ある日。
天界。雲上。
「おーい」
天子は大きな声で呼ばわった。きょろきょろとあたりを見回しながら、雲の上を飛んでいく。
あたりはいつものように、真っ白い雲に覆われ、川の流れのようにそれがとうとうとたゆたっている。龍神の眠る巣が隠された、天界近くの空の上である。
「おーい。――衣玖ー? どこよー? いないのー?」
天子はさっきより大きく呼ばわったが、雲の中からはまったく返事がない。彼女が捜し求めているリュウグウノツカイの姿は、眼下に広がる無限の雲海の中からは、まったく出てくる気配が無かった。
天子はさらにふよふよと飛びながら、しつこく下に向かって呼びかけた。
「……おーい。どこだよー? 衣玖ー? でてこーい。おーい、こらーびりびり深海魚ー。ものぐさ似非天女ー。能無し地震予知観測機ー。お役所仕事の人生適当女ー。ぱっつんぴちぴちつくねだんごー。触角帽子ー。やーいピンクのびらびらー」
天子はもう一度繰り返して、色々としつこく呼んだ。が、答える者はいない。
「……」
天子はしかたなく、呼ばわるのをやめて立ち止まった。眉をひそめたままあたりを見回す。やはり、肝心の黒い帽子の影はどこにも見えない。足元を見下ろせば、眼下には見渡す限りの雲海が広がっているばかりだ。
天子はちょっと眼下を見てから考え込み、ふむ、とうなって腕組みした。
「……おかしいな。ここらあたりにいると思ったんだけど……ひょっとして無視してんのかな? あいつ? まあ私のことは嫌ってるみたいだしなー。しかたないといえばしかたがないが……」
天子はぶつくさと呟いて、いったん動くのをやめた。またちょっと考えて、やがて、なにやら諦めたような目になって、わざと大きくつぶやいてやる。
「あーあーしっかたないなあ。もう雲を切り払っちゃおうかね。そうすりゃいくらなんでも出てくるでしょ。ちょうど剣も借りてきていたところだし、ちょうどよかったわ。備えあれば憂いなしってねー」
「……おやめくださいましよ、物騒な」
ふと後ろで声がした。天子はふとそれを聞き、後ろを振り向いた。
すると、見やったほうには、黒い帽子を被って赤い羽衣を揺らした、やや面倒くさそうな顔つきの天女姿の娘が浮いている。いつの間に近づいてきたのか、永江衣玖だ。
「あら、なんだ、衣玖。そこにいたの?」
「どうもごきげんようございます総領娘様。このようなところまでわざわざお越しいただきまして、どうも」
衣玖はいんぎんな口調で言った。天子はたいして聞かずに、腰に手を当てて言った。
「あんた、近づいてくるなら先に声くらいかけなさいよ。なんで黙って近づいてくるのよ」
「どうも申し訳ございませぬ。遠くから大声で呼びたてるのは失礼かと思った次第でして」
「嘘つきなさいよ、どうせ大声出すのが面倒だっただけでしょ」
「いえ、そのようなことは……ああ、それよりも総領娘様。ここいらの雲は、むやみに打ち払おうとしてはなりませぬ。この雲海はただの雲ではなく、すべて龍さんの寝床なのですから。そのようなもので無闇に荒らすと、天人様でもお怒りを買いますよ?」
「誤魔化すなよ」
「……それで、どのようなご用件でしょう?」
衣玖は面倒になったように言った。天子はそれでようやく腕組みを解いて、口を開いた。
「ああ、そうだった。あのね、衣玖。あんた下界の連中に住所くらい教えておきなさいよ」
「なんですか、やぶからぼうに……」
「ほらこれ。あんたあての手紙が、私のところに届いてたのよ。あの下界の鬼の奴が持ってきたんだけどさ」
天子は言いつつ、一通の手紙を懐から取り出した。差し出されたものを受け取りつつ、衣玖は怪訝な顔を返した。
「はあ、……手紙、ですか?」
「ええ、ほら、下界の吸血鬼。あいつからよ。なんでも、招待状だってさ」
「招待状?」
「いえ、なんだかね、今度あいつの屋敷で、ちょっと向こうの流儀での酒宴が開かれるらしいわよ。なんだったか、ぱーてーとか言うんだったかな。そういう、せいようふうのなんちゃらがどうしたとか言うらしいんだけどね、まあ、よくわからないけどけっこう面白そうだから私は行こうと思ってんだけど。そんなの? 私のところにも、それとおなじものが来たんだけどね」
「……ああ、パーティーですか。たしかにあそこの流儀というならそうでしょうね」
「あれ、なんだ、あんたそんなの知っているの?」
「まあ下界に降りるのが役目ですので。そういう予備知識も多少はありまする」
衣玖はなんのけない様子で言ったが、天子はちょっと微妙な顔でその顔を見た。意外だったのか、ちょっと悔しいのだかよく分からない顔をしてから、眉をちょっと上げる。
「ふうん。まあいいや。とにかくどうせあんたも暇なんでしょう? ちょうどいいから一緒に行きましょう。私も一人じゃあそこには行きづらいしさ」
「ふむ、まあ……そうですね。欠席する理由も無いですしね……困りましたわ」
「なに困ってるのよ。まあいいわ。とにかく渡したわよ」
「はい、どうも、わざわざありがとうございます」
衣玖は言いつつ、会釈をした。きびすを返して去っていく天子の背を見送ってから、ちらりと手の中に目を落とす。
(……面倒くさいなあ)
そう思いつつも、招待状を懐にしまうと、またひよひよと雲の中に戻っていった。
三日後。
紅魔館。
夕刻、衣玖は天子と共に連れ立って会場に入った。出席するのに際して、ふとどのような服装がいいのか、とはあらかじめ思ったが、結局、普段の天女の羽衣風の服で来てしまっていた。
(まあ問題はなさそうだがな)
周りを見ながら、衣玖は思った。どうやらそれを気にするようなものはいないらしいし、そもそも参列者の多くが、普段どおりの服装だった。
たしかに手紙には、服装についての指定はされていなかったが、そのせいかおのおのが自由な恰好をしていて、会場は和洋折衷そのものだった。それなりにめかしこんでいる者もいたが、それはあくまで個人の自由のようで、これといった決まりというのが見受けられない。
(わりといい加減なのだな……作法を知らないということも無いだろうから、あえてやっているんだろうけど)
衣玖は思いつつ、グラスに口をつけた。会場はにぎやかにざわついているが、いまの所、衣玖の周りには誰もいない。
最初そばにいた天子は、開場してからすぐにどこかに行ってしまったし、こちらだと衣玖には向こうから話し掛けてくるような知己もいない。もっとも、衣玖自身も人とぺらぺら話すのは、面倒で好かなかったので、わざと能力を使って避けていたのだが。
とくに所在無く、ホールの隅に立っていると、ふと向こうに、ここの館主の何某とかいう吸血鬼がやって来るのが見えた。見ると、一応、参加者へのあいさつ回りを行っている最中のようだ。
まあ、こっちにも来るか、と衣玖は面倒を感じつつ、ちょっとグラスに口をつけた。今しがた、紅白の巫女と魔法使いの二人組になにやら二、三言親しげに会話をしつつ、挨拶を済ませると、吸血鬼は案の定、こちらにやってくるようだ。
傍らには例の銀髪メイドの姿はない。珍しく一人である。
(ふーむ。あんなに小さかったかしらね)
衣玖はなんとなく、その姿を見ながら思った。以前の騒動のときに見たときよりも、なんだかずいぶんちんまりとしているように見える。
「やあ、竜宮の使いさん。ようこそ、我が屋敷へ。こうやって招くのは初めてだったわね?」
吸血鬼は鷹揚な笑みを浮かべていった。衣玖はかるく目礼して、口を開いた。
「ええ。なんだか、御呼ばれしてしまいまして申し訳ありません」
「いえいえ。招かれる人は、多いほうが良いからね。どうぞゆっくりしていってちょうだいね。――どうでもいいけど、あなた、さっきからこんな隅っこにいるみたいだけど、いいの? もうちょっと向こうに出てきてもいいんじゃないの? あっちの天人なんかは、なんだかずいぶんうろちょろして、話し掛けているみたいよ」
「まあ、こういう性分ですので、どうにも」
「ふむ。まあ、好きにしたらいいんだけどね。楽しみ方なんか人の自由なんだろうし。それじゃあ、なるべく楽しんでいって頂戴。時間があったらまたあとで。ああ、そうだ。――ねえ、天界の人っていうのは、たしか踊りが得意なのよね」
吸血鬼が言う。衣玖はちょっと控えめに答えた。
「はあ、得意というか、まあ、どのかたもずいぶん好きなようではありますね。歌や踊りは向こうの嗜みですから。総領娘さまはお嫌いのようですが」
「まあ、あっちの不良娘は推して知るべしのようだけれど、ひょっとして、あなたは踊れたりするの?」
「まあ、ほどほどには……私も、ときたま天人さまがたに御呼ばれすることもありまするので、失礼のないようにですが、心得はありまする」
「ふうん。そうか。ねえ、よかったらでいいのだけど、それを見せてもらえたりはしないものかしらね? 楽隊は頼んであるんだけど、場の盛り上がりはもうすこし欲しいところだし」
吸血息が言うのに、衣玖は若干、迷うような顔をした。館の主の頼みであるから無碍にするべきではないだろう。
「……もうしわけありませんが、あえて人にお見せするほどのものでもありませんし。それに、仮に踊るとしても、たぶん、私のものは、この場の空気にはそぐいませんよ。どうにも性分ですから、私もそういうのはちょっと」
「ふむ、そうなの? そりゃ残念だね」
吸血鬼はちょっと眉を下げて言うと、引き下がった。衣玖はあえてあまり気にしなかったが、ちょっと雰囲気は悪くなりかけたようだ。
(断るべきではないよな。しかし、そういう面倒なのは勘弁だしな)
吸血鬼もあまりそういうことを細かく言う性質ではないらしいから、後には引かなかったようだ。「それじゃあ、またあとで」と言いつつ、また他の面子のところへいく小さい背中を見送って、衣玖はちょっと酒を口に含んだ。
(舞、か)
そういえば、しばらく踊っていないな、とは思った。もともと、衣玖が天界の宴に呼ばれること自体が稀ではある。
まあ仕方のないことではあるのだが、龍神の使いとしての身分があるからこのような恰好をしてはいるが、衣玖は、所詮天人とはまったく別物の妖怪という身分である。天子のような変わり者でもなければ、下のものと見て話もしないのが普通の扱いだ。
(まあ、これでは身体はなまるかな。なまって困ると言うこともないが)
思いつつ会場のほうに目をやると、あいかわらずざわついているなかで、ふと、会場の隅のほうにいる娘が目にとまった。一人で壁際に立っている娘だった。
(……うん?)
