「もう、何年たったかしら」
夜。まだ深夜と呼ぶには早いけれど、出歩くには少しばかり遅すぎる時間。
凪いだ海を眺めながら、私は一人、もの思う。
昼間は月の使者となるべく訓練を受けている兎達でにぎわっているこの場所も、この時間ばかりはただただ、静寂に満ちている。聞こえるのは、ざざ、と規則正しい波の音ばかり。他の音は、私の独り言さえも海の中へ、闇の中へと溶けていく。
考え事をするのにこれ以上、適した場所もないだろう。
けれど、私がこの場所を好むのはそれが理由ではない。
もちろん、それも理由ではあるし、依姫が言うように綿月の家系が海に惹かれるから、というのも理由の一つではあるのだろう。あの日よりも前から、私はこの場所を好んでいたし、海を眺めていると心が落ち着くというのも確かだ。
だからこそ、問われればそんなふうに伝えて、微笑んで見せている。
別に嘘をついているわけではない。
けれど、本当の理由はもうひとつ。
誰にも言うつもりはない。そう、誰よりも近しい存在である依姫にだって伝えていない。
子供じみた考えであることは自覚しているし、考えようによっては反乱を企んでいるように思われてしまいかねない。余計な面倒事に巻き込まれたいとは思わない。
「八意様」
私はただ、思い返す。
あの誰よりも優しい人のことを。彼女と過ごした日々を。別離を迎えた日のことを。
地上に一番近いこの場所で。
「やっぱり、近頃の八意様はおかしいわね」
桃の葉のういた香りのいいお茶を飲みながら、私はそう依姫に語りかけた。
仕立ての良い二人掛けの長椅子に腰かけた私たちは、夕食後のお茶の時間。修行だの仕事だの、お互いに忙しい身であるため、姉妹でありながら、共に過ごせるのはこの時だけ。本来ならば、今日一日どんなことがあったとか、そういうことを語らう憩いの時なのだけれど。
私が持ち出した話題は、それに似つかわしくないものだ。けれど、ここのところの話題はもうそればかり。語りあうことなんて、もう残っていないのだけれど、どうしても気がかりで、口をついて出てきてしまう。
ここ最近、私たちの師であり、月の賢者たる八意××様の様子がおかしいのである。
いつもすべてを見通しているかのように、悠然とそこにある八意様。私情に振り回されず、誰よりも凛としていて。子供っぽい言い方になってしまうけれど、とにかくかっこいい。すてき。ずっとずっと私のあこがれの人。あんな風になれたらいいと思う。
そんな人だったはずなのだけれど。
いや、今もそれはあまり変わらないといえば変わらない。ただ、うっかりしていることが増えたような気がする。書類を落としてしまったり、なんにもないところでつまづいたり。突然、はあ、と重いため息をついたかと思えば、誰もいないところでふっとニヒルに笑っていたり。ぼーっと兎達とニンジンをかじっているのを見た時はどうしようかと思った。
一番驚いたのは、いつものようにお願いしているお薬をもらいに行ったら、うっかり食欲増進のお薬を渡された時だ。飲む前に気付いたから、私相手だったからよかったものの、場合によっては大惨事だ。まあ、八意様なら、それさえもどうにかしてしまいそうだけれど。
何気ない私の呟き。一瞬の間の後に、眉を寄せられてしまった。
幸か不幸か、依姫の呆れたような表情はそれなりに見慣れているから、あまり怖くない。
「原因ははっきりしているじゃありませんか、お姉様」
はあ、と依姫は深いため息をつく。頭の高いところで長い髪を一つに結っているリボンが、その拍子に僅かに揺れる。いつも気持ちを張り詰めているようなところのあるこの妹だけれど、髪型だの、挙動だのはそれなりに可愛らしい。
生真面目な依姫は、ふらふらしている私よりもずっとそのことを気に病んでいるように思う。八意様が塞いでいる原因に対して、とても憤っている。
「それは、そうなんだけどね」
そう、依姫の言う通り。八意様がおかしくなった経緯も原因もはっきりしている。
少し前に、とある高貴なお姫様が、大罪を犯したという事実が明らかになった。
穢れを生み出す蓬莱の薬を口にし、不老不死となったのだという。当然、月に穢れを持ちこんだ罪は重く、すぐに彼女は捕えられ、今も刑に処されているとのこと。
そのあたり、つまり、司法刑罰関連のことは、基本的には専門外。月の使者の仕事をしている私たちのところへは話が流れてこないから、詳しいことは分からないのだけれど。
それだけならば、よその話だったのだ。単なる噂話。兎達が好みそうなスキャンダラスな、そういう話。
けれど。
その薬を飲んだお姫様というのが問題だった。永遠と須臾を操る能力を持つ蓬莱山輝夜。月の頭脳たる八意様がお仕えしていた方だったのである。
まさか、八意様の他に蓬莱の薬を製造できる人がいるはずもなく、きっと彼女が口にしたという薬は八意様が作ったものだったのだろう。それもまた不自然ではない。
八意様はあの方に相当いれこんでいらっしゃったから。
他の人には分からないかもしれないけれど、弟子である私たちには分かる。ほんの些細な仕草や、語り口。遠くから見守る優しげな視線。微妙な違いではあるけれど、それらは他の誰に向けるそれらとも違っていたから。
八意様は、あの方を愛し、慈しみ、大切に大切になさっていた。
おそらく。
自分の作った薬のせいで、お姫様が罪を負ってしまったことが八意様の心を煩わせているのだ。普段ならば、飲んだのが悪い、と割り切って、冷淡とも言えるような考え方をする人なのだけれど、あのお姫様が相手となると話が違ってくる。
すべて推測に過ぎないけれど。様子がおかしくなった時期を考えても、間違いである可能性の方が低いだろう。
もちろん、八意様には劣るとはいえ、弟子を名乗っている私たちだ。これくらいの推察はできなければ、話にならない。もっとも、あの八意様のすべてを私たちが理解できるはずもないのだけれど。
「私たちには、どうすることもできませんから」
つん、と澄まして。というより、そういう表情をしようと努めているのがよく分かる表情をした依姫が言う。ここのところ、というか、八意様につられるように、ここのところ機嫌がよくない。
憤る気持ちも分からなくはない。依姫は、八意様を小さな頃からとてもとても慕っているから。まあ、それは私も同じなのだけれど。盲目的でこそないものの、一種の信仰に近いかもしれない。
