地霊殿には中庭がある。
居間に隣接し、広さ十歩四方程で小さくもないが大きくもない場所だ。
ここには滅多にペットも入り込まない。おそらく、陽も射さないため湿度が高く、入るのを躊躇わせる空気が混在しているためであろう。
それでも地霊殿の主、古明地さとりは此処が好きだった。
いつもの透き通る空色の服を揺らして、さとりは如雨露(じょうろ)を右手に携えて庭先に現れる。
庭は石畳で広げられ、さとりが一歩進むごとに足音はぎこちない音楽のように響いた。
この場所には庭をぐるりと取り巻くように花壇がある。さとりが気に入っている要因がそれだ。さとりは、この『コ』の字型に広がる花壇に様々な植物を植え、楽しんでいる。といっても、太陽の光があまり届かないこの暗室では蕾をつける事、ましてや、花を咲かす事は叶わない。それでも偶にひょっこりと芽を出してくれる花は、ペットの面倒を見ている時とはまた違った多幸感があった。
「さて、昨日はクリスマスローズが顔を覗かせてくれたんでしたね」
茶色の土に一点の緑色がある。先日、芽を出したばかりで葉もまだ二枚ほどである。それは、日光が無いため、本来の緑色が薄れてしまっていた。
弾むような声が庭に広がる。
「今頑張ってくれているのは貴方だけですね。さ、とりあえず水をやらねば」
日に当たらず、地底に潜伏するような生活を送るさとりの肌は陶磁器のように白く、枝のように細い。そんな腕で並々と水の入った如雨露で水をやるものだから、時々、如雨露の注水口から水がこぼれてしまっていた。
パシャパシャと土が湿る音がさとりの鼓膜を揺する。
「先ずは蕾をつける事が目標ですね」
芽は出るがそこからが駄目だ。いくら根を張り、葉を成しても蕾まで育った事がないのだ。さとりも土壌を替えたり様々な工夫を凝らしたが、どの方法でもさとりの世話から逃げるように枯れたり、腐ったりしてしまう。
「また明日、様子を見に来ますよ」
妹が第三の瞳を閉ざしてから、すっかり増えてしまった独り言にも、さとりは気付かずに扉を閉めた。
□ □ □
蒲公英の綿毛が風と遊んでいた。自分の意思では進めない綿毛は風任せに地上を漂う。今、その中の一つが黒い鍔広の帽子に着地した。
古明地こいしは太陽の光に目を細めていた。
(どこだろう、此処)
地に伏したような意識の中、こいしも風任せにふらふらと漂っていたのだ。
周りを見渡せばひたすらの木々。次いで、こいしは自分が石造りの階段に立っていることを把握する。その階段は太陽を目指すかのように高く、長い。数を得ようとするなら日が暮れてしまうだろう。
(ま、いいか。……あれ、いいんだっけ)
瞳を閉じてからはこの調子だ。自分の中で正誤を決められない。
(何しに来たんだっけ。あー見たいもの……見せたいもの? が、あったような)
拾い出した記憶も、深い無意識の底に沈んでいる内にふやけてしまっているようだ。
(さて、どうしようか)
その時、覚醒しきれない意識の中で、こいしは一迅の風が流れた事を感知した。枝葉が揺れ、帽子の上の綿毛が再び宙に逃げる。
振り返れば石段の上に人影。自然に溶け込むような鮮緑色の髪を持つ少女がこいしを物珍しげに見下ろしていた。
「村の方でしょうか? 女の子一人で来ては危ないですよ」
妖怪が居ますしね。と、続ける少女は巫女装束に身を包んでいる。
どうやらこいしは渦に巻き込まれるように妖怪の山に迷い込んでいたようだ。
「しかし、その信仰心は見上げたものです。ここからは守矢神社の風祝、東風谷早苗がお供致しましょう」
「私は何も信じてなんかいないよ」
「おやおや、それはいけません。信じる事が唯一無二の救いなのですよ。八坂神の威光に縋ってご覧なさいな。貴女の心にも必ず安寧が訪れますよ。ついて来てください」
