「まるで零れ落ちてきそうな星空ね」
フランドールは夜空に広がる無数の光点たちをゆっくり眺めると、誰にも聞こえないくらいの小さな声で感嘆の言葉を呟いた。
満天の星空という表現はこういう時のために使うのだろう。
バルコニーから見上げる天上の海は、きらめく星々で満ち充ちていた。
「晴れてよかったわ。曇りとか情緒がないにもほどがあるもの」
「吸血鬼の貴女がそれを言う?天使にでも改心させられたのかしら」
「魔女の貴女が聖夜に天体観測?救世主の御心に魅入られたのかしら」
豪奢なティーセットの置かれた真っ白いテーブルに同席している館主と居候は、未だくだらない言い争いを続けている。
紅茶で一息ついたフランドールは、そんな二人には目もくれずに、傍らに控えていた魔女の使い魔に話し掛けることにした。
「ねえ、咲夜はどうしたの?」
「え、あ、はい。メイド長はすでにお休みになられました」
もうすでに休んでいる?
フランドールは小悪魔の返答に首を傾げた。
ひどく我が儘なレミリアの世話をいつも甲斐甲斐しく、それでいて天然ボケにこなしているあの完璧で瀟洒な従者が、今夜だけは任を解かれているなんて、どう考えてもおかしいことであった。
もしや彼女の身に何かあったのでは。
フランドールの表情がだんだんと不安の色に染まっていく。
仕事面に関しては頑固で融通のきかないきらいがある彼女だ。身体が悲鳴を上げるまで自らの不調を隠していたとしても不思議ではない――。
「咲夜は私が先に帰したわよ」
だが、フランドールが考えをまとめないうちに、目の前でケーキをもそもそと頬張っていたレミリアが、彼女の疑問を鋭い横槍で破壊してしまった。
これにはフランドールも呆気にとられ何も言えなかった。
レミリアは沈黙したままの妹をお構いなしに、今日何個目かのクリスマスケーキの残りをぱくりと口に含めていく。
せわしなく動く口元は粉とクリームでひどく汚れている。
咲夜がいないとすぐこれなんだから。
お世辞にも行儀がいいとは言えない姉の仕草に、妹は深い溜息を吐いた。
「なんで咲夜も天体なんちゃら会に誘ってあげなかったのよ」
「正式名称は『天体観測しながらケーキ食べて救世主の降誕を祝いつつ、亡き王女のために魔女とだべり星空を眺めようの会』よ。このくらい覚えないさいな、もう大きいんだから」
変なところで子供扱いするな。あと亡き王女って誰よ。最初と最後で言葉の意味被ってるじゃない。というか長い。
フランドールの心底から湧き上がった怒涛の突っ込みは、至極もっともなものだった。
「確かに誘わなかったけど、別に咲夜を省いたわけではないわ」
「……どういうことよ」
「ふふ、こんな素敵な夜くらい、二人きりの時間を作ってあげてもいいと思ってね」
何だか得意げに微笑むレミリアが無性にむかついたので、フランドールはテーブルの下で彼女の細い足を踏んづけてやろうかと思ったが、運が悪ければパチュリーに当たってしまいそうだったのでやめておいた。
それにしても『二人きり』とはどういうことだろう。
「ほら、あそこ、見てみなさい」
白い息を吐き出して、小さな疑問も何もかもまるっとお見通しのパチュリーが、フランドールの後方を指さした。
振り返るとその指先は、玄関を抜け前庭を越え、館の顔である正面門を指し示していた。
なるほど、吸血鬼の視力ならすぐに理解できた。
そこでどんな甘い夜が繰り広げられているかが。
「従者の願いを叶えてやるのはサンタクロースではない。主の仕事だ」
