美しい風景を描くため、アリス・マーガトロイドは幻想郷中を歩き回っていた。
未だ青青と茂る草木が残る夏の終わり、一足早い芸術の波が彼女の元へ訪れていた。
何故彼女が芸術に手を出しているのか?答えはいつも同じ。
――人形に作るに当って役に立つ可能性が有るからだ。それ以上でもそれ以下でもない、彼女は常にその為に、そしてソレを使役するために行動している。
では何故絵を選んだのか。実は既に音楽には手を出して、これは二つ目の課題である。よって、順番に過ぎない。次は本でも読むのではないだろうか。
彼女は妖怪の山にある、霧の湖の見下ろせる小高い丘で腰を下ろした。そしてスケッチブックにした絵を描きだした。
私――アリスは考える。因みにその間も下書きを続ける手は止まらない。
私は多くの事を考えている。魔術の研究にしてもそうだし、この間読んだ本の解釈なんかもする。
そんな中、最近好んで考えるのは個々人の能力についてだ。余り他の能力と被らないから多く楽しめるのに加え、敵対した際に役立つと思ったからだ。
今、私が考えるのは、地靈殿騒動の後神社で会った(厳密に言えば私は会っていないが)少女の事だ。
名を古明地こいしといった。
彼女の能力は『無意識を操る程度の能力』であるとされる。
それは人に感知されにくくなり、彼女の事を認識できなくなるというある意味最強に近い能力だ。
さとりという種族であるのに、『眼』を閉じたが為に、心が読めなくなった。代わりにこの能力を得たと聞く。
しかし、そこで私は考える。
果たして『眼』を閉じたからその能力を得たのか?と。
仮に彼女の姉が『眼』を閉じたら無意識を操る事が出来るようになるのだろうか?
答えは否だと思う。
そもそも彼女等の場合、能力と言うよりは特徴である、と言うのが私の見解だ。
だから『眼』を閉じても代わりの能力は得られず、ただ心が読めなくなるだけなのではないか。
徐々に下書きが完成していく。
まずそう仮定しよう。
だとすると、こいしの能力は一体どのようにして得られたのか。
まず、『眼』を閉じた事と関係はあるのか。
答えは是だろう。
それ自体が能力の発現に関わるのではなく、能力発現の切っ掛けの一つであると推測する。
今まで見えた(読めた)ものを見ないようにする事で、そこに向いていた意識を他の事に使えるようになったのだ。
では、他の切っ掛けとは何だろう?
彼女が『眼』を閉じるにいたった原因――人に嫌われたくない――に何か関連するのだろうか。
しかし、私達が遭遇した時の彼女の様子を思い出す。
良く言えば陽気で、悪く言えば頭が弱そうだった。しかし、そこには無邪気さが存在していた。
彼女は『眼』を閉じるときに感情の一部も捨て去ったのだろうか。例えばそれは恐怖、それは憂い、それは哀しみ。
負の感情を捨て去ったのではないだろうか?
そう推測するのは訳がある。
彼女の事をあれ以降幾度か見たのだが、恐ろしいほどに感情の動きが見られなかったのだ。
まるで無いかのように。
だから私はこう纏めた。
彼女は感情の一部(それがどの程度か解らないが)を捨て去ったのだ、ないし封印しているのだと。そして恐らくそれは後者だ。
此処までは内へ潜る段階だ。
能力の発言には幾つかのパターンがあるが、彼女の場合は
自主的な規制や封印によって、自分の機能が少なくなる。
しかしそれは不自然であるため肉体が、精神がソレを許さない。
それでも封印を続ける場合、自分の内側、けれど封印が行われた場所とは別な所からそれを埋める“何か”が現れる。
例えば違う人格であったり、別な能力であったりだ。
そうして発現する物には個人の性格や特性が反映される。彼女は彼女の性格、特性から無意識を操る力を得たんじゃなかろうか。
下書きが終わり色をつけ出す。湖の周りの森が最も苦労しそうだ。
さて能力の発現に関してはこれで構わない。そもそも発現までの過程など、私には確かめる術も無いのだし。
最も重要なのはその能力の使い方だ。
つまり、『どの様にして無意識となるか』だ。
かつての説明はこうだ。
自ら無意識になる事で無意識に身を埋める。
それに伴って行動も無意識でしか行えないが、無意識でなければ捉えられない。
成程、一見合点がいくようにも見える。
しかしそもそも、我々生きているモノが無意識に身を埋められるのだろうか?
私は不可能だと思う。
意識できない部分を無意識と呼ぶのだ。そんなモノと一体になったのなら、精神が壊れてしまう。
一部を封印した所で話にはならないだろう。
つまり私は他の方法で私達の認識外に出ているのだと思うのだ。
ではどうしているのか。
絵に色が付いていく。あと少しで塗り終わる。
そう、この絵にこそヒントが隠されている。つまり私はこう言いたいのだ。
こいしの能力は、私達に自分を風景の一部と認識させる、と言う事ではないかと。
例えば、人ごみ中を歩くような話だ。
私達は其れを人ごみだ、と認識する。そして一人一人を認識することは出来ない。
木を隠すなら森の中、と言う訳だ。
その上でこいしはありとあらゆるものに紛れる事が出来る。
しかしこれは同時に無意識を操ると言う彼女の能力を否定するものだ。
なにせ、認識を誤魔化す事が出来ればそれでよいのだ。
大層な能力なんて必要ない、と言う事になる。
絵が完成した。本当に森の部分が大変だった。画材をしまっていく。
私の結論は全くの無意味だ。
なぜなら無意識だろうと認識干渉だろうと防ぐ手立てが何もないのだ。
違いはそんなにない。
無意識は全く居る事も分からないが、認識干渉ならば居るのは解っても認識できない。
つまり写真で映して映るか映らないか程度の差だと言う事。
この考えは意外と面白いんじゃないだろうか。私はスケッチブックの他の頁に素早くメモし、スケッチブックを閉じた。
彼女は気付かない。彼女の描いた湖の絵。
その湖を囲う森の部分に、描いた憶えの無い、帽子を被った少女の絵があった。
それは彼女の説を図らずも保証するものだが、風景となってしまった少女の姿を描いた絵は永遠に風景としてしか認識できない。
結局、こいしの能力の秘密を真に解く事は誰にも出来ないのだ。
あと、誤字報告です。× 気を隠すなら森の中 → ○ 木を隠すなら森の中 ですよ。これだと、森の中にめーりんがいるみたいw