「――?
もう――――――?」
唐突な問い。
だけど、耳に覚えがあった。
何時、何処で、誰に……記憶を浚いだそうと、額に手を当てる。
途端にコメカミが疼き始めた。
ずきん、ずきん、ずきん。
「思い出すのを、体が拒否している……?」
「飲み過ぎているだけでしょ」
「あぃ」
的確な推測に頷くと、水の入ったコップが差し出された。
下げようとする頭に手が伸ばされる。
もう片方で『飲みなさい』とジェスチャー。
素直に従い、私は、コップを傾け水を口へと流し込んだ。
こく、こく、こくん……。
するりと胃に落ちていき、心地よい冷たさが内側からもたらされる。
一息をつき、改めて私は頭を下げようとした。
「ありがとうございます、紫さ、ん、ん、ん」
「どういたしまして、早苗。……だから、いいって」
額に触れていた手がコメカミに移され、指がやんわり、くるくると回された。
何時に。終わりがないようにさえ思えた暑さが影を潜めた、秋のとある日。
何処で。幻想郷の東の果て、紅白巫女が住まう博麗神社、その縁側。
誰が。人間、神々、妖怪、妖精――みんな。
何を――要は、特に何かある訳でもなく催されている、通常運航の宴会中だった。
指が、ついで手が離れていく。
目先にあったからだろう、私の視線は後を追う。
どうということもなく、柔らかそうな腿に着地した。
……浮かんだ感想に気恥ずかしくなり、ついと顔を逸らす。
「少しは」
「え、あ、はい?」
「……落ち着いたかしら」
此方の反応を窺っていたのか、言葉は一拍の後に続けられた。
空になったコップを紫さんの座る反対側に置き、ついでに息を吐き出す。
予想に違いなく、熱がこもっていた。
お酒の所為だ。
「はい。大丈夫だと思います」
不意に体が震える。
胃だけでなく、全身から少しずつ熱が抜けたのだろう。
アルコールには然程強くないのだから、消化しきれたとは思えない。
顔を戻すと同時、薄らとしたケープが肩から掛けられた。
「涼しくなったものね。その恰好じゃ、冷えるでしょう」
「あ。きっと、それもですね」
「うん?」
頭の中で浮かべた原因が紫さんに伝わっている訳もなく、問いが含められた相槌に、私は小さく首を振った。
ケープの先端を摘み、すっぽりと包まる。
生地の薄さの割に、とても温かい。
少し眠たくなってしまった。
ぼぅとする私に、紫さんの柔らかい笑い声が届く。
「えっと。確かに」
「……ええ」
「寒くさむ……なりましたね」
居住まいを正し、話を戻す。
こっそりと口元を拭った。
良かった、涎は出ていない。
流石と言うべきか、特に突っ込むこともなく、紫さんはただ頷くだけだった。
「つい一月前は溶けそうなほど暑かったのに。
比較して、寒いと感じてしまうのかもしれません。
……暑さ寒さもと言いますが、まだ戻りたいとは思いませんね」
今年の夏は、本当に暑かった。
「諏訪子様がばててしまう程でした。
神奈子様は結構平気なようでしたけど。
かく言う私も、何時もの装束の下は晒だけにしてしまっていました」
くすりと紫さんが笑う。
「あ、勿論、神社にいる時だけですよ?」
「ええ、それはまぁそうでしょう」
「はい。神社にいる時だけです」
大事なことなので二度言った。
「……因みに、此処も神社だったりするのだけれど」
「思えば、梅雨らしい梅雨がなかったから、余計に夏を暑く感じたのでしょう」
「そうねぇ、降りはしたけれど一日二日で一斉に、と言う風だったもの。……打たれ強くなっちゃったのね、貴女」
にっこり。
唇の両端を釣り上げ、私は笑みを浮かべた。
こほん――空咳を打ち、紫さんが続ける――「……春は、どうだったかしら」
問われ、半年前を振り返る。
昨年は‘空を飛ぶ宝船‘聖輦船騒動などでどたばたしていたが、今年は比較的落ち着いていた。
尤も大きな異変がなかったと言うだけであって、主な参加者が‘花より団子‘状態の宴会は、連日続けられていたように思う。
かく言う私も、然して人のことは言えないか。
「太ってしまいました」
「とても個人的ね」
「……は!?」
胸の内に隠していた乙女の秘密を漏らしてしまった。
「いいわ、続けて」
「だってお団子がお団子があんなに美味しいですもの!」
「加えて、貴女は下戸だものねぇ。……いえ、原因を聞きたかったわけじゃないのよ?」
