永い夜が、終わりを告げた。
「魔理沙、もう少しゆっくり飛べないの?」
すぐ横、箒の前に座る魔理沙に向かって、アリスはそっと声をかける。
楽しそうに箒を繰る魔理沙は「ん?」と聞き返してきた。
アリスはため息を一つ吐いて、
「ちょっと速いわよ。落ちたらどうするのよ」
聞こえるか聞こえないか、半半くらいの気持ちで言った。風が強くて、お互いの声が聞こえにくいからだ。飛ぶ高度はそこそこ高く、それに比例して風の勢いも強くなってくる。夏ということもあり、朝焼けの気配がする風が心地良かった。
魔理沙はしばらく「んー」と唸り、前を向いたまま、
「そのときはすぐに拾いにいくよ――というかアリス、自分で飛べるだろ?」
「疲れてて飛びたくないのよ」
今度のは、半分嘘で、半分本当。
疲れてるのは本当。月が偽者にすり替わるなんていう異変を解決して、もう何もしたくないくらいに疲れていた。弾幕の撃ちすぎで身体が重い。今すぐ眠りたいくらいだった。
だからこそ、自分で飛ぶのも面倒で――アリスは、魔理沙の箒の後ろに、横向きに座っている。左手を魔理沙の背に添え、右手で箒の藁をつかみ、足をふらふらと揺らしながら景色と、前に座る魔理沙を見ている。
魔理沙はといえば、鼻歌でも唄いそうなほどの調子のよさで、楽しそうに飛んでいた。
――体力、無限なのかしら。
そう疑わずにはいられない。あんがい、もっともタフな生物は人間なのかもしれない――目の前の魔理沙と、とあるメイドと、とある巫女の顔を思いうかべて、アリスはそう思った。
それが、本当の、半分。
嘘の半分は――言うまでも無い、というか、言えない。
単に、こうやって、箒の二人乗りをしたかっただけだなんて。
「夜は永かったし、敵は多いし。疲れて当然よね、当然」
言うアリスの顔は、少しだけ赤い。
魔理沙が前を向いていて良かった――心の中でほっと息を吐く。
「私も疲れてるんだがな」
含み笑いと共に魔理沙がいい、その頭をアリスはぽん、と叩いて「感謝してるわよ」と言う。その言葉を聞いてさらに魔理沙は笑い、箒を右にロールさせた。
右から吹く風が強くなる。魔理沙の金の髪が左に流れていく。どういう理屈なのか、三角帽子は落ちない。
地面が近くなる。
高度五十、四十、三十、二十――
「ちょっと魔理沙!?」
「これくらい――」
地面に、手が触れそうなほどに近付いた。
撃墜をアリスが覚悟した瞬間、魔理沙が箒の柄を上に上げた。箒は上向きになり、けれど落下の慣性を殺しきれず、箒の尻が地面をかすかに舐めた。土の上に細く小さい後がつく。
「――普通だぜ!」
力強い声と共に加速。箒は再び上昇する。広角から鋭角へ。45度の角度で上昇し、あっという間に元の位置につく。
放っておけば、曲芸飛行でもしそうな勢いだった。
水平飛行に戻してから魔理沙が楽しげな口調で、
「いつもならこのあとインメルマンターンでもするが――ま、今日は疲れてるからこれくらいだな」
「……あのね、魔理沙。落ちたらどうするのよ?」
背中越しにでも、分かった。
その言葉を聞いた瞬間、魔理沙が笑ったことを。肩がかすかに動いた。笑う気配がする。
案の定、魔理沙は笑いを含んだ、楽しそうな声で答えた。
「そんときは、今みたいに拾いにいくよ」
「――――」
呆れた。
ひょっとしたら、それを言うためだけに、さっきの曲芸もどきをやったのかもしれない。
呆れたけれど、怒る気にはなれなかった。
代わりに、
「なら、落ちないように努力するわよ」
言って、アリスは魔理沙の腰に手を回す。両腕で、魔理沙の細い腰を抱きしめる。
「おいおいアリス――」
「いいでしょ。これなら堕ちないわよ」
「そりゃま、確かにそうだけど」
「なら安全運転を心がけること!」
「はいはい、お客様、どこまで行きましょうかね――」
言いつつ、今度は左にロール。ゆるやかに進路を変えつつ、夜闇を飛ぶ。
明けは近い。