八意様なら、八意様が間違ったことをするはずがない。そういう類の思いを抱いている。その八意様が罪人に惑わされているというのは、いい気がしないのだろう。もともとの性格が真面目な分、余計に。
「そうなんだけどねー」
そんな妹に対して、私は苦笑してみせる。確かに、そういう成り行きである以上、私たちにできることはほとんどない。
時間を巻き戻すことなんてできないし、薬の効果をなくすこともできない。罰を軽くすることもできない。第一、それが出来るのなら、八意様本人がしているだろう。
これは八意様にでさえ、どうにもできないことなのだから。
ため息をひとつついて、桃をもう一つ手にとった。いつも食べ過ぎをたしなめてくるはずの依姫は何も言わない。そこで適当なふざけあいをするのが慣例となっているのに。
鼻でため息をついて、かぷ、と桃にかぶりつく。いつもと変わらない、熟れた甘さが口いっぱいに広がった。美味しいはずなのに、どこか味気ない。
「あーあ」
「お姉様、行儀が悪いです」
「はいはい」
八意様がいつものようであってくれないと、お茶の時間も楽しくない。
なぜ、あれほどまでに八意様は蓬莱山輝夜に入れ込んでいるのか。
正直なところ、私にはよく分からない。
確かに彼女は、永遠と須臾を操る能力や、類稀なる美貌を持ち、まさに才色兼備というにふさわしい有能なお姫様だ。頭の回転も早く、何をやらせてもそつなくこなす才媛だと聞く。
けれど、そんなことは八意様が入れ込む理由にはならない。
本人がもっと有能であるし、彼女よりも優れている人はたくさんいる。そもそも、八意様がそういうところに価値を見出す人ではないと思う。
ならば、性格だろうかとも考えたけれど、これもあまりぴんとは来ない。
性格については八意様やまわりの話を聞く限りは、ごく普通で、とりたてて優れた点や悪い点があるようには思えない。あまり外に姿を現すことがないので、あまり社交的な性格ではないのだろう。分かることなど、それくらいだ、
もっとも、蓬莱の薬を口にしたというのだから、その中に潜む何かがあったに違いないのだが。
その何かを八意様は好んでいるのだろうか。
普通の月人ならば、そんなことをしようとは思わない。そもそも不老不死を得ようなどと地上人のような穢れた考え方をするわけがないし、見せしめのように幽閉され続けている嫦娥がいる。
そのような愚かな考えをする者を八意様が評価するとは思えない。思いたくない。
とはいえ、挨拶をする以外は交流したことのない私が、蓬莱山輝夜の人格について考察したところで何の意味もない。ただ、事実として、八意様が蓬莱山輝夜に入れ込んでいた、というだけだ。
彼女は罰せられ続けている。もう二度と顔を合わせることもない。
そう思っていたのだけれど。
最後の最後に、その機会は訪れた。
「あなたが豊姫?」
鈴を転がしたような甘い声が私にそう問いかける。場違いに明るく軽やかなその声の主は、手足に枷をはめられ、白い布でしっかりと目隠しをされた少女。
服装は罪人らしく簡素なもの。ろくに手入れもされていないはずなのにもかかわらず艶を帯びた長い髪は無造作にひもでくくられている。目隠しで顔の半分が隠れているにも関わらず、その少女は美しかった。
どこが、というわけではない。ただ、美しいと感じさせる何かがあった。
「いつもあなたのことは××から聞いているわ。綿月の家のお姉さんのほうよね」
そう、彼女こそが蓬莱山輝夜。
これから地上へと流刑に処される罪人。
いつものように地上からの穢れが侵入しないように注意を払いつつ、ちょっとばかりさぼりつつ、修行に励んでいた時。突然、私は上司に呼び出された。向かう先は静かの海、地上に一番近い場所。
まだ月の使者として大した地位にあるわけでもないけれど、地上と月をつなぐことのできる数少ない能力者として、お呼びがかかったらしい。罪人を檻に閉じ込めるその役目を仰せつかったというわけだ。
迷い込んできた地上人を返すということはよくあることだけれど、こうして月人を地上へ送り込むのは初めて。普通ならそうそうない重い刑。
月で穢れを生み出した蓬莱山輝夜の罪は、それほどまでに重い。
「ねえ、豊姫。地上ってどんなところだと思う?」
地上へ堕とすにも、さまざまな手続きがいる。他のお偉方たちは、蓬莱山輝夜に施す術の支度をしていたり、色々。その間、退屈なのか、彼女は親しげに私に話しかけてくる。
私の仕事は最後。手持無沙汰なのは私も同じ。前々から彼女に興味はあったけれど、状況が状況だけに、どう反応していいか分からない。
「もうすぐ見られるんだわ」
けれど、分かったことが一つある。
この人は、おかしい。どうしようもなく、狂っている。
どうして、これから穢れに満ちた地上へ堕とされるというのに、これほどまでに楽しげなのだろうか。月の民にとって、穢れは何よりも恐ろしいもの。嫌悪、恐怖、忌しいものだと感じるべきものだ。
たとえば。これが、やけになっている笑いであるというのならば、狂ったように笑っているというのならば理解もできる。人は極限状態に陥ると何をするか分からない。
もしも、私が彼女と同じ立場になったとして、正気を保っていられる自信はなかった。単にこちらとあちらをつなげて、少しだけ滞在するならまだしも、地上人として生きていくなんて、想像するだけでいやだと思う。
月の使者の役割をしているためか、どちらかと言えば、地上に行くことへの抵抗が少ない私でさえそうなのだ。普通の月の民がどう思うかなど分かりきっている。
ああ、それなのに。
「ふふ」
彼女は違う。
あくまで理性を保ったまま、楽しげに笑っているのである。
たとえば、子どもがお気に入りの遊び場に連れて行ってもらう時のような。あるいは、八意様と共に出かける時の私や依姫のような、そういう楽しげな様子。
まるで、地上が楽園であるとでもいうように、楽しみでしかたがないという調子が声や身振りから伝わってくる。
それは決して、あり得ないこと。
これを狂気と呼ばずして、何を狂気と呼ぶのだろう。
理解ができない。得体が知れない恐怖に、背筋が泡立った。
「豊姫」
言葉をなくす私に、蓬莱山輝夜が語りかけてくる。
