人間の里は今日も平和で、長閑で、秋であった。周囲に広がる山々は紅や黄色に染まり、時折紅葉を司る神が何やら忙しくそこら中を飛び回っているのが見える。収穫祭も近い。里の人間も祭りに向けて準備を進めていかなければならない時期である。長閑でありながらも、やるべき仕事は多い。そんな様子を見ながら妖怪たちは「やぁなんて人間は忙しない生き物なのだろう」なんてことを思ったりするのだろう。
ただそれはあくまで里の人間にとってはそれなりに忙しいというだけである。もし外の人間が里の様子を見ようものなら、その流れる時間の遅さに口をぽかんと開け、開けた口から入り込む郷愁の空気に涙をボロボロ流すとか流さないとか。要はまあ、その程度ということである。
里に立ち並ぶ様々な店。その中で一番需要があるものと言えば酒屋であろう。なにせ幻想郷の住民は軒並み祭りと宴と飲みが好きなのだ。飲まなきゃ生きていけないと豪語する輩まで存在する始末である。主に頭に角を生やした連中だが。忙しい時期、客の多い店、だがこの酒屋の主人はカウンターの奥で椅子に座りながら船を漕いでいた。
今はまだ日が高い。そんな時間帯に酒屋に来る客はそうそういないということだ。日も落ちてくれば妖怪だか人間だかよく分からない客がぽつぽつとやってくる。それまで店主は安心して夢の中へ──
──カランカラン
旅立てなかった。世の中は例外で溢れている、店主は目を擦りながらそう思った。来客用の鐘を鳴らしながら入ってきたのは一人の少女であった。ここらではあまり見ない顔である。何やら挙動不審で着ている物も古臭い。よからぬ気配を感じ取ったが、怪しいだけではこちらは何も出来ない。取り敢えずは様子を見るだけに留めておこうと、店主はそっと椅子に身を沈めた。
***
さてこの少女、何をしに来たかというと泥棒である。どんな類のコミニュティであろうが、新参者というものは必ず存在する。やけに辺りをキョロキョロする少女もまたその中の一人だ。新参者は新参者でも妖怪というコミニュティのではあるが。つまり彼女はそれなりの妖力を所持しており、その気になれば人間など軽く首を千切ることが出来るはずだ。それをしないのは一応、幻想郷という地のルールを知っているということだろう。だが、彼女は知っただけで満足してしまった。その先に何が読み取れるのかを出来るかどうかが新参とそれ以外の差なのである。
殺しはしない、しかし人間相手なら盗みくらいしたって構わないだろう。なあに脅しはしない、ちょっと掠め取ってやればあのボケた老人は何も気づきはしない。実害が出なければ上位の連中からお咎めなしに決まっている。
と、まぁこんな可哀想な思考回路で店にやってきたのだ。そしてお目当ての小瓶を懐に忍ばせ、やれひとっ飛びさせてもらおうかと隠していた妖力を滲み出した瞬間である。彼女は動きを止めた、否、止まらざるを得なかった。
「おや嬢ちゃん、妖怪のお嬢ちゃんよ。そんなに力んで一体何をするつもりだい?」
少女は酷く冷たい感触を肌に感じていた。いつの間にか、後ろから彼女の首筋に日本刀が当てられていたのだ。
「ああこの店は初めてだから、お勘定の仕方が分からなかったのか。そっちぁ残念ながらお外なんだな。お勘定はこっち」
店主は笑っていた。実に朗らかで人当たりのよい笑顔である。ただ、今の状況には限りなくそぐわない。ようやく一息ついたのか、少女も喋り始めた。
「それはご丁寧にどうも。それよりあなたこそ私にこんなもの向けて一体なんのつもりよ」
「いやぁ申し訳ない、これは護身用でさぁ。我々人間は妖怪よりもずっと弱っちい生き物なもんで」
「にしては妖怪に対して、いい度胸してるじゃない」
「はっはっは、買いかぶりすぎですよ。妖怪ってのは人間にとっちゃ畏怖、若しくは退治しなきゃならない存在だ。そんなことはそこらの餓鬼でも知ってることだ」
「じゃあこんなこと」
「嬢ちゃん、あなた少し勘違いしなさってる」
店内の空気がぴんと張り詰めた。少女の頬に何故か汗が流れ落ちる。未だ彼女は振り返ることすら出来ないでいた。
「ここに来れば人間も妖怪も等しく客なのさ。お客様は神様だ、怖がっちゃいけねぇ」
「さてさてさてさてここで嬢ちゃんに一つ、質問しよう。人間にとって妖怪は畏怖、店にとってお客は神、なら──泥棒は何だと思う?」
「敵さ」
店主が答えた途端に少女の体に膨大な敵意と、悪意と、殺意が突き刺さった。心の底にある何かをそのまま攻撃されているような感覚に彼女は襲われた。精神に作用される攻撃に弱い妖怪は、尚更精神を鍛え狡猾に老獪にならなければならない。だが彼女は新参者であるからして、至極正直に店主の言葉を受け止めてしまった。彼女の心に焦りが満ちる。何か反撃をしなければ。
「この刀は!!!!」
少女が身をよじらせようとした瞬間に店主が声を張り上げた。
「初代東御屋主人大倉甚八が魂魄家から護身用として預かった一振りである!! かの名高い白楼剣には及ばずともその太刀筋は並の妖怪なら手負いにすることが出来ると“謂われている”!!」
「ぐっ!!」
次の一手を打とうと考えていた少女の動きが再び止まった。謂れを宣言されてしまったことで、真偽に関わらずこの刀に何らかの力が備わってしまった。つまりこの店主は少女に対して身体、精神のどちらにも武器を向けていることになる。
「もう一つだけ質問しようかお嬢ちゃん。お嬢ちゃんはさてはて神様かい? それとも──」
***
──カランカラン
「毎度ありぃ」
鐘が鳴り止むと店内は静かになった。だがあと何刻もすればまた誰かやってくることだろう。今度も神様が来て欲しいものだと、店主は軽く煙管を吸い込んだ。
人間の里は今日も平和で、長閑で、秋であった。
…俺には無理だー
実に良い
…いや、想像したらちょっと怖いw