夏の夕暮れ、この日は七月七日、七夕の日ということで里の方ではそれに興じて夜店が立ち並び、彼方此方で喧騒が絶えない日でもある。
七夕が一体どんな行事かは言わずもかな、良く知れ渡っていることだろう。
現在、七夕がどうの、という訳はなく目前の少女二人の誘いを斯様な上手い理由を並べて撃退するかに頭を悩ませている。
「で?君らは里に行くんだろう?何で此処にに立ち寄る必要がある?」
「決まってるじゃない、七夕の縁日よ。勿論、霖之助さんも来るのよね?」
「そうそう、可憐な乙女二人の誘いを撥ねるなんて無粋な真似はしない筈だよな、信じてるぜ」
これは暗に奢ってよのサインであることぐらい、霖之助にははっきりと分かっている。
大体、縁日がある度そんな感じだった覚えがあるから霖之助としては気乗りしない話であることに違いない、寧ろあって堪るかといったスタンスをとっている。
「はあ、何か臭いのするところに集る習性を持っている辺り君らは蝿か、里の方がより良い臭いを漂わせているだろうからそっちへ飛んでいってくれ、今すぐに」
とりあえず暴れ出さない程度に怒らせるか、二の句も出さなくなるくらいに呆れさせようと思ったのだ。そうすれば向こうから出て行くだろうと踏んだからだ。
然し、飽くまで徹底的にではなく、半端であることが肝である。
「あら、失礼しちゃうわね。人を蝿呼ばわりだなんて、ねえ」
「全く、此処があんまりにも黴と埃臭いからついつい飛んで来ちゃったな。一体誰の所為なんだろうな?」
霊夢が腹を立て、魔理沙がジト目で此方を見ながら返す刀で切り返してくる。
これには霖之助もぐぅの音も出せず口をつむぐ他なかった。少々埃を被っていた方が古道具の良さが引き立つものだよ、と言っても普段、碌に掃除しない霖之助の言葉に説得力の欠片も見出してもらえないだろう。
それは普段の自分の行いなだけに仕方の無いことだと胸中噛み締めなければならない。
「ホントよねぇ。こんな埃臭いのより縁日の方に飛んで行きましょうよ。ほら、早くしないと笹飾りを運ぶ子供たちで夜店に近づけなくなっちゃう」
更に霊夢が魔理沙の言葉に乗っかる形で追い討ちのジャブを放つ。
避けるための言葉を見つけ出す暇などなく、無言という形でジャブを受け止めた霖之助は胸中で更に歯噛みすることとなった。
散々な応酬だったが、霊夢と魔理沙は香霖堂を後にして里へ飛んでいった。結果としては辛くも勝利条件を満たしたと言える。
次はこんな目に遭わないよう対策を練っておこうと誓った夏の夜である。
「こーんばんはー、店主さん居ますかぁー」
そしてまた喧しそうな東風谷早苗という名を持つハエモドキが現れる。
明日になったら大掃除をしよう。時期外れと笑われるかもしれないがそれでも構わない。それでハエモドキが来なくなり客が来るようになるなら本望だ。
「ちょっと、聞いてるのー?」
「聞きたいと思わないが聞いてるよ。君もアレかい?霊夢や魔理沙と同じクチで来たんだろうね」
「七夕の夜店のこと?それと霊夢と同じだなんてちょっと頭にきましたねー。でもぉ、私の心は大空より広く海の底を割って突き抜ける程深いので許しちゃいます。仏の顔も三度、と言いますし」
「君の心の奥行きと広さなんて聞いた憶えもないし、何より偽善者の仏面など三度どころか一度たりとも拝みたいとも思わないね」
「カッチーン、いいでしょう。そこまで言うなら、今まで保留にしておいた貴方をこの場で退治してあげるわ」
早苗が徐に札とお払い棒を危なげに構えた。ハエモドキと思っていたのがまさか刺されると痛い虻だったとは。
突っつきすぎて怒り心頭のアブモドキをどうして追い払おうか少し思案してみる。