空気を読んで、わざと隅っこのほうへ避けている衣玖には、誰も声をかけてこないが、その娘の周りには、それとはまた違った空気がある。どちらかというと、回りが意識して避けているような雰囲気があるが。
(……)
なにをすることもなく、衣玖はなんのけなしにそちらを見ていた。娘はこちらを見る様子は無い。
(ふむ……)
衣玖は何の気なしに、感嘆の吐息をもらして思った。娘の立ち姿をしばらく眺める。
壁際に立っている娘は、たった一人で、周りには誰も人がいないが、それにしてはずいぶん目立つ恰好だ。全体がひらひらとして、フリルがふんだんにあしらわれた黒の衣装と赤いスカート。
一見して、ちょっとしたドレスのようにも見える風変わりな服は、まるで人形のそれのようにひらひらしていて、身体の前で髪を止めた奇抜な髪型に、頭のずいぶん大きなリボンも目立っている。
(ずいぶん派手な恰好だな)
衣玖は、誰より派手な自分の恰好を差し置いて、率直にはとりあえずそう感じた。娘の勝気そうな横顔も、ちょっと角度を変えるようにしてのぞき見る。
(……気が強そうね)
気位が高そう、というのか。どこか親しみのある鼻と顎の造形だが、なにか作り物に見えるような、一種の浮世離れした気配がある。
たぶん人間ではないのだろう、と衣玖は思った。避けられているのか、本人が避けているのか知らないが、目立つはずの姿には話し掛けようとする人は無く、表情までは推し量れない。
あんまり派手なので、まるで彼女自体が一個の人形のようでもあるような鮮やかな緑色の髪も、顎の前で纏めた一風変わった髪形も、その赤と黒の衣装が引き立てていて、なにより人目を引いていた。壁に背を預け、一人静かに飲んでいるような顔つきの娘は、そんなことを何も気にしていなさそうで、その目がときおり会場の中を見ているだけである。
とはいえ、見たところ、さっきからそれをくりかえしているようでもあるが。
(うむ……)
衣玖は、何の気なく呟いた。娘の様子を見つつ、ちょっとグラスに口をつける。
実は酒の味はよくわからない。めったに酔ったりもしないが、特別美味いとも思わない性質だった。
(舞い、か)
心の中で呟きつつ、衣玖はグラスの中身を飲み干した。そのまま、ふと壁際から離れると、近くにいた妖精メイドに声をかけて、空のグラスを頼む。
そのまま、衣玖は会場の中をひとり歩き出した。会場の様子は、それなりに盛況で、ちょっとした芸を披露する者や、たわいの無い談笑をする者が居る程度でも、結構盛り上がりは取れているようだ。
会場の端のほうからは、さきほどから適度に響く音楽の演奏が聞こえていて、そのおかげで場の雰囲気がほどよく保たれている。たぶん、魔力を含んだ音色だろう。
衣玖は、そのまま会場の中央のほうへと歩いていき、さっきの娘のほうではなく、その演奏を行っている面々がいる、別の隅のほうに行った。そちらには、先ほどから楽器を鳴らしている、人外の雰囲気を持った三姉妹の姿がある。
「あのう、すみません」
「ん? あ、なに?」
声をかけられて、姉妹の中でも一番背の高い水色の服の娘が反応した。派手な感のある見た目で、三姉妹の中でも一番目立っている娘だ。
ふわふわした白系の明るい髪に、瞳の大きな顔だちをした娘で、先ほどから積極的に場を盛り上げているのも、彼女のようだ。いまいちまだ物足りなさそうな顔をしながら、今は曲の都合上か、手に持ったトランペットを下ろして、気の無い様子で拍子を刻んでいるところだ。
「突然のことですみませんけれど、演奏の希望というのは、できるのでしょうか」
衣玖が言うと、娘はよく人慣れのしてそうな顔を明るく開いて笑った。
「ああ、リクエスト? あーあー。ええ、そういうのは大歓迎ねー。どういうのがいいのかな?」
「なにか踊りを踊れるような曲をひとつ。お願いしたいのですけれど」
「ふーん? 踊り? か。――ふむ。あ。ええ、いいわよー。それって激しいやつかな? それとも静かなやつがいい?」
娘が陽気に聞いてきたので、衣玖はちょっと考えた。若干の間をおいて、口を開く。
「それでは、静かめなので一つ」
「わっかりました~」
娘は軽い調子で言うと、他の姉妹たちに目配せをした。身振りで合図をして、なにか声を掛け合っている。
衣玖の言ったとおりのことが通じたようには見えなかったが、衣玖がきびすを返してその場を離れるときには、すでにそれまでの曲が止まり、また新しい曲が流れ出していた。流石に息が合っているということのようだ。
(ふむ)
衣玖が希望したとおり、今度流れ出した曲は、静かな曲調の曲だった。どうやらあの姉妹は、けっこう幅の広い、まったく違う曲調の曲も手がけることが出来る者たちらしく、さっきの明るい曲とはまるで違うメロディも、十分に耳に心地いい。
波のように揺れる豊かな旋律を耳にしながら、衣玖は会場の隅へ歩いていった。人の間を縫うように歩き、やがて、あの派手な恰好の娘の前までやってくる。
「あの、すみません」
「ん? ……ん? なに?」
呼びかけられた娘は衣玖を見て、鈴の鳴るような綺麗な声で答えた。衣玖は微笑みつつ、ちょっと頭を下げた。
「突然、お声をおかけしてすみません。そのう、よろしければ、今から私と一曲、踊ってはいただけませんか?」
「……え?」
娘は言って、ちょっと目を瞬いた。きょとんとして衣玖を見る。
「……」
まじまじとした面持ちでこちらを眺め、ぱちぱちと瞬きすると、ようやく口を開いた。
「……ええと、……あなたは? なに? どなた?」
「駄目でしょうか?」
「……いえ、駄目、というかね。なんなの? 急に」
娘はちょっと気を悪くしたように言った。衣玖は、そこでもう一度、頭を下げた。
「どうもすみません。ちょっと話が急すぎました。いえ。実は、私こちらの当主様に乞われて、なにがしかの舞いの類を披露するように、とお頼みいただいた者なのですれけど、しかしあいにくと、もともと私の心得ている舞いというのは、どうにもこの華やかな場ではそぐわないようなものばかりでございまして。申し訳ないことではありますが、ちょっとお断りを申し上げていたのです。ですけれど、せっかくお招きを受けた身でありながら、ただむげにお断りするというのも、それも失礼に当たる話ですので、代わりに別のものを披露しようか、と思っていたところなのです」
「はあ、……はあ、え、え? ちょ、ちょっと、な、なに?」
娘が慌てて言うのも構わず、衣玖は娘の前にひざまずいた。片手を胸に当て、ちょうどうら若い娘を誘う紳士のような、洗練された恭しい仕草で、少し頭をうつむけて、手を差し出す。
「お願いでございます。どうか、私と一曲踊ってはいただけませんか?」
「いえ、踊るって……お、踊り? い、いや、だって、急にそんなこと言われたって、私は、そんなのは全然……」
「いいえ、大丈夫でございます。誓ってあなたに恥はかかせません。私はただあなたとともに、一緒に踊りたいのです。あなたを一目見た瞬間にそう思いました。あなたとだったら、きっとこの一夜を素晴らしく楽しいものに変えることが出来、なおかつ最高の踊りを当主さまに披露できるだろうと。きっとよい踊りが踏めるはずだからと」
「……いや、あの」
「失礼は、承知の上ですが、誓って申し上げまする。けっしてあなたに恥はかかせません。どうか、お手を拝借させてはいただけませんか? この夜を素敵なものにするために、是非」
衣玖は言った。娘は、なおも迷った顔をした。
戸惑った目で差し出された手を見、衣玖の顔を見る。
「ええ、と」
やがて、恐る恐る、という調子で言うと、ちょっと困ったように微笑んだ。衣玖の手を見、その顔を見て、無意識に前髪を梳く。
「……その、なんだかよくわかりませんけれど……。なにか見込み違いをしているんじゃない? 私はあなたの言うような踊りなんて、全く知らないし、というかたぶんそういうのは心得が無いし、急にそんなこと言われても、その、困るし……」
「いいえ。重ねて言いますが、そのへんについては大丈夫です。私が必ずあなたをエスコートいたしますので。お願いいたしまする。私はただ、あなたとともに舞台に上がりたいのです。いえ、もはやあなたとともに、舞台に上がるのでなければ、この踊りをする意味が無いとさえも思いまする。たしかに心得があれば、そこに立っても一人で踊ることは出来ましょう。しかし、ただ一人きりでは、心というのはなかなか躍ってはくれません。心と身体の乖離した踊りなどというのは、なんともあじけの無いものにしかならぬので、この会場にいる星のような人々らのその中に、誰か、その心を躍らせるような輝きをもつものは、と求め見渡しても、私の目にはなかなか映ってはくれなかったのです。かなわぬ望みかと、絶望しかけたそのとき、その中にあって、ただ一片の輝きが、この会場の一角より放たれてるのが見えたのです。それこそが、あなただったのです」
「えー……、と? え? え?」
娘はちょっと苦笑い気味に笑った。半分は呆れ、半分は衣玖の言うことに押されているような感じだ。
衣玖はちょっと微笑んで、頭を垂れた。手はそのままに言葉を続ける。
「お願いいたします。どうか、私めに、あなたのその輝きを見せてはいただけませぬでしょうか? それを見ずして一人踊るのは、もはや辛く寂しく、また哀しいこととしか思えぬおとでもあります。お願いいたしまする。重ねてもうしあげますが、決してあなたに恥をかかせたりはいたしませぬ」
衣玖が言うと、娘は黙り込んで、困った目を泳がせた。が、やがてその目の中に、ふと好奇の心が覗くのが見えた。
「……、そこまで、言うのでしたら。そのう、断るのも失礼ですし? そ、それじゃあ、……ぜひ、――で、いいのかしら……? こ。こういうのって、本当よくわからなくいんだけど……」
そう言って、娘はようやくおずおずと手を差し伸べた。衣玖はちょっと微笑んで、うやうやしくその手を包むように、両手で捧げ持つと、そっと包んだ指の間から口付けるような仕草をした。
「それでは、お手を拝借」
それから立ち上がって娘の手を取ると、あくまでも自分から手は引かずに、娘が歩き出すのを伴って歩き出した。娘は戸惑い、ちょっと上気した顔ながらも、自分から衣玖についてきた。
向かう先の会場の中は、既に柔らかな音楽が満たされていた。無数のテーブルと、立ち並ぶ人の間を縫うようにして、衣玖は娘と共に会場の中央へと歩いていった。
ふと、例の奏楽隊の三姉妹の前を横切るときに、先ほど話し掛けた水色の服の娘がこちらの姿をおや、と目にとめてきた。衣玖は、ちょっとそちらを横目で見て、小さく頭を下げた。
娘は、ふん?と言うようにして、猫のように大きな瞳を緩めると、ちょっと面白そうな目つきで、他の姉妹たちに目配せをした。姉妹のそれぞれの片割れは、一人は若干、斜に構えたような顔つきで桃色がかった髪を小さく揺らしてうなずき、また、もう一人は、静かに伏せられた金色の睫の下で、ちょっと片目を閉じてうなずいた。
それとともに、ヴァイオリンとそれに追随する音色が、わずかに変化した。姉妹の後ろでひとりでに鳴っていた楽器たちも、それに呼応して、柔らかな調子の音色を奏でるようになる。
衣玖は、その曲調に合わせて踏み出すと、同時に、踊りのための一歩を踏み出し、手を取った娘の腰にさりげに手を回して、ダンスホールへと導いた。そこまで踏み出すと、ふと娘の先に立って、不意に踊りだす。
「あ、と」
娘はつられて、ちょっとつんのめるようにしながらも、衣玖のステップについてきた。戸惑いがちに衣玖の指に指を絡め、衣玖の歩調に合わせて踊りだす。
そうして、流れるようになめらかに踊りが始まった。ざわついていた会場の目が、しだいにしだいにちらほらと止まり、徐々に衣玖と娘の姿に集まっていく。
娘は勢いで足を踏み出しはしたものの、ちょっとまだいっぱいいっぱいの様子のようで、どうしたらいいのかよくわからない顔のまま、ステップを踏んでいた。衣玖はゆっくりと調子をあわせて踊りながら、こっそりと娘に顔を寄せてささやいた。
「大丈夫。それでいいんですよ。そのまま、私に合わせていてください。最初はゆっくりとしますから。あなたも気にせず、ゆっくりと足を踏んでください」
ちょっと汗ばんで緊張した娘の手を握り、衣玖が言うと、娘はちょっとちらりと瞳を動かして、少し力を抜いた。おっかなびっくりながらも、その言う通りにして、ステップを踏む。
そのまま最初は、こわごわといった様子で娘は衣玖の歩調に合わせて足を刻んでいった。しかし、しだいに足取りに慣れてくると、今度はほんのわずかだが、徐々に衣玖にあわせて自分からステップを踏むような調子になり、足元をちょっと気にしながらも、ついてこれるようになってきたのが見て取れた。
二人の間に、わずかながらぬくもりを帯びたような足音が刻まれるようになる。衣玖は娘の拙い足取りに調子を合わせながら、ころあいを計った。
(ふむ)
そろそろいいかな。衣玖は踊りながら、周囲には悟られない自然さで、また娘に顔を寄せてささやいた。
「じゃあ、今度は下を見ないで。背筋を伸ばしてください。なるべく、身体を楽にするようして」
衣玖がそっとささやくようにすると、娘は「う、え。ええ……」と、ぎこちなくうなずき、どうにか下を見るのをやめた。そのまま、言われたとおりに、目線はこころもちまっすぐに見て、足元ではステップを踏み、その足は、視線を定めた一瞬だけ、ほんの少し乱れたが、それでもちょっとつんのめりそうになりながら、ちゃんと衣玖のステップについてくる。
「そうそう、その調子ですよ。とってもお上手です」
「そ、そう……?」
「それじゃ、今度は、ちょっと回ってみましょうか?」
「え――ま、回る?」
娘はやや面食らった様子で聞き返してくる。衣玖は、ちょっとそれに微笑み返して、娘が乱しかけたステップを、さりげに調節して元に戻した。
「いえ、大丈夫です。なにもそんなに難しいことではありませんから。ただ、わたしに合わせて、くるりと回るだけでいいんです。――いいですか? 私が合図しますから、そしたら、そんな具合にくるりと回ってください。それじゃ、いきますよ? はい、一、二の、――三」
衣玖が拍子をとって言うと、娘は「わ? とと……」とちょっと戸惑いがちになりながら、くるんと回った。それは少し体重の乗せ方がうまくいかず、あくまでぎこちなくつたないやり方のターンで、そのままなら、ろくに回れてもいないような足取りだった。
だが、衣玖がさりげにそれを、娘の手をたかだかと持ち上げて、身体をたくみに回してやったおかげで、そのステップは、まるで本当に優雅で鮮やかなターンを決めたように見えた。娘は、自分でもそれがわかったのか、回り終えてから、ちょっとびっくりした顔をする。
それを導いて、さらに衣玖はステップを刻んだ。娘の足が、今度は自然とそれについてくる。
「はい、とってもお上手です。さ、それじゃ、もう一回いきましょう。一、二の。三」
衣玖の掛け声に合わせて、娘はもう一度くるりと回った。今度は、心なしか先ほどよりも自信を持って回ったせいか、だいぶ滑らかに決まった。
思い切りのいい動きをしたおかげで、娘の瞳にかすかな期待の光が灯る。わりといけるんじゃないか? という錯覚だろう。
(よし、よし)
