「はてご主人、月を見上げて般若湯とは。夜風寒く震える体を暖めているつもりかな」
ととん、と屋根を駆け下りる音は飼い鼠の軽やかな足使いであった。鼠らしく阿呆のようで狡賢い笑みを浮かべたまま、縁側に座る虎の化生の隣へふわりと舞い降り素早い手つきで徳利とも言う冷たい湯入れを掠め取る。しかし訝しげに一振り、徳利逆さに覗き込んではぺちんと舌打ち一つ。鼠の口角は急転上から下へ、米の字の上半分が下半分になったようだと化生は思い、どうにも可笑しくうわずった吐息をふっ、ふっ、と二つ。
「欲しいなら差し上げましょう。私の心は仏の下に。仏門にありて、いずくんぞ私物を惜しみましょうか」
くつくつ笑う化生に鼠はきょとんと目を丸くさせ、次の瞬間忙しく口元をつり上げて。
「ははあご主人様、まるで酒に酔ったようでございますが」
「いえいえ、酒に酔ってはおりません。あいや、酒など召してはいませんが、そうそう月に酔っているのです」
月ね、と見上げる鼠の顔は未だ笑みを絶やさないまま、頬を赤く染め上げる化生へ瞳を横流し。そのまま口元へ鼻を寄せてからかってみようかと、拳一つの隙間をすすすと詰めて。しかし見上げた瞳の濡れ様を見て勢いは立ち消える。化生は自分を見上げる困惑した瞳に気付かないまま、先ほどの快活で胡乱げな、まるで酒に酔っているかのような声を手に持つ杯へこぼす。
「学を得て、毘沙門天様の弟子となり、貴方という部下を持ちました。けれど月は恐ろしい物で、見ているとどうも。なんというか野を歩き、月に嘆きを叫びたいと思う時があるのです」
少し伏せていた顔をゆっくりと上げ、月を見上げる瞳はしっとりと濡れている。まるで恋を求める乙女のように溜息一つを月に吹きつける化生に、しかし鼠は眉尻をピンと伸ばして鼻で一鳴き。
「されど私は仏門にて崇められようという者。そのような私が羞恥に満ちた真似ができるわけもなく、こうして月を求めて身を静めているのです」
何度の溜息か、さして多くも無い言葉の中に深く息をついて泣き言ぽろり。鼠はますます瞳も吊り上げ唇を引き伸ばす。瞳の色は、鋭く光っている。
「毘沙門天様の弟子でありながら長らく聖を救えず、貴方にも世話を掛けさせてばかり。この様では解脱も聖の力となることも夢のまた夢でしょうね」
自身を嗤う声に力はなく、月にこうべを垂れるように力なく杯を舐める。纏う雰囲気はますます暗く、鼠の瞳には恐ろしいほどの愚か者にしか映らない。ぎゅうっと握る手に力を入れて震わせていた鼠は、だが。
「素晴らしいね。糞尿のような自尊心だ。それに羞恥心がどうとか言っていたが、なに気にすることはない。今の貴方には十分すぎるほどあるだろう」
激情に身を任せるほど鼠は親切とは言えぬ。もとより言い付かったお役目お目付け役はここで御免としても良いところ。それでも言葉を投げかけるのは、どうにも人情とは厄介極まりないと舌打ち強く。呆けている化生は急に立ち上がり自身を罵倒する鼠に、潤んだ瞳を向ける。弱く弱く、なんとも惰弱な瞳である。
「要はなんだい弱虫め、聖を思うように救えなかった自分が嫌でめそめそとしていた訳だ。けれど糞め、聞いていればそれを認めずお月様のせいにしようとしていたのか! なんだいそこらの馬鹿みたいに吼える獣のほうがまだマシだ。そこまで腐った性根とは、ちっ!」
もはや苛立ちは一切隠されることもなく、見下す瞳と罵声は留まることなく空転を見せる。受けるばかりの化生は頭を深く、深く。
「およそ孤高とでも思っていたのかい。所詮毘沙門天の下に居させてもらっているに過ぎない化生如きが、有頂天に居るとでも思っていたのかい。ふざけた妖怪だ、お前独り如きに救える聖だとでも思っていたのかい」
どこからか掴み振り上げたダウジングロッドは、思い切り振り下ろされてぐしゃりと土を抉る。頭に何も浮かんでいない阿呆のように激情に身を任せ、跳ね返る土が化生を汚す姿を見て更に苛立ちは増え続ける。心の内で呪詛を吐く。吐いて吐いて、鼠の煮えたぎる頭を支配する心とは。人情とはどうにも厄介である。
「今すぐにでも毘沙門天に土下座して天部にしてもらうといい。そうすれば悩みもなくなるだろう、それが嫌なら野に帰って月に吼えていたまえ。幻滅だ、幻滅だ。幻滅したよ。どうして独りで」
と、声を張り上げて留まる。今際に口からぽろりと落としそうになった言葉を噛み殺し、なんともお役目を忘れてしまいそうな自分へ悪態を付く。苛立ちは心に居つく人情へ向けられ、何度も何度も押し殺そうとしているのに綻びそうに無いそれにもう一度舌打ち強く。
化生の顔は窺えない。力なく杯を持ち項垂れて、縁側に座り続けている。その姿を見てまた声を荒げてしまいそうな鼠は、しかしこれ以上は激情が目尻に集まりそうで怒声を振舞うこともできない。ぐっと耐え忍び、足踏み強く縁側に上り、自室へと歩を進める。化生に声など掛けぬ、そら明日に日が昇れば毘沙門天も起きていよう。さっさと耳打ちご報告にあがってしんぜよう。あなたのお弟子はとんだ愚物でございました!
「皆は助けてくれますか。貴方は私には才は無いと言いますか。私は傲慢ですか」
何か、何かが鼠の耳に届く。しっかりとした馬鹿の声が聞こえる。なにくそ足を止めてもらえるとでも思っているのか愚物め。誰が貴様のような者の声に足を止めるものか。
「傲慢ちきめ、糞馬鹿だ。念仏からやり直せ阿呆。皆、皆はそんなもの自分で考えろ!」
ああ糞め、鼠の思いと重なって、遠ざかる合間に口からは声がこぼれてしまう。どすどすと歩く鼠が化生の視界から消え、そのまま般若湯を求めて自室へと。鼠は思う。人情とはとにもかくにも厄介である。
鼠が過ぎ去ってしばらくしてなお、化生の頭は垂れ下がっている。されど覗き込む者が居れば、その目に光る馬鹿の開き直りに気付いたであろう。弱く成り下がった毘沙門天の弟子は、とても独りでは立ち歩いて行けぬ。そもそも思い返せば宝塔から飛倉から集めたのは自身では無いのだから自分が聖を救えないのは至極当然ではあるまいか。むくむくと化生に湧き出る自身への思いは留まるところを知らず、卑下する心が芽生えては貶める。されど、その目は光っている。
そのまま数分の後、突如として立ち上がった化生はかさの減った杯を思い切り仰ぎ、役目を終えた杯を月に向かって投げ捨てる。その目は爛々と輝き、幼子のように澄んでいた。
ドジッ虎だなwww
ってあれ…、あと…がき…?
ナズ、ありがとう!
地の文も彼女らの話す言葉も、胸やけを起こしそうな文章だ
それとも業とこうしているのでしょうか?
まあ特徴的で終わらせるならどうでもいい話ですが気になったので