「ねえ美鈴、パチェから面白い話を聞いたの。是非あなたにも聞いてもらいたいんだけど?」
珍しくお嬢様にお茶に誘われたので行ってみたら、いきなりそんなことを言われました。
紅魔館中庭の日陰に作られたテラスに座っているのは、私とお嬢様、パチュリー様の三人。
咲夜さんはお嬢様の後ろに立っています。
「ええ、構いませんが……」
「良かった。それじゃパチェ、よろしくね」
お嬢様がそう言うと、パチュリー様はテーブルの下から厚さ五センチくらいの大きい本を出しました。
「これにはね、外の世界の偉大な恐竜の歴史が書いてあるの」
「恐竜の歴史ですか。私はよくは知りませんけど、宇宙から星が落ちてきて絶滅したーとか、そういうのでしたっけ?」
「それはそれで正しいわ。でもね美鈴。これはあらゆる時代を乗り越え、あらゆる苦難に挑戦した一匹、否、一人の美しくも崇高な恐竜の歴史なの」
読むわよ、と言ってパチュリー様が本を開きました。
その恐竜は、二つ名を“古の幻獣”とされ、主として年端も行かぬ子供達に愛された。
彼は、その長い人生を、あらゆる苦難に挑戦することに費やしてきた。
挑戦にあたってはその道の先達に教えを請うが、直接に手は借りず、必ず自分の力でやり遂げてきた。
彼が生涯に挑戦を行ったのは数百、否、千以上と言われ、その数は完全には把握されていない。
また、彼には“赤き毛獣”と呼ばれる優秀なサポーターがいた。
つらい時、苦しい時、挫折しそうな時、――そしてやり遂げた時。
その時全てにおいて、彼らは二人一組だったという。
偉大な二人の獣の生き様は、この本には八割程度しか収められていないとされている――
パチュリー様は、あらましを語ってくれた後、本の中から三つほど実例を見せてくれました。
三つ全てに幻獣の姿が描かれた挿絵があったのですが、私のイメージとは少し違います。
「なんか、……変な人ですね」 私が絵の感想を言うと、
「だから幻獣なのよ」とパチュリー様に言われてしまいました。ごもっともです。
「それにしても、なんとも雄大な話ですねぇ」
雪山を板切れに乗って滑り降りたり、空を布切れ一枚で舞ったり、海に筒をくわえて潜ったり。
これで挑戦してきた内容の一パーセントにも満たないって言うんだから、凄すぎます。
私は素直な感想を言って、紅茶を飲みました。
久しぶりに飲む咲夜さんの紅茶は、たとえお嬢様とパチュリー様の前であっても、とても美味しくて、幸せです。
「そう、雄大なのよ。憧れない?」 お嬢様が聞いてきました。
「憧れますねぇ」 私は答えます。
「自分も何かやってみたいと思わない?」
「いやぁ、門番の仕事で手一杯ですよぉ。とてもそんな余裕は……」
「そう。じゃあ門番の仕事がなくなればいいのね?」
「ええまあ。…………はい?」
私がお嬢様の顔を見つめた時には、時既に遅し。
「美鈴、命令よ。幻獣の挑戦にならって、何か一つ成し遂げなさい。
挑戦が成功するまで門番の仕事は無期限休止ということにしてあげる」
お嬢様が、満足そうに腕組みまでして笑っています。
パチュリー様は、本を抱えてにやにや笑っています。
咲夜さんは、……お嬢様のお茶を淹れ直しています。
「――そんなのってないですよおぉぉおおぉぉぉぉっ!!!」
私は、絶望の淵に落っこちました。
◆ ◆ ◆
――そうね、この、……あいすすけえと? これにしなさい。
――最近暑い日が続いているし、涼しげでちょうど良いじゃない。
――あの氷精に言って、館のそばの湖を凍らせましょう。咲夜、手配を頼むわよ。
――かしこまりました、お嬢様。
一日経って、翌日です。
お嬢様の(たぶん気まぐれな)命令により、私は今、紅魔館正門から少し離れた湖のほとりに立っています。
岸から半径およそ百メートルの一帯が、完全に凍っています。
聞いた話では、咲夜さん、大妖精さんを通してチルノちゃんに根回しをした上で、スイカ五個で釣ったそうです。
高いんだか安いんだかよく判りません。
「ほら美鈴、何ボサッとつっ立ってるの。さっさと降りなさい」
大きなパラソルの下でくつろいでいるお嬢様が言いました。とてもムカつきます。
「美鈴、早くやってくれないと、私暑さで倒れるかもしれないわ。うっ、ごほごほっ……」
パチュリー様がわざとらしい咳をします。気の流れを見る限り、ムチャクチャ調子良いんですけど。
咲夜さんは、……何も言いません。ただ私を見ています。
「……判りました。それじゃ、行きます」
私は、ふうと息を一つ吐いて、湖に向かってジャンプしました。
私が今履いている靴は、昨晩裁縫と工作が得意なメイドが作った特注品だそうです。
“すけえとぐつ”と言うそうで、編み上げブーツの底に、垂直に薄く長い鉄板が刺してあります。
鉄板の長さは靴から少しはみでるくらい。高さは十センチほどでしょうか。
どうやらこれは“刃”と呼ぶそうで、これを氷の表面に立てて滑るらしいです。
右足一本で氷面に着地すると、足が後ろに流れました。刃が氷を噛む事無く、ツルっと滑った感じです。
――体重の乗せ方が甘かったのかな?