フォローには感謝するが、それならそうと言って欲しかった。
春に、何かあっただろうか。
私の行動は、特に他の季節と変わらない。
信仰と親交のため、山と麓を行き来する毎日だった。
勿論、自分なりの新しい発見や楽しい出来事はあったりしたのだが、はたしてそう言ったことを聞いているのかどうか。
思案するふりをして、ちらりと紫さんに視線を向ける。
静かに応えを待つ彼女は、‘妖怪の賢者‘。
些細なことを報告しても栓がない。
先の言葉もまたフォローだったのだろう――思い、私は首を横に振った。
「特にどうと言うこともなく、穏やか、じゃないな、賑やかな毎日でした」
「人妖集まれば即宴会、貴女には少し辛いでしょう」
「素質はあるはずなんですが……」
私は‘山の神‘の風祝、飲めない訳がない。
ないのだが、経験の浅さか、率先して潰れてしまう。
日本酒と焼酎を続けて飲むのがいけないらしい。
麦酒は流石にまだ苦い。
カクテル? あれはジュースだ。
思考の外、何かが頭を掠める。
それは恐らく、今日、紫さんからかけられた最初の言葉。
いや、言葉ではない。何がしかの質問だった。
何故、今、そんなことが浮かんだのだろう。
……あぁ、そうか。話していた季節が、初めて問われた時と似ているからだ。
んぅ――二度目の空咳に、曖昧な記憶が払われる――「冬は、覚えていて?」
「お鍋、美味しかったです。やはり蟹は絶品ですね」
「殻を剥いては湯で殻を剥いては湯で……」
「ありがとうございました」
両拳を固め、数度、蟹の殻を折る仕草をする紫さん。そう言えば任せきりだったような。
三度目の正直か、漸く頭を下げられた。
気付けば、頭痛も和らいでいる。
彼女にはお見通しなのだろう。
人体の解毒作用を熟知しているのか、はたまた、齢によるものなのか。なんとなく、後者な気がする。
「それはともかく……」
「あ、はい?」
「寒くはなかった?」
どうだったかな――小首を捻るよりも先に、思い出した。
「それほど『寒い』と言った覚えがありません」
「あら。ウチの式……も、そうでもなかったけど、式の式は連呼していたわよ」
「橙さんは猫さんですものね。私の場合、神社でそう言うと、その、喧嘩をされてしまって……」
核心を避けた言い方に、紫さんが首を捻る。
しかし、それも一瞬、私の言葉遣いからか、すぐに理解されたようだ。
眉根を寄せ、呆れたような気遣うような表情を向けてくる。
前者は友人に、後者はその娘に……そんな風に感じた。
「お察しの通り、神奈子様も諏訪子様も、温めようとしてくださるんです」
「文字通り、子離れができていないのねぇ」
「あはは、まぁ」
お二方の子どもではない、と返すのは無粋だろう。
色々思う所はなくもないが、私はすんなり頷きを返す。
だけど、きっと彼女も人のことは言えない。
むしろ温まる側か。
「……尤も、甘える貴女も貴女なのだけれど」
突然に矛先を向けられ、ぎょっとする。
どこをどう取ればそう言う結論に至るのか。
緩やかに笑みの形を作る紫さんに抗議しようと、私は口を開いた。
――言の葉を紡ぐより先、そぅと伸ばされる人差し指。
「だから、貴女は『寒い寒い』と重ねるのでしょう?」
指の腹をつまむように、開けたばかりの口を閉じる。
ちょんと一度、鼻頭に先端を触れさせ、紫さんは指を離した。
揶揄も叱責の色も窺えない微笑に反論できる訳もなく、私はただ顔を俯かせる。
つまりは……彼女の言う通り、私は言葉を重ね、神奈子様と諏訪子様に温めて頂いていたのだ。
「夏、春、冬。
……季節は廻る。
一年前の秋を、教えて頂戴」
追撃を入れることもなく、紫さんは淡々と話を振ってきた。
「え……っと」
いや、実際には違うのかもしれない。
視線を向け、見上げた彼女の瞳を不可思議に感じた。
僅かに、本当に僅かに緊張の色を宿しているように思う。
そんな目を向けられる覚えはないはずなのだが――記憶を探りつつ、応える。
「巨大ロボに乗りました!」
「あぁ、そう言う話を……『乗った』?」
「はい! アリスお姉、あ、いや、アリスさんに作って頂きましたっ」
むふーっ。
鼻息荒く宣言する私。
微苦笑しながら、紫さんは相槌を打つ。
これはつまり話を聞く覚悟を決められた、と認識する。
「仰っているのは、二度目の弾幕ごっこの後に教えて頂いたことですよね?