笑顔を絶やさずにふんぞり返る吸血鬼。
なぜかその時だけフランドールは、いつもは苛立つレミリアの笑顔を、そんなに悪くないものだと思ってしまった。
吸血鬼の威厳や畏怖など微塵も感じられない表情だと言うのに。
そのもやもやとした不思議な気持ちが何だか悔しくて、フランドールは星空へと顔を背けた。
「あ、サンタクロース」
「え、どこどこ?」
「ほら、あそこ」
バルコニーを吹き抜けていく冬の風が、空を見上げる眼をひりひりと乾かしていく。
その痛みさえ忘れてしまうほど、今宵は星が綺麗だった。
鳥も草木も眠りに落ちたというのに、最果ての博麗神社には未だ明かりが灯っていた。
雲一つない夜空に響くのは、祭り囃のような小気味のよい少女たちの声。
人妖の集まる宴会はまだまだ盛り上がっているようだった。
「アーリス、飲んでるらい?いらからでもろまなきゃ損だよ」
「貴女は絶好調そうね、萃香」
喧騒からやや離れた縁側でのびのびと寛いでいた人形遣いの元に、赤ら顔の小さな鬼がふらつきながら近寄ってきた。
その手にはいつもの瓢箪が提げられており、さらにもう片方には砕月の描かれたお猪口が握られている。
「私はりつらってぜっこーちょーなのら」
「大分酔ってるわね。鬼殺しでも飲んだのかしら」
「ありすー、私のらめに膝を空けろいてくれたのか。感心感心、わっはっは」
萃香はアリスの言葉には応えず、彼女の崩されていた足にすがりつくと、すぐに豪快な鼾を立て始めた。
人形遣いの呆れの溜息などもう聞こえてはいまい。
「おいちょっと待て、萃香。そこは私の席だぞ!」
「突然、何よあんたは」
萃香の方に気を取られている内に、アリスは背後から忍び寄るもう一つの気配に気づかなかった。
その気配の張本人は、まだ少し空いている残りのスペースに無理やり頭をねじ込むと、寝転がったまま膝枕の持ち主を見上げてきた。
アリスの目の前に、見慣れた白黒の魔法使いの満開の笑顔が現れる。
「わざわざ私の所になんかこないで、霊夢の膝でも借りときなさいよ」
「残念、すでに先客がいた」
「先客?」
振り向いて宴会の中心地を見ると、確かに霊夢の膝上には見知った者の顔があった。
それがまた普段の様子からはまったく信じられない人物であったので、さすがのアリスも思わず目を見開いてしまった。
すやすやと可愛らしい寝息を立てているのは守矢神社の現人神。
何かといつも霊夢のことを目の敵にしていた風祝様。
そんな彼女が酒の席ではあれほどまで素直になるなんて、思わず笑みがこぼれてしまうほど微笑ましい光景であった。
「だからと言って、こっちに寄越さないでよね」
頭二つ分の重みを膝に抱えながらアリスは愚痴を吐き出す。
それにしても魔理沙はなぜ、中心地から遠く離れた縁側まで、わざわざやってきたのだろうか。
膝を借りたいのなら、隙間妖怪とか冥界のお嬢様とか二柱の片方とか、もっと柔らかそうな持ち主が近くにたくさんいただろうに。
「おい、見ろよアリス。サンタクロースだぜ」
珍しく悩んでいるアリスをよそに、魔理沙はその細い指先を天空にかざして、とんでもないことを言い出した。
それがあまりにも突拍子もない言葉だったので、アリスは導かれるまま、つい顔を上げてしまった。
「あら、ほんと」
「僥倖だな。クリスマスの元凶のサンタを見られるなんて」
「めったにみられるもんじゃないわ、魔理沙。きちんと目に焼き付けてきなさい。あれが諸悪の根源よ」
