セカイ系に天麩羅を食いにきていた。最近覚えた単語を使いたい年頃の永江です。
お年頃の話題なんてこれっぽっちもないが。畜生。幻想郷とか地震で滅べ。
そう呟いたら隙間がこっちを見てた。怖い。
で、テンプーラとは四季折々の野菜に衣を付けてさっと揚げた、香ばしくも手頃な食べ物のことである。
説明しなくたってわかるけれど、この高揚を誰かに伝えたくってたまらないのだ。
昨日は確かに、天麩羅蕎麦を食べようと思っていたのだが、ふやけた天麩羅よりもサクサクとした天麩羅が食べたくなったのであった。
もちろん、天麩羅蕎麦に載っている天麩羅が嫌いなわけではない。
蕎麦の出汁をたっぷり吸い込んだふっわふわの衣が、舌の上でときに凶悪な熱さを発するのが好きだ。喉を通っていく際に、ぞわぞわと体が震える感覚があるのが好きだ。
蕎麦を食べ終えて、汁を飲むときに破片を舌で転がすのが好きだ。
七味胡椒のツンとした辛味が、冷え込んできた夜を体の底からほのかに暖めてくれる。その余韻に浸りつつ、ポン酒を傾けるのが贅沢なのだ。
しかし、である。
今日は天麩羅蕎麦ではなく、天麩羅が単品で食べたかったのだ。
それも、お座敷などで上品に食べるのではなく、一心不乱に、調理されたものを喰らう。
雑談などしている暇があるのならば、目の前の天麩羅を。狐色に揚がったそれを。
喰らわねばならぬ。
というのも、天麩羅というのは熱々でなければすぐに味が落ちてしまう。
揚げたてのそれと、3分ほど外気に晒されたそれでは、具材のたっぷり煮込まれたのライスカレーとルーのみのライスカレーぐらいに差がある。
よって、天麩羅を食しているときは雑談禁止。
つまり、独りで食さなければならない。それ以外は一切、邪道である。
すっかり顔馴染みの店主――といっても、立派な店ではなく、天麩羅屋台であるが。
そこにどっしりと腰をかけて、いつも通り白飯と味噌汁と、ナスと舞茸、それに玉葱のかき揚げを注文した。
秋茄子は嫁に食わすなと言うけれど、なに、当分嫁に行く予定はない。
つやつやと磨かれた珠のような艶やかさを持った白米に「新米ですか」と聞くと店主は頷いた。もうそのような季節なのだった。
冷たくなりかけた風は、味噌汁を味わうには丁度良い塩梅だった。細かく刻まれたオクラとみょうがも、じきに見なくなる。
オクラの味噌汁は、私は大の好物だった。
粘り気のある野菜は、味噌汁に優しさをもたらしてくれる。ときに攻撃的なみょうがとの相性は抜群だった。
考えても見てほしい。とろみのない刻みみょうがの味噌汁はごはんのおかずにはピッタリかもしれないが、逆に言えば主張が強すぎる。
こういう、慎ましさがいいんだよ。一方向ばかりに偏っていたら、そのときはいいかもしれないけど、長い目で見ると破綻するっていうかさ。
前に出るものを後ろがしっかりと支えている。だからこうやって、天麩羅が揚がる音を聞いていても落ち着いていられるんだ。
変にそわそわした気持ちで居たら、せっかくの天麩羅の味だってよくわかってやれない。
味噌汁と、炊きたての新米で逸る気持ちを抑えてやるのだ。
この白米も、実にいい。
噛めば噛むほどに甘味が溢れてきて、砂糖菓子とは違った趣がある。
砂糖はすぅと舌を痺れさせるような甘味であるが、噛み砕かれた米が唾液と混じって、ふぅむ。
古米には古米の良さはあると思うが、やはりこの時期の新米の贅沢さには敵わない。
もう一口。
これだけ出来が良いとなると、自然、これから仕込まれるであろう酒にも期待がかかる。
揚がる前に一杯飲んでしまおうかとも思ったが、今日は天麩羅を食いにきているのである。
そのことを忘れてはいけない。
ここでは塩か醤油かポン酢か檸檬を絞ったものか。
かけるものも自由に選べる。
塩でなければ通ではない、なんていうのは私は嫌いだ。
素材の味云々、一番それがわかるのはどうたら。
そんな難しい理屈をこねて飯が美味くなるのならばいくらでも捏ねるが良い。
けれども聞いているほうは、確実に飯が不味くなっている。
そも、天麩羅は手軽に山菜や野菜を食えるものだと私は認識しているから、適当に食う。
でも一心不乱に、食う。私の場合は、ポン酢をかけて食う。柚子はあまり好きではない。
「揚がったよ」
菜箸から皿に置かれたしいたけ。衣は最低限だけで薄く。
衣をつけてつけて、見た目ばかり大きくするという天麩羅は当然の如く邪道である。
そんなものは許さない。絶対にだ。というよりも、そんなものを天麩羅と名乗らせてはいけない。
天麩羅と言うものはっ!