『外の世界で等身大の巨大ロボが』、と言う。
そちらではなく――あ……」
言葉が詰まる。
止められた訳ではなく、止まってしまった。
代わりとばかりに注ぐ視線が、柔らかな微笑に受け止められる。
――ここにきて、おぼろげだった記憶が漸く繋がった。
それは、去年の秋の始めのこと。
賑わいを見せた山のバザーが終わり、非想天則も役目を終え萎んだ頃。
初めて紫さんと、接近戦も交えた弾幕戦を行った。
その少し前、諏訪子様に辛くとは言え勝利を収めた所為だろう、私は天狗になっていた。
結果、眼前の‘大妖‘に、ものの見事にコテンパンにされたのだ。
スペルカードの一枚も使われなかった――こう言えば、その様がお解り頂けるだろう。
ダメージよりもショックの方が大きかったように思う。
だから、私は暫く立ち上がることができなかった。
そう、確かその時だ。
今日の質問を、初めて問われたのも。
「え、と。私、あの時に答えませんでしたっけ?」
「ん? あぁ、思い出したのね」
「はい。……え?」
突然に伸ばされた手が髪に触れ、ゆっくりと腿に頭が招かれる。
予想に違わず、柔らかく、温かい。
まるで揺り籠のよう。
あの時も、紫さんはこうしようとしていたんじゃなかっただろうか。
「貴女は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
だけど、応えようとはしていてくれたのかしら」
繰り返される言葉が、頭の中でぐちゃぐちゃになる。
しかし、どちらにせよ解は一つだ。
私は『こたえられた』。
何故、返さなかったのだろう? ……あぁ、そうか。
視界の隅に入った陰陽球を見て、思い出せた。
再現VTRのように、当時と同じ展開だったからだ。
一方的にダメージを受けていた私が襲われたと勘違いをされて……。
え?
「ほら、あの子たちが早とちりしてぶげら!?」
がごんと大きな音がして、紫さんが障子の奥へと吹っ飛んだ。
腿から離れ、跳ねあがる私の首から上。
すかさず、両腕で頭を抱きこまれる。
自然、顔に押しつけられる小ぶりな膨らみに、こんな状況だと言うのにほんの少しだけ胸が高鳴った。
「なぁに人ん家でいちゃいちゃしてんのよ?」
膨らみも腕も、当然ながら陰陽球も、『あの子たち』の一人――霊夢さんのものだった。
「いちゃいちゃしてたってんなら、早苗も同罪な気がするんだが」
「そうねぇ、八雲の紫にだけお仕置きするのは不公平よね」
「……早苗には、今からするの」
『あの子たち』の残りの二人、魔理沙さんと咲夜さんの突っ込みに、私を抱く腕の力が強められた。
ぎゅぎゅ。
ふに、ふに。
我々の業界ではご褒美です。
あ、いやいや。
「しかも、どっちかと言うとさっきのは、ほのぼのとした光景に見えたぞ」
「仲の良い友達を取られるのが嫌だったんでしょう」
「っるさい、二人とも!」
肯定でも否定でもない言葉に、嬉しさ半分切なさ半分。
「大体ねぇ……」
胸元を擽らないように気を付けつつ、私はそっと体の向きを変える。
これでどうにか、僅かながら視界が確保できた。
もう少しあのままでも良かったかな。
ともかく、だから、続く霊夢さんの言葉が予想できた。
「あんたたちだって、変わらないじゃない」
魔理沙さんは八卦炉を、咲夜さんは銀のナイフを、所定の位置に戻している所だったのだ。
前者はポケットに、後者は腿の……更に上。
スカートの中にもナイフ留めがあるのか。
あ、見えない、腕で遮られて見えない!
「それと」
ふと頭頂部に視線を感じ、なんとなく‘ごめんなさい‘と心で謝る。
「早苗も早苗よ。
あんなのに気を許すなんて。
頭からばりばり食べられても知らないわよ?」
感じたものは間違っていなかったが、謝ったのは見当違いだったようだ。
腕の中、私はくすりと小さく笑う。
「……あによ」
紫さん相手に、気を許すも許さないもない。
‘力‘も言動も出鱈目なのだから。
気にしたら、負けなのだ。
――でしたよね、霊夢さん?