「……」
こいしは途方に暮れる。どうやら参拝客に間違われているようだ。
(心……ねぇ)
いつからだったか。こいしは自分の心に疑念を抱いていた。いつでも何かを求めるように心臓は自分を打ちつける。それは自分に早く気づけと、何らかのサインを送っているような気がしてならないのだ。
考えるのが面倒で、いっそ止まってしまえば楽なのに、とか考えた事すらある。しかし、こいし自身も上手く言葉に出来ないが、それは『嫌』な事ではないような気がした。
それでも自分の心の内に正体不明の気持ちが居座っている事は、些か心地悪い。まるで腹の中に蛇を飼っているような気分だ。
信じる事でその気持ちが判明するとは思えなかったが、少し、興味が湧いた。
「ささ、此方へ」
だから、という訳ではないが、こいしは早苗の背を追う事にした。
蒲公英の綿毛は風には逆らえないのだ。
□ □ □
枯れていた。紛う事無く枯れていて、完膚無きまでに枯れていた。
先日芽を出したばかりのクリスマスローズの葉は土を目指すようにしなだれている。
何度目か判らない溜め息を混じらせながら、さとりはぼやく。
「貴方はまるで私の妹のようですね。私から逃げるように枯れて、私を置いて去ってゆく」
その声は決して憤怒ではない。慈愛と諦観の混じる呟きであった。
再び枯れたクリスマスローズに語りかける。
「私は貴方に咲き誇って欲しかった。もしかすると、それは私の独り善がりだったのでしょうか? 貴方は自ら枯れる道を選んだのでしょうか? ……生憎、植物の心は読めないのですよ」
一握り、土を掘る。その土はまだ瑞々しく、触れた所からさとりの手を汚していった。
「水のやりすぎでしょうか」
さとりには園芸の知識は無い。この言葉は完全な当てずっぽうである。それでも、さとりにはそれが随一な答えであるような気がした。
「こいし……」
さとりは庭の草花に己の妹を重ねていた。
自分が係われば必ず枯れる。自分は係わるべきではないのでは、とも考えていた。
それでも
「いつか……貴女と共に花を見たい」
と、嘆声するのだ。
こいしの形はこいし自身が決めることであって、自分が介在する余地はない。自分がこいしの形を決める事は、脆弱な卵を練るようなものである。それは柔く、儚く、そして脆い。決して触れてはならないのだ。
それでもさとりは願わずにはいられない。こいしの第三の瞳が開く事を。いつか、この庭の満開の花を共に見たい、と。
全ては自身の妄念であると知りながら。
□ □ □
「お前は植物のような存在だな」
開口一番。神様はそう宣う。
胸元の鏡、背の注連縄が印象的な威風たる姿は紛う事無く、神の顕現であった。
「こいし。人で在りたいなら対であることを努々忘れてはならぬ。妖怪も同義。歩行の二。男女の二。善悪の二。生死の二。……お前はどちらの思想も持たぬ」
だから、名前を知られていても何の疑念も抱かなかった。
神様は何でも知ってるんだなぁ。その程度である。
そんな事より、こいしは既に話に飽きていた。神のお話しというのは難しい。このまま瞳を閉じて、沈むように眠ってしまおうか。
ぼんやりとそんな事を考えていたその時、次の神の一言に、こいしの心臓は跳ね起きる。
「時にお前には姉が居るとか」
「……」
改めて自分の心臓が何を思って動いているのか疑問に思う。
何故姉に関わる総てに、自分の心は激しく振動するのか。これはやはり自分への何らかのサインなのか。
「初めて反応したな。姉への慕心は自我を排しても根強く残っている訳か」
「……」
神様はこいしに親しげに笑いかけた。
「これを持って行くが良い。なあに、遠慮はいらないさ」