衣玖はちょっと笑って、娘の手を下ろした。娘は、なお自信なさげだが、それでも次第に踊りに没入する風を見せているようだ。
慌てがちだった瞳が、徐々に一つの所を見るようになり、その唇の端に、今まで感じたことのないらしい新鮮な驚きの色が宿っていた。踊るステップにわずかに熱がこもり、娘の硬い恥じらいの色が、ゆっくりと解けかかっているのが見える。
(そろそろいいかな)
「それじゃあ、そろそろ速めますよ? ちゃんとついてきてくださいね?」
「え?」
娘が、きょとんとしたように言った。衣玖は、それを確認してから、その手を少し大きく引いた。
「わっ、きゃ」
娘の体が引かれ、足がつんのめる。衣玖は構わず、そのまま後ろに二、三歩、と軽快なステップを踏んで踊りだした。
娘がその速さについていかれず、さらに拙く足をよろめかせる。衣玖はそれを柔らかい仕草で支えつつ、面食らっている娘を誘って、自分の歩調にいざない、そのままさらに歩を速めだした。
「大丈夫。慌てずに、さっきみたいに、私に合わせて足を出してください。合わせようなんて考えないで。私のほうで、あなたの身体は支えますので」
衣玖はささやくように言って、とん、とん、と足を踏み、娘の手をとって、今度は自分でも速いステップを刻み、不意にそこからターンを決めた。羽衣がひらりと舞い上がってふわりと踊り、衣玖の細い肩を淡く包み込むように、舞い落ちる。
娘は、戸惑いがちにしながらなんとかそれに足を合わせて、歩を踏み、ちょっとまごつきながら衣玖の動きに身をゆだねた。それにともなって衣玖の足がさらに速く調子を上げて流れ、娘の足も、自然とそれに巻き込まれるゆにしながら、追随していく。
とん、ととん。とん、とととん、とん。
衣玖の安定した足取りに引かれて、娘は、やがて、動きに徐々にのびのびとしたものを見せ始めた。衣玖の後を追うようについていく足取りの中で、自ら周り踊る衣玖の身体を、つられるように拙い動作で支え、また、逆に支えられる衣玖の腕の中では、衣玖の動きに釣られるかのように、思い切りのいいターンで回り、時に腕に体をしなだれかける。
ときには微笑み、時に自重を預けるときには、硬かった体と表情を、しだいにのびやかに開いていく。衣玖は、娘がどれだけ勢いよく踊っても、その動きをしっかりと支え、勢いあまって飛び出しそうになるときは、それを優しく引き戻した。
華美だが、華奢で、また繊細で、まるで伸び上がるばねのような、一種のたくましささえも感じるその姿は、いつしか見るものの目をひきつけ、会場中の目を魅了しその心をも釘付けにしていった。
(ああ、いい)
衣玖は思った。踊るにつれ、身体の芯を、心地よい高揚が包み込んでいくのが分かる。
彼女自身では、まだまったく本気で動いていたわけではない。だが、自分の腕の中で舞い踊る娘の、水を得た魚のように力強く無邪気な身体を優しく抱きとめ、また怪我をしないように要所要所で支える中で、いつしか彼女は自分自身も楽しげに動いていた。
洗練されたものを秘めた衣玖の挙動は見目に美しく、見るものにはきっと確固たる天上の楼閣にしつらえられた、雲の足場が見えていたことだろう。だがそれでも会場の目をひきつけていたのは、おそらく自分ではない、と衣玖はそれを察していた。
そう、自分ではない。煌くばかりの足取りに、神々しいばかりの爪弾かれる指先。初々しげな娘の挙動に秘められた、光り輝くものを秘めたつま先と、その肢体。
(ああ、すごい。これは、まるで、――天賦だ。天からの授かりものだ)
衣玖は思った。その言葉を呟くとともに、背筋がすう、とあわ立つような感触をかんじる。胸が高鳴るのを感じる。これは、まるで恋のようだ。
そう、これはまるで恋のようだ。衣玖は熱い想いに胸を焦がさせながら、踊る厄神の姿を見ていた。
やがて、曲も終盤にさしかかり、二人の舞いもだんだんと落ち着いていった。曲の進行に合わせて娘を導き、最後に彼女を自分の腕にしなだれかからせて、衣玖はその体を抱きとめ、やがて足をとめた。
曲が終わった。会場に、静寂が満ちた。
やがて、拍手が沸き起こる。迫り来る大きな波のような拍手が。
衣玖は、娘の体を抱きとめたまま、その熱い鼓動と波とを感じとっていた。娘の身体のなかを興奮の残滓が、血となって走り抜けている、それが自分の身体にすら伝播してくるような感覚を感じる。
「――」
拍手は、またたくまに伝播し、やがて会場中を包んでいた。誰もが手を叩いていた。興奮や、感心に瞳を煌かせて。ほんのわずかの憧憬や嫉妬に胸を焦がさせて。
(ふう)
衣玖は娘を放して、ちょっと息をついた。娘と目があうと、かるく微笑みかけた。
娘は腕を絡めたまま、煌くような笑顔でそれに微笑み返してきた。淡く燃え立つような、静かな硝子色の瞳を覗き込みながら、衣玖は鉄の鎖のように重たいなにかが己の中で鳴るのを感じた。
その余韻を引きずりながら、やがて衣玖は身体を離して、一歩引くと、一礼をした。頭を上げると、しっかりとかみ締めるように口を動かす。
(ありがとう)
衣玖が低く言うと、娘も一歩引いて、スカートの両端をつまんだ。人形のように可憐な礼を返して、舞いを締めくくる。
衣玖はその身にくすぶる炎を抑えて、笑顔で娘に別れを告げた。その日のダンスはそれで終わった。
帰り道。
夜。
「あんたもやるんじゃないの」
横を歩いていた天子が言った。ちょうどさきほど館を出て、少しはなれたところを歩いていたときのことだ。
「案外恰好いいところあるのね! 凄い素敵だったわ。見直したわよ」
「たいしたものではないですよ。ただ下手の横好きが高じたようなものですから」
衣玖はそっけなく答えた。天子はふん、とちょっと鼻白んだように笑った。
「謙遜ていうのは必ずしも美徳じゃないんだけどね。自信を持っていることというのは、はっきり言わないと嫌味になるものよ。正直、まるで本当の天女みたいだったわよ。なんだか悔しい気がするけど、文句なしに綺麗だったわよ」
「ありがとうございます」
衣玖が淡白に言うと、天子はちょっと眉を上げた。むっとしたように唇を尖らせる。
「まったくほめがいのないやつね……。人間万事塞翁が馬とでも言うのかね。もっと照れろよな可愛げのない」
「まあ、可愛らしいなどといわれる年でもないですしね……。いちいちもろ手を上げて喜ぶのも。あとちょっと今のは少し使い方が間違っていると思いますけれど……」
「あれ? そうだったかな……」
天子はちょっと眉をひそめて、少し考えるようにしたが、とりあえずは気にしないことにしたらしい。いったん気を取り直すように小さくうなると、今度はやや違う風に眉をひそめて、衣玖を見る。
「でも、なんでいきなり誘ったりしたのよ。たしか山の神かなにかよね、あいつ。流し雛から変じた厄神の一種だったか。あんた、面識があったの?」
「いいえ、面識はありませんよ。今日初めてお会いしました」
「なによ、じゃあ、初対面でいきなり踊らないかなんていったの? ふわ、大胆ねあんたも」
「まあ、たしかに不思議かもしれませんけど、そういうこともございまするよ。人の間というのは縁ですからね」
「ふうん」
天子はわからなげに唸った。衣玖はそれに構わないように、ちょっと空を見て考えた。
「それに、あの方の立ち居姿が、なんだか妙に舞いに似合うようだなと思ったものですから、それでつい。まあ、ようは単に私が踊りたかっただけのことです」
「ふうん……」
天子は、やはりよく分からないような顔をした。それからふと間をおいて、口を開く。
「でも、なんだか」
「――おっ、よ?」
と。不意に。
急に何かにつまずいた。衣玖は、思わず間抜けな声を上げていた。
そのまま、派手に転んで、どて、と地面に無様にすっ転ぶ。衣玖は目を瞬いて、かるくうめいた。
「いたた」
「……なによ、大丈夫?」
突然倒れた衣玖に目を向けて、天子が言う。
「ええ……、あれ? え……?」
衣玖は目をぱちくりさえながら、道の上をちらちらと見た。天子が横から差し伸べてくる手を借りて、とりあえずは立ち上がる。
「ああ……ありがとうございます……」
「なにしてるのよ?」
「いえ。……なんでしょう。……なにかありました? 今……」
「なにかって? なに?」
天子にそう聞かれ、衣玖も一瞬ためらった。
「いえ、……石か何か」
「……いえ? ……なんだか、何も無いところで転んだみたいね。大丈夫? あんた」
「え、ええ……いえ、大丈夫ですけれど……でもたしかに今、なにかにつまづいたような……」
「踊りの疲れが足にきているんじゃないの? 気をつけなさいよ、仮にも天女みたいな格好したやつが、地面の軽石なんかに足を救われてたんじゃ、洒落にもならないわよ」
「……はあ」
衣玖は唸りながら、首をかしげた。なんだろうかと思った。
(変ねえ……)
ちょっと妙な感じがした。流石に何も無いところで転ぶほど自分はうっかりでは無いし、それに。
(……それに……気のせいかしら?)
衣玖は思った。転ぶ直前に、ひやりとした悪寒を感じたようにも思えた。
それがなんなのかはわからなかったが、しかし、たしかにその直後に、自分は何かに足を引っ掛けたように思う。
(……ふむ?)
とりあえずなにかはわからなかったので、衣玖はやがて考えるのをやめた。スカートのすそを払い終えると、今度はこころもち、足元に気をつけて歩き出す。
その次のパーティーにも衣玖は招待された。もちろん、あの厄神だという娘も、また同じように招待されていた。
もっとも、もちろん、というのはこのとき衣玖がそう思っただけで、後で聞き及んだところによると、どうやらこれは、館の主人のたっての希望でということらしかった。すでに耳に入れていたらしい天子が、後から聞くまでも無く教えてくれたところだと、どうやらあの夜のダンスを見た吸血鬼が「ぜひもう一度踊って欲しい」と、大層気に入った様子で言ってきたのだそうだ。
衣玖としては、正直そういうことはどうでもよかった。「よかったわね。お前、気に入られたみたいだよ」と冷やかしてくる天子の言葉も、いつものように淡々として、軽く流していた。
ただ、実を言えば、ひそかにこのことに感謝してもいた。
(ちょうどよかった)
衣玖は内心で思っていた。彼女とは、ぜひもう一度踊りたいと思っていたのだ。
あの日、一度踊ったきりの彼女の舞いに衣玖はすっかり魅了されていた。あの一度きりでは勿体ないと、じれったい思いが胸の中にくすぶり続けていた。
「なんだ、どうでもよさそうな顔をして、本当は嬉しいんじゃないの。もののついででいいから、感謝の一つくらい言っておけよな」
人の気はどうでもいいと跳ね除けるくせにそういうところに勘のいい天子には、衣玖の様子から、なんとなくその機微が察せられたらしく、しつこく念を押された。大きなお世話だなとは思ったが、「そうですね」と、衣玖も口に出しては言わなかった。
そうして、その日も衣玖は、あいかわらず会場の隅にぽつんと一人たたずんでいる雛菊色の姿へと、近寄っていった。厄神は、こちらに気づくと、ちょっと微妙な顔をして、少しはにかんだような顔で小さく頭を下げた。
「……こんばんは」
「ええ、こんばんは」
衣玖が少しかしこまって頭を垂れると、厄神は、ちょっと苦い顔をした。衣玖が差し伸べた手を見やってちょっと苦笑気味に微笑む。
「ああ……ええと、また?」
「ええ。また今晩もお会いできまして実に光栄です。よろしければ今宵も私に、踊りのお相手を勤めさせていただけませぬか。できますれば、そのまま一晩をともにいたしたく存じまする」
衣玖はちょっと古めかしい風に言った。厄神は迷うようなそぶりを見せたが、やがて首をかしげて微笑んだ。
「……ええ。そのように言っていただけるのでしたら、それでは、またどうぞよろしく……」
衣玖の顔を見て言うと、そっと手を差し出す。衣玖はその手をうやうやしくとると、手の甲にそっとかるく口付ける仕草をした。
そうして、その日の踊りが始まった。
この間と違い、今度の踊りは、二人が向かい合うところから始まった。これは、衣玖が彼女に提案してそうさせたのだったが、それを聞いたときの彼女の表情は、心なしか、ちょっと硬くなっていた。
人前で踊ることに抵抗を感じないたちなのは薄々気づいていたが、その実、彼女の内面は繊細で、気高いようだ。人前で失敗することは嫌いなのだろう。
衣玖は、その硬さを和らげるために、まずは自分からそっと会釈した。腕を身体にそって折り曲げて、胸に指をそろえた手を当てて、頭を垂れる儀礼的な仕草の礼である。
厄神はちょっと戸惑いがちにそれを見てから、自分もそっとスカートの両端をつまんだ。少し気取った感じの仕草で頭を下げ、会釈を返す。
(さて)
そうしあってから顔をあげ、お互いに歩み寄ると、衣玖と厄神は指と指をからめあい、ゆったりとステップを踏み出した。最初は、お互いの調子を確かめ合うように、かるいステップから始め、そこから徐々に調子を上げていく。
とはいえ、厄神も今回は出だしから、このあいだより思い切りのいい滑らかなステップを踏んできた。一度しか踊っていないとは思えないような、大胆さの感じられる足運びに、衣玖は思わずほう、と感心の声を漏らした。
(まるで、こっそり練習してきたようだな。いや、ひょっとしてしてきたのかな)
ちょっと緊張気味な彼女の顔を見ながら、衣玖はちょっと微笑み返した。たぶんそうなのだろう。
いくらなんでも、一度踊っただけでこつをつかめるとは思えないし、少なくともそれを反すうして繰り返し、上手くなるほどには、彼女の体はあのときの踊りに呼応していたようだ。
(うん)
衣玖もそれに答え、顎を引くと、今回は初めから自分も動いて、踊りだした。厄神の、水を飛び跳ねる蜻蛉のような、軽快で可憐な趣のある足取りに追いつき、自分もその傍らに寄り添って、すいすいと水面を飛び始めた。
それはそのとおり、ダンスフロアを舞う二人の動きは、まるで水辺に舞う二匹の蜻蛉のように、軽やかだった。そのあめんぼのそれのように滑らかな足取りは、踊り続けるほどに軽やかさを増していき、足を一つ、また一つ、とつくたびに、絨毯の床には見えない波紋が広がった。
厄神が、身体を開いてすそを舞わせ、ついでにそっと宙に手を差し伸べれば、衣玖は、その片方の手を以って支え、彼女の身体を優しく抱きとめた。そのままくるりと赤いブーツの足が踊りだして、自分の懐から離れるならば、あらかじめそれを察して、その回転がどこまでも続くように離してやってから、また懐に引き寄せて戻してやった。
もともと、どうやら少し気性の激しい性質らがあるらしいい彼女は、踊り続けるうちに、どうやっても衣玖の手から逃れられないのを少し不満げな横顔であらわしたが、それも衣玖があやすように機嫌を取ると、ちょっと澄ました顔でまた微笑んだ。踊りは続く。
やはりだ、と衣玖は思った。
(やはりだ)
やはりが。やはり、彼女の中にはもともと舞を心から楽しむような気性がある。
それが今、衣玖の腕を階段のようにして駆け上がり、きらきらと輝いてきている。
(――うん。いい)
衣玖はうなずいた。そこからさらに足を進めようと、誘うように後ろにステップを踏む。
そのときだった。ふと衣玖は、踊りを続けながら、なにかえもいわれぬ悪寒が背筋に走るのを感じた。
(?)
