私が自分の名前に疑問を持ったのは約一ヶ月ぶりにさとり様に会った時だった。人型になって数十年。灼熱地獄跡の温度調整も様になり、篭もりっきりでしていた仕事にひと段落ついた後、さとり様の部屋に顔を出した。
「あら、久しぶり空」
最初、誰に言っているのか分からなかった。そんな私の思考を読んださとり様は可笑しそうに笑って言った。
「なあに、あなた。自分の名前も忘れたの?」
そういえばそんな名前だったっけ。言われて思い出した。
「本当あなたは忘れっぽいんだから」
惚けて突っ立っている私にさとり様はおつかれさまと小さく呟いて頬を優しく撫でた。
◆ ◆
「さとり様からいただいた名前を忘れるなんてお空は不忠義者だねえ」
「だって、みんなお空って言っているんだもん」
仕事場で死体を持って来たお燐に話をすると、お燐は心底呆れた様子で溜息をついた。ちょっとド忘れしただけなのに大袈裟なんじゃないのだろうか。
「霊烏路空ってさ、何か仰々しい名前だと思わない?」
この名前はさとり様のペットになった日にいただいた。その時の私はさとり様には悪いけども、あまり気にかけなかった。ただ、さとり様の側にいられる証として喜んだ。極端なところ名前が地獄烏でも同じ事だったのかもしれない。
「それは名前とはいわないだろ。さとり様もがっかりするだろうねえ。あんたのためにお考えになられたのに、そう思われちゃ」
「うにゅ、そーゆーもんかな」
「そーゆーもん。名前っていうのはさ。付けてくれたひとの思いや願いが篭っているのさ。きっとね」
「思いや願い」
口にして心に留めた。不思議とお燐の言葉に惹きつけられる。
「燐はどうして燐って付けられたか知っているの?」
なんとなく聞いてみた。
「あたい?あたいは簡単だよ。昔首に鈴をつけていたのさ」
「え、そうなの?」
燐はさとり様が初めて飼ったペットである。私と同期なのだけど、私より先に少し前からここに居た。でも私はお燐が鈴をつけていた事は知らなかった。
「ああ。その頃のあたいは好奇心で地霊澱の扉を叩いたのさ。嫌われ者がどんな奴なのか見てみたくてね」
「危険だと思わなかったの?」
「その時は空腹感が後押ししたのさ」
自分の無謀さを思い出したのか喉を鳴らしてお燐は笑った。そして懐かしそうに目を細めるのだった。
「実際に会ってみると噂は本当でね。心を読まれて吃驚したよ。それと暖かなスープをくださったのさ。それから頻繁にお屋敷へ寄るようになってね。あたいが来たらすぐに分かるようにと鈴をつけたのさ」
「今、その鈴は何処に?」
「あたいの部屋の引き出しに。なんでも、意外と鈴の音がうるさかったみたいで外してくれって。その代わりに名前をいただいたんだよ」
その後すぐに私が来たらしい。その話を聞いて羞恥を覚えた。お燐は与えられたものを大切にしていた。
「私はなんで空なんだろう」
「さあね。あたいはさとり様じゃないから分からないけど、何か思い入れがあるからじゃないの?」
もう忘れるんじゃないよ
「思い入れ、か」
お燐の言葉がいつまでも頭の中で反芻した。
◆ ◆
もしかしたらさとり様は地上に残りたかったのかもしれない。こんな薄暗い地底なんかじゃなくって。地上でのさとり様とこいし様は忌み嫌われたのだけれども、それ以上に大切なものがあったのかもしれない。
色々と考えては消えていく。普段は使わない脳では答えが出ない。自分の働かない頭が恨めしい。
◆ ◆
私は地上を知らない。お燐もだ。地底で生まれ育った私達は地底の仄暗さを空だと思っていた。それは違うみたいだけど。
「地上の空はとてもとても青いのですよ。大きくて、果てしない。まるで、吸い込まれてしまうくらいに」
その日の仕事が終わった夜。私はさとり様の部屋に居た。それからずっとぐるぐると取り止めない思考を巡らせながらお風呂から出たら、さとり様に腕を引っ張られてドライヤーを当てられた。このままお布団の中に入りたかったのに、さとり様は許してくれなかった。
「天井も電球もないの?」
「ええ。天井や電球ではなくって、白い綿菓子の雲と真っ赤に輝く太陽が浮かんでいるのです」
ドライヤーを止めて答える。手櫛で髪を梳いてくれた。一方私は綿菓子という単語に夏の記憶が呼び起こされていた。お燐とお祭りの時買ったなあ。ふわふわで大っきいの。おじさんにおまけしてもらったんだよ。地上の綿菓子も甘いのかな。
もしかしたら甘いのかもしれませんね。さとり様の笑声が私の耳に届いた。いつかさとり様と一緒に食べてみたい。空に浮かぶ綿菓子。
「…………」
さとり様の梳く手が一瞬だけ止まった。すぐに何事もなかったかの様に続けられた。
「さとり様は空、好き?」
気づいたら無意識のうちにそんな言葉を投げかけていた。
「好きよ。とても綺麗だもの」
「じゃあさ」
私が見せてあげるよ。
「いけません」
思いは言葉にならなかった。振り返ってさとり様を見る。さとり様は目を伏せていた。
「なんで、」
「私は今の生活に満足しているのです。あなたのその名は、そうゆう訳でつけたのではありませんよ。そんなに悩まないでください」
さとり様は穏やかに私を諭した。やはり読まれていたのだろう。私が自分の名前を気にかけている事。だったら教えてほしい。さとり様の目をまっすぐ見つめる。やがて観念して、暫く続いた沈黙を切った。小さな声でぼそぼそと。
「別に……、思い出しただけですよ。覚えていますか?あなたとお燐は最初仲が悪かったでしょう?」
覚えてる。初めて会った頃、取るに足りない些細なことで大喧嘩をしていた。おやつを取り合ったり仕事に口を挟まれたりいろいろと。今は仲良くなって落ち着いたけど、たまにする。
「私とこいしもそんな時代があったなあと。その時代の象徴、みたいなものですかね。それに、あなたは澄んだ心を持っていますから」
さとり様の両手で私を包んだ。首元に顔を埋めて、髪を優しく撫でてくれる。余程恥ずかしかったんだろうな。会話の途中のこの動作は顔を見られたくないため。耳が真っ赤になっているよ。
「だからね、地霊殿もそんな風になったらいいなって。実際にあなたが居てくれていっとう薄暗い地霊澱も幾分か明るくなりましたし」
「戻りたいって思わないの?」
「もう届かない遥か昔の産物です。これ以上を、求めることなどおこがましい。それに、ね」
小さなさとり様が大きな一回り大きな私をぎっと抱きしめた。子供が玩具を放さないみたいに。
「
◆ ◆
真っ暗な静寂の中。そこに私の意識があった。時折隣に居るさとり様の寝息だけがすうすうと聞こえる。
でもね、さとり様。さとり様はあんなふうに言ってたけど、やっぱり見せてあげたいな。地上の空。そしたらこいし様の閉じた目もまた開いてくれるんじゃないかなって、何故かそう思うの。
私は願う。主が私に幾ばくかの願いを込めたのなら。私も。いつか、いつか、さとり様とこいし様とお燐とみんなで、笑って地上を歩けますように。私がみんなの
毛布を掛け直して目を閉じる。やがて襲って来る心地よい眠気に身を委ねて、私は意識を手放した。
了。
地霊殿
お空は良い子!