「退治だの怪事だのはいいが、そろそろ里の方じゃ子供たちが笹飾りを担いで往来を埋めている頃じゃないか?」
「ああー!そうだった。早くしないと神奈子様と諏訪子様との信仰を得る為のデモンストレーション計画がパァになっちゃう。貴方の退治はまた今度ってことでぇー!」
静かになった。捨て台詞を吐き残し、飛び去っていった早苗を見送った後ふと思った。
ああ、こりゃ自警団に取り押さえられるなと。早苗の調子の狂いっぷりは二柱の神様が頭を抱えるほどの病的なものらしい。幻想郷に来て現、躁狂といったところか。
だからといって他人がどうにかしてやれるものでもなし、手を施そうものなら逆に返り討ちにされる藪や蜂の巣的存在を朽ちてなくなるまで放置するのが現状らしい。
時間は矢張り、何より勝る薬にもなるのだなと、諦観と共に肝に銘じておく必要があるのかもしれない。
「精神疾患につける薬は無し、か」
実に下らない言葉を口に出してしまう。そんな下らない言葉に感心する自分は酔狂だろうと思った。
因みにいうと実は少しだけ酔っていて何時もとちょっと違う態度を取っている理由になっている。
年に一度、天の川が拝めるというもんだから酒が入っていることくらい誰だって大目に見ていただきたい。こういう時は矢張り、静かにゆったりと時間を過ごしたいと思っているから誰の邪魔も入って欲しくないのだ。
一人、言い訳染みたことを思いながら猪口と徳利を取り、注いだ酒を一気に仰ぐ。安酒だが飲み方を間違わなければ悪酔いはしないものとよく知っているから量も精々、徳利二本に留めておくのが吉になる。
今になって辺りが暗くなったのに気づき、手元のランプに火を灯す。その温かい光が夜空の暗さを引き立たせる、安堵と不安の入り混じった空間が気分を高揚させる。
ほぅ、と溜息を吐き出し持っていた猪口と徳利を置く。暑いな、霖之助は酔いで火照った体を冷まそうと立ち上がり戸を開けた。
「おや、ここいらは人間が準備も無しに来ちゃ拙い場所だよ。幻想郷縁起には目を通さなかったのかい?迷子なら里の入り口まで送ろうか?」
「そういう貴方はどうして此処で惚けているのでしょうかぁ?昨日も、一昨日も、来いとお誘いしたのですがねぇ」
見たことのある重箱のような帽子、上白沢慧音である。
暗くてはっきりと見えないが、頬が酔った時みたく朱に染まっていた。
「誘い?昨日、一昨日?君が訪れて夜店が出るだのどうだの言ってたのはそういうことか。随分と遠回しにしたお誘いだね、まあ直球で来られてもお断りだ」
「なんらとぅ!人がへぇっかく勇気ふぃしほったのにそな言い方はねぇっ」
顔が赤いのは本当に酔っていたからのようだ。一体どれ程飲んだのか、多分一升瓶二、三本では済まないんじゃないかと思う。
そう考えると放たれた第一声はよくも呂律が回っていた方である。
「いんのうぇ、頭差し出せ」
「印の上ってなんだ?上に字を入れるのか?それなら封という字を推そう。そして君を夜が明けるまで封じ込めておこう、ああしかしお札は人間に効き目は無しか」
縄はないかと辺りを見回してもそれらしいものはなく、いつの間にか慧音に両の手で頭を鷲掴みにされていた。
「おい、何をする?離すんだ」
「ずぅ~つぅーきぃ!」
慧音が大きく仰け反った。恐らく勢いをつけて頭突きをかまそうとしているのだろう。満月の夜、ワーハクタクに変化した慧音なら万策尽きたところだが、今夜はそうではない。
人間相手なら策くらい湯水の如く、というのは大袈裟だが打破の余地はある。押さえ込むだけでいい。
「ぇぶっ」
海老反りのまま顔を鷲掴みにされ、地面に倒れこむと漸く慧音は大人しくなった。
