてるはずないし」
「あのねぇ」
抗議の声を上げてはみたものの、事実その通りなんだからそれ以上は言えない。しかし、一輪だって覚えてないならおあいこだろう。それくらい長い時間を一緒に過ごしたのだ。色々なことを忘れたけれど、多分それより多くのことを覚えている。それでいいような気がした。
ふわあと、眠る前よりも若干控えめに一輪があくびをする。目尻に浮かんだ涙を指先で拭うと生温かかった。今度はぽんぽんと軽く叩くように頭を撫でてやる。
「いいよまだ寝てて。眠そうだし」
「水蜜は?」
「ここで起きてる」
そっかと呟いてから、一輪が身体をずらして私の太腿の上に頭をのせた。重いような軽いような、妖怪一人分の頭の重みが伝わってくる。たまに私がこうしてもらうことはあるけれど、立場が逆転したのは初めてかもしれない。初めて体験する見下ろす側の気持ちというのはそう悪いものでもなかった。
また身体を丸める一輪の頬には、さっきと同じ熱が宿っていることが布越しでもちゃんと分かった。
一輪が何かを小さく呟く。うん? と目で合図して訊き返したけれど、小さく首を横に振られた。
「なんでもない。おやすみ」
「うん、おやすみ」
私の手に指を絡めたまま、再び一輪が目を閉じる。
私はぼんやりと、無造作に放置されたままの食べ尽くされて皮だけが残された蜜柑を見つめた。まだ手を付けられていない蜜柑はともかく、ぬえも一輪も私も食べっぱなしで後片付けをしていないから、それなりに机の上は散らかっている。
まとめて捨てようと手を伸ばしかけて、思い直してやめた。上半身を乗り出さないと自分の席にあるごみまでは届かないから、多分起こしてしまうだろう。
今夜はなるべく、すぐ目下にある寝顔だけを眺めて、時々触っていたい。さっきみたいに間違って起こしてしまわないように、出来れば慎重に。彼女の眠りを妨げようとするすべてのものから守りきれれば良いなと思った。それが具体的に何であるとか、そういうことはきっとそんなに重要じゃないのだろう。朝までこのままでも、まあ、構わないか。
だが、しかし。
「蜜柑、食べたい、なぁ」
片手のままじゃ、剥けやしない。
fin.
おこた一輪さん可愛い。
まったりほのぼのできました