Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

夢葬に散る

2011/01/04 04:41:57
最終更新
サイズ
11.7KB
ページ数
1

※嘔吐あり













 私の薄い胸のうちを緩やかに傷め犯す真因について、この度はひとつお話させて頂きたく存じます。





 あるいはこうしてお話をしたところで、皆様には到底理解していただけないのかもしれませんね。冷たい水が気道を塞ぎ、肺に雪崩れ込み、胸のうちを少しずつ犯していく感覚は。私とてそうでした。恥ずかしい話ながら、慣れ親しんでいたはずの海によって自分が命を落とすなど、あの日まで一度たりとも考えたことはございませんでした。高をくくっていたのではなく、ただ無知だっただけなのです。水に殺される感覚を、知らずにいただけなのです。
 私はもともとそこまで何かに執着する人間ではありませんでした。今となっては己が人間だった時分のことをはっきりとは思い出せないのですが、そうであった気がします。何かへの執着心という点ではごくごく人並みであったはずです。それでも私が死にきれなかった―――こういう言い方はおかしいのかもしれませんが。成仏しきれずに海に念縛されてしまったのは、おそらく初めて波に呑まれたことによる恐怖と、今までそれなりに上手く付き合ってきたはずの海に牙を剥かれたという悔しさ、なにより私が深い水の底に沈んだその瞬間、他の人間はその冷たさも息苦しさもなにもかも知らずに陸で生きていた。そのことがどうしようもなく許せなかったということが一番の理由だったような気がするのです。

 人間としての命を失い、次に私の意識が明らかになった時最初に視界に映ったものは、海底の岩礁にぼろきれのように引っかかっている私の身体でした。鏡を通してではなく初めて間近で見る私の姿は思っていたよりもずっと小さく、水流にたなびく自分の髪よりも、そこらに生えている藻屑の方がよっぽど綺麗な黒色をして見えました。質の悪い混ぜ物を含んだ鉄のように濁った黒髪、青みを帯びた濁った色の肌、痣のようなきたない紫色をした濁った唇、そして苦悶を浮かべているようにも、なにかに驚いているようにも見える開かれた濁った瞳……それが、私の屍でした。
 初めの一日は、どうしたらよいのかもわからず、私はただ自分の死体の側に腰掛けていました。二日目は少しそこから離れ、海の中を漂ってみました。水中であるのにも関わらず身体は自由に動き、呼吸にも不自由しませんでした。けれどもしばらく辺りをうろついてから、結局私は自分の肉体の元へ戻ってきてしまいました。海はどこまで行っても絶えない膨大な水と多くの魚とごつごつとした岩で溢れかえっていましたが、それ以外の全てがありませんでした。
 私と私がつい先日まで生きていた世界を繋ぎ止めるものは、本当に、私自身の身体しか存在しなかったのです。
 しばらく経つと、少しずつ私の死体は水を含み膨張を始めました。海の側で育ち、海で働くことを生業としてきた家に生まれた私は、もちろん水場で死んだ者が辿る過程を知らされていたものですから、目の前で起きている出来事を表面上は覚悟しておりました。それでもやはり、辛くなかったと言えば嘘になります。自分の容姿が他人より特別秀でていると思ったことはございませんが、目前で他の誰でもなく自分の身体が徐々に醜く変わっていく様子に耐えられなかったのです。この頃から多くの魚たちが私の死体に寄り集まって群がるようになったというのも、私の気分を良くする要因には決してなり得ませんでした。
 私はようやっと自分の身体を捨てて、広い海を漂い始めました。