懐から小さな包みを取り出し、こいしに握らせる。
手を開いて確認すれば、若草色の小さな巾着袋である。空気のように軽く、中に何かが入っている感じはしなかった。
「開けて、見てご覧」
言われるまま袋の口を開き、中を改める。中にはゴマ粒以下の大きさの種が二、三十の数程入っていた。手に乗せても気づかない訳である。
「願いを叶える魔法の種、さ。お前の見たかったもの、それと見せたいものの両方が詰まっているよ。地底のお嬢さん」
「……」
それだけを聞くとこいしはさっさと立ち去ってしまった。話は終わった、とでも言いたげな態度だ。
「おや、忙しないねぇ。話はこれからだと言うのに」
意に介せず、神様はかっかと笑った。
「神奈子様」
早苗が襖を開き、間に入ってきた。ばつの悪そうな面持ちである。
「すみません。里の子かと思ってました。まさか地底の妖怪だとは……」
「ん、構わないさ」
「あの……神奈子様はどうして無償で手を差し伸べたのですか」
「神だから……っていうのもあるけど、地底にはエネルギーの件で世話になってるし、サービスさ。それにな……」
「それに?」
「楽しそうだったからな!」
「神奈子様にギリシャ神話は似合いませんよ」
早苗は神奈子が天使の羽を伸ばし、恋に落ちる金の矢を構えている場面を想像したのだった。
□ □ □
鬱々とした空気が居間に漂っていた。
いつもは賑やかなペット達は遊びに行ったのか、時計の針の単調な音が気を滅入らせる。
さとりは長方形の机に突っ伏してぼんやりとしているようだ。
「あー。今日はもう、やる事ないしどうしますかね。クリスマスローズも枯れてしまいましたし。……こいしはどうしてますかねぇ」
さとりは何かをしていないと、自然にこいしの事を考えてしまう。あの時ああしていれば、とか、こうしておけば良かった、とか大体は過去に対するIFで生産性はなかった。
しかし、今日は珍しく現在のこいしの様子が気になっているようだ。
「また地上で陽向ぼっこでしょうか。そんなに暗い所が嫌なんでしょうか。地上に居ても光が眩しくて瞳は開けないでしょうに」
第三の瞳を開いていて後悔した事はない。日々をそれなりに楽しんでいる。
さとりはペット達が好きだ。心の瞳で見ると、その無垢な心が淡い光を放つように見える。その光にさとりは強く惹かれるのだ。
勿論、良いことばかりじゃない。地底にも心無い者はいる。いつだって、その酷たらしい心の火炎はさとりの瞳を焼きつける。いや、だからこそ、ペット達を始め、馬鹿正直な鬼達や、橋姫の心遣い、土蜘蛛の心援などが光輝くのだ。
さとりはこいしにそれを知って欲しかった。
「瞳を閉じていればそんな事も気づけないでしょうに。楽しさも辛さも瞳を逸らし続けていれば、それは死んでいるも同義ですよ……」
居ないはずの妹に話し掛ける。しかし、今のさとりには、まるで机の向かい側でこいしがうんうん、と頷いている気さえした。
頭を振る。
また自分勝手な考えをした事を悔いているのだ。
こいしの在り方はこいしが決める。自分は、ただ狂おしく悩んでいればいい。そう決めた筈なのに。
「はぁ」
溜め息が自然と出る。
その時であった。何か軽い物が落ちる音がした。さとりは涙に滲む視界を拭いながら音がした方に目を向ける。
――そこには若草色の小さな巾着袋。それがさとりと同じ机に鎮座していた。
はて、先程掃除をしていた時にこんな物はあっただろうか。そう思いながらしげしげと見つめる。
「明るくて綺麗な色。縫い目が見えませんね……」
そういう縫い方をしているのだろうか。なんて考えながら何気なく巾着袋を開いてみる。
そしてさとりは驚嘆する。
巾着袋には花の種のような物。そして白い綿毛が一つ。蒲公英の綿毛だ。