なにか、電気のような感覚が、びりりと首の後ろあたりに走ったのが分かった。内心で首をすくめつつ、一瞬怪訝に思う。
そして、次の瞬間、足が急につんのめった。がくりと。
(およっ――?)
衣玖は思わず心の中で言っていた。体が平衡を狂わせて、ぐらっと崩れる。
突如何も無いはずのところで、足がなにかに引っかかったような感じがした。そのまま完全にバランスを崩して衣玖は一瞬一回転するように回り、ほんの刹那、視界が天地左右を失った。
(うお、わっ)
衣玖は心の中で間抜けな声を上げ、次の瞬間、えらい音が耳元で鳴るのを聞いた。どこかに激しく身体を打ちつけたうえ、床に投げ出されたのが分かったが、絨毯のおかげもあり、それはたいした衝撃にならなかった。
がしゃん! がららんがしゃん、どがじゃじゃりん! じゃりん! と、会場中に響く勢いで、テーブルのひっくり返る音が響いた。一拍遅れで、音楽が中断されるのが聞こえた。会場が、一瞬、静寂に包まれる。そして、次の瞬間には小さくざわめきだしていた。
絨毯の上を、メイドが駆けていく足音が響いた。衣玖はようやく、そこで身体を起こして、自分の周りを包む不快な感触にもがいた。
「……およよ……うわ」
衣玖は思わずうめいた。会場がどよどよとざわめいているのが、やけに大きく聞こえる。
手早く走ってきた銀髪のメイドが寄ってきて、声をかけてくる。
「ちょっと。大丈夫?」
「ええ……。なんとか……」
衣玖はそれにどうにか答えた。ちょっと腕を上げて起き上がり、それから自分の有様を見やって、思わずうめく。
(うわぁ……)
衣玖は顔をしかめた。とりあえずまず見えたのは、袖口から肘にかけて、濃い目のソースがべっとりとはりついているところだった。
床についていた手の指先も、ワインとクリームが絡んでべとべとになっている。今日は少し化粧を施してきていた爪の間には、ちょうど手をついた先にあった肉片と、それにたっぷりかけられていたデミグラスソースの欠片がみっちりと挟まっていた。
(……わちゃあ)
衣玖は思わずうめいて、眉をひそめた。感触の気持ち悪さもさることながら、自分の服の有様を想像てしまうと、それだけでげんなりとした。
どうやらもうごまかしようが無いほどド派手に、テーブルの料理をまともにひっかぶったようだ。まるでへたくそな迷彩色のように野菜の破片や肉片がところどころでひっつぶれている身体を見下ろしつつ、、衣玖は、さしのべられたメイドの手を借りた。起き上がる拍子に、べったり濡れた感触のする尻の左かわがひんやりと冷たいのを感じて、また顔をしかめる。
デザートのアイスかなにかをふんずけたのだろう。スカートの生地だけでなく、なにか致命的な濡れ方をしているのが、素肌にじかに感じられる。
(これは下までいってるわよね……)
メイドの手を借りて起き上がりつつ、衣玖は思った。すべて見ずとも、下着までぐっしょりと濡れているのが容易に想像できた。
下が柔らかい絨毯だったので、どうにか食器の破片を被る事は避けられた。が、救いと呼べるかどうかは怪しい。
寄り添ってその様子を眺め回したメイドが、ぶしつけにならない程度に言ってくる。
「これじゃあ着替えないと駄目ね……怪我は無い? どこか打っていないわよね?」
「ええ、まあ、なんとか……」
「そう。それじゃあ、向こうに替えの服があるから、ちょっとこっちに来て。服を洗わないとならなわ。奥のほうで召し替えをして頂戴。――ヘレン。手伝って」
メイドは近くにいた妖精メイドに声をかけて、そのまま衣玖の傍らに連れ添わせた。他の妖精より身体の大きなそのメイドはどこから持ってきたのか、予備のテーブルクロスを衣玖の背中にかけるようにして、周りの目から汚れを隠してくれた。
二人のメイドの手で背中を支えられながら、衣玖はちょっと気持ち悪そうに歩き出した。
(あー、もう……)
退場する途中、立ち尽くしていた厄神のほうを見る。厄神は、なぜか固い顔で固まったまま、その場にじっと立ち尽くしたままでいた。
衣玖は少しその様子を妙に思ったが、間抜けな失敗をした気恥ずかしさのほうが勝っていた。衣玖はちょっと申し訳なさそうに笑って頭を下げた。
「どうもすみません……ちょっと間抜けな粗相をしてしまいました。なんだか、せっかくの夜をとんと台無しにしてしまったようでございますね」
「いえ――、あの――ごめんなさい――、私――」
厄神は、しどろもどろに言った。よく見ると、その顔色は青白く、衣玖はその様子を見つつまた妙に思って厄神の顔を見た。
やはり厄神の様子は、どこかしら少しおかしかった。何かを気にかけているようだった。
(なにかしら?)
衣玖は、内心で首をかしげた。厄神の様子をうかがいつつ、眉をひそめて思う。
(……なんだろうか。まるで、自分が原因で転んだとでも思っているような顔だな。私が勝手に転んだのだけど、ひょっとしてわからなかったかしら?)
衣玖は思った。なにか気の利いた言葉の一つも言おうかと思ったが、よく見れば、自分の今の様子はそれをするには、あまりにみっともないものだ。
こんな様子では、何を言ってもかっこはつくまい。しかたなく、衣玖はちょっと無難に会釈をして、そのままメイドに連れられて奥へと退場していった。
(どうか、お気になさらず)
一応そう言ったつもりだった。
しばし後。
帰り道。
衣玖は一人で歩いていた。服はすでに、館で借りたものから、あちこちに染みが残ったままの自分のものに着替えている。
(やれやれ)
衣玖は呟いた。メイドのすばやい措置があったとはいえ、服のところどころには致命的なものが残ってしまっている。
メイドからは、服ぐらい貸し出しするわよ、とは言われたのだが、衣玖はそれを遠慮してそのまま自分の服に着替えてきた。あのメイドの例の妙な能力のおかげで、服は帰る頃にはとっくに乾いていたし、綺麗に現れ、のりまでつけられ、正直、汚れを除けば、返す前よりもぱりっとしていたほどだった。
「珍しい生地で出来てるのね? 天界の素材なの? よくわからなかったから、お嬢様方の服と同じくらいの洗い方でやっておいたけれど……大丈夫だった?」
メイドはわりと興味ありげに言っていたが、衣玖としては別に問題ないので、そのままに問題ないと答えておいた。どうせこの服は、もともとたいそう頑丈で、たとえどれだけ激しい雨風の中を飛んでも、けして破れたりはしない材質で出来ている。
(まさかあんな服を着て帰るわけにもね……)
待つ間に着ていた服を思い出し、衣玖は苦く思った。てっきりメイド服か何かを出してくるものだと思っていたら、急に品のいい装いのドレスがずらりと並んだ部屋に案内されたのものだから、やや面食らったのだ。
衣玖にも着れる様なものを、と数着を手早く見繕って寄越されたので、思わず、こんなサイズのものを誰が着るのか、と質問してしまったほどだ。メイドが言うには、特に着る者はいないが、元々屋敷にあったので、そのまま保存してとってあるらしい。
メイド一人でそれを管理するのは流石に手間なので、年に一回、まとめて里の職人に預けるようにしているらしいが、いったいどこからそれほど余裕のある懐具合が出ているのかは謎だった。細かいことは気にしたほうが負けかも知らないが。
(お金持ちの考えることって分からないわ……)
天子が先に帰っていたのは、逆によかったかもしれない。あの御仁ときたら生粋の暇人であるから、他人の恥には敏感だ。
(へんな噂立てられたら嫌だものね……うん?)
ふと、夜道の先に誰かが立っているのが見えた。まだ館が近く、ほのほのとした明かりがまだ届いている中に、背の低い人影が、影を落として立っている。
人間、のようではあるが、こんな時間にこんなところにまともな人間がいるわけも無い。衣玖がそちらに近づいていくと、足音を察して人影がこちらを見た。
頭の大きなリボンの陰影を見て、衣玖は、それが誰なのかすぐに察した。厄神だ。
「ああ、どうもこんばんは」
「ええ……こんばんは……」
厄神は小さく頭を下げて応えてきた。衣玖は頭を上げると、ちょっと怪訝に厄神の顔を見た。
(こんなところで、なにしてるのかしら)
衣玖は内心で呟いた。この厄神の仕事というのは、たしか夜の夜中にこっそり人里を回って、厄を吸い取ることだとは、天子から聞かされている。
こんな里から遠い所で、何をしているのだろう。衣玖は内心で首をかしげた。
「……これからお仕事ですか? 大変ですね」
「ええ、まあ……その、さっきは大変だったわね。大丈夫だったの?」
「ええ、まあ。それほどでもありませんでした……さっきは失礼しまして、どうも」
「いえ……」
厄神はちょっと気まずげに言った。それから、館からの明かりで影がかかっていてよく見えないが、表情をちょっと迷うようにさせて、沈黙した。
「ええと、あのね……あなた?」
「はい」
衣玖は言った。厄神は、気乗りしないような口調で言ってから、ほんのちょっと言いにくそうにした。
「その、ね……。悪いのだけれど、今夜みたいなことは、もうやめて頂戴。いえ、本当に悪いけれど、できればじゃなくて、是非にやめてほしいの」
「……はあ。と、言いますと?」
「だからね、いえ……ごめんなさい。あのね、私はあなたとあんなふうに踊るのは、とっても楽しいわ。私は、あなたとああいうふうに踊っているのがとっても好きです。大好き。だから、あなたがどうこうというわけじゃないし、あのこと自体がどうこうというわけじゃないの。それだけはわかってほしいのだけれど――」
「ああ……なるほど。そうでしたか。踊りに誘うなということでしたか。すみません、一瞬、なんのことかと……」
衣玖はちょっとぼけた返答を返した。厄神はちょっと面食らったように、一瞬目をぱちくりさせて、
「……ええと。ええ、ええ。まあ、そういうことよ。そう、別にあなたがどうとか言うことではないの。私はあなたと踊っているあの時間が好きだし、できるなら、もう一度誘ってもらいたいくらいだわ。ここの館主さまも、どうやら私たちのことが気に入ったようだし、最近では、このぱーていというのがすっかり気に入っていて、よく催しているし……きっとまたこんなことがあったら、私たちはもう一度呼ばれることでしょう」
「ええ。そうですね」
「でも、もう一度、仮に求められたとしても、今度は私をあんなことに誘わないでほしいの。私も今度はきっと応えることは出来ないし……」
「それはなぜ?」
衣玖が聞くと、厄神はちょっと目を伏せてそらした。すこしうつむいた目線が、足元を泳ぐ。
「そのね、あなた――さっき、踊っているときに転んだでしょう?」
「ええ、みっともないところをお見せしました」
「いえ、あれはね、あなたのせいじゃないわ。私のせいなの」
「はあ」
衣玖は、ちょっと首をかしげる風に言った。
「といいますと、あなたが私を転ばした、というのですか?」
「いえ……正確に言うとそうじゃないのだけど、でも、言ってしまえばそうです。あのね、私は厄神でしょう? 厄神が何をするものかは知っている?」
「たしか、人間の厄を集めて、それを然るべき神神方に捧げるのでしたか? 立派なお役目ですね」
衣玖が言うと、厄神はちょっと首を振った。困ったような笑みを浮かべる。
「ええ、それはたしかに私の役目よ。立派かどうかはおいておくとしても、でもね、本当はそうじゃないの。それだけじゃないのよ」
厄神は言って、ちょっと寂しげな風に続けた。硝子玉のような瞳が、ほのじろい明かりを反射してきらめいている。
「厄を集めるというのは、私にとってただの役目ではないのです。それをしていなくてもそのままふわふわと生きられる、というようなことではなくて、それは、半分、私の種族としての習性のようなものなの。もうちょっと大袈裟に言うと、存在としての意義とか業みたいなものかしら。実際、私はそれほど意識していなくても、少し離れた所や、そのへんに漂う厄を集められるし、それを絡めとってしまうことだってできるのよ。そういう力があるの」
「はあ、……それと、私が転んだのとなにか関係が?」
「さっきあなたと踊っているときね、私は無意識に厄を集めてしまっていたの。あなたと踊っている最中、あんまり楽しくて……きっと夢中になっていたからだと思うけれど、とにかくそうして厄が集まっていて、あのとき私の周りには目には見えないほどの厄が絡め取られていたの。私が絡め取った厄というのは、私自身にはなんの影響も及ぼさないけれど、私の周りにいる者には、影響を及ぼすわ。あなたが突然転んだのも、そのためです。ごめんなさい、本当は私にも、あなたに厄が移ったのは見えていたの。でも、あんまり踊るのが楽しくて、どうしてもやめられなかったの」
厄神は申し訳なさそうに言った。衣玖は、はあ、と曖昧げにうなった。
「つまり、だものだから、それがあなたのせいだと?」
衣玖が言うと、厄神はうなずいた。首を振る。
「私、本当は我慢していたの。けれど、あんまり楽しくて……つい、そのことを忘れてしまって」
「……」
「本当にごめんなさい。私、あなたと踊るのはとっても楽しいの。でもそのことで自分が抑えられなくなるのは嫌なの。駄目なの。そりゃ努力でどうにかなるようなものなら私だってどうにかしたいけれど、こればっかりはどうしようもないの。私の本能みたいなものなんだもの。仮にも神様が、自分の都合やちっぽけな欲で、人間や妖怪に迷惑をかけるなんて、恥知らずもいいところだしね……私だって、本当に自分でもそんなのは嫌なの。いくらあなたと踊るのが楽しくたって、自分自身をどっかにやってしまうのは嫌なのね。だから、残念だけれど、もう私を踊りには誘わないで」
厄神は言うと、少し申し訳なさそうに笑った。
「今夜のこと、とても楽しかったです。誘ってくれてありがとう」
言うと、そのままちょっと頭を下げて、きびすを返す。衣玖は、なにも言わずにその背中を見送った。
厄神はそのまま止まる様子もなく、すぐに闇の中に消えていった。
「……」
しばらくして、衣玖もきびすを変えて、道を歩き出した。特に何も無い道を歩きつつ、今の厄神の言葉を思い返して、ふと考える。
(残念だけれど、か)
残念だけれど。
次のパーティーの日。
また天子が衣玖の下にやってきた。
例によって、また招待の話を持ってきたようだった。聞いていると、案の定、そのとおりのことを天子は言ってきたが、衣玖はそのとき、ふと日程を告げる天子の話を遮って言った。
「申し訳ありませんが、今回はご遠慮いたしますということで……」
と、控えめに、誘いを断る旨を口にした。天子はそれを聞くと、微妙な顔をした。
怪訝な目で、まじまじと衣玖の顔を見つめる。腰に手を当てたまま顔を寄せてくるので、恐れ気を知らない、見られていると居心地の悪い目が、直接衣玖の顔に刺さった。
「あん? 行かない? 何よ、急に」
「いえ……なにといいますか、ちょっとこのところは、天候のせいだか、気分があまり優れませんので。それで」
「ふうん? なんだい、あんなに楽しみにしていたくせにね。お前が気分優れないってことがあるのかね、妖怪のくせに?」
「まあ、妖怪にもそういうことはございまするよ」
衣玖が言うと、天子は眉をひそめた。顔を離すと、腕組みして見やってくる。
「なによ、もしかしてこの間なにかあったの? そういえば、帰ってきた後、なにやら気まずそうな顔をしていたっけな。ひょっとして、あの厄神となにか悶着でもあったのか? あん?」