先ほどまでとはうって変わった真剣な声音。先ほどよりも小さい声だけれど、芯が通っている。竦んでいる私には、余計にそれが恐ろしく感じられ、返事をすることができない。
直視することが出来ず、ただ、名前を呼ばれたことが、おぞましい。
「私はこれから遠くへ行ってしまうけど」
ほんの少しだけ。言葉の端に切なさがにじむ。
またも予想外。え、と思わず顔をあげると、彼女の口元は笑みを形作っていた。だが、笑っているとは言っても、先ほどまでのそれとはまた違う色彩を帯びている。
「××のこと、お願いね」
透き通った声は、慈愛に満ちていて。残していくものに対する愛だとか、悲しみだとかそういうものが感じられる。ふ、と笑い混じりなのに、やたらと深い。
「ちゃんと見ていてあげて」
もしかしたら、八意様が彼女を特別に思うのと同じように、彼女も八意様を。
だからこそ、八意様はこのひとに入れ込んでいる? 分からない。
それは、やはり罪人には似つかわしくないもので。狂人とは到底かけ離れたもので。
私の理解を超えている。少なくとも今の私には分からない。
どんなに彼女を見つめても、白い布に隠された瞳からその真意を知ることはできなかった。
「八意様、いらっしゃいますか?」
こんこん、と軽く握った右手で、八意様の部屋の戸を叩く。
左手には紙の束。この間私と依姫へと与えられた課題だ。いつもならば、夕刻には提出することができるのだが、今回はやたらと難しく、もうすっかり夜も更けてしまった。
本来ならば、このような時間に人を訪ねるのはよろしくないのだけれど、今日は特別。
この時間、わざわざ人のいない時間に八意様を訪ねてきたのには理由がある。半分はもちろん課題のため。けれど、もう半分は違う。
八意様のことが、心配だったからだ。
「八意様ー?」
蓬莱山輝夜が地上へと堕とされてからの失意の八意様は見るに忍びない。
俗っぽい物言いになってしまうが、最近の八意様はやばい。本当にやばい。
とりあえず、私はそう思っている。
もともと、ここのところ蓬莱の薬の一件以来、様子がおかしかったけれど、その比ではない。今考えてみれば、あれなんて可愛いものだった。
まだ、動揺していることを、塞いでいることを、露わにしてくれていた分、こちらとしても対処の仕様があった。素直に心配することができたし、気を使うこともできる。
しかし、最近の八意様は違う。表向きは、むしろ気がかりが消えて、元気になったようにも見える。些細なミスもなくなり、ただ脇目も振らずに仕事に励んでいる。
話しかければ、笑って答えてくれるし、これまでよりもどこか物腰が柔らかくなったようにさえ感じられた。実際、最近では、八意様は親しみやすくなったとさえ言われている。
私も、何も知らなければ、無邪気にそう思って、喜んでいられたのだろうけれど。
残念ながら、そういうわけにもいかない。私は知っているのだ、八意様がどれほどまでに蓬莱山輝夜に入れ込んでいたのか、ということを。
それなのに塞ぎこむ素振りも見せないのは不自然なように感じられる。
そして、ずっと心にひっかかっている蓬莱山輝夜の最後の言葉。罪人の、頭のおかしいものの言動と流してしまえばいいのかもしれない。けれど、捨て置いてしまうには妙に印象に残っていて。
なにかと今まで以上に私は八意様へ注意を払うようになった。なんとなく癪だけれど。
とにかく、私は気付いてしまった。穏やかな眼差しが、時折影を帯びることに。
本当に一瞬のことだ。瞬き一つで見逃してしまいそうなほどの刹那。
それは、静かの海で修業をしている時のこと。凪いだ海面を眺めている八意様の眼差し。
ふらり、と散歩と称して、静かの海を訪れる回数が増えていることにも気付いた。
そこは、月で一番、地上に近い場所。
それらの意味をすべて考え合わせると、今の八意様はとても危うく見えた。
確固たる証拠があるわけでもなく、なんとなくそう感じられただけ。いつもと様子が違うことに対する違和感が、そんな風に思わせているだけなのかもしれない。ただの気にし過ぎならば、いいと思う。
そんな風だから、誰に相談するというわけにもいかなくて、もちろん、依姫にも、まだ言ったことがない。というより、何といっていいのか分からない。
けれど、どうにも気がかりで。
だからその真偽を確かめるために、こうしてやってきたというわけだ。
「八意様?」
あまりにも返事がないものだから、不審に思って部屋へと入る。あまり褒められたことではないけれど、それなりに親しい師弟である私たちだ。後で怒られる可能性もあったけれど、問題ない、と判断しておく。
普段なら、そんなことはしない。けれど、やってきた理由が理由であるためか、嫌な予感が止まらなかった。背中がそわそわして落ち着かない感じ。
「……お酒?」
普段、八意様の部屋は無機質な薬品の匂いしかしない。これではリラックスできないだろうに、と私や依姫が何度香を焚くことを勧めても、つい忘れちゃうのよ、なんて笑いあったのはいつのことだっただろうか。
とにかく、八意様の部屋と言えば、薬の匂いというのは常識だ。
けれど、今私の鼻が嗅ぎとったのは、それとは違うもの。
匂いを嗅いだだけで酔っ払ってしまいそうなほど、酒臭い。
少しだけ歩みを早める。本当は、走ってもいいくらいの心持だったのだけれど、それと同時に何が起こっているのか知るのが怖い。そわそわしていただけだった嫌な予感が、胸の中でひやりと水が滴っているようにぞわぞわと感じられる。
部屋の奥。長椅子の向こうに見える長い銀色の髪。
「八意様?」
いつもきっちりと編まれている癖のある長い銀髪は乱れ、すっかり床に触れている。奥にある寝台でするように、長椅子に寝そべった八意様は、こんなに近くで声をかけても、まるで返事を返してくれない。
眠っているのか、酔っているのか。
座卓の上には、何本もの空になったお酒の瓶。どちらかと言うと食い気に走りがちで、あまりお酒に詳しくない私にもその酒量が過ぎたものであることが分かる。
「……っ」
そうっと近づいて、八意様の顔を窺ってみる。
端正に整った顔。いつも理知的な光を宿している瞳は瞼の下。まっ白な肌はアルコールのせいか、赤く染まっている。すう、すう、すっというアルコールの匂いが強い寝息は時折、変なところで止まっては、元通り。
完璧に、酔い潰れている。
「八意様」