「こいし……?」
強い日光を必要とする蒲公英は地底で咲く事は叶わない。となれば、この綿毛は地上から持ち込まれた物に相違ない。
さとりにはこいししか考えられなかった。
「……ありがとう、こいし。また、頑張ってみます」
やはり、居ないはずの妹に感謝を告げる。でも、さとりには判っていた。いや、気づいていた。見えずとも側に居て自分の心をそっと支えている妹の存在に。
黒い小さな種は何の花だか判らなかったが、今一度、最初から育ててみよう。
最初の鬱々とした空気は既にさとりの中から廃していた。それ程さとりにとって、こいしの存在は大きいのだろう。
翌日。植えた種はなんと一日で蕾にまで生長した。それも植えた種、三十程の全てがである。
人妖の界では有り得ぬ生長速度に戸惑いはしたが、稲穂のように重たい頭をもたげる蕾は、こいしが持ってきてくれたという事も相まって、今までのどんな事物よりもひたすらに嬉しかった。
蕾の甘いキャンデーのような香りに目を細める。
「ああ、初めて蕾になりましたね。この時をどんなに待ち焦がれていた事か」
一面の蕾畑にさとりの頬は緩む。
「ようやく努力が報われた気がします。ふふっ、これならこいしと花を見る日は近いですね。……なんて欲張ってはいけませんね。ふふふ」
大きな喜びに普段は滅多に口にしない冗談を呟いた。今のさとりはまさに有頂天。喜びは計り知れない。
普段は冷静沈着でクールな地霊殿の主の姿は、この時ばかりはただの笑顔の似合う可憐な少女であった。
□ □ □
(あれ、此処どこだっけ)
薄暗い部屋のベッドの上。何となく見覚えのあるような低い天井に、こいしは覚醒していく。
(ああ、私の部屋か。久々に帰ってきたのだっけ)
気づけば無意識に移動しているのも慣れっこだ。移動中限定の記憶喪失は案外、ワープのようでこいしにとっては愉快だった。
身を起こし、辺りを見渡す。
箪笥やベッド。棚の上の花瓶。滅多に帰らないこいしの部屋は殺風景を絵にしたようだ。
(うん? ポケットに入ってた種がない。どこやったっけ)
スカートのポケットにあった巾着袋がない。布団をひっくり返したり、服をはためかしてみたが特に見つかる様子もない。
(まぁ、いいか)
こいしは物事を深く考えるのが苦手だ。ポジティブとも言えるが、これはある種の『逃げ』だ。この思考回路は自我の薄い無意識下における副産物でもあった。
しかし、この場合は仕方なし、である。願いの叶う種だ、なんて言われても眉唾ものだ。貰った相手は神様であるが、神に対する信仰の無いこいしにとってはそれも意味を成さない。よって、こいしに種を無くして慌てる必要はないのである。
(あれ、お腹空いたかなぁ)
頭の中に種の存在はもう無い。
そういえば最近何か食べた記憶が無いなぁ、と自分の部屋を後にする。
そのままトタトタと階段を下って居間に辿り着いたこいしは早速食糧を物色した。
すると何処からか声がする。
「ああ、初めて蕾になりましたね。この時をどんなに待ち焦がれていた事か」
(ん……? なんの音だろう)
扉を挟んだ向こうから曇った声がした。扉越し故によく聞き取れず、音と認識したこいしだが、不思議とその音に心が沸き立った。
(また……胸が熱い。なんだろこれ)
意識と無意識に挟まれながら、こいしは本能に赴くまま扉を開いて中を覗く。
「ようやく努力が報われた気がします。ふふっ、これならこいしと花を見る日は近いですね。……なんて欲張ってはいけませんね。ふふふ」
音の主は姉であった。
笑っている。
ただ柔らかに笑っている。
その見慣れぬ笑顔にこいしの心は再び高鳴る。
(あ……あ……これは、この気持ちは……?)