ポン酢を豪快にぶっかけて、熱いだろうかという躊躇いの気持ちを捨てて、齧り付き。
火傷しないように口の中でほっほっほと転がしつつ、白米を掻っ込む。
こうやって食すものである。
しいたけは干せば良い出汁が取れるものとなる。
それだけの旨味が詰まっているということに他ならないが、それを丸ごと天麩羅にしたときには――
一口、二口目と、ただ幸福だった。
不幸な顔をしているものは、天麩羅を食いにいけば良い。
恨み言を口にする時間を、天麩羅は与えてはくれないのだから。
そして鼻腔をくすぐってくる油の薫りと、さくさく、という軽快なリズム、食感。
荒んだ心に、暖かな音楽が染み入ってくるようだ。
続いて、ナスに齧り付くと、野菜自体の水分が油と混ざって危うく舌を火傷しかけた。
火傷なんてしてしまったら、食事の時間の楽しみが半減してしまうではないか。
危うく、生きる楽しみの一つを気の緩みから失ってしまうところだった。
天麩羅を食うとは、戦場に身を置くことと他ならない。
常に火傷の恐怖に怯えながら、それでも熱々のうちに頬張って、汗を出して、お茶に大きくため息を吐かなければならない。
孤独の戦場なのだから。
一通り天麩羅を楽しんでから、ご飯を足してもらってかき揚げを上に乗せた。
ここに熱々のお茶と出汁をかけてもらって、ワサビをたっぷりと添えて頂く。
戦場を駆け抜けたあとで、このような安らぎに浸ることができるのも、天麩羅の魅力だろう。
さくさくやカリカリのあとで、とろふわを味わうのはまた、格別だった。
お茶漬けは、体に優しい。
お酒の後や、このように熱々の物をたくさん食べてしまって疲れたときに、包み込んでもらえる。
前髪を寄せて目にかからないようにして、ずずっと茶漬けを吸う。
今日もまた、食事が終わってしまう。幸福な時間が終わりを告げようとしている。
昨日はライスカレーを頂いて、今日は天麩羅を頂いた。
日本酒が欲しいと体は騒いでいるが、理性が発泡酒で我慢せよと妥協案を出した。
残念ながら、外食はしばらくお預けにしなければならないだろう。
「勘定を」
言われた通りの金額を置いて、人に見られぬように腹をさすって屋台の暖簾を後にした。
風が、汗で肌に張り付いた服に当たって、心地が好かった。
あのサクサク感が大好きで、噛もうとした時に大きく突き出た衣の突起で口の中を痛めたのもいい思い出
……腹減ってきたな
次回に期待します。
飯食ったばかりなのに天ぷら食べたくなったです
食べることで幸せになれるってことは素晴らしいことだと思います
本当にありがとうございました。
……ってばかっ!
残業真っ直中に読んじゃった俺テロに巻き込まれて爆死だよっ!
腹が減りすぎて死むぅ
てんぷらそんなに好きじゃないけどぐっと食べたくなった。
お腹減ってきますw