もう大人になってからずいぶん経つ。酔いつぶれた人の姿など見あきるほど。
けれど、あの八意様がこんな風に酔いつぶれているなんて。自室とはいえ、あの八意様がこんなにも無防備に、私が来たことにさえ気づかずに。
あり得ないことだ。目の前の光景がまるで冗談かなにかのようにさえ思えてくる。
本当は起きていて、気付かないふりをしているだけなんじゃないかなんて、現実逃避をしたくなってくる。
けれど、残念ながら、これは現実。きっと嫌な予感の正体。
頭では、せめて毛布でもかけた方がいいのではないか、とか、やはり相当に八意様は参っていらっしゃるのだ、とか、色々なことを考えるのだけれど、なかなか体が動かない。
私はただ、黙って八意様を見下ろしたまま、立ちすくんでいる。
「んう……」
不意に八意様の唇から、吐息混じりの声が漏れる。苦しくて仕方がないというように、眉間にぎゅっと皺を寄せて、口元も歪む。だらりと投げ出されたままの長い手足を、胎児のように縮めた。
「……や……っ、ぐ……」
まるで押し殺した泣き声のように、何事かを呟いている。その声は不明瞭で、何を言っているか分からない。けれど、聞いているこちらの胸が痛むほど、悲しげな響き。
意識がある様子はない。目は閉じたままだし、そもそも起きているならば、私の前でこんな姿を見せてくれるはずがない。
ひどくうなされているだけ、のようだ。
「か……、だめ……」
いても経ってもいられなくなって、固まっていた身体が動く。抱えていた課題を座卓の上において、長椅子の前に膝をついた。
何かを求めるように宙を泳ぐ八意様の左手を、思わず掴む。お酒を飲んでいるというのに、その手は氷のように冷たくて、どきりとする。
「かぐや……、お願い」
不意に、八意様が呼ぶお姫様の名前。私が掴んでいた左手に添えるように、包み込むように、右手を添えてくる。次第にぎゅうと手に込められる力が強くなってくる。
「いたっ……」
あまりにも強い力に思わず声が漏れる。思わず手を引いてしまいたくなるほど、痛い。
すがるように私の手を掴む手は、いつもと変わらないほっそりとした指の白くきれいな手。いつだって私や依姫を導いてくれる、優しくも厳しい、頼もしい手。
何も変わらないはずなのに、骨が浮いて見えるほどに力のこめられた八意様の手は、ひどく弱々しく見えて、振り払うことができない。
今、この手を離したら、すべてが消えてしまいそうな気がした。
「行かないで、かぐや……」
このひとは本当に私の知っている八意様なのだろうか。
母を探す小さな子どものように、あのお姫様を求めるこのひとは、本当に。
そんな疑問さえ浮かんでくる。けれど、私の戸惑いに気付きもせずに、八意様は血を吐くような苦しげな声で、言葉を絞り出す。
「あなたがいないと、私は……」
頬に一筋、涙が伝った。
なんだか、もう。どうしていいか分からない。
私たちを守り育ててくれた人。月の賢者。誰よりもあこがれの人。
決して何事にも動じたりせず、何があってもなんとかしてくれる、そう信じていた。
八意様がこんなにも。こんなにも、弱っている。
その事実が、ただ怖い。足元が崩れていくような心持ち。
私ももう、泣いてしまいたかった。
手を離すこともできなくて、身動きの取れないまま。本棚は少し遠くて手が届かないし、酒瓶を片づけることもできない。床にぺたんと女の子座りをして、長椅子に背を預ける。
考えなければいけないことは山ほどある。どうすれば八意様をお慰めすることができるか、とか、八意様が目を覚まされた時になんと言ったらいいのか、とか。
けれど、いろいろと衝撃的過ぎたせいか、頭がうまく回らない。泣いた後か熱を出した時のように、ぼんやりとしてしまっている。
そうしているうちに、ふと、八意様と初めて会った時のことを思い出した。
あの頃、私は要領の良い子供だった。
いつもにこにこと愛想よく微笑んで可愛らしいと褒められる。
いい子ね、と、誰からも愛される子供。
幸い、頭の出来のほうも悪くなかったし、勘もいい方だったため、人によって笑顔や態度を使い分けてみたりして。どうやったら可愛がられるか、大切にしてもらえるかを考えた。修行だって、勉強だって、感覚だけで人並み以上にこなすことができた。できないことはうまくごまかして、できることは実際以上にできるように見せかけて。
私はその当時にできる範囲で、最大限にうまくやっていた。要領よく、要領よく、敵を作らないように、味方を増やすように。ずいぶんと可愛くない子供だ。何せ、可愛がられるのもすべて計算のうちだったのだから。
笑顔は武器。
当時の私は、それを綿月の家を守るために必要なことだと、そう思っていた。
連綿と続いてきた綿月の家系。けれど、長い時の流れを経た今では、月の都の政治において重要なポストからは外されてしまった、没落しかけている貴族に過ぎない。ぎりぎり月の中央組織の末端に籍を置いている程度だ。
今は、むしろそれが気楽でいいぐらいの気持ちであるのだけれど、あの頃の私はそれがえらく気に食わなかった。幼さゆえの野心というか、思いあがりというか。
何としてでも、上に昇り詰めなければいけない。私がやらねば誰がやる。そんなふうに、思いこんでいた。
誰からも綿月の姉妹は優秀だ、と言われていたことも影響していたのかもしれない。
面倒くさい人付き合いの中では、それは武器にも弱点にもなりうる。生意気だと思われたり、妬まれたり、そういうよそ様の厄介な感情をやり過ごして、うまくやっていかなければならない。
そのあたり、要領のいい私と違って、依姫はどうにもそのあたりが下手だった。
真面目で努力家。すれていなくて、素直でまっすぐで、自分にも他人にも厳しい。基本的に要領のよさとひらめきに助けられている私よりも、潜在的な力自体は優れている。姉としては少々複雑な気分だが、事実だから仕方がない。
けれども、どうにも依姫は不器用だ。要領が悪いというか、何というか。他人との駆け引きだとかそう言ったことには、向いていないのだ、あの子は。
だから、余計に私がうまくやらなければならないと思っていた。
実際、私のそんな目論見はおおむね成功していた。優秀で可愛らしい綿月姉妹、そんな評判を作ることに成功して、何かと社交の場で有利な立場を手に入れることができた。