「くそう、もうあんなに遠くにいやがる。できれば私が撃ち落としてやりたかったぜ」
安眠を貪っている小鬼よろしく、すでに二人ともかなり酔っているようだ。
「弾幕勝負に勝った者のみプレゼントが貰えるのかしら」
「世の中の子供は大変だなあ」
図体の大きい子供の甘えた声を聞きながら、アリスは微笑みを浮かべて、自分よりも柔らかい髪を優しい手つきで撫でるのであった。
「何であんたがここにいるのよ、蓬莱山輝夜」
「あら、私がここにいたら悪いかしら、藤原妹紅」
はたと目が合った瞬間に恋に落ちる、ことなど永遠にないであろう二人が、人里の真ん中で邂逅してしまった。
瞬く間に広がった険悪な雰囲気に、道を行く人々も思わず足を止めていく。
蛇と蛙、龍と虎、モンタギュー家とキャピレット家。
不倶戴天の敵同士の不毛な争いが、周囲を巻き込みながら今始まる――かにみえた。
「こら妹紅、いつも言っているだろう。話す時は相手の目を見るべきだが、決して睨んではいけないと」
不死者の意気を殺したのは里の守護者だった。
守護者は仲裁を取り仕切るかのように二人の間に立つと、観衆さえも一喝するように決然と言い放った。
その叱声を聞いた途端に怯んだ不死者の片側。
「だ、だって、こいつがこんなところにいるなんて、よからぬことを考えているに決まってるじゃない」
「私はただ買い物にきただけなんだけど。ね、永琳?」
それでも威嚇を続ける妹紅に対し、輝夜は冷静を保って、傍らの従者を助っ人として舞台に引き上げた。
話を振られた従者はやれやれと肩をすくめると、困った表情を崩さずに里の守護者の元へと歩んで行った。
「ごめんなさい、慧音。本当は姫様には留守番をお願いしたんだけど、私も行きたいと駄々を捏ねられてね」
「いや、別に里にきてくれるのには何の問題もないんだ。というか、先にあやまるのはむしろこちらの方だったな。すまない、妹紅が喧嘩を吹っかけてしまって」
「いいのよ、貴女があやまらなくても。ほら、そんなに眉を寄せると可愛い顔が台無しよ」
「え、か、可愛い?」
慧音の元に辿り着いた永琳は、話を続けながらもそっと彼女の頬を撫でていく。
まるでそれは猫に対してするような動きだったので、顔を赤くした慧音はくすぐったそうに身じろぎした。
「こら薬師、私の慧音に何てことしてるのよ!」
「そういえば飼い主がいたんだったわね」
妹紅は慧音の腕を掴むと慌てて永琳から引き離した。
その顔が慧音と同じくらい紅潮しているのは、果たして怒りの感情のせいだけなのだろうか。
「私の、とか大胆ねえ」
「本人を前にして所有権を主張するとはやりますね」
「だー、うるさーい!」
「も、妹紅、お願いだからここで暴れてくれるな」
にやりと不愉快な笑みを浮かべる主従に殴りかかろうと、叫び声を星空に響かせ暴れる妹紅。
それを羽交い絞めで必死に止める慧音。
自分たちが周囲からかなりの注目を浴び始めていることに、どうやら妹紅はまったく気付いてないらしい。
慧音は半獣の力を限界まで駆使して、妹紅を捕まえたまま、ずるずると舞台から退場していく。
そんな二人を見送る輝夜の顔には、今夜の空と変わらないくらい輝かしく晴れやかな表情が宿っていた。
「どうやら姫様が勝利したようね」
「よし、今だ鈴仙。あの半獣と不死鳥に狂気の瞳で追い打ちを!」
「するわけないでしょ」
舞台の様子を人ごみに紛れて見ていた兎たち。
こちらはこちらで、観客はいないがいつもどおりの漫才を続けていた。
「あ、ほら見て。お空にサンタクロースがいるよ」