「いえ、別に」
衣玖はそっけなく言った。内心ではそろそろうざったくも思っていた。
天子は、それを見て「ふうん?」とまたうなると、なにやらあごに手を当てて衣玖の顔をじっと見やってきた。何がそんなに気になるのか、目を細めてじろじろと見やる。
「ふうん? ……、ふむ。まあ、なんだ。あれだな。衣玖。お前の嘘というのは、けっこう分かりやすいんだな。本当、見ていてつまらないというか、それでいて飽きないと言うのか」
天子は、急にそんなことを言いつつ、じろじろとなめ回すように衣玖の顔を眺めた。衣玖は、なんとなくそれに不快な思いがしたので、さり気にちょっと目線をそらして、天子の突き刺すような強い目線を避けた。
天子は、その後もまだそれを眺めていたが、やがて飽きたらしく、あごに当てていた手を腰に戻した。衣玖の顔をまっすぐに見て言ってくる。
「じゃあ行かないのか?」
「行きません」
「本当に行かないのか?」
「行きません」
「本当に本当に行かないのか?」
「……行きませんったら行きませんよ」
「本当に本当に本当に行かないのか?」
「……行きません」
衣玖は固辞して言った。ふと、妙な気配を感じて天子の顔を見やる。
「……」
いつのまにやら、見やると天子は何やら意図のつかめないが、どこか嬉しそうなにやにや顔になっていて、こちらをじろじろと眺めているようだった。衣玖は若干気味悪げにそれを見やった。
「……なんですか?」
「あのな、衣玖」
「……はい」
衣玖は言った。天子は黙って笑いながら、こちらを見ている。
「……ふふん」
「なんですか……」
衣玖はややいらだって聞いた。聞かれると、天子は、取り澄ましたような鼻の先っちょをちょっと小さく鳴らすようにして、口を開いた。
「ふむ。いいや? なんでもないさ。ただね、お前はなんだか、妖怪のくせにやけに可愛いやつだと思ってね。叩きのめされたときにはどうとも思わなかったが、つい最近になってそう思ったんだよ。今、ふとそれを思い出してね」
「はあ。左様ですか……」
「いや、ね、私の見たとこ、妖怪なんてのはそもそも、どいつもこいつもろくでもない上っ面ばかりの奴さね。あの連中っていうのは、どいつもこいつも差異はあれど、日々何の考えもなしにただただ生きてるだけだし、内心では何考えてるのかも、人間なんかには皆目見当がつかないような連中だよ。それでいてそのくせ、たまにまともに心を動かすことといえば、人間を襲うか殺して喰らってしまうことばかりさ。ケモノとおんなじだよ。まったく下界の連中っていうのは、どうしてあんなやつらとなれなれしく付き合えるんだろうね。私には、とうてい信じられないよ。下界に頻繁に降りるようになった最近まで、私は連中のことがよく分からなかったが、つきあってみて、ようようそれがわかりはじめたよ。連中は、本当に心底醜くっておぞましい。私自身は、連中にはだいぶ嫌われているたちだけど、そのことでは別にどうにも思わないな。だって私もあんな連中のことは心底大嫌いだし、恐ろしいしね。正直言えば、あまりそばに近づきたくも無いんだ」
「左様ですか」
衣玖がそっけなく言うと、天子は得意げにうなずいた。
「左様よ。うん、でもまあそんなことはどうでもいいんだ。とにかく、重要なのは、たとえばお前はそんなろくでなしどもの中でもちょっとはましな奴らしいし、すくなくとも私はそれを気に入っているってことだな。お前がそういう連中の類なのを、十分承知していても、なおそれはそうなわけだ。だからこうやってちょくちょくちょっかいかけてるんだが。まあ、お前の頭じゃそんなこといっても、本当に理解するか分からんがな」
「……」
衣玖が黙り込んでいると、天子は手を振って続けてきた。顔はからかい調子だが、目はなぜかあまり笑っていない。
ふと腕組みすると、ブーツを鳴らしながら衣玖に近づいてきて、その顔を覗き込んでくる。その仕草がどこか気に障り、衣玖はちょっと眉をひそめそうになった。
「念のために言っておいてやるけどね、衣玖。お前がなにか面白いことや気持ちいいことをやりたいと思っているんなら、自分から動かないと駄目だよ。お前が心底楽しみたいと思うんなら、人のことなんか構ってちゃ駄目さ。気遣いや遠慮なんてのはね、損にはならないが、実はそれほど得にもならないものなんだよ。精々、損得があったとしたって、お前と人との間に明確な好き嫌いが生じるくらいかな? だが、まあそれもたいした問題じゃあない。私が見たとこ、それをすることで嫌われるやつっていうのは、元々明らかにそうなる素養ってのがあるからね。嫌われるやつはどうやっても嫌われるし、嫌われないやつはどうやっても嫌われない。そう、体質とか、あるいは才能なんて言い換えてもいいかな。まあ、たとえば私なんかは、明らかにそういう嫌われる素養を持った奴だ。そして、たとえばあのすちゃらか巫女なんかはそう言う素養は全く無い奴だね。そして、たとえばお前は――うん? どうかな? そう、私にはそんなこと分からないな。うん、分かるはずもないというのかな。お前のことなんか、そりゃあわからないだろうね。たぶん私以外の誰だってわからないだろうしね」
「すみませんが、何がいいたいのかわかりませぬよ」
「うん、そうだな。それは半分と、もう半分の半分くらいは本当かな。でも、残りは嘘だな。お前は、たぶんもう自分でそれを分かっているんじゃないかな。妖怪にしてはどういうわけだか、賢い奴だしな。わかるかな? そういう風に、他者に対して恥や遠慮というものを覚えるのは、そいつが賢い証拠というやつなんだよ。あるいは。お前は人間を食わないって言っていたし、ひょっとしてそのせいなのかな? 私は鼻が利くからな。いまだに人間を食って暮らしてるやつはお前みたいにいい匂いがしないし、近づくだけでも臭くて不快なんだ」
天子は言いつつ、にやにやと笑いながら、こちらをのぞきこんでくる。憎たらしい笑みだ。殴りたい。
衣玖は近くにある天子の顔から目をそらしたまま、その言葉を聞いていた。天子はそれを少し笑って、ふん、と鼻息漏らした。
「まあ、私はどっちみちどうでもいいことさね。それじゃあ、またね、衣玖。気が向いたらいつでもおいで。返事は保留しといてあげるからさ」
天子は言うと、きびすを返してその場から歩き出した。衣玖は、どことなくむすりとした顔でその小柄な背中をにらみ、うとましがるようにして見送った。
(何を小癪な)
小娘の分際でえらそうに。何様のつもりか、と衣玖は思わず思った。
まあいい。あの小憎たらしいじゃじゃ馬の言に付き合ってやる義理も無い。
衣玖はそう思ったが、その実、多少なりと気が動いたのも確かだった。
(……ふむ)
衣玖は考えた。そういえば、とふと思う。
そういえば、こうしてまともに考え事をするなど、一体いつ以来のことだろうか。数十年か、数百年か。
ふと、厄神の言葉が頭に思い浮かぶ。残念だけれど。
(残念だけれど、か……)
それは自分も同じことだ。そこまで考えて、ふと衣玖はあることに思い至った。
(そう、私も、それは同じことだ。残念だった。彼女と踊れなくなって残念だった。彼女はそれを聞いていなかった。私もそれに気がつかなかった。いや、気がついていたが、ねぼけていたのか)
衣玖はそんなことを考えた。そして、それから数日後、衣玖は天子に、やはりパーティーには出席する旨を伝えた。
後日。
会場。
「お手を拝借」
衣玖は言った。ひざまずいた姿勢で、厄神の顔を見上げる。
また紅魔館でパーティーが開かれる当日。厄神は、この日もやはり招待されていた。
「今宵もあなたにお会いできましたことを、至上の喜びと感じまする。このうえは、どうかまた、私めと一夜を共に」
衣玖はすらすらと言った。さしだした指先は、目の前でこわばった顔をした厄神の手を誘うように宙にうっそりと紡がれている。
「……」
厄神は一瞬、意味がわからないように衣玖を見下ろした。戸惑ったような目が、衣玖の姿をじっと捕らえて、湖面のように揺れている。
「踊ってはいただけませんか?」
衣玖は言った。厄神は答えなかった。
「……」
かわりに、その顔がだんだんと険しくなっていった。細い眉がひそめられ、衣玖を怒ったようににらみつける。
(怖い顔)
衣玖はその視線を受け流して、黙ってひざまずいていた。ざわついた会場の中はそんな二人の様子を全く気にかけていないように、話し声やいろいろな音で満ちている。
やがて、厄神が口を開いた。明らかに機嫌を損ねた調子で、衣玖をまっすぐに見下ろす。
「……あのね。あなた、このあいだ私の言ったこと聞いてなかったの? これはなんのつもり?」
厄神が言った。わざとすこし押し殺したような怒りを含んだ声は、こちらを拒絶しているようだ。
「……」
しかし衣玖は答えなかった。手をひっこめずに、じっと待っていた。
とはいえ、厄神はなかなか手を出してくれない。間が持たないようなので、聞き返す。
「このあいだ、というとひょっとしてあの話のことでしょうか? あの、あなたと踊ると、厄が集まってうんぬんとかいう。ならばこちらも言いますけれど、その厄が及ぼす影響とやらがあのくらいのことならば、全く問題ありませんけれど。だいたい、たかだかテーブルに突っ込んだだけですからね。私は、良くも悪くも頑丈なものですから、あの程度ではどうもなりませんし、服もまあ、洗えばどうにかなります。たいしたことではありませんね」
「それは本気で言っているの? 厄の影響というのが、そんなもので済むはずが無いでしょう。甘く見るのはやめなさい。あなたがあの程度で済んだのは、ほんのたまたまよ。ちゃんとそう言わないのは私も悪かったけど、次はあんなもので済む保障はないの。私はもう踊りたくないわ。悪いけれど」
「ですから、それに限らなくとも、たとえ何が起ころうと、たいていのことは平気だと思いますよ? 先ほども言いましたけれど、これでも私は頑丈ですので。正直、あなたが気にしているようなことは問題にならないようなことだと思います」
「そうじゃなくて……! 話を聞きなさいよ!」
「それに私が本当に辛いことがあるとしたら、それはもう二度とあなたと踊れなくなることなのです。たとい、この身にどのような災厄が降りかかることよりも、今の私にはあなたと踊れなくなることが辛い。どうかそれを分かってください。私はあなたと踊りたいのです。一度ならず、二度までもその愉しさを知ってしまったのですから、もう戻れない。ただ、心ゆくまで。最初からそう言っていたことに偽りはありません。私は、あなたと踊りたい。もっともっとあなたを見ていたい。いつまでも踊るあなたの姿を、一番近しいところで、共にありながら、いつまででも見ていたいのです」
「だから……!」
「だから、どうか、答えも聞かずに拒絶の言葉を口にするようなことはしないでください。本当は、私はあのときに、そのことをあなたに伝えようと思っていました。それでいて、伝えられはしませんでした。なぜならば、私のこの言い分というのは、ただの一方的なわがままだと分かっていたからです。あなたが哀しみにさいなまれるようなことを、自分のためだけに、あなたに押し付けたくは無いと考えていたのです。でもそれこそ手前勝手な言でした。傲慢でした。それはただの逃げです。何も言わずに離れるのはあなたから逃げている。私自身からも、また逃げている。私はあなたと踊りたい。あなたに踊るのをやめさせたくない。どうか聞いてください、この思いを」
「……」
厄神は衣玖を見つめ、やがていやいやをするように、小さく首を振った。衣玖は構わずに、うつむいたままで続けた。
「踊るあなたの姿が誰より輝いていることは、このホールの誰もが知っていることです。そしてその姿は今よりももっと輝いていくでしょう。私は、もう一度それを見たい。いいえ、一度といわず、幾度でも見たい。あなたと心行くまで踊るのなら今の私には、一夜だけでなく、千の夜と千の昼がきっと必要でしょう。たとえ、誰が見ているこのホールの中であろうと、誰が見ていない深奥の森の中であろうと、そして、たとえ雨風が吹きつけ、雷鳴の鳴る夏の夜更けであろうと、きっと、あなたとならば、私は踊っていられる。誰も届かぬところであなたとステップを踏むでしょう。この世に落ちた星の輝きを宝石と歌うのならば、私は今それを見つけたのです。星よりも太陽よりも、なお眩く明るく輝き照らすものを。私はあなたと踊りたい。あなたの優しく激しい輝きを見たい」
「……嫌よ……そんなの、だって……だって、私……」
厄神は、耳をふさいで衣玖の言葉を追い出そうとしているようだった。衣玖は少し口を閉じた。
「……あなたが楽しげにすれば、厄介な厄どもが集まってしまうといいますが、なに、あれだけ幸せそうなあなたの姿に厄が惹かれるなどおかしな話です。あなたの輝く意思ならば、きっとそんなものは跳ね除けられる。やってみなければわからないのではありませんよ。できないのならば、私と練習をしましょう。何度でも。踊るあなたの姿を見られるのなら、私はなにをも厭わない。さあ、どうかお手を。そうして、私にまた、あなたをエスコートする許しをください。あなたのたった一歩の歩みで、すべてはもう時計仕掛けのように回りだすのです。舞台は整っているのですから、ダンスホールはただあなたを待っているだけだ。さあ」
「……」
厄神は苦しげな顔をした。衣玖は瞳を伏せたまま、ただ待った。
やがて、指先がそっと触れた。跳ね除けるか、と思うような弱弱しい指先が。
そうしてひんやりとしたぬくもりが、衣玖の手を包んだ。衣玖は、それを握り返して引きよせ、静かに感謝の口付けをした。
そうして、また踊りの時間が始まった。壁際で、静かに向かい合って礼をしたあと、二人はそのまま歩み出て、踊りの舞台が待つ、ダンスホールへと続く道を歩いていった。
音楽が鳴り、人々が話す間を縫って、二人の羽衣とリボンが揺れる。
衣玖の手をとって歩んだ厄神の横顔は、どこかひどく悲壮で、まるで足元の鎖を引きずって歩く人のような顔をしていた。ダンスホールに出でていったん手を離し、互いに立った二人の体はまずは優雅な礼を交わしあう。
厄神の表情は、どこか重たげな色のままで、衣玖は胸の前で腕を曲げたような仕草で会釈し、厄神はスカートの端をつまんだ仕草で静かに頭を下げる。
一歩を踏み出し、互いの指と瞳とを、かるく触れ合うように絡めあう。足を鳴らして、互いの身体を寄せ合って歩調をあわせ、波のように揺れるステップをゆっくりと踏み出していく。
踊りが始まっても厄神の足どりは滑らかでありながらも、なお重たく、顎を上げてこちらに向ける顔には、憂鬱な影が落ちているようだ。衣玖の歩調に合わせて、ステップを踏むのにも、その一歩がどこか頼りなくぎこちない。
衣玖も、はじめは、それに付き合うようなそぶりをして、ゆっくりとステップを踏んでいた。厄神はそれに甘んじていながらも、衣玖を拒むような足取りをしていた。
(おやおや)
衣玖はちょっとあきれて思った。優しく彼女をつつみこみながらも、一方で、ふつふつと煮えたぎるような不満を覚えているのがわかった。
といって、その陰鬱な感情は、けっして表に出して現すことはできないものだった。どこか不機嫌な色をひめながら、衣玖は黙って穏やかな足取りを刻んだ。
(まったく、いつまでチンタラやっているつもりなの?)