頭を強打させないために鷲掴みにした手に力を込め過ぎたのは気のせいではなく、手をずらすと顔に指の跡がくっきりと残っているのが見えた。
やってしまったと、後悔するが遅い、少し気まずい空気の中、どう切り出すか迷い、一旦手を離そうとするが、出来なかった。
「慧音?」
手を掴まれては、顔から手を外せない、名前を呼んでも反応しない。振り払おうと力の込めた手に肌の温さとは別の温かいものが触れた。
泣いている、そう気づいてしまってはもう後の祭りだ。
「痛かったのか?済まない、少しばかり配慮に欠けていたようだ」
変わらずに手を掴んで離さないので肩の、肩甲骨辺りに逆の手を回し抱き起こした。
「ほら、土を払って…」
「もぅ、どーして妹紅は殺し合いを止めないんだぁ、毎回血を見せられる身にもなってほしいよぅ。」
「は?」
「まだあるぞ。そう寺子屋!生徒たちは授業は聞かないし寝るわ喋るわ挙句の果てに抜け出すわ、なんで授業を聞かないのぉ!」
ヨヨヨと泣き崩れる慧音、返せ、ちょっとでも反省と後悔をした時間をなかったことにしろ。
泣き上戸なら誰かの傍じゃなく一人で勝手に酔い潰れていればいいだろうにと思わずにはいられなかった。
「それにさ、私だって夜店で食べ歩きしたかった。皆遠慮するから一人じゃ嫌だった。私が人間じゃないからかなぁ」
…何処かで一線を引いて不可侵領域を創ってしまうのは人間の特徴とも言える。
対人関係にすら線を引き、一定の距離を置く人間が人ならぬ身の対してはより一層の距離を置こうとするのは火を見るよりも明らかで、それが理由の一つで現在のこの場所に店を構えている。
人間でも妖怪でもあるといえる自分にはその線引きから生じる距離が嫌で余り里に顔を出す気にはならない。
「霖之助と一緒に歩いてればそんなのも気にならないかなって思ったけど、誘いも断られて踏んだり蹴ったり散々だぁー」
そこまで言って漸く掴んでいた手を離した。手の平には顔から出るもの全部べっとりと付着している。後で洗っとこうか。
酒の酔いに任せてきつく当たってしまったのは失敗だったと思い、次の誘いがあるなら断らないで乗ってやろう。せめてもの贖罪だ。
「あー、わかった。次だよ?後、今日は顔を洗って帰って寝なさい。誰かに顔を見られないのが後悔しない為の手段だよ」
「うん、そうする」
側の井戸から汲んだ水で手を洗いながら、飛んでいく慧音を見送った。
井戸の水が冷たいお陰で火照りを冷ますことが出来たので店の定位置である安楽椅子に腰を下ろし再び酒を呷る。
再び猪口に酒を注ぐため、徳利を傾けるが変だ。まだ半分は残っていた徳利からは滴が一、二滴流れ猪口に落ちただけだったのだ。
「安酒ね、秘蔵にはもっといい酒があるんじゃない?」
「徳利から直接飲むんじゃないよ。どんな方法でとかは聞きたくないが品がないぞ」
「確かに、悪戯心に急かされてしまいましたわ」
ランプの光の届くか届かないかの丁度境目に漂い、不気味な笑みで視線を交わすのは八雲紫。
今日は喧しくて迷惑な連中が訪れる頻度が多い。どうせなら連中ではなくお客であればこんな鬱屈とした気分にならないで済んだのに、と思うほどだ。
唐突に、光と闇の境目から光の方へと動き紫が猪口を突き出す。はて、何だろうと思うと紫が笑みを浮かべて言う。
「お酒、注いで頂戴よ。ほら」
「君が全部飲んだろう?」
徳利を手に取り示す、が空の筈の徳利に液体が満たされていることに気づく。
どうせ僕では説明のつけられないような力で酒を満たしたんだろう。この不明瞭さが彼女を苦手とする一つの理由である。
また、紫が気味悪い微笑みを浮かべている。やめてくれ、その表情は見ている者の生気が削がれるから。