けれど、なんだかとても、疲れてしまって。
だけど、それをやめることもできなくて。
どんなに頑張ったところで、果てはない。終わりが見えない。
表面的には、みんなが私を可愛がってくれる。けれど、本当に信頼されるのは、依姫。
私はこんなに頑張っているのに。守り続けているのに。
このまま、進んでいけばいい。私はうまいことやっている。
そんなふうに自信を持っているはずなのに、不意に訪れるむなしさ。
八意様に初めて会ったのは、そんな頃のことだった。
今では、あんな風に思い悩んでいたのを恥ずかしく思っている。若かったなあ、と思う。俗っぽい言い方をするなら黒歴史、とか、そういう感じで。
けれど、そうしていたからこそ、私たちは八意様の弟子になることができたと考えると、それも無駄ではなかったのかもしれない。
「あなたの笑顔は、いい武器ね」
当然、私の小賢しい笑顔のことなど、すぐに見抜いた八意様は出会ったその日に、私にそう言った。にっこりと微笑んだ八意様に恐怖を覚えたのを今もよく覚えている。
「武器、ですか?」
考えを見抜かれたことで心の中はもう動揺してしまって。けれど、精一杯に虚勢を張って、笑顔を作った。それが無駄だとすっかり分かっていたのだけれど、そうすることしかできなかったのだ。
八意様は、そんな私の頭をそっと撫でてくださった。ふっと優しく微笑んで、いい子ね、というように。
「真の実力者はいつでも平静でいるもの。動揺や、感情を悟られることは、弱みを見せることにつながるからね」
「は、はい……?」
「あなたはずいぶんうまく使いこなせているようですね。立派な武器といっていいわ」
そんなことを言われたのは初めてで。とうとう余裕を取り繕う余裕もなくなって、ただぽかん、と口を開けたままだった。
戸惑っている私と目線を合わせるように、屈んだ八意様は、やっぱりふ、と微笑んで。
「でも、まだ足りない」
「え?」
「少し、力が入りすぎているわね」
「……」
「確かに、笑顔は武器になるけれど。考えのない余裕は付け込まれるだけよ」
「はあ」
ちょうど、今みたいにね。
強張っていた私の肩に手をかけて、そんなふうに囁いた。
「ちゃんと使い方を覚える必要があるわね」
「私のもとで学びなさい、豊姫」
あっけに取られた私はただ、こくこくと頷いた。
それが始まりだった。
その日以来、八意様は私に色々なことを教えてくださった。
術、勉学、処世術。私たちが月の都でうまく生き残っていく術。
厳しくも優しい八意様。
単なる師と弟子の関係以上に、私たちを可愛がってくださった、と思う。
春にはお花見、夏にはお祭り。遊びにも連れて行ってもらった。依姫との喧嘩を仲裁してもらったこともある。一緒に食事をしたことも、お茶を楽しんだことも数え切れないほど。風邪をひいたときには看病してくれた。
「もう、食べ過ぎには注意しなさい」なんて、呆れ笑いをしながら、減量だのなんだののお薬を作ってくれることもしばしばある。そんなことを気楽にお願いできる。
手をつないで歩いたり、膝枕をしてもらったり。
まあ、つまり、私は甘えていたのだ。八意様に。
張りつめた心をゆるめてくれたこのひとを。勝手に追い詰められていた心を楽にしてくれたこのひとを。私は、刷り込みされた雛のように慕っていた。
今の私がここにあるのは、八意様がいたから。
八意様のお陰で、私はこうして自然体でいられるのだ。
もっとも、最近ではしっかり者の依姫に頼ったり、桃をつまみ食いしたりしていることを指して、「お姉様は緊張感が足りないのです」なんて言われることも増えてきてしまったのだけれど。
「ふふ」
思わず、笑ってしまう。状況が状況だけに、現実逃避でもあるのかもしれないけれど。
でも、私はそんなふうな今の私が好きだから。胸を張っていられる。
「ん……」
それが契機だったのだろうか。笑った気配につられたのか、握った手が少しだけ動いてしまったせいか分からないけれど、八意様が喉の奥で声を漏らす。
瞼がぴく、と動くと、眉間に少しばかり皺を寄せて、ゆっくりと目を開いた。
「あ」
起こしてしまったのだろうか。というか、この状況をどう説明するべきか。
いずれ訪れるのが分かっていた時ではあるけれど、やっぱりどうしていいか分からない。
現実逃避に昔を懐かしんでいるような場合ではなかった。今さら後悔しても遅いけれど。
「豊姫……?」
一瞬、ぼんやりとしていた八意様ではあるけれど、すぐにその瞳は理性の色を取り戻す。ぱっ、ぱっ、とあたりの状況を確認すると、大体何が起こっているのか把握したらしい。
握っていた私の手を自然な流れで解放すると、その手で乱れた髪を梳きながら、身体を起こす。私の方へ、ほとんど視線を向けないのは。
ずっと握られていたせいか、すっかり痺れてしまった手をほぐしながら、私は八意様の様子をうかがう。少なくとも、先ほどのうなされていた時のような壊れそうな感じはもう見受けられない。
外見上はいつも通りの冷静な八意様だ。
話しかけるべきかもしれない。けれど、何といっていいか分からない私は、八意様の言葉をただ待つのみ。別にやましいことがあるというわけではないけれど、心臓が早鐘のよう。緊張した指先が、だんだんとひんやりとしていく。
けれど、いつになっても八意様は沈黙を保ったまま。こちらに顔を向けず、
結局、それに耐えかねた私は、言い訳じみた言葉を紡ぐ。
「ええと、その。遅くなってしまいましたが、今日の課題を持ってきました」
とりあえず、へらりと微笑んでみる。とぼけてみせる。動揺を悟られないように、というよりは、動揺の果てにそうするしかなかったというか。
状況の変化を促して、だけど、こちらの意向を含ませない。状況を誤魔化すも、言い訳するも八意様次第。結局、これからどうするかを八意様に丸投げした形になる。
依姫ならば、ここで、直接的にどうしたのか聞くかもしれない。言葉に出さなくても表情で、心配で不安で仕方ないと言外に訴えることができるだろう。
私はそうはできない。それほどに素直ではない。
「そう」
ややあって、八意様は一度頷く。そうして、少しだけ眉を寄せた、困ったような笑顔で言葉を続けた。
「みっともないところを見せてしまったみたいね」
「いえ、そのようなことは」
「本当にそう?」