衣玖は声には出さずに思い、彼女の細い指に、あやうく爪を立てそうにさえなった。だが、彼女の重たげなまなざしは、己では支え切れないような、大きな悲嘆に暮れていて、繊細な宝石のような指先は、落日の時の美しいまでに憂鬱な空の色に染まり、雲の陰を映しているように見えた。
それは、無下に傷つけるのにはあまりに忍びないようだった。少なくとも、衣玖にはとうていできそうになかった。
(こんなにも美しいものを――)
衣玖は思いながら踊った。彼女の桜色の爪は、ひらひらとまうたびにまるで巣の入り口で震える小鳥のように、はばたくことをためらっていた。
まるでもう飛び方を覚えているのに、こちらに下りてこようとしない臆病な雛鳥のようだ。泥にまみれるのをさえ恐れる、弱くて卑怯な心根の証のようだ。
(ああ、守ってあげたい――だけれど、壊してしまいたくもある)
衣玖はためいきをつき、彼女を優しくあやすようにしながらも、一方ではどうにもしようがない暗い感情が迸るのを抑えかねていた。どうやら、自分には、いくらでも彼女の親鳥の「真似」は出来るようだが、そのおくの心までは、絶対に真似することができないようだ。
仕方があるまい。もともと自分らリュウグウノツカイというのは、一生を、ただ目的もなくふわふわと、雲の中を泳いで過ごし、生きるような生き物だ。
そこには心と呼べるようなものはなにも無いのだ。あの空も、あの雲海も衣玖の舞い飛ぶ姿というのは、ただそれを映すだけの鏡に等しいものがある。
(――まったく)
まったく。彼女を見て思う。
まったく。
いつまでそうしているつもりなのか?
(怖いのはわかる。畏れるのもわかる。けれど、そんなふうにちぢこまっているようで、私の相手が勤まると思っているの?)
衣玖は、けっして忍耐強くない。だんだんと踊りに心が奪われ、昂ぶるにつれて彼女を壊してしまいたいような衝動が、いっそう沸き起こって来るのを感じる。
(ああ、そうだ、私は、あなたのそんな顔も見たい。だけれど、それだけでは満足できないのも確かなのだ。あなたにはどうしてそれがわからないのか)
あんなに何度も言ったじゃないの。私はあなたと踊りたいだけだと。ただ踊りたいだけだと。
心行くまで。――心行くまで!
憂い気なステップを装いながら、衣玖は思った。
(さあ、いつまでチンタラやっているつもりなの?)
衣玖は囁いた。声には出さずに。
あなたとならば、私は。そう、あなたとならば、私は。
(――もっともっと高いところへいける。あなたとならば、私は。それは私が連れて行くんじゃない、あなたが連れて行くのよ。こんなせまい場所は今すぐにでも飛び出して、高く高く、あの雲海の中を泳ぎ、雷の中でさえも、くるくると暢気に踊り続けましょう。私の心は空にある。そこですでにあなたと踊っている。気づいていないのはあなただけ。自分がどこにいるのかさえもわかっていない、あなただけだ)
衣玖は、わざと憂鬱な横顔をして、気の無い足取りでターンを決めた。厄神はそれを見て、ちょっと怪訝な顔をした。
彼女にはきっと、その意味がうすうす察せられただろう。
衣玖は思った。ただし、完全には分かっていないだろうが。
(本当にらしくない)
理解は出来なくとも、彼女の体はそのことに気づいているはずだ。衣玖は構わず、わざと憂鬱そうなステップを踏み、それに戸惑う彼女をまどろみのようにたゆたう、眠りと悲哀のステップの中へといざないだした。
(嫌)
彼女は、反射的にそれに抗うそぶりを見せた。衣玖はそれを汲まず、さらにより深い哀しみと憂いを織り交ぜた足取りで踊ることで、彼女の心をじわじわとかき乱した。
(嫌!)
彼女はかすかに首を振った。衣玖のことを拒絶するように、指を硬くして、表情をこわばらせる。
嫌。嫌。
(嫌、か)
衣玖は思った。彼女の様子に、かすかに心が痛むと同時に、唇の端に昏い笑いがこみ上げてくる感覚がある。
そのあいだにもステップは踏み続けられ、そこを拒む彼女の身体を捕らえて離さない。自分の踏むステップから逃れたくて、拒みたくて、嫌悪の色を混ぜてゆがむ彼女の顔は、至上のもののように美しく、衣玖はそれをずっと見ていたい思いに駆られた。
彼女の美しさというのはきっと、こういう人形のような顔にありありと浮かぶ、彼女の重たい苦しみと嘆きにあるのだろう。衣玖は思った。
そう、彼女は美しい。
(――そうね、あなたは美しい)
衣玖は心の中でつぶやいた。そう、今の彼女は、確かに美しい。
(そうね、あなたは綺麗)
そう、彼女は綺麗だ。たぶん、この夜のどの空に浮かぶ月よりも、誰よりも。
彼女の中には、きっとそこはかとない期待があったのだろう。たびかさなる孤独と悲しみに沈んではいても、嗚呼、ここから抜け出したい、いつか抜けだせたら、というかすかな希望と、誰かが自分にそうしてはくれないかという淡い期待があった。
そのわかりやすい様は、とても純粋で、無垢で、綺麗で、衣玖は思わず、もがく彼女の肩を抱き締め、ステップを徐々に変えていくたびに、自分の心がそれを思う様むさぼるような、どす黒い喜びを感じているのがわかった。
少しづつ、少しづつ。螺旋を描いて続く階段を、上るように。
あくまで哀切に沈んだ表情は変えないままに。悲嘆に暮れた者へなおいっそうの悲しみを突きつけて、さらに深い所へ押しやるるように。そして、それを直視する、激しい痛みを伴う歪んだ喜びをさえ、諭していくように。
(ああ、やめて――!)
厄神はそれに気づいてまた激しくむずがった。衣玖は、今度はそれを汲んで、それなら、と優しく身体を離そうとしたが、そうすると彼女はそれをもまた拒絶して、逆にしがみつくようにして、あくまでいやいやをするように、首を振る。
(嫌、離さないで! こんな所においていかないで!)
彼女は叫んでいた。衣玖はその言葉に従って、彼女を離さないまま踊り続けた。
まあ、仕方の無いことだろう。幾度にも渡る彼女の重たい悲しみは、彼女の心の奥底に、重たいうろとなって蓄積されている。どだい、ちょっと起伏をつけてゆすぶってやったり、こうして少しばかり優しく耳元でこんなことをささやいたくらいでは、それは、決してほどけたりはしないものなのだ。衣玖は、そんなことは期待せずに、ただ、持ち前の底意地の悪さと、かるく苛めてやるような慈しみをもって、彼女との時をただただ共有した。
彼女のより深く感じる部分を探るように、指で彼女の髪を愛撫した。辛抱強く、彼女の心と体とを、指で抉り、踏みにじって痛めつけるように。
やがて、彼女の様子に変化が生じた。あいかわらず、衣玖の胸にしがみつくようにしたまま、こらえがたい痛みに喘いでいたが、それがしだいに困惑した表情になっていった。
踊りのステップを踏みながら、その赤い瞳は、だんだんとどこか別な世界へと通じる扉を見いだし、見つめている。
その扉は、彼女のすぐ目の前に開いているが、まだその先は何も見えていない。ただ、そこに見えるのは、光ではなく、まだ夜が明ける前の、濃く影が落ちた暗闇のようなものだった。
扉をくぐることはできる。二人が踊っているのは、その扉のすぐまん前なのだから。
彼女は思わずそれに手を伸ばそうとし、ふとそこから目をそらし、苦痛と不安にまみれた顔を上げて、衣玖の顔をまっすぐに見上げてくる。
言葉には出さずに、瞳の交錯で語りかけてくる。
(――私は……)
踊りながら、彼女は呟いた。
(私は踊っても、いいの……?)
踊りながら、彼女は問い掛けてきた。その潤んだ瞳の中で。
踊ってもいいの? と戸惑いがちに言ってきた。
(私は、踊ってしまってもいいの? 本当に?)
彼女はかさねて尋ねた。目の前の衣玖が、その答えを知っているとでも思ったのだろうか。
衣玖は答えなかった。答えずに、ふと少しステップの調子を変えて、娘の周りを踊った。
とん、とん、と、二三歩、彼女の目を誘うように、意図の知れないステップを刻む。彼女は、怪訝な目でそれを追った。
衣玖は、その視線を誘うようにして、さらに彼女の周りを舞った。彼女は、はじめいぶかしげなままの目でそれを追っていたが、やがて、何かに気づいて、周りを見た。
(……?)
その目がふっと揺れ、ふと目に飛び込んできた鈍く輝くような空の色をさっと写しこみ、そして見開かれる。その瞬間に、彼女の足元が、がくりと崩れた。
(わっ)
厄神はそれでようやく、自分がどこにいるのか気が付いたらしい。目が驚きに見開かれ、足がつんのめる。
衣玖は慌てず、あらかじめ伸ばしていた腕で、それを抱きとめた。細いが力強い妖怪の腕に囚われながら、厄神は、吃驚した顔をめぐらせてあたりを見た。
いつのまにか、二人の姿は空の上にあった。ダンスホールも人々の姿も、どこかへと消え去り、静かにわたる風と雲が地平線を包んでいる。
衣玖の腕の中に抱きとめられたまま、鳥のように首をのばして、おそるおそる向こうを眺め渡した。完全に混乱しているようだ。
衣玖はそれを見ておかしそうにくすりと笑った。彼女はそれを聞きつけて、衣玖の目を見上げた。
衣玖は大丈夫だ、というように、彼女に目配せをしてやった。飛んでみなさいと、無言のうちに彼女に促す。
彼女は、それに了解の印を返したわけではなかった。意図は汲んだようだがためらっている。
そこへ衣玖が腕で促すと、やがて、おそるおそる、といった様子でしがみついていた手を解き、からめた指をゆっくりとほどくと、衣玖の胸を離れて足を踏み出した。
おそるおそるその体が宙に浮かんだ。まだ信じられないように、ぼんやり霞みがかかったような顔のままで、無限に広がる雲の海を見渡している。
(そんな……?)