「あら、その顔は何?せっかく飲むお酒が不味くなりますわよ?」
「僕はもう十分飲んだよ。君が飲むんだね」
「まあ、釣れない殿方ね。女の誘いを拒むなんて甲斐性無しよ」
甲斐性無しで結構、と黙って紫の差し出す猪口に酒を注いでやる。
それを紫が余りに美味そうに飲むものだから、一体どんな酒なのか気になって、それでも十分と言った手前、我慢と悶々と葛藤が生まれて心の中の二人の自分が言い争いを始めた。
行けよ霖之助、矜持なんか捨てて飲んじまえよ。いや待て、飲んだら見返りに何を求められるか分からないぞ、紫だし。
「どうぞ、お飲みになりなさいな」
「しかし、これは君のじゃないか、飲んだら何を要求されるか…」
「それならご心配なく。このお酒、貴方の秘蔵ですもの」
「なぁっ!?」
「嘘よ、貴方が飲んでた安酒の残り。安心なさいな」
「そうなのか?」
「そう、その証拠にほら」
何もない空間から不自然に、さっき飲んでいた安い銘柄の酒瓶が現れた。
しかしそれだけでは信じてよいものかと徳利の酒を猪口に注ぎ呷る。確かに味は同じだ、だが本当に此処に置いてあったものか疑わしいが既に飲んでしまっているから何を言っても手遅れの他ない。
「嫌ね、見返りなんてないってば」
「何のことかな、これは僕の酒だろう?」
「その通り、顔に出てましたわ。厄介に巻き込まれたかのような倦怠感の纏わり着いた表情がね」
そんなに表情に出ていたのだろうか、商人としてまだ未熟なのを恥じなければいけないな。
辛い現実を噛み締めながら飲む酒のなんと苦いことか。苦いと感じるにも関わらず注いでは呷り、空になった徳利から垂れる一滴も舐め取る。
「私、御猪口一杯しか飲んでないのに」
お構いなしだ、今宵は無礼講。秘蔵の酒も飲んでしまえ、飲んで呑まれて忘れてしまおう。
夜が明けてしまえばより苦しいが今、この一時だけでも忘れられるならばそれでいい。
七夕が一体どんな行事かは言わずもかな、良く知れ渡っていることだろう。
現在、七夕がどうの、という訳はなく目前の少女二人の誘いを斯様な上手い理由を並べて撃退するかに頭を悩ませている。
「で?君らは里に行くんだろう?何で此処にに立ち寄る必要がある?」
「決まってるじゃない、七夕の縁日よ。勿論、霖之助さんも来るのよね?」
「そうそう、可憐な乙女二人の誘いを撥ねるなんて無粋な真似はしない筈だよな、信じてるぜ」
これは暗に奢ってよのサインであることぐらい、霖之助にははっきりと分かっている。
大体、縁日がある度そんな感じだった覚えがあるから霖之助としては気乗りしない話であることに違いない、寧ろあって堪るかといったスタンスをとっている。
「はあ、何か臭いのするところに集る習性を持っている辺り君らは蝿か、里の方がより良い臭いを漂わせているだろうからそっちへ飛んでいってくれ、今すぐに」
とりあえず暴れ出さない程度に怒らせるか、二の句も出さなくなるくらいに呆れさせようと思ったのだ。そうすれば向こうから出て行くだろうと踏んだからだ。
然し、飽くまで徹底的にではなく、半端であることが肝である。
「あら、失礼しちゃうわね。人を蝿呼ばわりだなんて、ねえ」
「全く、此処があんまりにも黴と埃臭いからついつい飛んで来ちゃったな。一体誰の所為なんだろうな?」
霊夢が腹を立て、魔理沙がジト目で此方を見ながら返す刀で切り返してくる。
これには霖之助もぐぅの音も出せず口をつむぐ他なかった。少々埃を被っていた方が古道具の良さが引き立つものだよ、と言っても普段、碌に掃除しない霖之助の言葉に説得力の欠片も見出してもらえないだろう。
それは普段の自分の行いなだけに仕方の無いことだと胸中噛み締めなければならない。