長椅子に腰を降ろしている八意様と床に座ってしまっている私。自然と見上げる格好になっている私の瞳を見透かすように、八意様はじっと見つめてくる。
不思議な色の瞳は底知れず、そこから感情の動きを読み取ることはできない。目は口ほどに物を言う、なんて言うけれど、眠っている時、つまり、目を閉じている時の方が感情を読み取れるというのは、一体どういうことなのだ、なんて思ってみたりして。
どうしたって、八意様に隠し事なんてできないのは分かっている。
「……うなされていたところを、少しだけ」
「ああ。少し、悪い夢を見ただけよ」
心配はいらないわ、というように、八意様は微笑んだ。そうして、そのまま手を伸ばして、私の髪を撫ぜる。先ほどまで、頼りなげに私の手を握りしめていたその指が優しく、優しく、髪を梳いていく。
いつも通りの表情、動作。
あまりにも普段通りの、いや、普段以上に落ち着いた様子は、いかにも余裕がありますといった具合で。だからこそ、不自然。
動揺を隠そうとするあまりの余裕だと、分かってしまった。
八意様が弱点になると指摘した考えのない余裕というのはきっとこのこと。
「さ、課題はどこ? こんな時間に持ってくるなんて珍しいじゃない」
「今日のものは、難しかったんです」
「そうかしら?」
「特に、最後から二行目の意味をどうくみ取ればいいのか」
「ああ、そこ? それはね」
こんな風に言いだしたということは、この話題はもうおしまいの合図。
すっかり雰囲気を切り替えられてしまった以上、それに従うほかない。私も椅子に腰かけて、座卓の上に紙を広げて、語りあう。
あーでもない、こーでもない、なんて言いあう普段通りの風景。
まるで、何事もなかったかのように。
けれど、私は忘れない。忘れることなんてできなかった。
「ねえ、依姫」
恒例のお茶の時間。意を決して、私は妹へ話しかける。
うまい言葉が思いつかなくて、ずるずると言えないままだったけれど、いつまでも黙っているわけにはいかない。
これから伝えることは、私の独断。あの夜から何年も考え続けたことだ。
非難されてもしかたがない内容なのは分かっている。罵られる覚悟もある。
それでも、考えを曲げるつもりはない。
「お姉様?」
異様な雰囲気を感じ取ったのか、依姫が肩を強張らせる。怪訝そうな表情で、私の言葉を待っている。
すう、と一度息を吸って。私は始まりの言葉を告げる。
「よく聞いて」
考えていたよりもずっとずっと、八意様が蓬莱山輝夜を想っているということ。
認めたくない。信じたくない。
けれど、あの悲しげな声は、まだ私の耳の奥にしっかりと残っている。
私を救ってくださった八意様を、今度は私が救い上げて差し上げたい、なんて大それたことを言うつもりはない。ただ、あんな八意様をもう見たくない、というそれだけのこと。
あの後、部屋に戻ってきて、寝台の中でずっと考えて。それから、暇さえあれば、どうすればいいのかを考え続けた。あんまり考えに集中するあまり、依姫にあきれられることもしばしばだったのだけれど。相談することも考えたが、結局、ここまで何も言わないままだった。
私が、私たちが八意様にしてさしあげられること。
あのお姫様の分まで八意様の支えとなる、ことはできないだろう。結局のところ、私たちはあの方の弟子でしかない。この感謝や尊敬の念がある限り、そういう存在にはなり得ない。
きっと、あの人でなければ、だめなのだ。
あの類稀なる美貌と地上の秩序との関係を考えても、そうそう長い期間地上に落とされたままになるとは思っていなかった。少し待てば、帰ってくるのも分かっているはず。それなのにも関わらず、あんなにも八意様が乱れていらっしゃったのは、月に戻ってきたところで、嫦娥と同じように幽閉されることになるのは目に見えているからではないだろうか。
現に、近いうちに月の使者を派遣して、迎えをやる計画が持ち上がっている。それにも関わらず、八意様の様子に変わったところはない。
きっと、もう二度と一緒にいられないことを理解しているから。
「だから、私は考えたの。どうしたらいいのかって」
「お姉様」
そこまで語って、ふう、と息をついた私を、依姫は心配そうな表情で見つめてくる。普段は、どちらが姉かという気分にさせられるのだけれど、途方にくれたようなこんな表情はやっぱり、あどけない。妹、なのだから。
そんな依姫に一度、微笑んでみせて。
「月の使者のリーダーに八意様を推薦しようと思うの」
そうして、地上のあのお姫様の傍へ行けるように。
蓬莱の薬を使ったのはあのお姫様だけれど、製作者は八意様。所持自体は禁止されていないこともあって、八意様はおとがめなしだったのだけれど、流石に今回の件の会議には参加が認められていない。月の使者リーダー代理として、私が次の段取りを決めるその会議に出席することになっている。
その時に、いろいろな理由をでっちあげて八意様をリーダーに推薦する。どうしたって、月の賢者である八意様は信頼が厚いし、地上へ行きたがる人などそういない。私の経験不足を押していけば、まず、それが否定されることはないはず。
地上で、八意様とお姫様が再会できるように手を回すこと。
考えて、考えて、そうして思いついた私にできること。
「ですが、お姉様。それでは……」
「分かってる」
そう、分かっている。
そんなことをしたら、きっともう八意様は月へは戻ってきてくれない。
月にとって大きな損失になるだろうし、犯罪の段取りを整えるようなものだ。もしそれを実行したなら、八意様は罪人となる。分かっていてそれを進言したとなれば、私たちだって無事では済まないだろう。
「でも」
「お姉様……?」
「もう、見ていられないんだもの」
苦しむ八意様は見たくない。きっと、このままではあの人は壊れてしまう。
そんなにやわな人ではないと信じているけれど、だけど、あの姿を見ていると必ずしもそうではないような気がして。
ずっとずっと考えてきた。どうするのが最善なのか。
そうして辿りついた答えがこれだったんだもの。
「ねえ、依姫」
「……」
「分かってくれるでしょう?」
もう一度、依姫に微笑みかける。けれど、眉間にしわを寄せて考え込んだままの依姫は、何も言わない。
下唇を噛んで、俯き加減にじっと下を見つめて。その目が赤く見えるのは気のせい?