「うぎぎ……!」
左手の人差し指で彼女の人差し指を絡め取り、私はもう一度、微笑んだ。
「よっぽど今の方がいちゃいちゃしている気がするんだが。一発いっとくか」
「待ちなさい、魔理沙。私も、頭の中で審議中だから」
「いいけどあんたら、あっちに向けなさい」
ゆらり――タイミングを計っていたかのように、吹き飛ばされた‘大妖‘が立ち上がる。
視線を左に右に。
そして、真っ直ぐに。
微かな瞳の動きで、中央に映っているのは私なんだと思った。
「ねぇ、早苗」
呼応するように、私たちの視線が彼女に注がれる。
彼女は、微笑んでいた。
先ほどの衝撃などなかったかのように、柔らかく、美しく。
その超然とした様に、私のみならず各々の得物を構える皆さんも、何もできなかった。
「貴女たちは……。
齢が近いからかしら。
それとも同じ種族だから、ちょっと霊夢喋らせて!?」
遍く制約から解き放たれたる存在、霊夢さんは除く。
迫りくるお札をスキマに飲み込ませる紫さん。
彼女にして、‘博麗の巫女‘の攻撃は避け辛いのだろう。
そう思わせたのは、霊夢さんが全力を出していないから――だって、彼女の片手は私が捕えている。
「うっさい。あんたはどうせ碌な事をもがが!?」
「私は少し離れていると思うけど……」
「紫ほどじゃないだろ。いいぜ?」
左右から伸ばされた手に、霊夢さんの口がふさがれる。
自由だった片腕も、私が腕を回し押さえこんだ。
よくよく思うと凄い絵面だ。
全てのお札を処理し終えた後、紫さんは、ゆっくりと口を開いた。
「人間同士だから……あら?」
「種族は関係ないと思います」
「みたいねぇ」
同時、縁側の方から近づいてくる様々な‘力‘。
「ふぅん……なにか、のっぴきならない状況のようね」
「霊力は感じたけど、そうなのかしら……?」
「主に霊夢がな」
アリスさんとパチュリーさんが、魔理沙さんの横に立つ。
「とりあえずよくわからないので斬ってみましょう! うぃみょっく!」
「わぁ、半霊ちゃんも真っ赤っか!」
「霊夢だけにしておきなさい」
妖夢さんとうどんげさんが、咲夜さんの傍らで構える。
「うがー!?」
暴れる霊夢さんに皆が気を取られたのは、一瞬だった。
刹那の時間で、紫さんは私たちの後ろ、庭へと降り立つ。
月明かりを浴びる彼女と此方の距離は、凡そ10メートル。
「早苗」
先ほどの二倍の視線を受け止め、再び、紫さんは私の名を呼んだ。
「齢でもなく種族でもなく……。
ともかく、貴女自身や周りの者は解っているのでしょう。
だけれど、私は違う。私には解らない。だから、聞かせて頂戴な」
声が大きい訳ではない。
けれど、耳によく響く。
私たち全員が、きっとそう思っている。
「秋を語り、
夏を感じ、
春を笑い、
冬を越え、
そして、貴女は、三度目の秋を語った」
魔理沙さんと咲夜さん、アリスさんとパチュリーさん、妖夢さんとうどんげさんが首を捻る。
こういう疑問だろう――『二度目の間違いではなかろうか』。
無粋と思われたのか、誰も口にはしない。
しかし、そも間違いではないのだ。
「廻る季節に伝えられた話題は此方のことばかり。
だけれど齢の所為かしら、私は不安なの。
だから、応えて頂戴な」
……そうか。もう、此処に来て四年目になるのか。
「私とこの子に、教えて頂戴な」
両腕を広げながら、紫さんが微笑む。
この子、とは誰のことなのだろう。
直線上にいる霊夢さんのことか。
周りの皆さんの何方かか。
それとも――。
私が結論を出すより先、紫さんは三度目の質問を口にした。
「どう?