 その後私が長きに渡って行ったことについて、弁明の余地は見当たりません。結果的にそれが原因で聖に救われ、海を離れることが出来たと言っても、あの頃私が八つ当たりにも似た感情に身を任せただ人間の船を沈めていたという事実には何も変わりがないのです。妖怪が人間を襲うのは当たり前とは言いますが、私は昔、人間の身でした。妖怪だから人間を殺めたわけではなく、人間を殺めて妖怪になったのです。
 ただそれでも―――それでも、時折私の胸のうちに重くのしかかる感情は、罪悪感ではなく、やはり恐怖でした。夢を、見るのです。私が殺めた人間たちが、今度は私を沈めにやって来るのではないかという恐怖から来る、夢です。どうか、何を馬鹿なことを言っているのだと笑ってやって下さい。叱ってやって下さい。
 初めて夢を見たのは聖を失い、友人である一輪と共に地底に封印された後でした。封印とは言っても意識はあり、敬愛の対象である聖を無くした私たちは二人で寄り添うように生活していました。そうでもしなければ崩れてしまいそうだったのです。私については言うまでもなく、そして一輪もまた、聖を守りきれなかったことに深く心を傷め絶望しておりました。私達はいわば、その傷を舐め合うかのように互いを支え合っていたのです。
 日々の生活を繰り返すうちに、何の前兆もなく夢は訪れました。眠りについた私を待っていたのは暗闇に広がる大海原、水面の上に立つ自分、そしてそんな私の足を掴んで水底に引きずり込もうとする何十、何百という数の人間たちでした。多くはどろりと顔が崩れ、身体がぶよぶよと膨らんで肉が腐り、痕がつくほどに私の足首を強く締め付ける指からは骨がのぞいていました。純粋な視覚的な恐怖と、呼吸という役目を最早果たしていないはずの肺に水がたまる久々の感覚から、私は狂ったように手足をばたつかせて逃れようとしました。けれどもさながらあの日私の死体に群がっていた魚のごとく、亡者たちが私に寄り集まり、剥きだされた歯が私の肢体に食い込んだところで、ようやっと目が覚めたのです。
 飛び跳ねるようにして半身を起こし、そこが自分たちの寝室であることを自覚した瞬間、私は猛烈な吐き気に襲われそのまま嘔吐しました。その日の晩は確か雑穀の混じった白米、菜っ葉と厚揚げの味噌汁、大根の揚げひたしを口にしたことを覚えています。今となっては何百年も昔のことだのにそこまで鮮明に記憶しているというのは、嘔吐の瞬間、私がその夕餉に強く思いを馳せたから以外の何物でもありません。
 その頃は名目上は、私と一輪が食事の準備を分担していたのですが、実際は明らかに一輪が作る回数の方が多かったように思います。一輪は私よりもそういったことに長けていましたし、彼女の料理は味も良いものですから、半ば私が駄々をこねるような形で台所を任せていました。少々横着者の気質があるものの世話焼きな友人は、仕方ないわねとひとつため息をついてそれを承諾してくれていました。だからその日私の胃に入っていたのは一輪が作ってくれた食事で、嘔吐の瞬間私は「吐きたくない」と衝動的に思いました。一輪が、大切な友人が私たちのために作ってくれた食べ物を吐きたくはなかったのです。
 私は口元を押さえましたがそれくらいで吐き気はやまず、酸っぱい胃液と共に夕飯の献立が喉をせりあがってきて、やがては口からこぼれました。歯によって細かくなった厚揚げが、米が、大根が、液状のなにかとなって私の寝巻きと布団を汚しました。胃液と唾液がないまぜになったものが私の唇の端を伝いました。口を押さえつけていた手のひらの、指の間からこぼれ、ぼたぼたと垂れました。あんなに旨そうな匂いをたちのぼらせていたはずの料理たちは、今はすえた嫌な匂いをまき散らすだけのきたないものに身をやつしていました。
 私はどうしたら良いのか分からず、氷の塊を含んだかのような冷たさを身体の芯に感じながら、ただ自分が今しがた吐いたばかりのそれを見下ろしました。暗闇の中でもうっすらと見える、胃液の濁った黄色が染みたそれらは生温かく、寝巻きの上から私の冷たい肌に嫌な熱を伝えてきました。
 そこで隣の布団で眠っていた一輪が目を覚まし、驚いたように起き上がって私の側に寄ってきました。私はといえばその時の姿を一輪には見られたくはなかったのです。私は自分の吐瀉物で自らの手を汚し、恐怖から傍目に見て分かるくらいに身体を震わせていました。一輪は一瞬だけ俯いたままの私の顔を覗き込んでから、黙って背中をさすってくれました。はっきりと訊ねたわけではありませんが、思えば彼女は「嘔吐している相手の顔を凝視してはいけない」という暗黙の了解めいたものを既に知っていたのではないかと思います。あるいは必死に視線を落としている私を見て、私が自分の表情を知られたくないと強く思っていることに気づいてくれたのかもしれません。食べたものを全て出し切ってしまっても吐き気は止まらず、私の身体はとっくに空になった胃をよじらせるようにして胃液をこぼし続けました。一輪はその間、ずっと私に寄り添うようにして身を寄せ、背中を撫で、しばらくして私の気分の悪さが少しだけ落ち着いたら手が汚れることも厭わずに私が吐いたものを片付けてくれました。その後、まだ膝が震えて上手く立てない私に肩を貸してくれ、水場まで連れて行ってくれました。皮膚が削れそうなくらいごしごしと石鹸で手を洗い、口をすすぎ、布団と寝巻きを水で洗い、再び寝室に戻ってきても、私はまだ震えていました。震えることしか出来ませんでした。
 布団を使えなくしてしまった私を、一輪は自分の布団に招き入れてくれました。幽霊である私の身体はひどく冷たく、生きた者が冬場にずっと触れていたら、凍傷にこそならないもののそれに近い症状が起きるほどです。寒さはほとんど感じないものの温かさは感じることの出来る私には、やや高い一輪の体温はひどく心地の良いものであったはずなのに、その日私は結局眠ることが出来ませんでした。震える私の身体を抱きしめてくれた一輪の腕も、その日ばかりは私に何の安寧も与えてはくれなかったのです。
 その晩を皮切りに、私は何月かに一度の頻度で夢を見るようになりました。夢の内容は、細部は事毎に違っていますが、大筋は同じようなものです。海の上に私は立っています。船幽霊としての身なのか、人間としての身なのかは分かりませんが、ともかくも村紗水蜜が独りで、溶けそうな暗闇の中、揺れる水面の上に立っています。そうして、足元に広がる海原から数え切れないほど多くの腕が伸びてきます。それはひどく青白くぬめりつくだけのただの人間の腕であったり、腐りかけて肉の間から骨ののぞいたものであったりしますが、いずれにしてもそれらは私の足首を掴み、海の中に引きずり込み、時には私の首を絞めます。遥か昔、人間だった頃の私の身体がそうされていたように、今度は魚ではなく大勢の亡者が私の肌に歯を立てます。
 初めの頃は痛みと息苦しさにもがいていた私も、最近では諦めて、目を閉じてじっとその夢が過ぎ去るのを待ちます。いつかは終わる。そんなふうに考えて、ただ意識をさながら水底に沈めるようにして、訪れる目覚めを渇望します。初めて夢を見た直後に嘔吐して以来、吐くことはなくなりましたが、それでもどうしようもない気分の悪さまでは拭いきれません。目を覚ましてからの私はいつも一輪の姿を探していましたが、地上に出て命蓮寺に住むようになってからはそれも減りました。地底の頃とは違いそれぞれ別の部屋で眠っていましたし、何度も何度も私の都合で彼女を付き合わせてしまうことに罪悪感を覚えていたからです。一輪の方はそれでも私を心配してくれていたようで、ことあるごとに近頃の夢見が悪くないかと遠まわしに訊ねてきます。私はその度に笑みを浮かべ、もう大丈夫、あの頃は世話をかけたと繰り返すのです。