「ホントよねぇ。こんな埃臭いのより縁日の方に飛んで行きましょうよ。ほら、早くしないと笹飾りを運ぶ子供たちで夜店に近づけなくなっちゃう」
更に霊夢が魔理沙の言葉に乗っかる形で追い討ちのジャブを放つ。
避けるための言葉を見つけ出す暇などなく、無言という形でジャブを受け止めた霖之助は胸中で更に歯噛みすることとなった。
散々な応酬だったが、霊夢と魔理沙は香霖堂を後にして里へ飛んでいった。結果としては辛くも勝利条件を満たしたと言える。
次はこんな目に遭わないよう対策を練っておこうと誓った夏の夜である。
「こーんばんはー、店主さん居ますかぁー」
そしてまた喧しそうな東風谷早苗という名を持つハエモドキが現れる。
明日になったら大掃除をしよう。時期外れと笑われるかもしれないがそれでも構わない。それでハエモドキが来なくなり客が来るようになるなら本望だ。
「ちょっと、聞いてるのー?」
「聞きたいと思わないが聞いてるよ。君もアレかい?霊夢や魔理沙と同じクチで来たんだろうね」
「七夕の夜店のこと?それと霊夢と同じだなんてちょっと頭にきましたねー。でもぉ、私の心は大空より広く海の底を割って突き抜ける程深いので許しちゃいます。仏の顔も三度、と言いますし」
「君の心の奥行きと広さなんて聞いた憶えもないし、何より偽善者の仏面など三度どころか一度たりとも拝みたいとも思わないね」
「カッチーン、いいでしょう。そこまで言うなら、今まで保留にしておいた貴方をこの場で退治してあげるわ」
早苗が徐に札とお払い棒を危なげに構えた。ハエモドキと思っていたのがまさか刺されると痛い虻だったとは。
突っつきすぎて怒り心頭のアブモドキをどうして追い払おうか少し思案してみる。
「退治だの怪事だのはいいが、そろそろ里の方じゃ子供たちが笹飾りを担いで往来を埋めている頃じゃないか?」
「ああー!そうだった。早くしないと神奈子様と諏訪子様との信仰を得る為のデモンストレーション計画がパァになっちゃう。貴方の退治はまた今度ってことでぇー!」
静かになった。捨て台詞を吐き残し、飛び去っていった早苗を見送った後ふと思った。
ああ、こりゃ自警団に取り押さえられるなと。早苗の調子の狂いっぷりは二柱の神様が頭を抱えるほどの病的なものらしい。幻想郷に来て現、躁狂といったところか。
だからといって他人がどうにかしてやれるものでもなし、手を施そうものなら逆に返り討ちにされる藪や蜂の巣的存在を朽ちてなくなるまで放置するのが現状らしい。
時間は矢張り、何より勝る薬にもなるのだなと、諦観と共に肝に銘じておく必要があるのかもしれない。
「精神疾患につける薬は無し、か」
実に下らない言葉を口に出してしまう。そんな下らない言葉に感心する自分は酔狂だろうと思った。
因みにいうと実は少しだけ酔っていて何時もとちょっと違う態度を取っている理由になっている。
年に一度、天の川が拝めるというもんだから酒が入っていることくらい誰だって大目に見ていただきたい。こういう時は矢張り、静かにゆったりと時間を過ごしたいと思っているから誰の邪魔も入って欲しくないのだ。
一人、言い訳染みたことを思いながら猪口と徳利を取り、注いだ酒を一気に仰ぐ。安酒だが飲み方を間違わなければ悪酔いはしないものとよく知っているから量も精々、徳利二本に留めておくのが吉になる。
今になって辺りが暗くなったのに気づき、手元のランプに火を灯す。その温かい光が夜空の暗さを引き立たせる、安堵と不安の入り混じった空間が気分を高揚させる。
ほぅ、と溜息を吐き出し持っていた猪口と徳利を置く。暑いな、霖之助は酔いで火照った体を冷まそうと立ち上がり戸を開けた。