もう慣れたかしら?」
質問者を含め、七つの視線が私に注がれる。
この場にいるもう一人、真上からの視線は感じない。
彼女だけはずっと、眼前の‘大妖‘を睨みつけていた。
気にしない、構わない、それでいい。
より強くなる絡みついた人差し指の力を感じつつ、私はそう思った
ある程度返答を予測しているのだろう、紫さんは目を細めた。
口に浮かぶは、柔らかく美しく――温かな微笑。
自らの童の友達を迎える、母親の表情。
視線を向けてくる友人に、
指を絡め合っている思い人に、
この地の創造者とも言うべき彼女に、私は、童のような満面の笑みを浮かべ、応えた。
「――はいっ!」
<幕>
もう――――――?」
唐突な問い。
だけど、耳に覚えがあった。
何時、何処で、誰に……記憶を浚いだそうと、額に手を当てる。
途端にコメカミが疼き始めた。
ずきん、ずきん、ずきん。
「思い出すのを、体が拒否している……?」
「飲み過ぎているだけでしょ」
「あぃ」
的確な推測に頷くと、水の入ったコップが差し出された。
下げようとする頭に手が伸ばされる。
もう片方で『飲みなさい』とジェスチャー。
素直に従い、私は、コップを傾け水を口へと流し込んだ。
こく、こく、こくん……。
するりと胃に落ちていき、心地よい冷たさが内側からもたらされる。
一息をつき、改めて私は頭を下げようとした。
「ありがとうございます、紫さ、ん、ん、ん」
「どういたしまして、早苗。……だから、いいって」
額に触れていた手がコメカミに移され、指がやんわり、くるくると回された。
何時に。終わりがないようにさえ思えた暑さが影を潜めた、秋のとある日。
何処で。幻想郷の東の果て、紅白巫女が住まう博麗神社、その縁側。
誰が。人間、神々、妖怪、妖精――みんな。
何を――要は、特に何かある訳でもなく催されている、通常運航の宴会中だった。
指が、ついで手が離れていく。
目先にあったからだろう、私の視線は後を追う。
どうということもなく、柔らかそうな腿に着地した。
……浮かんだ感想に気恥ずかしくなり、ついと顔を逸らす。
「少しは」
「え、あ、はい?」
「……落ち着いたかしら」
此方の反応を窺っていたのか、言葉は一拍の後に続けられた。
空になったコップを紫さんの座る反対側に置き、ついでに息を吐き出す。
予想に違いなく、熱がこもっていた。
お酒の所為だ。
「はい。大丈夫だと思います」
不意に体が震える。
胃だけでなく、全身から少しずつ熱が抜けたのだろう。
アルコールには然程強くないのだから、消化しきれたとは思えない。
顔を戻すと同時、薄らとしたケープが肩から掛けられた。
「涼しくなったものね。その恰好じゃ、冷えるでしょう」
「あ。きっと、それもですね」
「うん?」
頭の中で浮かべた原因が紫さんに伝わっている訳もなく、問いが含められた相槌に、私は小さく首を振った。
ケープの先端を摘み、すっぽりと包まる。
生地の薄さの割に、とても温かい。
少し眠たくなってしまった。
ぼぅとする私に、紫さんの柔らかい笑い声が届く。
「えっと。確かに」
「……ええ」
「寒くさむ……なりましたね」
居住まいを正し、話を戻す。
こっそりと口元を拭った。
良かった、涎は出ていない。
流石と言うべきか、特に突っ込むこともなく、紫さんはただ頷くだけだった。
「つい一月前は溶けそうなほど暑かったのに。
比較して、寒いと感じてしまうのかもしれません。
……暑さ寒さもと言いますが、まだ戻りたいとは思いませんね」
今年の夏は、本当に暑かった。
「諏訪子様がばててしまう程でした。
神奈子様は結構平気なようでしたけど。
かく言う私も、何時もの装束の下は晒だけにしてしまっていました」
くすりと紫さんが笑う。
「あ、勿論、神社にいる時だけですよ?」
「ええ、それはまぁそうでしょう」
「はい。神社にいる時だけです」
大事なことなので二度言った。
「……因みに、此処も神社だったりするのだけれど」
「思えば、梅雨らしい梅雨がなかったから、余計に夏を暑く感じたのでしょう」
「そうねぇ、降りはしたけれど一日二日で一斉に、と言う風だったもの。……打たれ強くなっちゃったのね、貴女」
にっこり。
唇の両端を釣り上げ、私は笑みを浮かべた。
こほん――空咳を打ち、紫さんが続ける――「……春は、どうだったかしら」
問われ、半年前を振り返る。
昨年は‘空を飛ぶ宝船‘聖輦船騒動などでどたばたしていたが、今年は比較的落ち着いていた。
尤も大きな異変がなかったと言うだけであって、主な参加者が‘花より団子‘状態の宴会は、連日続けられていたように思う。
かく言う私も、然して人のことは言えないか。