唖然とした様子で呟く。衣玖はちょっと微笑んで、それをいきなりとん、と横から突き押した。彼女の体がいきなりの刺激で、あっさり揺れ、空中でつんのめった。
(おうわっ! わっ)
厄神は、ぐらりとバランスを崩しかけて、しかし、今度は腕を振り回すようにして、それをこらえた。いったん落ちかけて踏みとどまると、なんとか自力で空に浮かび、ぽかんとした顔で目を瞬いている。
衣玖はその顔を見て、横からくすくすと笑った。ほうけたような顔をしていた彼女が、少しむっとした様子でこちらを見る。
(ほら、大丈夫だったでしょう?)
衣玖は、ちょっと微笑みかけるような調子でその目を見た。厄神は、いきなり押されたことにむくれたのか、ちょっと怒ったような顔を返した。
衣玖は、それに悪戯っぽく微笑んだままそっと手を差し伸べた。羽衣が雲間の風にゆれ、厄神のリボンもまた揺らしている。
厄神は、まだ怒った顔のままでいたが、ちらりとそれを見ると、今度はちょっとすましたような顔になり手を伸ばした。ふたたび衣玖の手を取ると、また、とん、と空の上にステップを踏んで、今度は急に衣玖の懐に飛び込んでくる。
衣玖は風に羽衣がゆれるように、流れる動きでそれをいなして、彼女の身体を反対側へと通した。厄神はいったん離した衣玖の手をとると、今度は兎のように跳ねて、無邪気に回りだした。
白い雲間に足跡が刻まれるように、目にもとまらない鳥の速さでステップが刻まれる。衣玖は、ためらうことなく彼女の舞に応じて飛び込んだ。厄神が一瞬ステップを止め、くるりと回り、それから体を開いて衣玖の腕にかるくしなだれかかる。
衣玖はそれを彼女の腰で支えるようにして応じた。彼女はその支えようとした腕に一瞬だけ体重を乗せると、またすりぬけるように身体を起こし、雉が飛び立つように優雅に離れていく。
衣玖は、戯れるように、軽くステップを踏みながらそれに応じた。二つのステップとステップとが絡み合い、まるで二匹の蛇のように踊る。
回る、回る。くるくると、世界が回る。
(回る――)
衣玖は小さく言った。回る。くるくると。
目の前の、長いリボンを翻し踊る彼女の目には、もう目のまえの衣玖のことすらなく、ただ舞いのことしか映っていない。精巧な硝子でできたような目の中には、激しく過ぎる空の色が移ってはめまぐるしく変わっている。
はるか高い雲海の上を、手と手を取り合って、くるくると舞う。上も下も、左右四方も、雲も空も関係なく。踊り、踊る。
果てしない無限のダンス・フロアを矢のように駆け抜けて、どこまでも続く下のほうへとどこまでも降下し、ある一点を過ぎれば、またふわりと急激に上昇していく。意識がそのままどこかへと吹き飛んでいきそうだ。
(誰も追いつけない――)
衣玖は思った。そう、誰も追いつけはしない。
誰も、何者も自分らを追いかけられはしない。こんな高い空の上を、高く高く、どこまでも飛ぶ二人のつま先には、誰の指も手も届かない。
高く高い雲の上まで上りつめた彼女と自分は、全身で自分自身を誇示しながら、互いに一つとなり、それでいて二つであり、堂々と飛翔し続けている。彼女の緑の髪を飾るリボンは波のように舞い、衣玖の高い海に赤と映える羽衣は、幾度も輪を描いて翼のように舞う。その様は、旧い神の踊る姿のように美しい。それはうぬぼれでは無い。
今の彼女と自分ならば、人形のように繊細でいて、また大胆な彼女とならば、自分は舞いを通じて、さりし神々をも体現できる。彼女の気性は、元々、そうして人に見られ望まれることに特化しているのだ。
衣玖は思った。彼女の舞は、きっと慶びの舞いなのだ。
見る人を喜ばせ、踊る人を喜ばせ、そして自身もまた喜ぶ。彼女の舞は、まるで慈愛のようである。どこまでも神々の姿を人に与える。
その底辺には憎しみや嫉妬や悲しみ、そういった深い泥ねいのような感情が、濁流となってたしかにごうごうと流れている。それが今、衣玖の手という踏み台を得て、天に駆け上がる翼を得て、意思さえ離れて輝いている。
だから、どこまでも醜くて美しい。なによりも醜くて、美しい。
(お、と)
とん、とステップを踏むと、急にほどよい絨毯の感触が戻ってきた。衣玖は、それを確かめながら、彼女の動きにあわせて最後のステップを踏み、もう空が見えないことを目で確かめた。
いや、最初から空は無かった。自分たちはこのダンスホールに立ってずっと踊り続けていた。
(ああ、残念)
そう、もう空にいる時間は終わりだ。彼女の足も、自分の足も、もう地を踏みしめていて、神々しい輝きもどこかに消えうせかけている。
(ああ、終わりか。もっと見ていたかったのに)
一抹の寂寞を感じながら、衣玖は最後にくるりと回り彼女に歩み寄った。彼女も応じて最後のステップを踏み、もう一度衣玖の腕に収まった。
二人の動きが止まる。
音楽が止んだ。
不意にダンスホールに静寂が満ちる。そして、間。
衣玖は、ほんの少し汗ばんだ身体を覚ますように、吐息をついた。間近から、抱き寄せた彼女の薫りが伝わってくる。
(――まあいいさ。こういうのは、刹那だからこそ美しいんだもの)
衣玖はそっと笑った。そうして、不意に拍手が降ってきた。
絶え間の無い、長い長い拍手が。
「――、」
厄神は、それでようやく我に返った。驚きに目を見開いて、まだ視点のおぼつかない目をぱちくりとさせた。
衣玖はちょっとその様子を笑ってやると、そっと顔を寄せた。優しくささやく。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
言うと、厄神の顔が一瞬はっとしたものになり、それから、じっと衣玖を見た。息がかかるほど間近にいるその様子を見つめ、小さく首を振る。
「……あ? ……そんな……? どうして?」
呆然と呟く。小さい唇を震わせて。
「夢中、だったのに、あなたには、なにも、何も起こっていない……? そんなはずが……」
「なに、不思議なことじゃないですよ。だって、私たちはいままであの空の上にいたんですから。見えていたでしょう?」
衣玖は言った。厄神はそれでも首を横に振った。
「そんなの……いえ、いいえ、違う。私はここにいたわ。あなただってここにいた。そんなこと、わかっているでしょう? 空になんて行っていないわ。ただ、そう思っていただけよ」
「では、どうして私には何も起きていないんですか? あなたが踊って、厄が集まれば、私に害が及ぶのではなかったんですか? ほら、このとおりですが」
衣玖が言うと、厄神は不機嫌そうに眉を寄せた。
「いちいち嫌な言い方する人ね。そんなの知らないわよ。でも、でも、こんなの、ありえないわ……」
「だから、ありえなくはございませんよ。不思議なことじゃありませぬ。いいですか? あなたは、空にいたんですよ。たしかに身体はここにあったかもしれません。でも、さっきまでのあなたは空にいました。私も一緒にね。誰にも届かない高みにいたのです」
衣玖はにこやかに言った。まだ拒絶する彼女をなだめるように、そっと手を握りしめる。
「だから、厄なんて寄ってこられるはずが無いんですよ。あれらは、あくまで、あなたに連れて行かれるのをただじっと待っているだけのものだもの。自分では動けないし、空にも登ってこられない。だから、はるか高い空のかなたにいるあなたには、届きやしないのです」
衣玖は言った。厄神は衣玖の腕の中からその目を見つめ、やがて目をそらして、どこか遠くへと視線をさ迷わせた。それから顔をうつむけて、唇を震わせる。
「……そんな……そんなの」
厄神は苦しげに眉を寄せた。うつむいたままで、衣玖の手を握り締めてくる。
その手は震えていた。すがるような弱弱しい力を、衣玖は握り返した。厄神の指が、びくりと震える。
自分自身でも、握りしめていたことに気が付かなかったのだろう。首を振ってくる。
「ああ……私……それじゃあ、私……踊ってもいいっていうの? 踊ってしまってもいいっていうの? そのことに喜んでしまってもいいっていうの? 喜びを感じてしまってもいいっていうの……? 誰かと、誰かと、踊ってしまってもいいっていうの? だって、だって、そんなの……」
厄神は、信じられないように首を振って言う。衣玖は、それに応えなかった。代わりに、少し悪戯っぽく笑うと、また踊りに誘うかのように厄神の手を引いた。
厄神は、今度は戸惑うことをしなかった。ただ、一瞬愁眉を寄せると、思わず、といった様子で衣玖の手に抗うような顔を見せた。
が、衣玖はそれを読んでいたかのように足をとめ、わずかに前に出た厄神の身体を抱きとめた。意表を突かれた厄神の身体をかるく抱きしめて、その目の上にそっと唇を当てる。
「んっ……?」
厄神は、思わずうめいてくすぐったいような表情をした。衣玖はちょっと間をおいてから唇を離し、微笑した。
厄神は怒った顔で衣玖をにらみつけた。だが、それから、その表情を消すと、なぜかどこかが痛いような笑みを浮かべた。
「――もう」
厄神はあきれたように言った。なかば本当にあきれていたのだろう。
そうこうしているうちに、また曲が始まる。今度は、優雅で楽しい舞曲が。
二人は、どちらともなく、一度とめた足をふたたび動かした。またふたたび優雅なステップを踏み出し始めた。
ふと踊りだした二人から少し後方、給仕の手を止めてダンスを見ていたメイドに、魔法使いの恰好をした娘が、そーっと後ろから歩み寄った。ぽん、と肩を叩く。
「ん? ――なに?」
「やあ、瀟洒なメイドさんよ。お前って、たしか踊れるよな?」
「なによ急に? そうね、たしなみくらいなら踊れるけれど。言ったことあったっけ?」
「いや、適当に言ったんだ。でも、なーんだ意外と期待はずれだな。完全なメイドさんは何でもできないと駄目なんだぜ?」
「そういうあなたはなにか踊れるのかしら、普通のちびっこ魔法使いさん?」
メイドが揶揄するように言うと、魔法使いはちょっとしれっとした顔をした。
「ふむ、そうだな。私は、ジルバが得意だな」
「へえそれは私も無理ね。すごいじゃないの」
「ああ、すまん、実は嘘なんだ。まあこの際なんでもいいさ。それじゃあちょっと私に付き合ってくれないか?」
「あら、私に時間を要求するとはいい度胸ね……まあいいですわ。ちょっとの間でいいのなら、あなたに差し上げてやりましょう。それでは、お手を拝借?」
メイドは言うと、ちょっと気取った仕草でそっと手を差し出した。魔法使いの娘はちょっと難色を示した。
「おいおい、それじゃあ逆じゃないのか? 誘ったのは私なんだぜ」
「ダンスの申し出は女性からするものじゃないわよ。あなたはどう見たって男性って感じじゃないしね。さ、それでは自分からリードを誘うようなふしだらな雌馬さんには、たっぷりと躾をしてさしあげますわ。いらっしゃいな」
メイドはそう言うと、魔法使いの手を優しく引いた。そのまま軽くステップを刻むような足取りで、ダンスホールへと踊り出ていく。
「わ、待てよ……ととと」
魔法使いが少し拙い足取りで、メイドのステップについていく。二人が踏んだあとには、優雅ながらもどこか蛙の戯れを思わせるような、お茶目な波紋が尾を引いていった。
「……あれ、なんだあいつ。一人でぬけがけかい。まったく、美味しいところを狙っていくのは、性根があざとい証拠よね――えーと。あ。ねえ、あなた。――よかったら、私の相手をしてもらえます?」
ふと眉をしかめていた人形遣いの娘は、近くに立っていた緑髪の巫女服娘にごく自然に声をかけた。急に声をかけられた娘は、ちょっと目を瞬く。
「え? わ、私? ですか?」
「ええ、そう。……ええと。ね。まあ、こういう言い方をするとあれだけれど――踊る相手が、他にいないのでね。だからって、こうただ突っ立っているっていうのもなんだかしゃくでしょう? そういうわけで、もしよろしかったら、是非」
「はあ、ええと……えー……ええ。――私で、よろしければ」
緑髪の娘は、小さくうなずいて言った。人形遣いの娘は、ちょっとはにかむように歩み寄り、その片手を恭しく取り上げた。
「それでは、お手を拝借」
人形遣いの娘はそう言うと、緑髪の娘の手を取ってダンスホールへと進み出ていく。その硬いブーツと青い靴が通ったあとには、七色に白と青とのさわやかな風の色が入り混じった清楚で絢爛な花が咲き、ホールの上を彩った。
その後に続いて、ふとホールの片隅で声がかけられる。
「おやおや……これはこれは。ああ、さて、それじゃあそこの暇そうにしてるほうの巫女さん。私といっしょに踊りましょうか」
ふと横にたっていた赤いチェックの服の娘が、グラスに口をつけている巫女に声をかけた。巫女は、ちょっと眉をひそめた。
「なによ。いきなり何言ってるの?」
「いいから、黙って大人しくいっしょに来なさいな。あのね、知っているかしら? ダンスのときに誘われないで壁際に突っ立っているばかりの娘っていうのは、壁の花って呼ばれるものなのよ。で、私は壁の花になんかなりたくない。なんだかとっても地味じゃない? だのんだからね」
「……どこに咲いていたって花は花じゃないの。ま、でも、いいかな。たまには」
そういった巫女に歩み寄ると、赤い服の娘は、楽しげにその手を取った。ちょっとその手に唇を近づけて、くすりと笑う。
「それじゃあ、お手を拝借」
そう言うと、あまり気なさげな巫女の手を取って、ダンスホールへと進み出ていく。二人が歩み通るあとには、赤と緑と白の入り混じった優美で可憐な色の花が、どこか暢気なステップを踏んで、群れ咲いた。