ああ、これは怒っている時の表情。
言うべきことを言い終えた虚脱感とこれから責められるだろうことを予測して少しの恐怖感。その二つを感じつつも、私は黙る。
「お姉様はいつもそうです」
「え?」
「勝手に抱え込んで、私には何一つ相談しないで勝手に考えて、勝手に決めて」
「依姫?」
「……私は、お姉様が、辛い思いをしているのだって嫌です」
声を荒げるというわけではなく、ただ淡々と、怒気を込めて言葉を紡いでいた依姫の声が不意に優しくなる。すっと、伸びてきた指が私の頬に触れた。
「泣かないでください、お姉様」
気持ちはわかりましたから。
止めたり、しませんから。
そのまま、腕を伸ばしてきた依姫に抱きしめられて。胸の中でその言葉を聞く。
そうして、初めて私は、私が涙を流していたことに気がついた。
「う……、だって、でも」
「大丈夫、ですから。分かっていますから」
「ごめん、なさい」
私も、依姫の背中へ腕を回す。依姫の声も、涙交じり。
ああ、だって。
八意様が、手の届かないところへ行ってしまう。
月の都合も、罪も穢れも関係ない。
ただ、そのことが悲しくて、苦しくて、寂しくて。
そう、いやだ。
さびしくてしかたがない。
本当は、行かないでほしい。
ずっと私たちのそばにいてほしい。
こんな手まわしなんかしないで、気付かないふりをしていたかった。
だけど、気付いてしまったから。見てしまったから。
あの方には、あの人がいないとだめだから。
本当に、本当に大好きだから。
「お姉様」
「依姫」
私には依姫がいる。依姫には私がいる。
八意様からいただいたものもたくさんある。
だから、きっと大丈夫。
私は、八意様の背中を押そう。
「私は、この度の月の使者のリーダーとして、八意××様を推挙いたします」
厳粛な雰囲気の中、とうとうその時がやってきた。
普段は閑散としているこの場所だけれど、今は大勢が詰めかけている。
だからといって、にぎやかというわけでもない。穢れに満ちた地上へと向かうことになるため、普段は暢気な兎達は表情を強張らせ、緊張しているように見える。それを見送る月の都の重鎮たちも、一様に硬い表情を崩さない。
それほどまでに一大事なのだろうか、とも思う。地上に堕とされたお姫様を迎えにいくというそれだけのことではないか。穢れを持ちこませるわけにはいかない、というのは分かるけれど。
この先どんなことが起こるか、知っているわけではないくせに。
月と地上をつなぐ数少ない能力者として、この場所にいることを許されている私の表情が引き締まっているのを不自然に思われないという意味では好都合だから構わない。
「……」
扇子を握りしめる手に力がこもる。ほどなく訪れる未来への想像に胸が痛む。
けれど、それを周りに悟らせるわけにはいかない。邪魔をするわけにはいかない。
役職が違うためにこの場所にいることができなかった依姫が妬ましい。あちらはあちらで見送ることができる私を羨んでいるのだろうけれど。
「待たせたわね」
来なければいい、と願う時も、やがて訪れる。
涼しげな落ち着いた声と共に、八意様が姿を現した。
いつも通りの青と赤の衣服に、弓矢を携えて。凛とした表情は、どこまでも澄んでいて、研ぎ澄まされた刃のよう。迷いを捨てた彼女の表情は、ただただ美しかった。見ているのが辛くなるほどに、瞳に宿る光は強い。
ああ、やはり。
私の胸に湧き上がるのは諦念。ほんのわずか、そうでないことを望んでいた部分もすべて、塗りつぶされる。
「いってらっしゃいませ、八意様」
その言葉に私の横を通り過ぎていこうとしていた八意様は、その歩みを止める。
視線をこちらへ向けてくれたことに安堵を覚えた。別れの挨拶をする機会があるに越したことはない。
けれど、周りの視線もある。下手なことを言うわけにはいかない。すべてが台無しになってしまう。私にできることはただ一つ。
「お気をつけて」
にこり、と微笑んでみせる。
この場には似合わないのは分かっているけれど、いつもにこにこしている私だ。不自然には思われないはず。緊張感が足りないと後で怒られても構わない。
きっとこれは、今生の別れになるのだろう。それは私にとって望ましくないことなのだけれど、これが最良だというのならば仕方がない。八意様のなさることに間違いがあるはずがないのだから。
――今回に限っては、そうとも言い切れないのは分かっている。月から見れば、これはただの謀反であり、多大な損失。八意様の私情に走った行いだ。
本当は、糾弾すべきこと。けれど、私は私の思いを遂げる。
この誰よりも優しい方を、あるべきところに連れていく。
だからこそ、私は微笑むのだ。
このひとが、認めてくれた笑顔を手向けの花として。
月のことは私たちにお任せください。
私は、私たちは、あなたのおかげでこんなにも成長することができました。
これからも、あなたに教わったことを糧に、育ち続けてみせましょう。
だから、もう心配はいりません。思うようになさってください。
私たちは大丈夫です。
ほら、笑顔はこんなふうでいいのでしょう?
「豊姫」
いつも冷静で、あるいは穏やかだったり、茶目っ気があったりと種類は豊富だとしても。動揺を見せたことのない、八意様の瞳が見開かれる。虚をつかれたように眉をあげる。
それは、驚きの表情。
初めて見たその表情は瞬間。一度、切なげに、けれどどこか嬉しそうに、目を伏せて。
けれど、その意味をかみしめる間もなく、いつもの優しく穏やかな笑顔へと戻る。
「ええ」
ふっ、と微笑み混じりにそう囁いて、八意様は再び前へと進んでいく。
ぽん、とすれ違いざまに頭を撫でられた。覚えのあるその感触は、昔と何も変わらない。
まかせたわよ、という声が聞こえた気がした。
誰よりも賢く、聡いひとだから、私が笑顔に込めた意味を正確に読み取ってくれたに違いない。私がどんな手まわしをしたかもきっと、分かっているのだろう。
場に似つかわしくない手のぬくもりは、了承を示すためのもの。
真実がどうあれ、私はそう信じる。信じようと決める。
長い銀髪を揺らし、闇の中へと消えていく後ろ姿。
背筋をまっすぐに伸ばしたその姿を見送る。後から続いていく兎に紛れて、やがて遠くなり、遠くなり、見えなくなっていく。
どうか、どうか、おしあわせに。
きっと、この光景を私は生涯忘れないだろう。いや、忘れてたまるものか。
大好きな人の姿をこの目に焼き付けた。
あれから、二百年以上の時が経つ。
八意様が旅立ったあの日から、もう二百年……、まだ二百年というべきか。
短いような、長いような。長くもあったし、短くもあった。月の賢者の失踪は、それなり以上に大騒ぎとなり、運営面でも精神面でも、月の都は揺れ動いた。
