師匠と弟子

　なんで今日の師匠はこんなに機嫌が良いのだろう、と私は思う。
　今日の師匠は絶対におかしい。
　あれが月の頭脳、八意永琳なのだろうかと思える程の機嫌の良さだ。
　確かに私を拾ってもらった事には感謝している。
　おかげで鈴仙・優曇華院・イナバなどというなんだかよく分からない名前まで付けられたのは確かに不服ではあるが、名前なんて呼ばれ慣れてしまえばそれまでだし、充分に慣れた。
　珍しい事に鼻歌まで漏れ出してるじゃないか。何語なのか分からないけど。
　買い物に出かけたのはまだいい。手に入れた野菜や生活用品なんかの袋をぶら下げているのはどこぞの主婦のようだ。
「なぁにウドンゲ、さっきからこっちをジロジロ見て」
「いえ、なんでもないです」
　何が機嫌が良いのか分からないけれども、機嫌が良いならそれでいい。うっかり機嫌を損ねて新薬の実験材料にされるのは勘弁願いたい。
　さて、師匠の機嫌の良さには幾つかの理由があると思う。
　一つは野菜を安く買えた事。
　野菜如きでなんでこんなに機嫌が良いのか、と聞かれれば師匠は野菜が好きだ、という事しか思いつかないのが欠点なので除外。
　二つ目は紅魔館で人参と引き換えにお肉を手に入れられた事。
　何の肉だかよく分からないが、応対に出た十六夜咲夜を見るに人肉、という訳でも無さそうだ。確かに家の姫は肉が好きだ。野菜好きの師匠によく「お肉はー？」と問い掛ける所を見ている。
　そのお肉がたまに蓬莱人になったりする辺り、姫は侮れない。が、そこまで機嫌が良くなるだろうか？
　野菜と肉。確かに最近は姫も外に出るようになったせいか、よくお食べになる。
　かと言って体重が増えてるように見えないのはその身に取り込んだ蓬莱の薬の所為なのだろうか。
　だとしたら私としては太らずにすむなら蓬莱の薬を飲む事もやぶさかではない。
　思考がずれた。
　さりげなく師匠の波長を視てみる。
　……弛みきってるよ？　この人。
　私はかつてこれ程弛緩した表情の師匠を見た事が無い……いや、一度だけあった。
　地上を大きな密室にした後だ。
　あの時も酷かった。あまりにも弛みきった表情を隠すために師匠は一週間以上自室に篭ってしまった。という事は今回も篭ってしまう可能性があるが、そんな事は今はどうでも良い。いや本当は良くないけど。
　それにしても久しぶりに見る師匠のだらけきった顔はもはや月の頭脳だとか天才だとかは棚の上に放り上げて神棚に飾って毎朝拍手を打って拝みたいぐらいだ。
　今の師匠はそれほどまでに……こう言ってはアレかもしれないが、酷い。
　何しろ軽快で妙に癒される鼻歌は聞いた事も無いような言語を紡ぎ出し、だらしのない顔をして口を大きく広げている。左手には買い物を詰め込んだ袋、右手は……何故か長ネギを持ち、それをぐるぐると回し続けているのだ。
　ちなみにその歌の言語を無理矢理日本語に表記にするとこうなる。

「やっつっつぁっぱり　りっぱりらんらん
　て(っ)きたり　りんらん　てぃちたんどぅら
　りぺたびだんら　るっぱてぃるぴらん
　これかん　こっかや　きりがんぐ

　ぁらっつぁっつぁーや　りびだびりんらば
　りつたんでぃんらん　でんらんど
　わば　りっぱった　ぱりっぱりっ
　ばりびりびりびりすって　でんらんど

　やば　りんらん　すてんらん　でいあろー
　わらば　るぶるぶるぶるぶ　どぅぃえぶー
　わっでぃ(づ)だ　りんらん　すでんらん　どばだか
　だかだが　どぅどぅ　でいあどー」