長い夜は終わり――空の端が、少しずつ明るくなりつつあった。
風から身を守るように、アリスは、腕に少しだけ力を込めた。身体を寄せ、魔理沙に後ろから抱きつくようにする。
――後ろ向きでよかった。
今、自分がどんな表情をしているのか、アリスには分からない。そして、同じように魔理沙にも分からないだろう。
だからこそ、こういうことができた。
夏の暑さと、夜風の涼しさに、服越しに伝わる体温のぬくもりが加わる。声が、身体の振動で伝わってくる。
すぐそこに魔理沙がいる、それだけで十分だった。
「どこまでも――」
アリスは小さく呟く。魔理沙は答えない。
二人の身体をすり抜ける風が甲高い音をたてる。笛がなるような風の音。その風すらも、あっという間に後ろへと流れてしまう。
地面は遠い。人の村も妖怪の家も関係なく、後ろへと消えていく。
遠い世界の出来事に思えた。
下を見ることなく、前と上だけ見ていれば――そこには魔理沙しかいない。夜空と雲と魔理沙があるだけだ。
「どこまでも――一緒に――」
呟きは風の音に聞こえる。
寄りかかる魔理沙から伝わるのは温もりだけで、彼女が今、どんな表情をしているのかアリスにはわからない。
言葉が途絶える。風の音が、やけに大きく耳についた。
二人ともに言葉を失くす。体温だけがそこにある。
アリスは何も言わない。
魔理沙は何も言わない。
黙ったまま――魔理沙が、動いた。
「――しっかり捉まってろよ」
そう、言って。
箒の柄を、直角に近い角度で真上に向けて、力をこめた。
二人を乗せた箒は、真上へと、すさまじい勢いで昇っていく。流れ星を逆再生するような行為。もし、この時空を見上げるものがいたら、金の光が空へと上っていくのが見えただろう。
風が上から襲ってくる。魔理沙の髪に、アリスの視界が奪われる。
冗談ではなく落ちそうになって、アリスは無我夢中で魔理沙に抱きついた。
「ちょ――魔理沙!」
「黙ってないと舌かむぜ!」
楽しげに言い捨てて、魔理沙はさらに速度をあげた。
半ばパニックに陥りながらも、アリスは手を緩めることだけはしない。
風の音が強く、高くなる。
一瞬――視界が、真っ白に染まった。ぼん、という軽い爆発のような音。
箒が雲の中に突っ込んだのだと、アリスは気付かなかった。
雲の中にいたのはわずなか間だった。再び音がして、視界がクリアになる。身体のあちこちに湿り気を感じた。その時になってようやく、アリスは自分が雲の中を通ったことに気付いた。
魔理沙が、ゆっくりと、箒を水平に戻す。
金の髪が大人しくなり、魔理沙の元へと戻る。
アリスは文句を言おうと口を開け、
「あ、――」
言葉を失い、意味のない音だけが、口から漏れた。
雲の上、幻想郷でもっとも空に近い場所。
山に遮られて見えなかった朝日が――すでに、そこにいた。
世界が明るく照らし出されている。永い永い夜の終わりを告げる太陽が、顔を見せている。
雲の上、かすかな朝霧に光が反射して、世界が輝いてみえた。
「綺麗なもんだろ。たまに一人で、空の果てまで思い切り飛んでみると、すごい気分が楽になるんだぜ」
軽く言う魔理沙の言葉を聞きながら、アリスは、ぐるりと空の果てを見渡す。
太陽と雲。それ以外には、何もない。
雲に遮られて、下は見えない。そこには本当に、魔理沙と、空しかない。
二人きりだった。
「世界中で――二人きりみたいね」
心がそのまま言葉を紡ぐ。魔理沙は「まぁな」と呟き、それきり黙った。
アリスは抱きついていた手を緩め、魔理沙の肩に、自分の頭を載せる。
抱きつく、というよりは、身体を摺り寄せるような行為。
魔理沙は何も言わない。ゆっくりと、速度を落して、空の上を飛ぶ。
なぜだか泣いてしまいそうになって――アリスは、「魔理沙」と名前を口にした。
朝焼けの中、その声を聞くのは、世界中で、魔理沙だけだ。
(了)
タイトルがすげー水差しまくってるけどw