屈託無く笑うさとり。その笑顔に気づかされた。ただ単純に気づいた。
鳥が舞い降りるように、ある感情がこいしの心に着いた。
(そうか……見せたかったのは花で、見たかったのは、この笑顔だったのね)
突如、第三の瞳が疼く。こんな事は今までに無い。だけどもこいしは然して驚きもしなかった。この正体不明な気持ちも、第三の瞳が疼く理由も判ってしまったから。
だから、ただ願った。
(ああ、もし赦されるなら今、もう一度。もう一度、貴女の心に触れてみたい)
フラフラと、その笑顔に惹かれてゆく。
(ああ、私って植物なのかなぁ。あの笑顔に、太陽とは違う、あの優しい光に引き寄せられていくみたい)
だが実際は、こいしは自分の気持ちに気づいたその時から植物ではなくなった。日陰に咲いた花は日向まで歩けないからだ。
今のこいしは二本足で歩く一人の少女。これからは自らの意識で光に歩み寄るだろう。
(貴女の笑顔に恋しました)
さとりはその声に振り向くと嬉しそうに笑む。
今ゆっくりと、蕾が開く。
居間に隣接し、広さ十歩四方程で小さくもないが大きくもない場所だ。
ここには滅多にペットも入り込まない。おそらく、陽も射さないため湿度が高く、入るのを躊躇わせる空気が混在しているためであろう。
それでも地霊殿の主、古明地さとりは此処が好きだった。
いつもの透き通る空色の服を揺らして、さとりは如雨露(じょうろ)を右手に携えて庭先に現れる。
庭は石畳で広げられ、さとりが一歩進むごとに足音はぎこちない音楽のように響いた。
この場所には庭をぐるりと取り巻くように花壇がある。さとりが気に入っている要因がそれだ。さとりは、この『コ』の字型に広がる花壇に様々な植物を植え、楽しんでいる。といっても、太陽の光があまり届かないこの暗室では蕾をつける事、ましてや、花を咲かす事は叶わない。それでも偶にひょっこりと芽を出してくれる花は、ペットの面倒を見ている時とはまた違った多幸感があった。
「さて、昨日はクリスマスローズが顔を覗かせてくれたんでしたね」
茶色の土に一点の緑色がある。先日、芽を出したばかりで葉もまだ二枚ほどである。それは、日光が無いため、本来の緑色が薄れてしまっていた。
弾むような声が庭に広がる。
「今頑張ってくれているのは貴方だけですね。さ、とりあえず水をやらねば」
日に当たらず、地底に潜伏するような生活を送るさとりの肌は陶磁器のように白く、枝のように細い。そんな腕で並々と水の入った如雨露で水をやるものだから、時々、如雨露の注水口から水がこぼれてしまっていた。
パシャパシャと土が湿る音がさとりの鼓膜を揺する。
「先ずは蕾をつける事が目標ですね」
芽は出るがそこからが駄目だ。いくら根を張り、葉を成しても蕾まで育った事がないのだ。さとりも土壌を替えたり様々な工夫を凝らしたが、どの方法でもさとりの世話から逃げるように枯れたり、腐ったりしてしまう。
「また明日、様子を見に来ますよ」
妹が第三の瞳を閉ざしてから、すっかり増えてしまった独り言にも、さとりは気付かずに扉を閉めた。
□ □ □
蒲公英の綿毛が風と遊んでいた。自分の意思では進めない綿毛は風任せに地上を漂う。今、その中の一つが黒い鍔広の帽子に着地した。
古明地こいしは太陽の光に目を細めていた。
(どこだろう、此処)
地に伏したような意識の中、こいしも風任せにふらふらと漂っていたのだ。
周りを見渡せばひたすらの木々。次いで、こいしは自分が石造りの階段に立っていることを把握する。その階段は太陽を目指すかのように高く、長い。数を得ようとするなら日が暮れてしまうだろう。
(ま、いいか。……あれ、いいんだっけ)
瞳を閉じてからはこの調子だ。自分の中で正誤を決められない。
(何しに来たんだっけ。あー見たいもの……見せたいもの? が、あったような)
拾い出した記憶も、深い無意識の底に沈んでいる内にふやけてしまっているようだ。
(さて、どうしようか)
その時、覚醒しきれない意識の中で、こいしは一迅の風が流れた事を感知した。枝葉が揺れ、帽子の上の綿毛が再び宙に逃げる。
振り返れば石段の上に人影。自然に溶け込むような鮮緑色の髪を持つ少女がこいしを物珍しげに見下ろしていた。
「村の方でしょうか? 女の子一人で来ては危ないですよ」
