最初は怖かったお姉さん。
歩くたびにぴちゃぴちゃ水の零れた音がして、廊下中が水浸しになる。
それを気にしていたのか、普段は外にぽつんと立って、夜になるとじっと月を見上げているお姉さん。
ある夜、不意に覗いていた私と目が合った。
ぽたぽたと濡れた姿のまま、お姉さんは立っていた。
月明かりの淡い光の下で、お姉さんの緑の瞳が、私には少しだけ寂しそうに見えた。
お姉さんは歩くたびにぴしゃぴしゃ。
だから私は雑巾と桶を持って、いつもお姉さんの後ろに付いていって、濡れた廊下を拭いた。
お姉さんは、振り返るたびに不思議そうで。
だけど歩いていく。
ぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃって、歩く音。
雨の中で遊んでいるみたいで楽しそうって、桶に溜まった水を捨てる。
ぱしゃぱしゃと絶え間なく雨が降る。
そんな日は、お姉さんは暗い部屋の隅っこでかたかた震えて動かなくなる。
どうしたの? 怖いの? 雷こないよ?
そう伝えたくても話しかけられなくて。
かたかたかたかた、お姉さんが震えているのを覗いてた。
びちゃびちゃに畳が濡れて、湿っているのに、私は桶と雑巾を持っているのに。近づけない。
お姉さんは怖がってる。
私は、ただ見てた。
ぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃ。
お姉さんは今日も歩きながらぐっしょりと濡れている。
とてとて追いかけて、濡れた所を拭いていく。いつもと変わらない日常の繰り返し。
振り返るお姉さんは、毎日不思議そうな顔をする。
でも歩いていく。
ぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃ。
でも、私は知っている。
お姉さんのぴしゃぴしゃが、ほんの少しずつだけれど、少なくなっている事に。
日の下のお姉さんが、少しずつ乾いて、水気が減ってきている事に。
私だけが気づいてる。
雑巾を、痛いぐらいぎゅうって絞った。
ある日、とうとうその時がきた。
お姉さんのぴしゃぴしゃって足音が無くなった。
だから雑巾も桶も必要なくなった。
だから、私はお姉さんを追いかけなくなった。
廊下は濡れないから、軋みもしないから、静かな足音だから。
不意に不安になる。
見ているのに、お姉さんがそこにいるのにいないみたいに、いつも感じていた。
私はいらなくなった桶と雑巾を持って、ぽつんとその背中を見る。
お姉さんはもう、不思議そうに振り返らない。
ざあざあの雨が降った。
お姉さんはまた、あの暗い部屋の隅っこで、かたかた震えてる。
久しぶりにお姉さんの全身が濡れていた。
だから、私は雑巾じゃなくて綺麗な布でお姉さんの身体を拭いた。
こんなに近づいたのは初めてだけど、お姉さんが濡れてるからって手を伸ばした。
ひやりと冷たくて変な感触がしたけど、ちゃんと触れた。
布はじっとりと重くなる。
私は丁寧にお姉さんを拭いていく。
葉っぱが赤くなる季節、唐突にお姉さんがいなくなった。
気がついたから探してた。
でも、探しても探しても見つからない。
お姉さんは見つからない。
いつもお姉さんを探している私なのに、雑巾と桶が必要になるかもしれないって。
閉まった場所も覚えているのに。
なのに、お姉さんがいない。
背中しか見つめられない、あのお姉さんがどこにもいない。
探した。
たくさん探した。
いつもは近づかない場所も近づけない場所も天井裏も床下も梯子を使って屋根の上も。
埃だらけでくもの巣がくっついて、あちこち傷だらけになったけどいなかった。
どこにも、お姉さんはいなかった。
見つからなかった。
気づいたら、ぽたぽたと私の顔が、少し濡れた。
ある日、たくさん探していて気づいた。
お姉さんが、ここにいたっていう証拠がどこにもないって。
見えるのに、そこにいたのに。最初からいなかったみたいだって。
いなくなってから気づいた。
怖くなった。
お姉さんが最初からいなかったみたいな此処が、家が、そんな空間が。
すごく怖くなった。
だから、逃げるみたいに走った。走って。ただ走った。
ガラッて。乱暴に引き戸を開ける。
気づいたら、此処を求めて走っていた。
日のあまり入らない、薄暗い部屋。
隅っこに畳の色が変わった、汚れた一角があって。じとりと腐っていた。
あ。
声が強張って漏れる。
そこは、お姉さんが雨が降るたびに震えていた、あの場所だった。
……あった。
嬉しかった。
ぽたぽたぽたぽた濡れた。