　所々はよく聞き取れない。
　てきたり、なのか、それとも、っきたり、なのかはサッパリ分からない。
　でぃ、だって怪しげな物だ。
　しかも困った事に、これが延々と繰り返されている。
　私の自慢の耳を持ってしても聞き取れない発音をするとは師匠恐るべし。
　原因はやはり紅魔館だろうか。
　そういえば夜を止められたあの日も紅魔館の十六夜咲夜が乗り込んで来たっけ。あの紅い当主レミリアに連れられて、という風情だったが、師匠の表情が弛緩しきったのに関係があるのかもしれない。
　今日の物々交換ではレミリアは居なかった。という事はやはり原因は十六夜咲夜なのだろう。
　あの人間と月の民であった師匠にはどんな関係があったのだろう？　まさか親子とは言えまい。だとしたら何だ、と聞かれても私には答えられない。何しろ師匠は地上に来て１０００年以上も経っているのだ、私なんかが憶測できる範囲は限られている。
　それにしてもいつまでこの歌は続くのだろう。気がつくと紅魔館を出てから２時間以上は聞かされている。
　いいかげんこちらも憶えてきたので一緒に唄え、とか言われたら間違いなく唄えるぐらいだ。
　あと、長ネギ。
　回しすぎてすでに曲がってしまっているようにしか見えないので、元長ネギと言った方が適切ではある。
　それでも師匠は気にせずにぐるぐる回している。
　楽しそうに。
　大口開けて。
　狂わせるのは私の本分なのだが、いい加減私が狂ってしまいそうだ。
　リピートの回数は１００を越えた辺りで数えるのを放棄。
　こうなってしまってはどうにもならない。一刻も早く永遠亭に帰りたいと思う。
　だが、師匠は何を思っているのか良く分からないがとんでもなくスローペースで飛んでいる。
　このままでは日暮れまでに永遠亭に辿り着けるのだろうか。まるで歩いているような速度で――いや実際に空を歩いているのだ、師匠は。
　空をのたくたと歩き、訳の分からない歌……もう歌じゃなくてもいい気がしてきた。呪文でもなんでもいい。とにかく延々と聞かされているこちらの身にもなって欲しいものだ。

「やっつっつぁっぱり　りっぱりらんらん
　て(っ)きたり　りんらん　てぃちたんどぅら
　りぺたびだんら　るっぱてぃるぴらん
　これかん　こっかや　きりがんぐ

　ぁらっつぁっつぁーや　りびだびりんらば
　りつたんでぃんらん　でんらんど
　わば　りっぱった　ぱりっぱりっ
　ばりびりびりびりすって　でんらんど

　やば　りんらん　すてんらん　でいあろー
　わらば　るぶるぶるぶるぶ　どぅぃえぶー
　わっでぃ(づ)だ　りんらん　すでんらん　どばだか
　だかだが　どぅどぅ　でいあどー」

　それにしても師匠をここまで腑抜けにしてしまえるとは一体何なのだ、あの十六夜咲夜というメイドは。
　一度その手法を教えて貰いたいぐらいだ。そうしたらむこう一週間は怪しげな兎体実験につき合わされなくて済むのに。
　……あぁもううるさいのを通り越えてどうでもよくなってきた。
　妙に軽快なリズムに乗せられてきたのだろうか。
　今なら花の騒ぎで出会ったあの白い騒霊にすら可愛く思える。
　思い切って聞いてしまおうか？　なんでそんなにご機嫌なんですか？　って。
　しかし機嫌が良いという事はイコール私の安全だという事を考えれば藪を突付いて蛇を出すような真似は極力避けるべきである。
　あぁネギがぐるぐる回る。歌が聞こえる。
　全てがどうでも良くなってきた。
　私もこの弛みきった師匠に汚染されてしまったのだろうか。
　しかし耳に残る奇妙な言語は止まる事は無い。
　今なら姫が一週間も師匠を閉じ込めた気持ちが良く分かる。
　私や姫、１００歩譲っててゐまでならまだいいかもしれないが、他の地上兎になんか見せられた物じゃない。
「やっつっつぁっぱり　りっぱりらんらん
　て(っ)きたり　りんらん　てぃちたんどぅら
　りぺたびだんら　るっぱてぃるぴらん
　これかん　こっかや　きりがんぐー」
　あれ、いつの間に声が増えているんだろう。
　口を開いた記憶は無いのになんで私は師匠と一緒になって唄っているんだろう。
　なんかもう考えるのも億劫になってきた。
　私の右手にはいつの間にやら白と緑の長いネギ。
　全てが師匠の奇妙な歌に支配された夕暮れの幻想郷で私はネギを回し始めた――
　ただ一つ思ったのは、師匠をこんなに上機嫌にさせてしまえる十六夜咲夜が少し羨ましい。
　素晴らしい夕暮れの空。
　響き渡る奇妙で軽快なリズムの歌。
　大口を開けて、ネギをひたすらぐるぐるぐるぐる回しながら唄う師匠と弟子。
　今日も幻想郷は平和だ。










『やっつっつぁっぱり　りっぱりらんらん
　て(っ)きたり　りんらん　てぃちたんどぅら
　りぺたびだんら　るっぱてぃるぴらん
　これかん　こっかや　きりがんぐ

　ぁらっつぁっつぁーや　りびだびりんらば
　りつたんでぃんらん　でんらんど
　わば　りっぱった　ぱりっぱりっ
　ばりびりびりびりすって　でんらんど

　やば　りんらん　すてんらん　でいあろー
　わらば　るぶるぶるぶるぶ　どぅぃえぶー
　わっでぃ(づ)だ　りんらん　すでんらん　どばだか
　だかだが　どぅどぅ　でいあどー』

そうだ、ネギを回そう。