妖怪が居ますしね。と、続ける少女は巫女装束に身を包んでいる。
どうやらこいしは渦に巻き込まれるように妖怪の山に迷い込んでいたようだ。
「しかし、その信仰心は見上げたものです。ここからは守矢神社の風祝、東風谷早苗がお供致しましょう」
「私は何も信じてなんかいないよ」
「おやおや、それはいけません。信じる事が唯一無二の救いなのですよ。八坂神の威光に縋ってご覧なさいな。貴女の心にも必ず安寧が訪れますよ。ついて来てください」
「……」
こいしは途方に暮れる。どうやら参拝客に間違われているようだ。
(心……ねぇ)
いつからだったか。こいしは自分の心に疑念を抱いていた。いつでも何かを求めるように心臓は自分を打ちつける。それは自分に早く気づけと、何らかのサインを送っているような気がしてならないのだ。
考えるのが面倒で、いっそ止まってしまえば楽なのに、とか考えた事すらある。しかし、こいし自身も上手く言葉に出来ないが、それは『嫌』な事ではないような気がした。
それでも自分の心の内に正体不明の気持ちが居座っている事は、些か心地悪い。まるで腹の中に蛇を飼っているような気分だ。
信じる事でその気持ちが判明するとは思えなかったが、少し、興味が湧いた。
「ささ、此方へ」
だから、という訳ではないが、こいしは早苗の背を追う事にした。
蒲公英の綿毛は風には逆らえないのだ。
□ □ □
枯れていた。紛う事無く枯れていて、完膚無きまでに枯れていた。
先日芽を出したばかりのクリスマスローズの葉は土を目指すようにしなだれている。
何度目か判らない溜め息を混じらせながら、さとりはぼやく。
「貴方はまるで私の妹のようですね。私から逃げるように枯れて、私を置いて去ってゆく」
その声は決して憤怒ではない。慈愛と諦観の混じる呟きであった。
再び枯れたクリスマスローズに語りかける。
「私は貴方に咲き誇って欲しかった。もしかすると、それは私の独り善がりだったのでしょうか? 貴方は自ら枯れる道を選んだのでしょうか? ……生憎、植物の心は読めないのですよ」
一握り、土を掘る。その土はまだ瑞々しく、触れた所からさとりの手を汚していった。
「水のやりすぎでしょうか」
さとりには園芸の知識は無い。この言葉は完全な当てずっぽうである。それでも、さとりにはそれが随一な答えであるような気がした。
「こいし……」
さとりは庭の草花に己の妹を重ねていた。
自分が係われば必ず枯れる。自分は係わるべきではないのでは、とも考えていた。
それでも
「いつか……貴女と共に花を見たい」
と、嘆声するのだ。
こいしの形はこいし自身が決めることであって、自分が介在する余地はない。自分がこいしの形を決める事は、脆弱な卵を練るようなものである。それは柔く、儚く、そして脆い。決して触れてはならないのだ。
それでもさとりは願わずにはいられない。こいしの第三の瞳が開く事を。いつか、この庭の満開の花を共に見たい、と。
全ては自身の妄念であると知りながら。
□ □ □
「お前は植物のような存在だな」
開口一番。神様はそう宣う。
胸元の鏡、背の注連縄が印象的な威風たる姿は紛う事無く、神の顕現であった。
「こいし。人で在りたいなら対であることを努々忘れてはならぬ。妖怪も同義。歩行の二。男女の二。善悪の二。生死の二。……お前はどちらの思想も持たぬ」
だから、名前を知られていても何の疑念も抱かなかった。
神様は何でも知ってるんだなぁ。その程度である。
そんな事より、こいしは既に話に飽きていた。神のお話しというのは難しい。このまま瞳を閉じて、沈むように眠ってしまおうか。
ぼんやりとそんな事を考えていたその時、次の神の一言に、こいしの心臓は跳ね起きる。
「時にお前には姉が居るとか」
「……」
改めて自分の心臓が何を思って動いているのか疑問に思う。
何故姉に関わる総てに、自分の心は激しく振動するのか。これはやはり自分への何らかのサインなのか。
「初めて反応したな。姉への慕心は自我を排しても根強く残っている訳か」
「……」
神様はこいしに親しげに笑いかけた。
「これを持って行くが良い。なあに、遠慮はいらないさ」
懐から小さな包みを取り出し、こいしに握らせる。