「おや、ここいらは人間が準備も無しに来ちゃ拙い場所だよ。幻想郷縁起には目を通さなかったのかい?迷子なら里の入り口まで送ろうか?」
「そういう貴方はどうして此処で惚けているのでしょうかぁ?昨日も、一昨日も、来いとお誘いしたのですがねぇ」
見たことのある重箱のような帽子、上白沢慧音である。
暗くてはっきりと見えないが、頬が酔った時みたく朱に染まっていた。
「誘い?昨日、一昨日?君が訪れて夜店が出るだのどうだの言ってたのはそういうことか。随分と遠回しにしたお誘いだね、まあ直球で来られてもお断りだ」
「なんらとぅ!人がへぇっかく勇気ふぃしほったのにそな言い方はねぇっ」
顔が赤いのは本当に酔っていたからのようだ。一体どれ程飲んだのか、多分一升瓶二、三本では済まないんじゃないかと思う。
そう考えると放たれた第一声はよくも呂律が回っていた方である。
「いんのうぇ、頭差し出せ」
「印の上ってなんだ?上に字を入れるのか?それなら封という字を推そう。そして君を夜が明けるまで封じ込めておこう、ああしかしお札は人間に効き目は無しか」
縄はないかと辺りを見回してもそれらしいものはなく、いつの間にか慧音に両の手で頭を鷲掴みにされていた。
「おい、何をする?離すんだ」
「ずぅ~つぅーきぃ!」
慧音が大きく仰け反った。恐らく勢いをつけて頭突きをかまそうとしているのだろう。満月の夜、ワーハクタクに変化した慧音なら万策尽きたところだが、今夜はそうではない。
人間相手なら策くらい湯水の如く、というのは大袈裟だが打破の余地はある。押さえ込むだけでいい。
「ぇぶっ」
海老反りのまま顔を鷲掴みにされ、地面に倒れこむと漸く慧音は大人しくなった。
頭を強打させないために鷲掴みにした手に力を込め過ぎたのは気のせいではなく、手をずらすと顔に指の跡がくっきりと残っているのが見えた。
やってしまったと、後悔するが遅い、少し気まずい空気の中、どう切り出すか迷い、一旦手を離そうとするが、出来なかった。
「慧音?」
手を掴まれては、顔から手を外せない、名前を呼んでも反応しない。振り払おうと力の込めた手に肌の温さとは別の温かいものが触れた。
泣いている、そう気づいてしまってはもう後の祭りだ。
「痛かったのか?済まない、少しばかり配慮に欠けていたようだ」
変わらずに手を掴んで離さないので肩の、肩甲骨辺りに逆の手を回し抱き起こした。
「ほら、土を払って…」
「もぅ、どーして妹紅は殺し合いを止めないんだぁ、毎回血を見せられる身にもなってほしいよぅ。」
「は?」
「まだあるぞ。そう寺子屋!生徒たちは授業は聞かないし寝るわ喋るわ挙句の果てに抜け出すわ、なんで授業を聞かないのぉ!」
ヨヨヨと泣き崩れる慧音、返せ、ちょっとでも反省と後悔をした時間をなかったことにしろ。
泣き上戸なら誰かの傍じゃなく一人で勝手に酔い潰れていればいいだろうにと思わずにはいられなかった。
「それにさ、私だって夜店で食べ歩きしたかった。皆遠慮するから一人じゃ嫌だった。私が人間じゃないからかなぁ」
…何処かで一線を引いて不可侵領域を創ってしまうのは人間の特徴とも言える。
対人関係にすら線を引き、一定の距離を置く人間が人ならぬ身の対してはより一層の距離を置こうとするのは火を見るよりも明らかで、それが理由の一つで現在のこの場所に店を構えている。
人間でも妖怪でもあるといえる自分にはその線引きから生じる距離が嫌で余り里に顔を出す気にはならない。
「霖之助と一緒に歩いてればそんなのも気にならないかなって思ったけど、誘いも断られて踏んだり蹴ったり散々だぁー」