「太ってしまいました」
「とても個人的ね」
「……は!?」
胸の内に隠していた乙女の秘密を漏らしてしまった。
「いいわ、続けて」
「だってお団子がお団子があんなに美味しいですもの!」
「加えて、貴女は下戸だものねぇ。……いえ、原因を聞きたかったわけじゃないのよ?」
フォローには感謝するが、それならそうと言って欲しかった。
春に、何かあっただろうか。
私の行動は、特に他の季節と変わらない。
信仰と親交のため、山と麓を行き来する毎日だった。
勿論、自分なりの新しい発見や楽しい出来事はあったりしたのだが、はたしてそう言ったことを聞いているのかどうか。
思案するふりをして、ちらりと紫さんに視線を向ける。
静かに応えを待つ彼女は、‘妖怪の賢者‘。
些細なことを報告しても栓がない。
先の言葉もまたフォローだったのだろう――思い、私は首を横に振った。
「特にどうと言うこともなく、穏やか、じゃないな、賑やかな毎日でした」
「人妖集まれば即宴会、貴女には少し辛いでしょう」
「素質はあるはずなんですが……」
私は‘山の神‘の風祝、飲めない訳がない。
ないのだが、経験の浅さか、率先して潰れてしまう。
日本酒と焼酎を続けて飲むのがいけないらしい。
麦酒は流石にまだ苦い。
カクテル? あれはジュースだ。
思考の外、何かが頭を掠める。
それは恐らく、今日、紫さんからかけられた最初の言葉。
いや、言葉ではない。何がしかの質問だった。
何故、今、そんなことが浮かんだのだろう。
……あぁ、そうか。話していた季節が、初めて問われた時と似ているからだ。
んぅ――二度目の空咳に、曖昧な記憶が払われる――「冬は、覚えていて?」
「お鍋、美味しかったです。やはり蟹は絶品ですね」
「殻を剥いては湯で殻を剥いては湯で……」
「ありがとうございました」
両拳を固め、数度、蟹の殻を折る仕草をする紫さん。そう言えば任せきりだったような。
三度目の正直か、漸く頭を下げられた。
気付けば、頭痛も和らいでいる。
彼女にはお見通しなのだろう。
人体の解毒作用を熟知しているのか、はたまた、齢によるものなのか。なんとなく、後者な気がする。
「それはともかく……」
「あ、はい?」
「寒くはなかった?」
どうだったかな――小首を捻るよりも先に、思い出した。
「それほど『寒い』と言った覚えがありません」
「あら。ウチの式……も、そうでもなかったけど、式の式は連呼していたわよ」
「橙さんは猫さんですものね。私の場合、神社でそう言うと、その、喧嘩をされてしまって……」
核心を避けた言い方に、紫さんが首を捻る。
しかし、それも一瞬、私の言葉遣いからか、すぐに理解されたようだ。
眉根を寄せ、呆れたような気遣うような表情を向けてくる。
前者は友人に、後者はその娘に……そんな風に感じた。
「お察しの通り、神奈子様も諏訪子様も、温めようとしてくださるんです」
「文字通り、子離れができていないのねぇ」
「あはは、まぁ」
お二方の子どもではない、と返すのは無粋だろう。
色々思う所はなくもないが、私はすんなり頷きを返す。
だけど、きっと彼女も人のことは言えない。
むしろ温まる側か。
「……尤も、甘える貴女も貴女なのだけれど」
突然に矛先を向けられ、ぎょっとする。
どこをどう取ればそう言う結論に至るのか。
緩やかに笑みの形を作る紫さんに抗議しようと、私は口を開いた。
――言の葉を紡ぐより先、そぅと伸ばされる人差し指。
「だから、貴女は『寒い寒い』と重ねるのでしょう?」
指の腹をつまむように、開けたばかりの口を閉じる。
ちょんと一度、鼻頭に先端を触れさせ、紫さんは指を離した。
揶揄も叱責の色も窺えない微笑に反論できる訳もなく、私はただ顔を俯かせる。
つまりは……彼女の言う通り、私は言葉を重ね、神奈子様と諏訪子様に温めて頂いていたのだ。
「夏、春、冬。
……季節は廻る。
一年前の秋を、教えて頂戴」
追撃を入れることもなく、紫さんは淡々と話を振ってきた。
「え……っと」
いや、実際には違うのかもしれない。
視線を向け、見上げた彼女の瞳を不可思議に感じた。
僅かに、本当に僅かに緊張の色を宿しているように思う。
そんな目を向けられる覚えはないはずなのだが――記憶を探りつつ、応える。
「巨大ロボに乗りました!」
「あぁ、そう言う話を……『乗った』?」
「はい! アリスお姉、あ、いや、アリスさんに作って頂きましたっ」
むふーっ。
鼻息荒く宣言する私。
微苦笑しながら、紫さんは相槌を打つ。
これはつまり話を聞く覚悟を決められた、と認識する。
「仰っているのは、二度目の弾幕ごっこの後に教えて頂いたことですよね?