手を開いて確認すれば、若草色の小さな巾着袋である。空気のように軽く、中に何かが入っている感じはしなかった。
「開けて、見てご覧」
言われるまま袋の口を開き、中を改める。中にはゴマ粒以下の大きさの種が二、三十の数程入っていた。手に乗せても気づかない訳である。
「願いを叶える魔法の種、さ。お前の見たかったもの、それと見せたいものの両方が詰まっているよ。地底のお嬢さん」
「……」
それだけを聞くとこいしはさっさと立ち去ってしまった。話は終わった、とでも言いたげな態度だ。
「おや、忙しないねぇ。話はこれからだと言うのに」
意に介せず、神様はかっかと笑った。
「神奈子様」
早苗が襖を開き、間に入ってきた。ばつの悪そうな面持ちである。
「すみません。里の子かと思ってました。まさか地底の妖怪だとは……」
「ん、構わないさ」
「あの……神奈子様はどうして無償で手を差し伸べたのですか」
「神だから……っていうのもあるけど、地底にはエネルギーの件で世話になってるし、サービスさ。それにな……」
「それに?」
「楽しそうだったからな!」
「神奈子様にギリシャ神話は似合いませんよ」
早苗は神奈子が天使の羽を伸ばし、恋に落ちる金の矢を構えている場面を想像したのだった。
□ □ □
鬱々とした空気が居間に漂っていた。
いつもは賑やかなペット達は遊びに行ったのか、時計の針の単調な音が気を滅入らせる。
さとりは長方形の机に突っ伏してぼんやりとしているようだ。
「あー。今日はもう、やる事ないしどうしますかね。クリスマスローズも枯れてしまいましたし。……こいしはどうしてますかねぇ」
さとりは何かをしていないと、自然にこいしの事を考えてしまう。あの時ああしていれば、とか、こうしておけば良かった、とか大体は過去に対するIFで生産性はなかった。
しかし、今日は珍しく現在のこいしの様子が気になっているようだ。
「また地上で陽向ぼっこでしょうか。そんなに暗い所が嫌なんでしょうか。地上に居ても光が眩しくて瞳は開けないでしょうに」
第三の瞳を開いていて後悔した事はない。日々をそれなりに楽しんでいる。
さとりはペット達が好きだ。心の瞳で見ると、その無垢な心が淡い光を放つように見える。その光にさとりは強く惹かれるのだ。
勿論、良いことばかりじゃない。地底にも心無い者はいる。いつだって、その酷たらしい心の火炎はさとりの瞳を焼きつける。いや、だからこそ、ペット達を始め、馬鹿正直な鬼達や、橋姫の心遣い、土蜘蛛の心援などが光輝くのだ。
さとりはこいしにそれを知って欲しかった。
「瞳を閉じていればそんな事も気づけないでしょうに。楽しさも辛さも瞳を逸らし続けていれば、それは死んでいるも同義ですよ……」
居ないはずの妹に話し掛ける。しかし、今のさとりには、まるで机の向かい側でこいしがうんうん、と頷いている気さえした。
頭を振る。
また自分勝手な考えをした事を悔いているのだ。
こいしの在り方はこいしが決める。自分は、ただ狂おしく悩んでいればいい。そう決めた筈なのに。
「はぁ」
溜め息が自然と出る。
その時であった。何か軽い物が落ちる音がした。さとりは涙に滲む視界を拭いながら音がした方に目を向ける。
――そこには若草色の小さな巾着袋。それがさとりと同じ机に鎮座していた。
はて、先程掃除をしていた時にこんな物はあっただろうか。そう思いながらしげしげと見つめる。
「明るくて綺麗な色。縫い目が見えませんね……」
そういう縫い方をしているのだろうか。なんて考えながら何気なく巾着袋を開いてみる。
そしてさとりは驚嘆する。
巾着袋には花の種のような物。そして白い綿毛が一つ。蒲公英の綿毛だ。
「こいし……?」
強い日光を必要とする蒲公英は地底で咲く事は叶わない。となれば、この綿毛は地上から持ち込まれた物に相違ない。
さとりにはこいししか考えられなかった。
「……ありがとう、こいし。また、頑張ってみます」
やはり、居ないはずの妹に感謝を告げる。でも、さとりには判っていた。いや、気づいていた。見えずとも側に居て自分の心をそっと支えている妹の存在に。
黒い小さな種は何の花だか判らなかったが、今一度、最初から育ててみよう。