ここに、お姉さんがいた証拠があった。
私は、その畳の上を撫でて、すがりついて、ぎゅって身体を丸くして眠った。
雪が降り、山が白く染まりきったその日に。
お姉さんは見つかった。
息が真っ白なのに、変わらずお姉さんは何も無い。
お姉さんは、聖と一緒に遠出していたらしくて。
いなくなった訳じゃなくて。
ちゃんと、ここに帰ってきた。
ひゅ、ってまた濡れそうになったけど、お姉さんがいるから我慢した。
帰ってきたお姉さんは、知らない異国の服を着ていた。
しっくりと似合っていて、雪みたいに白い服だった。
お姉さんが居た。
お姉さんが居る。
見直して。
こっそりと確かめるみたいに何度も何度も見てしまう。
お姉さんは、ずり落ちる帽子を繰り返し被り直して、忙しそうだった。
私は、お姉さんが帽子を直すよりも何度も、何度もお姉さんを見た。
ちゃんと居る。
満足だった。
この日、私は初めて、お姉さんとお話をした。
月の下のお姉さんを見ていたのが見つかったから、だから呼ばれて、自己紹介をした。
緊張した。
お互い名前を知っていたけど、知らなかったから。たどたどしく会話した。
お姉さんは、むらさみなみつという名前で。
私は、くもいいちりんという名前で。
私をいちりんちゃんと呼んでくれた。
たくさんたくさん、身体の内側に大嵐がきたみたいになって、変な事を言ってしまわないか不安だった。
嬉しいよりもずっとずっと凄いものをあらわす『言葉』を、何というのか知らないけど。
私はきっと、すごくすごく、お姉さんと話せて嬉しいのだ。
気づいたら、興奮したまま口走っていた。
私は、むらさみなみつを『お姉さん』と呼んだ。
心の中で絶えず呼びかけていた呼び方をした。
そうしたら。
お姉さんは緑の瞳を、初めてゆっくりと綻ばせて、小さくなに? って返事をした。
ぎゅうって、心が躍ってた。
別の夜。
月の下、今夜も私はお姉さんとお話をする。
月日が流れているけれど、私は意識していない。
お姉さんもまた、何度目のお話か覚えていなかった。
私は、お姉さんはもうぴしゃぴしゃって歩かないのかと、何となく聞いてみた。
お姉さんの膝の上で甘えながら、見上げながら聞いてみた。
お姉さんは、淀みなく『歩かないよ』と答えた。
どうしてって、私は膝を抱えて聞き返した。
もう埃を被っているだろう、お姉さん専用の雑巾と桶を思い出しながら。
そしたら、お姉さんは出会った頃から変わらない静かな表情を、少しだけほぐした。
『だって、後ろに付いてくる女の子が、大変そうだから』
そう、言って。
お姉さんはまた静かになる。
私は、私は。大きく目を見開いて。大きく喘いで。
そ、そっか。
と、もうそれしか言えなくなった。
顔が、変になって上げられそうになかった。
「ムラサ」
呼ぶと、彼女は「うん?」って帽子を被りなおしたまま、微笑んで振り返る。
「なあに? 一輪」
笑っていた。
無表情でも濡れてもいない、雨も雷も、もうあまり怖がらない船幽霊は、私を見て歩いてくる。
私は、一瞬動きを止めてから「ううん」って、私からも彼女に歩み寄る。
すぐに触れられる近さで向き合って、彼女を見下ろす。
今では、私の方が背が高い。
「ただね」
「うん」
「……嬉しかったのよ」
「うん?」
「……あの頃の貴方が、私の事なんかを気にしてくれていたのが……凄く、ね」
「うんん?」
目を丸くして首を傾げるムラサに笑って「いいの」って、その腕に抱きついた。
冷たい感触。でも触れられる。
驚いた様子だけれど、それよりも私の唐突な言葉の意味を考えて、疑問符だらけのきょとんとした顔をするムラサ。
そのほっぺを摘んで引っ張って、くすくすと笑う。
「だから、いいのよ。ただそれだけ、急に伝えたくなっただけだから」
「ふぇあう?」
そう。
ただ、それっぽっちの事で。
私にとって大事な、それだけの言葉。
ムラサは、ううん『お姉さん』は、ひたすら困った顔をした後に「じゃあ」と。私の頭を背伸びして、頭巾をずらして撫でる。
彼女からの、最初の触れ合いを、今もまた繰り返す。
優しく柔らかく、当たり前みたいに巡っていく。
「―――私も、一輪が私なんかを気にしてくれて、嬉しかったよ」
そう、言って。
お互い様だね。
って『お姉さん』はへらりと笑う。
だから。
私は「そうね」って。込み上げるそれを隠すみたいに俯いて、震えた声を誤魔化すみたいに、そっとしなだれて、彼女の服を、ほんのり濡らした。
抱きしめる彼女の身体からは、優しい、雨上がりの新緑みたいな、淡い香りがした。
やっぱり自分はムラいち派だと再認識
夏星さんのムラいち最高!