『外の世界で等身大の巨大ロボが』、と言う。
そちらではなく――あ……」
言葉が詰まる。
止められた訳ではなく、止まってしまった。
代わりとばかりに注ぐ視線が、柔らかな微笑に受け止められる。
――ここにきて、おぼろげだった記憶が漸く繋がった。
それは、去年の秋の始めのこと。
賑わいを見せた山のバザーが終わり、非想天則も役目を終え萎んだ頃。
初めて紫さんと、接近戦も交えた弾幕戦を行った。
その少し前、諏訪子様に辛くとは言え勝利を収めた所為だろう、私は天狗になっていた。
結果、眼前の‘大妖‘に、ものの見事にコテンパンにされたのだ。
スペルカードの一枚も使われなかった――こう言えば、その様がお解り頂けるだろう。
ダメージよりもショックの方が大きかったように思う。
だから、私は暫く立ち上がることができなかった。
そう、確かその時だ。
今日の質問を、初めて問われたのも。
「え、と。私、あの時に答えませんでしたっけ?」
「ん? あぁ、思い出したのね」
「はい。……え?」
突然に伸ばされた手が髪に触れ、ゆっくりと腿に頭が招かれる。
予想に違わず、柔らかく、温かい。
まるで揺り籠のよう。
あの時も、紫さんはこうしようとしていたんじゃなかっただろうか。
「貴女は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
だけど、応えようとはしていてくれたのかしら」
繰り返される言葉が、頭の中でぐちゃぐちゃになる。
しかし、どちらにせよ解は一つだ。
私は『こたえられた』。
何故、返さなかったのだろう? ……あぁ、そうか。
視界の隅に入った陰陽球を見て、思い出せた。
再現VTRのように、当時と同じ展開だったからだ。
一方的にダメージを受けていた私が襲われたと勘違いをされて……。
え?
「ほら、あの子たちが早とちりしてぶげら!?」
がごんと大きな音がして、紫さんが障子の奥へと吹っ飛んだ。
腿から離れ、跳ねあがる私の首から上。
すかさず、両腕で頭を抱きこまれる。
自然、顔に押しつけられる小ぶりな膨らみに、こんな状況だと言うのにほんの少しだけ胸が高鳴った。
「なぁに人ん家でいちゃいちゃしてんのよ?」
膨らみも腕も、当然ながら陰陽球も、『あの子たち』の一人――霊夢さんのものだった。
「いちゃいちゃしてたってんなら、早苗も同罪な気がするんだが」
「そうねぇ、八雲の紫にだけお仕置きするのは不公平よね」
「……早苗には、今からするの」
『あの子たち』の残りの二人、魔理沙さんと咲夜さんの突っ込みに、私を抱く腕の力が強められた。
ぎゅぎゅ。
ふに、ふに。
我々の業界ではご褒美です。
あ、いやいや。
「しかも、どっちかと言うとさっきのは、ほのぼのとした光景に見えたぞ」
「仲の良い友達を取られるのが嫌だったんでしょう」
「っるさい、二人とも!」
肯定でも否定でもない言葉に、嬉しさ半分切なさ半分。
「大体ねぇ……」
胸元を擽らないように気を付けつつ、私はそっと体の向きを変える。
これでどうにか、僅かながら視界が確保できた。
もう少しあのままでも良かったかな。
ともかく、だから、続く霊夢さんの言葉が予想できた。
「あんたたちだって、変わらないじゃない」
魔理沙さんは八卦炉を、咲夜さんは銀のナイフを、所定の位置に戻している所だったのだ。
前者はポケットに、後者は腿の……更に上。
スカートの中にもナイフ留めがあるのか。
あ、見えない、腕で遮られて見えない!
「それと」
ふと頭頂部に視線を感じ、なんとなく‘ごめんなさい‘と心で謝る。
「早苗も早苗よ。
あんなのに気を許すなんて。
頭からばりばり食べられても知らないわよ?」
感じたものは間違っていなかったが、謝ったのは見当違いだったようだ。
腕の中、私はくすりと小さく笑う。
「……あによ」
紫さん相手に、気を許すも許さないもない。
‘力‘も言動も出鱈目なのだから。
気にしたら、負けなのだ。
――でしたよね、霊夢さん?