最初の鬱々とした空気は既にさとりの中から廃していた。それ程さとりにとって、こいしの存在は大きいのだろう。
翌日。植えた種はなんと一日で蕾にまで生長した。それも植えた種、三十程の全てがである。
人妖の界では有り得ぬ生長速度に戸惑いはしたが、稲穂のように重たい頭をもたげる蕾は、こいしが持ってきてくれたという事も相まって、今までのどんな事物よりもひたすらに嬉しかった。
蕾の甘いキャンデーのような香りに目を細める。
「ああ、初めて蕾になりましたね。この時をどんなに待ち焦がれていた事か」
一面の蕾畑にさとりの頬は緩む。
「ようやく努力が報われた気がします。ふふっ、これならこいしと花を見る日は近いですね。……なんて欲張ってはいけませんね。ふふふ」
大きな喜びに普段は滅多に口にしない冗談を呟いた。今のさとりはまさに有頂天。喜びは計り知れない。
普段は冷静沈着でクールな地霊殿の主の姿は、この時ばかりはただの笑顔の似合う可憐な少女であった。
□ □ □
(あれ、此処どこだっけ)
薄暗い部屋のベッドの上。何となく見覚えのあるような低い天井に、こいしは覚醒していく。
(ああ、私の部屋か。久々に帰ってきたのだっけ)
気づけば無意識に移動しているのも慣れっこだ。移動中限定の記憶喪失は案外、ワープのようでこいしにとっては愉快だった。
身を起こし、辺りを見渡す。
箪笥やベッド。棚の上の花瓶。滅多に帰らないこいしの部屋は殺風景を絵にしたようだ。
(うん? ポケットに入ってた種がない。どこやったっけ)
スカートのポケットにあった巾着袋がない。布団をひっくり返したり、服をはためかしてみたが特に見つかる様子もない。
(まぁ、いいか)
こいしは物事を深く考えるのが苦手だ。ポジティブとも言えるが、これはある種の『逃げ』だ。この思考回路は自我の薄い無意識下における副産物でもあった。
しかし、この場合は仕方なし、である。願いの叶う種だ、なんて言われても眉唾ものだ。貰った相手は神様であるが、神に対する信仰の無いこいしにとってはそれも意味を成さない。よって、こいしに種を無くして慌てる必要はないのである。
(あれ、お腹空いたかなぁ)
頭の中に種の存在はもう無い。
そういえば最近何か食べた記憶が無いなぁ、と自分の部屋を後にする。
そのままトタトタと階段を下って居間に辿り着いたこいしは早速食糧を物色した。
すると何処からか声がする。
「ああ、初めて蕾になりましたね。この時をどんなに待ち焦がれていた事か」
(ん……? なんの音だろう)
扉を挟んだ向こうから曇った声がした。扉越し故によく聞き取れず、音と認識したこいしだが、不思議とその音に心が沸き立った。
(また……胸が熱い。なんだろこれ)
意識と無意識に挟まれながら、こいしは本能に赴くまま扉を開いて中を覗く。
「ようやく努力が報われた気がします。ふふっ、これならこいしと花を見る日は近いですね。……なんて欲張ってはいけませんね。ふふふ」
音の主は姉であった。
笑っている。
ただ柔らかに笑っている。
その見慣れぬ笑顔にこいしの心は再び高鳴る。
(あ……あ……これは、この気持ちは……?)
屈託無く笑うさとり。その笑顔に気づかされた。ただ単純に気づいた。
鳥が舞い降りるように、ある感情がこいしの心に着いた。
(そうか……見せたかったのは花で、見たかったのは、この笑顔だったのね)
突如、第三の瞳が疼く。こんな事は今までに無い。だけどもこいしは然して驚きもしなかった。この正体不明な気持ちも、第三の瞳が疼く理由も判ってしまったから。
だから、ただ願った。
(ああ、もし赦されるなら今、もう一度。もう一度、貴女の心に触れてみたい)
フラフラと、その笑顔に惹かれてゆく。
(ああ、私って植物なのかなぁ。あの笑顔に、太陽とは違う、あの優しい光に引き寄せられていくみたい)
だが実際は、こいしは自分の気持ちに気づいたその時から植物ではなくなった。日陰に咲いた花は日向まで歩けないからだ。
今のこいしは二本足で歩く一人の少女。これからは自らの意識で光に歩み寄るだろう。
(貴女の笑顔に恋しました)
さとりはその声に振り向くと嬉しそうに笑む。
今ゆっくりと、蕾が開く。
素敵な話でした
ラスト3行が素晴らしい
途中まで蕾の読み方が分からなかったのは内緒。