「白々しいわね。嘘をつくならもう少しましな嘘をつきなさい」
「いや、今回は本当に本気だって」
いつも以上に袖をぐいぐい引っ張って催促してくるものだから、月の兎は渋々空を見上げた。
するとそこには――。
「へへーん、馬鹿が見る!」
「だと思ったわよ……いや待って、てゐ、あれ」
「え?」
そこには、雄々しき八頭のトナカイが引く白銀のそりに乗った人影が、確かに星空の中に溶け込んでいた。
先ほどよりも少し離れた場所に、厳かな雰囲気を醸し出している寺があった。
普段よりも活気づいている人里とは打って変わって、そこは頑なに静寂を守っている。
つい最近になって建てられた幻想郷の新たな名所、命蓮寺。
その聖域に突然、不気味な赤い影が飛来した。
「さすがにここの皆はもう寝てるよね」
影は濡縁から建物の中にそそくさと入っていくと、音を立てずに襖を開いて、奥にある寝所へと忍び込む。
いや、忍び込むという言葉は正しくないだろう。
彼女はようやくそこに帰ってきたのだ。
「戻ってきましたか、ぬえ」
唐突に声を掛けられて、正体不明の影――ぬえは反射的に振り返った。
驚愕に彩られたぬえの瞳に映ったのは、どこか懐かしい聖者の微笑みだった。
「ひ、聖、何でここに」
「ナズーリンから、貴女が夜半に出掛けたという知らせを受けまして」
「あの小さな賢将め。余計なことを」
悪戯が見つかってしまったという恥ずかしさからか、申し訳なさか、頬を染めて俯いたぬえ。
そんな彼女をあやすかのように白蓮は、冬の寒さに冷え込んだ身体をぎゅっと抱きしめた。
「ぬえ、今宵は楽しい夜でしたか?」
「ん、まあね。そりを持って飛んでただけなのに、皆面白いくらいに騙されてさ」
顔を上げたぬえは自慢げに己の成果を語るが、その表情は固かった。
まるで母親に叱られることを恐れる幼子のように。
「……聖」
「何ですか?」
「今回の悪戯はね、別に誰かを苦しませようとしてやったことじゃないんだ。だから……お願い許して」
いつの間にか泣き出しそうな顔になっていたぬえが、白蓮にすがりつき許しを乞う。
そんなぬえを抱きしめる腕を緩めずに白蓮は、赤くなった彼女の耳元にただ一言だけ優しく囁いた。
「大丈夫。分かっています」
その言葉にぬえは一瞬息を飲むと、すぐにきつく白蓮を抱きしめ返した。
冷え切っていた身体はもう寒くはない。
「おかえりなさい。正体不明のサンタさん」
「うん……ただいま」
暗闇の中でも柔らかく光る眼差しは、短い旅を終えたサンタクロースを、眠りにつくまでずっと見守っていた。
フランドールは夜空に広がる無数の光点たちをゆっくり眺めると、誰にも聞こえないくらいの小さな声で感嘆の言葉を呟いた。
満天の星空という表現はこういう時のために使うのだろう。
バルコニーから見上げる天上の海は、きらめく星々で満ち充ちていた。
「晴れてよかったわ。曇りとか情緒がないにもほどがあるもの」
「吸血鬼の貴女がそれを言う?天使にでも改心させられたのかしら」
「魔女の貴女が聖夜に天体観測?救世主の御心に魅入られたのかしら」
豪奢なティーセットの置かれた真っ白いテーブルに同席している館主と居候は、未だくだらない言い争いを続けている。
紅茶で一息ついたフランドールは、そんな二人には目もくれずに、傍らに控えていた魔女の使い魔に話し掛けることにした。
「ねえ、咲夜はどうしたの?」
「え、あ、はい。メイド長はすでにお休みになられました」
もうすでに休んでいる?