宙に残った左足を、刃が氷面に垂直になるように叩き落とします。
陶器を叩いたような高い音が響いて、刃が氷に食い込みました。
重心を刃の真上に持ってくるようにすれば、もう足は滑りません。
後は左足一本に体重を乗せ、右足を戻して立ち上がるだけです。――出来ました。
「とりあえず立ちましたけど、どうですかー?」
私は首と体を捻って、お嬢様に向かって言いました。
そして、おもいっきり後悔しました。
お嬢様、すんごいぶっすりした顔です。パチュリー様、すんごくむっきゅりしてます。
咲夜さんは、……瀟洒に微笑をたたえています。
「……美鈴、私はかの幻獣のように滑っているのが見たいんだけど」
「は、はいすぐにっ!」
私は体を戻し、右足をそっと氷面に乗せてみました。
体重を右足に乗せ、――左足を蹴ります。
「おっ、おぉ?」
さっきと違って余計な勢いがないので、そのままスーッと滑ります。
順調なので、蹴り出したままの左足をゆっくり氷面に着けて、右足を蹴ってみます。
「……あれ?」
踵が一瞬引っ掛かって、そしてツルっと滑りました。
――そっか、氷が固いから深く蹴り込まないと滑っちゃうんだ。
考えている間にも、スピードは落ちていきます。止まったら、お嬢様に何言われるか判りません。
「さっきみたく、おもいっきり刃を食い込ませて……」
……ううん、それもどうやら怒られそうです。
パチュリー様が読んでくれた中に、『幻獣は美しい調べに合わせ』という文章がありました。
音楽に合わせて滑るってことは、さっきみたいに大きな音の出る滑り方は間違っているってことになります。
――どうしよう…………あっ!
私の脳裏に、以前パチュリー様から聞いた言葉が浮かびました。
『パンがなければケーキを食べれば良いじゃないっ!』
そう、発想を柔軟にして、代替の方法を考える。つまり、
「縦が駄目なら、横に蹴り出せばいいじゃない……!」
右足を真横に蹴り出すと、刃が氷面に引っ掛かりました。
重心が左に移るので、合わせて左足を斜め向きにして前に出します。
すると、体が左に曲がりながら前に進みました。
「わぁっ……」
すごく自然で、柔らかいスピードです。空を飛ぶ感触とは少し違います。
右足が出来たので、次は左足。
足を真横じゃなくて斜め後ろに蹴り出せば、体を真っ直ぐ前に進め易い。
後ろ向きになってみても、要領は同じ。
コツを掴んだら、前後左右、ジャンプに回転、自由自在に滑れるようになりました。
――すっごく楽しいです。お嬢様、感謝します。
◆ ◆ ◆
「不愉快だわ。私が見たかったのはこんなんじゃないのに」 私が言うと、
「そうねレミィ。きっと今、私とあなたの心は一つになってるわ」 パチェが言った。
私は咲夜が用意したアイスティーを飲んで、はあっと溜め息をついた。
「ぶざまに転げ回りながらも、手を離しても立てるようになって、
前には進めるけど曲がれなくて湖に落ちたり、曲がろうとするとやっぱり転んだり。
そんな苦難を乗り越えて、それであれくらいの滑りが出来るようになるんじゃないの? ねえ咲夜?」
「お嬢様。ご存知の通り、美鈴は体術のスペシャリストです。
あの程度の運動機能を得るに費やす時間としては、妥当なものであると存じます」
「そりゃあ、そうだろうけど……」
確かに、あの程度のお遊びがこなせないようじゃ、紅魔館の門番なんかやってられないでしょうね。
でも、
「私が見たかったのは、ああなるまでの過程、つまりプロセスなの。……チーズじゃないわ咲夜。
ともかく、過程をすっ飛ばしてあんな楽しそうな滑り見せられても、こっちは楽しくないし感動もしないわ」
「同感ね。プランを立てる際の見通しが甘かったとしても、これじゃ私達ばかり損している気分だわ」
『というわけで咲夜』
私とパチェの声がハモった。
『私達が楽しめるように取り計らいなさい』
「では、こういった方法はいかがでしょうか?」 咲夜は時を止めずに言った。
「御覧下さい。美鈴の服のすそが、彼女の動きに合わせてひるがえっています」
確かに、服のスリットから生足を晒し、ターンを決めてジャンプするたび大きくひるがえっている。
「ですので、私が時を止めて美鈴の下着を剥ぎ取ります」
いつも通りの瀟洒な声で言ったので、私は思わず咲夜の顔をじっと見てしまった。
パチェは気管に紅茶が入ってしまったらしく、ゲホゴホむせている。
「美鈴は涼しさからすぐ気づくでしょうが、お嬢様が中断を許さなければ滑り続けることでしょう。
お嬢様とパチュリー様は、高みの見物をなされればよろしいと存じます」
「素晴らしい案だわ」 私は手をパンと打った。「咲夜、早速実行してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
◆ ◆ ◆
日が沈むまで滑らせていたけど、終わると美鈴はすぐ自室に引っ込んでしまった。
……さすがにやりすぎたかしら。
「咲夜、フォローお願いね」
「かしこまりました、お嬢様」
ま、咲夜だったら上手くフォローしてくれるでしょうし、美鈴も機嫌直してくれるでしょう。
だって、私がみんなを愛しているように、彼女も紅魔館のみんなを愛しているんだもの。
これは疑うまでもない、事実だから、ね。
「それでレミィ、次の挑戦はどうするの?」
「そうねえ。……あ、この『スモウ』ってのはどうかしら?」
それはともかく、涼しく滑れてよかったね。