 この夢のことを聖に打ち明ければ、あるいは私は救われるのかもしれません。
 聖は長い間ずっと海に囚われていた私に、もう一度地を踏ませてくれたお人です。どうしようもなく自分を縛り付けていた私を許してくれたお方です。聖はきっと、私がまだ抜け出せないものを胸に抱えていると知れば、それを取り除こうとしてくれるに違いありません。彼女はそういう人です。彼女の正義の名の元に、全てを許そうとしてくれる人です。その高潔さはある意味傲慢とも取れますが、私達を始めする多くの者が彼女に救われていることに、何の間違いもないのです。
 ああ、けれども。私は、私の夢の話を聖に打ち明ける気は一切ございません。いつの日か、私がまだ夢を見ていることを知った一輪が聖に話そうとする可能性もあるかもしれませんが、そうなろうとした時、私は腕尽くでも一輪を止める覚悟です。彼女には感謝しています。私を支えてくれ、千年もの長い年月を友に過ごし、色々なものを共有してきた彼女に言葉では言い表せないほどの恩義を感じています。そんな彼女に対し、私が友愛以上の何かを覚えていることもまた確かです。けれども、そんな彼女にも知られたくないことはあります。決して譲りたくないこともあります。
 私は今後一切、夢を見ることを誰にも話さずに過ごしていくつもりです。私の幽霊としての、妖怪としての生がいつまで続くのか、そもそも終わりというものがあるのかということさえ定かではありませんが、私は決めてしまったのです。早鐘のように鳴り響く心臓と震える身体と荒波のように私を呑み込もうとする恐怖感を抱きながら、誰もいない自室で膝をかかえ、あるいは自分で自分を抱きしめながら―――新たに訪れる安寧の眠りを待ち続ける日々を送ろうと決めたのです。


 そうでなければ。
 私の見る夢以外の何が、一体、死んで尚この世に留まろうとする欲深な私を罰してくれるというのでしょうか。


 最近は少しずつ、夢を見る回数が増えているように思います。数ヶ月に一度程度だった夢は、今や月に二、三度の頻度で私の元に訪れるようになりました。
 私は時折、自分の未来を想像します。毎日のように自分が水底に引きずり込まれる夢を見、目を覚ましている間も、きっと彼らの幻影が私を悩ませることでしょう。日常に溢れる小さな日陰や、何かと何かの隙間から、ひどく白い手が私の喉元まで伸びてくるのでしょう。例えば寺の庫裏に置かれている水瓶や、湯の張った浴槽や、雨上がりの道の水溜りなんかを覗き込んだ時に、私は自分以外の何かの姿をそこに見つけるのでしょう。私はその光景をありありと瞼の裏に浮かべることが出来ます。おそらく、そう遠くはない未来の話です。



 「彼ら」がやがて私の全てを呑み込み、もう絶対に浮かび上がれない深いところまで私を引きずり込んだその時に、初めて。
 本当の意味で、村紗水蜜は「彼ら」から許され、解放されるのだと思います。




 今はただひたすらに、その瞬間を待ち続けることしか、私にはかなわないのです。













fin.
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
なんか嘔吐に興奮した。
2.つくし削除
これは、良いですね。良い読書体験でした。
3.かたる削除
ああ、いいなあこれ、すてきです。
いろいろ感想があるのですがうまく言葉にならないので村紗の容姿は秀でているよ!とだけ。

しかしこんなにきれいな文章で嘔吐とか書かれるとこう……なんともいえない魅力を感じてしまうなど。