フランドールは小悪魔の返答に首を傾げた。
ひどく我が儘なレミリアの世話をいつも甲斐甲斐しく、それでいて天然ボケにこなしているあの完璧で瀟洒な従者が、今夜だけは任を解かれているなんて、どう考えてもおかしいことであった。
もしや彼女の身に何かあったのでは。
フランドールの表情がだんだんと不安の色に染まっていく。
仕事面に関しては頑固で融通のきかないきらいがある彼女だ。身体が悲鳴を上げるまで自らの不調を隠していたとしても不思議ではない――。
「咲夜は私が先に帰したわよ」
だが、フランドールが考えをまとめないうちに、目の前でケーキをもそもそと頬張っていたレミリアが、彼女の疑問を鋭い横槍で破壊してしまった。
これにはフランドールも呆気にとられ何も言えなかった。
レミリアは沈黙したままの妹をお構いなしに、今日何個目かのクリスマスケーキの残りをぱくりと口に含めていく。
せわしなく動く口元は粉とクリームでひどく汚れている。
咲夜がいないとすぐこれなんだから。
お世辞にも行儀がいいとは言えない姉の仕草に、妹は深い溜息を吐いた。
「なんで咲夜も天体なんちゃら会に誘ってあげなかったのよ」
「正式名称は『天体観測しながらケーキ食べて救世主の降誕を祝いつつ、亡き王女のために魔女とだべり星空を眺めようの会』よ。このくらい覚えないさいな、もう大きいんだから」
変なところで子供扱いするな。あと亡き王女って誰よ。最初と最後で言葉の意味被ってるじゃない。というか長い。
フランドールの心底から湧き上がった怒涛の突っ込みは、至極もっともなものだった。
「確かに誘わなかったけど、別に咲夜を省いたわけではないわ」
「……どういうことよ」
「ふふ、こんな素敵な夜くらい、二人きりの時間を作ってあげてもいいと思ってね」
何だか得意げに微笑むレミリアが無性にむかついたので、フランドールはテーブルの下で彼女の細い足を踏んづけてやろうかと思ったが、運が悪ければパチュリーに当たってしまいそうだったのでやめておいた。
それにしても『二人きり』とはどういうことだろう。
「ほら、あそこ、見てみなさい」
白い息を吐き出して、小さな疑問も何もかもまるっとお見通しのパチュリーが、フランドールの後方を指さした。
振り返るとその指先は、玄関を抜け前庭を越え、館の顔である正面門を指し示していた。
なるほど、吸血鬼の視力ならすぐに理解できた。
そこでどんな甘い夜が繰り広げられているかが。
「従者の願いを叶えてやるのはサンタクロースではない。主の仕事だ」
笑顔を絶やさずにふんぞり返る吸血鬼。
なぜかその時だけフランドールは、いつもは苛立つレミリアの笑顔を、そんなに悪くないものだと思ってしまった。
吸血鬼の威厳や畏怖など微塵も感じられない表情だと言うのに。
そのもやもやとした不思議な気持ちが何だか悔しくて、フランドールは星空へと顔を背けた。
「あ、サンタクロース」
「え、どこどこ?」
「ほら、あそこ」
バルコニーを吹き抜けていく冬の風が、空を見上げる眼をひりひりと乾かしていく。
その痛みさえ忘れてしまうほど、今宵は星が綺麗だった。
鳥も草木も眠りに落ちたというのに、最果ての博麗神社には未だ明かりが灯っていた。
雲一つない夜空に響くのは、祭り囃のような小気味のよい少女たちの声。
人妖の集まる宴会はまだまだ盛り上がっているようだった。
「アーリス、飲んでるらい?いらからでもろまなきゃ損だよ」
「貴女は絶好調そうね、萃香」
喧騒からやや離れた縁側でのびのびと寛いでいた人形遣いの元に、赤ら顔の小さな鬼がふらつきながら近寄ってきた。
その手にはいつもの瓢箪が提げられており、さらにもう片方には砕月の描かれたお猪口が握られている。
「私はりつらってぜっこーちょーなのら」
「大分酔ってるわね。鬼殺しでも飲んだのかしら」
「ありすー、私のらめに膝を空けろいてくれたのか。感心感心、わっはっは」
萃香はアリスの言葉には応えず、彼女の崩されていた足にすがりつくと、すぐに豪快な鼾を立て始めた。