「うぎぎ……!」
左手の人差し指で彼女の人差し指を絡め取り、私はもう一度、微笑んだ。
「よっぽど今の方がいちゃいちゃしている気がするんだが。一発いっとくか」
「待ちなさい、魔理沙。私も、頭の中で審議中だから」
「いいけどあんたら、あっちに向けなさい」
ゆらり――タイミングを計っていたかのように、吹き飛ばされた‘大妖‘が立ち上がる。
視線を左に右に。
そして、真っ直ぐに。
微かな瞳の動きで、中央に映っているのは私なんだと思った。
「ねぇ、早苗」
呼応するように、私たちの視線が彼女に注がれる。
彼女は、微笑んでいた。
先ほどの衝撃などなかったかのように、柔らかく、美しく。
その超然とした様に、私のみならず各々の得物を構える皆さんも、何もできなかった。
「貴女たちは……。
齢が近いからかしら。
それとも同じ種族だから、ちょっと霊夢喋らせて!?」
遍く制約から解き放たれたる存在、霊夢さんは除く。
迫りくるお札をスキマに飲み込ませる紫さん。
彼女にして、‘博麗の巫女‘の攻撃は避け辛いのだろう。
そう思わせたのは、霊夢さんが全力を出していないから――だって、彼女の片手は私が捕えている。
「うっさい。あんたはどうせ碌な事をもがが!?」
「私は少し離れていると思うけど……」
「紫ほどじゃないだろ。いいぜ?」
左右から伸ばされた手に、霊夢さんの口がふさがれる。
自由だった片腕も、私が腕を回し押さえこんだ。
よくよく思うと凄い絵面だ。
全てのお札を処理し終えた後、紫さんは、ゆっくりと口を開いた。
「人間同士だから……あら?」
「種族は関係ないと思います」
「みたいねぇ」
同時、縁側の方から近づいてくる様々な‘力‘。
「ふぅん……なにか、のっぴきならない状況のようね」
「霊力は感じたけど、そうなのかしら……?」
「主に霊夢がな」
アリスさんとパチュリーさんが、魔理沙さんの横に立つ。
「とりあえずよくわからないので斬ってみましょう! うぃみょっく!」
「わぁ、半霊ちゃんも真っ赤っか!」
「霊夢だけにしておきなさい」
妖夢さんとうどんげさんが、咲夜さんの傍らで構える。
「うがー!?」
暴れる霊夢さんに皆が気を取られたのは、一瞬だった。
刹那の時間で、紫さんは私たちの後ろ、庭へと降り立つ。
月明かりを浴びる彼女と此方の距離は、凡そ10メートル。
「早苗」
先ほどの二倍の視線を受け止め、再び、紫さんは私の名を呼んだ。
「齢でもなく種族でもなく……。
ともかく、貴女自身や周りの者は解っているのでしょう。
だけれど、私は違う。私には解らない。だから、聞かせて頂戴な」
声が大きい訳ではない。
けれど、耳によく響く。
私たち全員が、きっとそう思っている。
「秋を語り、
夏を感じ、
春を笑い、
冬を越え、
そして、貴女は、三度目の秋を語った」
魔理沙さんと咲夜さん、アリスさんとパチュリーさん、妖夢さんとうどんげさんが首を捻る。
こういう疑問だろう――『二度目の間違いではなかろうか』。
無粋と思われたのか、誰も口にはしない。
しかし、そも間違いではないのだ。
「廻る季節に伝えられた話題は此方のことばかり。
だけれど齢の所為かしら、私は不安なの。
だから、応えて頂戴な」
……そうか。もう、此処に来て四年目になるのか。
「私とこの子に、教えて頂戴な」
両腕を広げながら、紫さんが微笑む。
この子、とは誰のことなのだろう。
直線上にいる霊夢さんのことか。
周りの皆さんの何方かか。
それとも――。
私が結論を出すより先、紫さんは三度目の質問を口にした。
「どう?
もう慣れたかしら?」
質問者を含め、七つの視線が私に注がれる。
この場にいるもう一人、真上からの視線は感じない。
彼女だけはずっと、眼前の‘大妖‘を睨みつけていた。
気にしない、構わない、それでいい。
より強くなる絡みついた人差し指の力を感じつつ、私はそう思った
ある程度返答を予測しているのだろう、紫さんは目を細めた。
口に浮かぶは、柔らかく美しく――温かな微笑。
自らの童の友達を迎える、母親の表情。
視線を向けてくる友人に、
指を絡め合っている思い人に、
この地の創造者とも言うべき彼女に、私は、童のような満面の笑みを浮かべ、応えた。
「――はいっ!」
<幕>
幻想郷の早苗さんを取り巻く環境が優しい。
とてもよかったです。
ここは全てを受け入れてくれるところ。