「あらら。華やかね。うらめしい」
そう言って会場の端にいた亡霊の姫が笑った。その横では、友人のスキマ妖怪が、何の気ない目でダンスホールを眺めている。
「それを言うならうらやましいじゃないの? いや、あなたにはそれで合ってるんだろうけどね」
「そういやそうかしら。まあ、どっちみちうらめしがってるだけって言うのもよくないわね。ささ。あなたも立って立って」
「なによ。ちょっと、まさか、私に踊らせる気なの?」
「やあね。私の相手になってくれるのが他に誰がいるのよ。ほら諦めて重い腰を上げてたちなさいよ」
「べつに私じゃなくたって、あなたのところの可愛い半人娘がいるでしょうに。ほら、今はお酒も入っているしね。足がもつれたら、恥ずかしいですわ」
「ほんの雀の涙ってものじゃないの。それに、あの子の相手は私じゃないしね。いや、やっぱり私の相手があの子じゃないのか」
「あいかわらずわけがわからないわねえ」
「わからなくていいのよ。さあ、いつも面倒くさがりなんだからたまには動きなさいな。あなたって妖怪の割にそういうところがカタいのよね。さあ行きましょ。お嬢さん、お手を拝借」
「もう、しかたないわねぇ」
スキマ妖怪は気乗りなさげに言って、亡霊の姫に手を預けた。少し億劫そうに立ち上がったのを見つつ、そのついでのように姫が言った。
「ああ……それと、あの子の相手はあなたのとこの式にでもお任せしますね。どうぞよろしく」
「はいはい」
妖怪は返事をすると、後ろにいた式に向かって目配せをした。式は主人のほうを見ると、一礼してそれに応え、きびすを返して銀髪の半人娘のほうへと歩いていった。
ダンスホールへと歩みだす、妖怪と姫の足取りで、絨毯に不可思議な蝶の羽の様な、やわらかいステップが刻まれる。
「……ふうん。なんだ。ここの連中にも、意外と優雅なところがあったのね……」
その横ざまで、酒を含みながらダンスを眺めていた月の姫が、亡霊と妖怪の優美な華が咲くステップを見ながら、ちょっと鼻白んだふうに言った。それから、不意に隣に居た銀髪の従者を見て、声をかける。
「さあ、永琳。それじゃあ私たちもそろそろいきましょうか」
「おや。……踊るのですか? どうされたんです、こういうのはお好きじゃないでしょうに」
「ええ、お好きではありませんとも。でもたまには私だって、自分から好きでないことをするときもありますよ……あら、そういえば永琳はこういうのが苦手だったかしら? 面倒くさがりだものねえ。やっぱりかわりに鈴仙でも引っ張ってこようかしらね。年を重ねた人は足腰も重たいでしょうし……」
月の姫がいうと、銀髪の従者は胡乱な目つきをして、見返した。
「なにいきなりわけのわからない挑発しているのよ……そんなことしなくともちゃんと踊ってあげますわよ、嗚呼、我がいとしの姫君様よ。私の肉体年齢のことなら、どうぞお心遣いなく。あなたのそばにあるなら、私の足は兎の耳毛のように軽く、きっと月の上だって歩いて見せます。海と空の間を走り、星星の群れとも軽やかに飛び交いましょう」
「まあうれしい。でも、誘い方はきちんとして頂戴ね?」
「はい、姫君。それではどうぞこの私めに、お手を拝借」
銀髪の従者は胸に手を当てて礼をし、恭順を示すような姿勢をとった。月の姫はそれに微笑んで手を差し出して、そのまま従者に手を取られ、ダンスホールへと導かれていく。
二人の通ったあとには、月の光のような線が引かれ、月輪の恵みが影を含んでたなびいた。
「――お、おい、ちょっと。おい、こら。なにするのよ!?」
カメラを抱えて、ちょっと手持ち無沙汰にしていた烏天狗が、友人の河童にいきなり腕を取られて面食らっている。河童は、それを引きずるように歩きながら、強引な気のする笑みで言った。
「馬鹿、こんなところで写真なんか無粋だよ。それよりほら、私らもおどろ、おどろ。あんたもそんなすみっこのほうでじっとして人生損してちゃ馬鹿を見ちゃうよ」
「馬鹿って何よ。いや、ちょっと待って。私はね、踊りなんかできないってば。あ。あー、もー……」
嫌がる烏天狗の腕を引いて、友人の河童が、ダンスホールに踊り出ていく。優雅なステップの花咲く中に、弾頭の様に首を突っ込んだ二人組が、元気な花を炸裂させる。
「うーん。なんてこった。これじゃあ私が大人しくしているわけにはいかないな。よし、パチェ。私たちも踊りましょう」
「嫌」
「おう」
魔女が即座に言うのに、吸血鬼は若干むくれつつ、しょぼんとなった。ワインにちょっと口をつけて、ブツクサ言う。
「なんだい即答かよ。友人の冷たさが辛いな。あーあ、私、パチェはなんだかんだ言っても優しい奴だと思ってたんだけどなー失望したなー」
「いいから素直に門番でも呼びなさいよ……私が踊れるわけ無いでしょうに」
「ちぇ。しかたないな。――おーい! 美鈴! お前――って、おいバカ。なんでお前、もう踊っているんだよ? おい、美鈴!」
「えー? あ、レミリア様。なにかおっしゃいました?」
呼ばわった吸血鬼の声に、向こうで踊っていた赤い髪の娘がくるりと振り向く。「わ」と、弾みで一緒に踊っていた、仏天のような服を着込んだ娘が、振り回されるようにちょっとたたらを踏んだ。
「あ。あー。すみません。――あ。いやあー、ごめんなさいね。もう少し早く声かけてもらえればよかったんですけれどね~。もう声かけてしまいましたので、残念ですけれど」
そのまま、強引に立て直すようなステップで周り、踊る娘を引っ張っていく。華やかさはあまり無いが、とん、とん、とん、と一歩一歩がまるで舞いのように見える力強いステップで、おっかなびっくりな娘の立ち姿をぐいぐいと引き上げていく。
「どうやら、見事に乗り遅れたわね。あきらめなさいなレミィ」
「うう。使用人がみんな薄情すぎて辛い……。……なんだい、見れば咲夜のやつも、いつのまにかちゃっかり踊っていやがるし。あいつら揃って主人の私には一言も無しかよ……」
「泣くんじゃないよ。――ほらケーキ半分分けてあげるから」
「ああ、やっぱり持つべきものは使用人より友人だな……愛しているわパチェ」
「気持ち悪い。減点ね。没収」
「ひゅいっ!?」
吸血鬼が悲鳴をあげて、自分の分のケーキまで取り上げられる。
「あっはっは、いや、こいつはいい華だね。私らも踊るかあ? 勇儀」
涙目で魔女に罵詈雑言を浴びせている吸血鬼の少し向こうで、二本角の鬼が言って笑う。横の一本角の鬼が、それにちょっとたしなめ顔で笑った。
「はあ? 馬鹿だねえ、大将、空気読めよ。私らが踊ったらせっかくの華がみんな潰れて台無しになっちまうだろ。あんたは大人しくしときなよ。踊るアホウに見るアホウさ」
「まあそれもそうかね。お。いやまてまて。ちょうどあぶれてるやつがいるじゃないの。……行って来る」
「あらら……ほどほどにしておきなよ?」
やれやれと言う調子の鬼に見送られ、二本角の鬼はひょいひょいと会場を歩いて、壁際の黒い帽子に近づいていく。
「おーい、そこのおっ嬢さん♪ 私と踊らないかしら?」
乗り気な鬼が、やけに軽い語調で言う。壁際で気の無い様子で踊りを眺めていた天人娘は、びくりとしてそっちを見ると、とたんに迷惑顔になった。
「うわ、あんたかよ……いえ、いいです。せっかくのお誘いは嬉しいですけれど、謹んで遠慮いたしますわ。いいからどっか去ってください」
「つべこべ言うんじゃないわよ。どうせ相手もいないんでしょうが? まったくお前はそうやって、なんでもかんでもすぐつまらないつまらないといって怠けるのが一番いけないのよ。さあさ、きなさいきなさい。お姉さんがたのしいこと教えてあげようねえ」
「いてえ、いてえ、ちょっとひっぱるなって! 大体、私は踊りなんかね……」
そうして小鬼に強引に連れ込まれて、嫌がる娘が、ダンスホールへと踏み出していく。二人の刻むステップは優雅さとは程遠い、ずいぶんでこぼこしたものになった。
「いやあ、若い連中は実に楽しそうねえ。諏訪子。私らも踊ろうか?」
会場のもう一方にいた山の神の一方が言うのに、もう一方がグラスに口をつけて、そっけない顔を返した。
「はー? いい年こいて何いってんのよ。いやよ」
「年寄り臭い奴ね。おや、なんだかあぶれているのがいるな。誘ってみるか」
「あんた踊りなんか踊れたっけ?」
「そこはまあ神頼みかね」
「しょうもないことに神力使うなよー?」
「やあ、そこのお嬢さん。よかったら私と踊ってくれる?」
「え? え? ――私?」
声をかけられた兎耳の娘は、見慣れない山の神の顔に、若干人見知りな目を向けた。
「ええ、なんだかあぶれて入りそこなっちゃってね。うちの相方は薄情だから踊ってくれないし」
「いや、あの――」
「イナバ。踊りなさい。そうやって突っ立ってても惨めなだけよ」
「そうよ優曇華。師匠命令よ。踊ってきなさい」
たまたま近くにいた従者と姫が踊りながら言ってくる。兎耳は、まずます情けない顔をした。
「そんな……うう、なんでこうなるの」
「ささ、お手を拝借」
むずがる兎耳はぶつくさ言いつつも、山の神に連れられてダンスホールへと踏み出していく。
「強引だなー。お。なんだ。あぶれてるのがほかにもいるじゃない……それじゃあ私も踊るかなと」
山の神のもう一人が言って、隅であぶれていた黒い帽子に白っぽい髪の妖怪少女のところへ近づいていく。
そうして、会場中に多くの花が満ちた。無数のステップを踏んだ足が、まるで花びらのように散って絨毯の上を飾り立てた。
紅白の巫女と、笑顔の花好き妖怪が暢気にゆったりとした足取りで踊り、銀髪のメイドと背の低い金髪の魔法使いが、その横で軽快にどこか油断のならない足取りで踊る。背のすらっとした金髪の人形遣いは、緑色の不可思議な色合いに輝く髪の娘と慎ましやかに踊り、その横では、金色の髪を豊かに広げた背の高い、あでやかな妖怪が、ふわふわとした蝶のような亡霊の姫と、優雅に優しげに踊る。
青い髪の山の神に引っ張られるように兎耳の娘がぎこちなく踊り、黒の髪の姫と銀の髪の従者が、ゆっくりと静かに永劫のようなステップを刻む。青い衣装に金色の髪の山の神と、黒い帽子に白い髪の妖怪少女が楽しく陽気に踊り、転がるようにかろやかに、自由で奔放なステップを刻む。
ちょっと頼りない顔をした白髪の娘が、小柄な身体を不器用に動かし、背中に金色の尾を揺らした娘に手を焼かせている。海兵服の娘と踊る、ネズミ娘の嫌そうな足取りが、赤い髪の中華妖怪と踊る、泡を食ったような仏天服の娘が、男装めいた僧服姿の尼と踊る、不可思議な髪の色の大魔法使いが、二本角の大鬼と踊る、青い髪の天人くずれが、次々と入り乱れ、踊る。数知れないステップが刻まれ、ダンスホールを埋めつくす。
踊りの華がいくつも咲き乱れ、会場中が華やいだ。誰もが笑っていた。妖怪も、厄神も、吸血鬼も、メイドも、巫女も、魔法使いも、魔女も、亡霊も、誰も、彼も。
華やかな音楽はいつまでも続いた。くるくると回る花の踊りは、ダンスホールを所狭しと埋め尽くして咲いていた。
あでやかな花の舞の上には、いくつもの笑みがたたえられ、幸せそうにくるくると回っていた。その中で、誰もがいつしか、穏やかに笑っていた。
まあ、そうしてこの後、雛が無意識に集めた厄を衣玖が透過して周囲に散らしたものが会場中のダンスパートナーたちに降りかかり、テーブルというテーブルが盛大にひっくり返るのだが、それはまた別の話である。
おことわり
※本SSはジェネリックに上げるには多少容量が過ぎているようにも見られますが、一応こちらに上げた理由としまして・東方キャラでやる必要性が感じられないことと、・キャラが原作からだいぶ乖離していること、また、・作者自身が好みの話として仕上げるために意図的にそうしていることなどがあり、それらのことから無印には上げませんでした。コメントいただく際はご了承ください。容量云々等に言及するのは規約違反になりますので、ご遠慮ください。
丹念に書き込まれたダンスシーンがすごかったです。
舞台を観ているような台詞回しも、印象的でした。
タイトルから、オチの存在は感じていましたがwあんまり解決してないw
無粋ながら、最後に誤字報告を。
・それはもう二度とあなたと踊れなくなることなnです
・ゆっくりよステップを踏んでいた
・腕煮一瞬だけ体重を乗せると
ちょっと読みづらく感じました。説明文がびっしりしてるからかなぁ。
依久さんのしゃべりが好みです。
誤字?報告
天使はちょっと眉をひそめて、
天使→天子
借りてきていて
→借りてきていた
ダンスの所が印象的でした、とても良かったです。
ダンスシーンの緻密な描写は素敵ですが、それ以前にも長い描写が多くて冗長に感じられました。
描写の細かさにメリハリがあればもっと読みやすかったとおもいまする。
というツッコミが些細になるぐらい、お話を堪能させて頂きました。
タイトル見てコメディだと思ったのに、
こんな華やかな舞踏会にめぐり会えるなんて!
見ていて面白かったです。素晴らしいものだと思います。
本当に上手いですね。
この話を幻想郷でやりたい!って思ったなら
必然性なんかどうでもいいと思いますよ
それはともかくダンスかあ
誘われて何だかんだで答えきれるのが良い空気だなあ
読み終わった後でタイトルを見返して納得。
良い
衣玖さんの誘いに、雛の揺れる感情…
いやぁ、良かったです。