人形遣いの呆れの溜息などもう聞こえてはいまい。
「おいちょっと待て、萃香。そこは私の席だぞ!」
「突然、何よあんたは」
萃香の方に気を取られている内に、アリスは背後から忍び寄るもう一つの気配に気づかなかった。
その気配の張本人は、まだ少し空いている残りのスペースに無理やり頭をねじ込むと、寝転がったまま膝枕の持ち主を見上げてきた。
アリスの目の前に、見慣れた白黒の魔法使いの満開の笑顔が現れる。
「わざわざ私の所になんかこないで、霊夢の膝でも借りときなさいよ」
「残念、すでに先客がいた」
「先客?」
振り向いて宴会の中心地を見ると、確かに霊夢の膝上には見知った者の顔があった。
それがまた普段の様子からはまったく信じられない人物であったので、さすがのアリスも思わず目を見開いてしまった。
すやすやと可愛らしい寝息を立てているのは守矢神社の現人神。
何かといつも霊夢のことを目の敵にしていた風祝様。
そんな彼女が酒の席ではあれほどまで素直になるなんて、思わず笑みがこぼれてしまうほど微笑ましい光景であった。
「だからと言って、こっちに寄越さないでよね」
頭二つ分の重みを膝に抱えながらアリスは愚痴を吐き出す。
それにしても魔理沙はなぜ、中心地から遠く離れた縁側まで、わざわざやってきたのだろうか。
膝を借りたいのなら、隙間妖怪とか冥界のお嬢様とか二柱の片方とか、もっと柔らかそうな持ち主が近くにたくさんいただろうに。
「おい、見ろよアリス。サンタクロースだぜ」
珍しく悩んでいるアリスをよそに、魔理沙はその細い指先を天空にかざして、とんでもないことを言い出した。
それがあまりにも突拍子もない言葉だったので、アリスは導かれるまま、つい顔を上げてしまった。
「あら、ほんと」
「僥倖だな。クリスマスの元凶のサンタを見られるなんて」
「めったにみられるもんじゃないわ、魔理沙。きちんと目に焼き付けてきなさい。あれが諸悪の根源よ」
「くそう、もうあんなに遠くにいやがる。できれば私が撃ち落としてやりたかったぜ」
安眠を貪っている小鬼よろしく、すでに二人ともかなり酔っているようだ。
「弾幕勝負に勝った者のみプレゼントが貰えるのかしら」
「世の中の子供は大変だなあ」
図体の大きい子供の甘えた声を聞きながら、アリスは微笑みを浮かべて、自分よりも柔らかい髪を優しい手つきで撫でるのであった。
「何であんたがここにいるのよ、蓬莱山輝夜」
「あら、私がここにいたら悪いかしら、藤原妹紅」
はたと目が合った瞬間に恋に落ちる、ことなど永遠にないであろう二人が、人里の真ん中で邂逅してしまった。
瞬く間に広がった険悪な雰囲気に、道を行く人々も思わず足を止めていく。
蛇と蛙、龍と虎、モンタギュー家とキャピレット家。
不倶戴天の敵同士の不毛な争いが、周囲を巻き込みながら今始まる――かにみえた。
「こら妹紅、いつも言っているだろう。話す時は相手の目を見るべきだが、決して睨んではいけないと」
不死者の意気を殺したのは里の守護者だった。
守護者は仲裁を取り仕切るかのように二人の間に立つと、観衆さえも一喝するように決然と言い放った。
その叱声を聞いた途端に怯んだ不死者の片側。
「だ、だって、こいつがこんなところにいるなんて、よからぬことを考えているに決まってるじゃない」
「私はただ買い物にきただけなんだけど。ね、永琳?」
それでも威嚇を続ける妹紅に対し、輝夜は冷静を保って、傍らの従者を助っ人として舞台に引き上げた。
話を振られた従者はやれやれと肩をすくめると、困った表情を崩さずに里の守護者の元へと歩んで行った。
「ごめんなさい、慧音。本当は姫様には留守番をお願いしたんだけど、私も行きたいと駄々を捏ねられてね」
「いや、別に里にきてくれるのには何の問題もないんだ。というか、先にあやまるのはむしろこちらの方だったな。すまない、妹紅が喧嘩を吹っかけてしまって」
「いいのよ、貴女があやまらなくても。ほら、そんなに眉を寄せると可愛い顔が台無しよ」
「え、か、可愛い?」