さまざまなポストを兼任していた八意様の抜けた穴を埋めるのは大仕事。
どちらかと言えば、若輩者、それも八意様の弟子であったという不穏な経歴を持つ私たちでさえ、月の使者のリーダーという仕事を仰せつかった。
もう随分経ったけれど、完全に落ち着いたかと言えば、そんなこともないような気がする。それほどまでに八意様の働きや助言は月にとって重要なものだったのだ、と改めて師の偉大さを実感する毎日だ。
とはいえ、私自身はそれほど前と変わらない日々を送っている。変わったことと言えば、ほんの少し責任が重くなったことと、八意様を探しにいかないのか、とせっついてくる方々をあしらうことぐらい。
八意様を本気で探すつもりもない私は、結局いつも通り。兎達と戯れたり、桃を食べたり、そんなふうに相変わらず、ふらふらと過ごしている。
静かの海を眺めながら、物思いにふける。
「またここにいらしたんですか、お姉様」
不意に聞きなれた声が私を呼ぶ。振り向かなくとも分かるその声の主はわが妹。
ふう、とひとつため息をついた依姫は、そっと私の横に並ぶ。このやり取りももう何度繰り返したか分からない。
「もうすぐ、夕食の支度ができますから」
そう言いながらも、急かす様子はない。ちらり、と横目でうかがった表情は、穏やかで、私と同じように水平線を見つめている。
依姫もまた、変わらない。いや、前以上に努力を重ねるようになったと思う。
八意様の後を継ごうと、月の使者となる兎の訓練や、自分の修行に精を出している。力はあるくせに、どうにも不器用な性格のせいで、振り回されることも少なくないけれど、頑張っている。
八意様がいなくなったばかりの頃は、憤りや、寂しさや、複雑な思いに塞いでいたり、後を継ぐことの重圧に苦しんだりもしていたのだけれど。最近ではようやく、折り合いをつけることができたようだ。
少しだけ、安心している。
直接ではないにしろ、月を離れようとする八意様の背中を押したのは私だから。罪悪感ではないけれど、ちゃんと立ち直ってくれてよかったと思う。
まあ、私と違って、依姫はまっすぐだから、心配することもなかったのかもしれないけれど。
海風は季節を問わず、冷たい。けれど、私たちは黙ったまま、そこに立ち続ける。
しばしの沈黙。それは、不意に依姫のか細い声によって破られる。
「八意様はどうしていらっしゃるでしょうね」
いつもはきはきと落ちついた調子で話す依姫らしくもなく、消え入りそうなその声は揺らいでいる。普段通りを装っているつもりなのだろうけれど、うまくいっていないように見える。たとえ、うまくいってたとしても、私には分かるんだろうけど。
「どうかしら。八意様の考えることは私たちには分からないもの」
「そうですよね」
「でも、きっとうまくやっているに違いないわ」
あえて軽く、明るく、肩を竦めてみせる。言い方はとぼけてみたけれど、口にした言葉自体は本心だ。
何せ、相手は八意様だ。私たちが考えるまでもなく、何百何千手も先を見通して、行動しているだろう。きっと、最善の手を尽くして、地上で暮らしているに違いない。
「きっと心配ないわ。むしろ、私たちが心配されているんじゃないかしら」
「お姉様……」
正直なところ、驚いたのだ。あれだけ先を見通す力に長けた人が、あんな強引な力技で姿をくらませたことに。平時の八意様なら、もっと温厚な手段を探し出していそうなものなのに。
八意様は、本当に優しいお方だから。あまりに超越しているために、理解されづらいところもあるけれど、誰よりも優しいお方だから。
私はそれを知っている。いなくなってからも、浦嶋子の一件で思い知らされた。
そんな方を、唯一乱すのが、あのお姫様だ。それほどまでに八意様にとってあの方は特別なのだろう。彼女に関する時だけ、八意様は余裕をなくす。
不幸にしないために、離れないために、脇目も振ることができないほどに。
そんな方が、お姫様と共に逃避行を続けているのだ。到底見つけられるとも思わないし、ひどい目にあっているとも思えない。一度離してしまった手を、もう一度掴んで。今度こそその手を離すことはないだろう。
きっと、あの青い星のどこかで、平穏な毎日を手に入れているに違いない。
たとえ迎えに行く役割を担うことがなかったとしても、あの方は地上へと向かったはず。
それを考えると少しだけ、不安になる。
私のしたことは、あの方にとって余計なことだったのではないか。本来なら、もっと穏やかな手段でもって、地上へとお隠れになることができていたのではないか。あの時の使者たちは死なずにすんでいたのではないか。
それどころか、どこにもいかないで今もここにいてくれたのではないか。
けれど、私の行動すらも八意様の計算のうち、だったのかもしれない、とも思う。
どうしたって、その真偽を確かめることなんてできるはずもない。考えれば考えるほど、袋小路にはまっていってしまう。
だから、最近ではもうそのあたりについては考えないことにしている。
ただ、月並みな言葉だけれど、幸せでいてくれればいいと思う。
というか、そうであってくれないと、困る。
何のために背中を押したのか分からなくなってしまう。
「そろそろ、戻りましょうか」
「はい」
依姫の肩に両手を置いて、にっこりと微笑んでみせる。ね、と小首を傾げれば、妹の強張った顔も緩み、ふ、と笑みを形作った。
だんだん遠くなっていく波の音を聞きながら、この場所に背を向ける。
けれど、私は明日も、明後日も、その先もずっとここに来る。
静かの海を眺めながら、ただあの人を想う。
もう手の届かないところへ行ってしまったあの人を想う。
地上に一番近いこの場所で。
あなたに一番近いこの場所で。
ただ、読み始めから前半では少々文章に対し区切りやリズム、同じ語の繰り返しなどが気にかかりました。ところどころ、文頭のスペースがあったりなかったりも気になったり。
とまれ、憧れと恋慕の混ぜモノが届かなくも相手に尽くす行為をなさせる感情へと移る、
豊姫の感情を堪能させていただきました。良質な豊姫SS、ごちそうさまでした。
他に何を書けばいいんだろうと思うほど…!!
きっとそれができる二人なんですから。
「余裕」に、小説版ラストの永琳を思い出しました。
そしてその結論に至った心情描写、実に胸に迫るものがありました。
あと、細かすぎて伝わりにくそうな原作ネタをさらりと混ぜるあたりがいいですね。
>あーでもない、こーでもない
綿月姉妹に輝夜、永琳
どれも大きな心の動きがありそうで、その心の内が気になる人らだよね
もっとキャラのことを知りたくなる良いssでした
素敵な豊姫を読めて幸せです。