そこまで言って漸く掴んでいた手を離した。手の平には顔から出るもの全部べっとりと付着している。後で洗っとこうか。
酒の酔いに任せてきつく当たってしまったのは失敗だったと思い、次の誘いがあるなら断らないで乗ってやろう。せめてもの贖罪だ。
「あー、わかった。次だよ?後、今日は顔を洗って帰って寝なさい。誰かに顔を見られないのが後悔しない為の手段だよ」
「うん、そうする」
側の井戸から汲んだ水で手を洗いながら、飛んでいく慧音を見送った。
井戸の水が冷たいお陰で火照りを冷ますことが出来たので店の定位置である安楽椅子に腰を下ろし再び酒を呷る。
再び猪口に酒を注ぐため、徳利を傾けるが変だ。まだ半分は残っていた徳利からは滴が一、二滴流れ猪口に落ちただけだったのだ。
「安酒ね、秘蔵にはもっといい酒があるんじゃない?」
「徳利から直接飲むんじゃないよ。どんな方法でとかは聞きたくないが品がないぞ」
「確かに、悪戯心に急かされてしまいましたわ」
ランプの光の届くか届かないかの丁度境目に漂い、不気味な笑みで視線を交わすのは八雲紫。
今日は喧しくて迷惑な連中が訪れる頻度が多い。どうせなら連中ではなくお客であればこんな鬱屈とした気分にならないで済んだのに、と思うほどだ。
唐突に、光と闇の境目から光の方へと動き紫が猪口を突き出す。はて、何だろうと思うと紫が笑みを浮かべて言う。
「お酒、注いで頂戴よ。ほら」
「君が全部飲んだろう?」
徳利を手に取り示す、が空の筈の徳利に液体が満たされていることに気づく。
どうせ僕では説明のつけられないような力で酒を満たしたんだろう。この不明瞭さが彼女を苦手とする一つの理由である。
また、紫が気味悪い微笑みを浮かべている。やめてくれ、その表情は見ている者の生気が削がれるから。
「あら、その顔は何?せっかく飲むお酒が不味くなりますわよ?」
「僕はもう十分飲んだよ。君が飲むんだね」
「まあ、釣れない殿方ね。女の誘いを拒むなんて甲斐性無しよ」
甲斐性無しで結構、と黙って紫の差し出す猪口に酒を注いでやる。
それを紫が余りに美味そうに飲むものだから、一体どんな酒なのか気になって、それでも十分と言った手前、我慢と悶々と葛藤が生まれて心の中の二人の自分が言い争いを始めた。
行けよ霖之助、矜持なんか捨てて飲んじまえよ。いや待て、飲んだら見返りに何を求められるか分からないぞ、紫だし。
「どうぞ、お飲みになりなさいな」
「しかし、これは君のじゃないか、飲んだら何を要求されるか…」
「それならご心配なく。このお酒、貴方の秘蔵ですもの」
「なぁっ!?」
「嘘よ、貴方が飲んでた安酒の残り。安心なさいな」
「そうなのか?」
「そう、その証拠にほら」
何もない空間から不自然に、さっき飲んでいた安い銘柄の酒瓶が現れた。
しかしそれだけでは信じてよいものかと徳利の酒を猪口に注ぎ呷る。確かに味は同じだ、だが本当に此処に置いてあったものか疑わしいが既に飲んでしまっているから何を言っても手遅れの他ない。
「嫌ね、見返りなんてないってば」
「何のことかな、これは僕の酒だろう?」
「その通り、顔に出てましたわ。厄介に巻き込まれたかのような倦怠感の纏わり着いた表情がね」
そんなに表情に出ていたのだろうか、商人としてまだ未熟なのを恥じなければいけないな。
辛い現実を噛み締めながら飲む酒のなんと苦いことか。苦いと感じるにも関わらず注いでは呷り、空になった徳利から垂れる一滴も舐め取る。
「私、御猪口一杯しか飲んでないのに」
お構いなしだ、今宵は無礼講。秘蔵の酒も飲んでしまえ、飲んで呑まれて忘れてしまおう。
夜が明けてしまえばより苦しいが今、この一時だけでも忘れられるならばそれでいい。