慧音の元に辿り着いた永琳は、話を続けながらもそっと彼女の頬を撫でていく。
まるでそれは猫に対してするような動きだったので、顔を赤くした慧音はくすぐったそうに身じろぎした。
「こら薬師、私の慧音に何てことしてるのよ!」
「そういえば飼い主がいたんだったわね」
妹紅は慧音の腕を掴むと慌てて永琳から引き離した。
その顔が慧音と同じくらい紅潮しているのは、果たして怒りの感情のせいだけなのだろうか。
「私の、とか大胆ねえ」
「本人を前にして所有権を主張するとはやりますね」
「だー、うるさーい!」
「も、妹紅、お願いだからここで暴れてくれるな」
にやりと不愉快な笑みを浮かべる主従に殴りかかろうと、叫び声を星空に響かせ暴れる妹紅。
それを羽交い絞めで必死に止める慧音。
自分たちが周囲からかなりの注目を浴び始めていることに、どうやら妹紅はまったく気付いてないらしい。
慧音は半獣の力を限界まで駆使して、妹紅を捕まえたまま、ずるずると舞台から退場していく。
そんな二人を見送る輝夜の顔には、今夜の空と変わらないくらい輝かしく晴れやかな表情が宿っていた。
「どうやら姫様が勝利したようね」
「よし、今だ鈴仙。あの半獣と不死鳥に狂気の瞳で追い打ちを!」
「するわけないでしょ」
舞台の様子を人ごみに紛れて見ていた兎たち。
こちらはこちらで、観客はいないがいつもどおりの漫才を続けていた。
「あ、ほら見て。お空にサンタクロースがいるよ」
「白々しいわね。嘘をつくならもう少しましな嘘をつきなさい」
「いや、今回は本当に本気だって」
いつも以上に袖をぐいぐい引っ張って催促してくるものだから、月の兎は渋々空を見上げた。
するとそこには――。
「へへーん、馬鹿が見る!」
「だと思ったわよ……いや待って、てゐ、あれ」
「え?」
そこには、雄々しき八頭のトナカイが引く白銀のそりに乗った人影が、確かに星空の中に溶け込んでいた。
先ほどよりも少し離れた場所に、厳かな雰囲気を醸し出している寺があった。
普段よりも活気づいている人里とは打って変わって、そこは頑なに静寂を守っている。
つい最近になって建てられた幻想郷の新たな名所、命蓮寺。
その聖域に突然、不気味な赤い影が飛来した。
「さすがにここの皆はもう寝てるよね」
影は濡縁から建物の中にそそくさと入っていくと、音を立てずに襖を開いて、奥にある寝所へと忍び込む。
いや、忍び込むという言葉は正しくないだろう。
彼女はようやくそこに帰ってきたのだ。
「戻ってきましたか、ぬえ」
唐突に声を掛けられて、正体不明の影――ぬえは反射的に振り返った。
驚愕に彩られたぬえの瞳に映ったのは、どこか懐かしい聖者の微笑みだった。
「ひ、聖、何でここに」
「ナズーリンから、貴女が夜半に出掛けたという知らせを受けまして」
「あの小さな賢将め。余計なことを」
悪戯が見つかってしまったという恥ずかしさからか、申し訳なさか、頬を染めて俯いたぬえ。
そんな彼女をあやすかのように白蓮は、冬の寒さに冷え込んだ身体をぎゅっと抱きしめた。
「ぬえ、今宵は楽しい夜でしたか?」
「ん、まあね。そりを持って飛んでただけなのに、皆面白いくらいに騙されてさ」
顔を上げたぬえは自慢げに己の成果を語るが、その表情は固かった。
まるで母親に叱られることを恐れる幼子のように。
「……聖」
「何ですか?」
「今回の悪戯はね、別に誰かを苦しませようとしてやったことじゃないんだ。だから……お願い許して」
いつの間にか泣き出しそうな顔になっていたぬえが、白蓮にすがりつき許しを乞う。
そんなぬえを抱きしめる腕を緩めずに白蓮は、赤くなった彼女の耳元にただ一言だけ優しく囁いた。
「大丈夫。分かっています」
その言葉にぬえは一瞬息を飲むと、すぐにきつく白蓮を抱きしめ返した。
冷え切っていた身体はもう寒くはない。
「おかえりなさい。正体不明のサンタさん」
「うん……ただいま」
暗闇の中でも柔らかく光る眼差しは、短い旅を終えたサンタクロースを、眠りにつくまでずっと見守っていた。
いいですねえ、素敵なお話でした